009
――昨晩。
『……災難だったな』
「まあ、あの爺さんのことに関しては」
心の底から同情してくれているらしい橘さんのお言葉に、思わず肩を竦めた。
頭の方も多少は冷えてきたけれど、あの爺さんが正しかったなんて口が裂けても言えそうにない。
むしろ『何を考えているんだか』とこれ見よがしに呆れのため息をついてやりたいくらいだった。
「それで結局、何なんです? あの爺さん。なんか無駄に偉そうだったんですけど」
――幸い、今ならその辺りを教えてくれそうな人もいる。
『……何故そこで私に聞く』
「橘さんなら何か知ってるんじゃないかなって」
訊ねた時にはまだ勘でしかなかったけど、ため息を聞いて確信に変わった。
電話のタイミングが良すぎると思った。
その上、何があったか確かめようとさえしないし。
あらかじめ事情を把握した上で連絡してくれたんだろうって、そう思った。
あの爺さんついては多分、今日俺達の前に現れる前から知っている。
先生がなんとなく知っていたみたいだし、橘さんも知っていると考えるのは当たり前の話。
だから正直、そのことに対する驚きはほとんどなかった。
『……こんな時に限って頭の回転が速くなるのか』
「こんなときだからですよ」
口ではそんなことを言っていたけど、橘さんの方も俺の反応はある程度予想していたみたいだった。
呆れ半分のため息をついてはいたけれど。
同時に、ある種の諦めのようなものをそこに感じた。
いつかこうなるって前々から考えていたんだろうし。
大体。
「イリアの今後にもかかわることなのに、ぼーっとしていられるわけないじゃないですか」
そのくらい、橘さんならよく知ってるだろうに。意地の悪い。
『……似た者同士か』
「かも、しれませんね」
小さく嘆息する橘さんに、思わず苦笑い。
そのままつい、イリアの方へと視線を向ける。
『それで? 当事者筆頭は今どうしている』
「ぐっすり寝ていますよ。だからこうしてお話しできているんです」
――なんて、俺が橘さんに連絡できるようにわざとそうしてくれていたのかもしれないけど。
余計なストレスのせいで疲れていてもおかしくはない。
ないけど、9時にもなっていないのに寝るなんてことはこっちに来てからほとんどなかった。
まさかイリアも寝た直後に橘さんからかかってくるとは思わなかっただろうけど――それはまあ、いいとして。
「……あまり、実感はないんですよね。正直なところ」
この話を聞かれなくてよかったと思う。
「驚いて当然の内容だし、聞かされた時には驚いた筈なんですけど。なんか、思っていたより自然に溶け込んだっていうか。……言い方悪いですけど、『だからどうした?』……みたいな」
『少なくとも本人に向かって口にしていい言葉ではないな』
「分かってますって。そういう感じってだけで、そのまま」
『フン、ならいい』
さっきの言い方には問題しかないと俺も思うけど、いま自分の中にある感覚は確かにそれに近いものだった。
これまで何か引っかかる出来事があったのも、理由のひとつにはなると思う。
ただ、それはそれとして、イリアに対するイメージが揺らぐとか、そういうことは一切なかった。
「とにかく本当、自分でもびっくりするくらいにないんです。立場がとか、そういう感覚。……ちゃんと、分かっている筈なんですけどね」
別に悪いことだなんて思っていない。というか、思いたくもない。
そう思っていても何か引っかかりのようなものを感じてしまうのは、どうしてだろう。
俺自身にとって都合のいい形に捻じ曲げているなんてことも、ない筈なのに。
『……貴様が考えなければならないのはそこじゃないだろう』
いまひとつ自信を持てないことまで伝わったのか、いよいよ橘さんに呆れられてしまった。
腕を組みなおして、あの眼鏡を光らせて。
そんな橘さんの姿が目に浮かぶ。
だけど。
「……分かってますよ。そのくらい」
そっちに関しては、今さら言われるまでもない。
考えるまでもない。
今まではっきりしていなかったものが、見えるようになっただけ。
やることに何か変化が起きたわけでもない。
「チームとしても、個人としても、強くなります。……何があっても、乗り越えられるくらいに」
一部の連中の狙いが、はっきりしただけなんだから。
戦う必要があれば、その時はそうするだけ。
イリアのことを狙うやつとは勿論、それ以外のやつらとも。
『……ならいい』
そのくらい分かり切ったことなのに、橘さんときたら。
心配性というか、なんというか。
(気にしてもらえるのはまあ、ありがたいけど――)
『対象が今のチームだけでいいと思っているのなら、考えを改めさせねばならないところだったが、それもなさそうだ。……そうだろう?』
……そんな感謝の気持ちも、肝が冷える一言のせいでたちまち引っ込んだ。
「い、いやぁ……そういうわけでは、ないんですけど」
『けど、なんだ。言ってみろ』
相手がこの人や師匠じゃなければ『もちろんあなたもですよ』的なことを言えるのに。
無理。橘さんと師匠にだけは無理。
口を滑らせようものなら電話の向こうからできる限りのことをされてもおかしくない。
「ここの人達もいろいろ隠し事が多いから、お互い様かなー……なんて」
リスクは承知でどっちもどっちに落ち着かせ――
『……そこは追々議論が必要かもしれんな』
意外や意外。
一蹴されないばかりか、大真面目に取り合ってくれるらしかった。
……何度も信用がどうのこうのと言ってきたからか。
別に気にしなくていいのに――
『当代の“剣聖”にもいよいよ本格的な動きが見られたそうだ。……アレが相手となると多少鍛えた程度ではどうにもならんだろう』
「へっ?」
……なんて、呑気なことを考えている場合じゃなさそうだった。
「あの、橘さん? その“剣聖”って言うのは……」
何か嫌な予感がして、恐る恐る訊ねる。
『……まずはそこからだったな』
――そうして。
『端的に言えば、奴らの中でも特別な力を与えられた者。……剣聖は、その肩書のひとつだ』
いつかやってくるとびっきりの敵の存在を、教えられた――。




