015
「不可能だ」
橘の元を訪れた篝に突きつけられたのは、彼女にとって良くも悪くも予想通りの言葉だった。
神堂零次による、危険なトレーニングの中止。
篝は桐葉の身を案じていたのだ。
橘はエリア547拠点に所属する[アライアンス]メンバーの中でも例外的に個別の部屋を与えられていた。
話し合いを他の誰かに聞かれる心配もない。
「そ、そこをなんとか。これ以上無理なんてさせたら桐葉くん、本当に体壊しちゃいますよ?」
「だから日中はこちらで生活をさせている。そういう意味ではこの状況自体、非常に都合がいいものとも言える」
保護した少女、イリアの正体は橘でさえ把握し切れていなかった。
橘もすぐさま近隣の拠点にも協力を要請した。
しかしながら、イリアという名前では勿論、彼女くらいの年齢の少女が失踪したという話もなかったのだ。
捕縛した信徒達からも有益な情報を引き出せてはいない。
そんな身元不明の少女が桐葉には心を開いていたからこそ、桐葉を毎日拠点に待機させることができていた。
本来であれば、たとえ学生であってもそこまではしない。
「そうじゃないですよぉ……桐葉くんがあの人に師事しなくてもいいように、代わりの人を用意するとかあるって話です」
「それができないと言っている。人員に余裕がない。それとも、篝彩希那。貴様がその役目を務めるか?」
「それはできませんけどー……」
「だったらその話もここまでだ。これ以上続ける意味がない」
桐葉とイリアの監視という役目を、篝は問題なく果たしていた。
桐葉達を除くと、この拠点においては大学一年生の彼女が最年少だったのだ。
この場合、戦闘能力の高さなど考慮に値しない。
他に適任――まして自身や神堂など絶対に――はいない。
そんな篝でさえ、イリアとの距離をほとんど詰められないであろう事は分かった上での策だった。
「そもそも、神堂に教えを乞うているのは天条の意思だ。そこまで言うならまずはあいつを説得してからにしろ」
「それは……」
篝にも分かっていた事だった。
無茶ぶりに言い返すことはあっても、『辞めたい』とまでは決して口にしなかった。
橘を訪ねる少し前、桐葉本人に直接訊ねた時でさえそうだった。
『……あか?』
『そうそう。ぶつけてスリップさせたらそのまま抜いて――っと、うっかりうっかり』
『いま、わざと』
『いやいやまっさかぁ? ちょっと手元が狂ってぶつかっただけだって』
『また、わるいかお』
『別にそんなつもりはないんだけどな』
部屋に設置しておいたカメラを起動すると、桐葉とイリアはレースゲームに興じていた。
橘や篝からテレビの画面は見えなかったものの、内容は簡単に想像できた。
つい昨日にも全く同じ光景が繰り広げられていた。
予め難易度を低く設定し、それでも邪魔になりそうな車両があればことごとくコースアウトさせていたのである。
悪影響どころの話ではない。
しかし誰が止めるでもなく、二人の爆走は続く。
他のゲームでも、状況はさほど変わらなかった。
「……呑気なものだ」
「いいなー二人とも……私も混ざりたいのに」
「言っている場合か貴様。用件はどうした」
驚きもあった。
まさか橘も、気分転換用のゲームにイリアが興味を示すとは思っていなかったのだ。
それも、桐葉が提案するより早く。
「でも、変えるつもりはないんですよね? 桐葉くんが言わない限り」
「そのつもりだ。変更の要請も今のところはいない」
「……だったら」
「止めておけ。今の貴様の権限でどうにかできるものではない」
要請があるとすれば各地の拠点を統括している上層部から。
その上層部も、余程の事がなければ神堂の判断にほとんど一任している。
組織にとって不可欠な存在だからこそ、過剰な干渉を避けていた。
教わっている立場とはいえ、桐葉のように声をかける方が稀なのだ。
例外は、以前から付き合いのある橘をはじめとする若干名くらいもの。
「或いは期待しているのかもしれんな。新たな“剣聖”が力を受け継いだという話もある。組織としても、有望な人材を手放したくはないんだろう」
「彼、まだ中学生なんですよ? それなのに……」
「だが連中はそんな事情を汲みはしない。やらなければやられると、天条もよく理解している筈だ」
胸の内を顔には出さず、努めて淡々と語る橘。
彼個人としては、篝の意見に反対したいわけではなかった。
「あくまで神堂がこの拠点に滞在できる期間のみだ。それ以上はあいつも連れまわすつもりはないらしい」
「どのくらい、なんですかー?」
「分からん。当初の予定より長期化するのは確実だ」
既に長期化は決定している。
イリアの存在も無視できるものではなかった。
これまでにない何かが起きている。
橘がその確信を抱くには十分過ぎる程に状況が整っていた。
「……そういえば、貴様は一度あの馬鹿の訓練プログラムに参加したんだったな。理由はそれか」
「……関係ないです。今更」
篝はそれ以上何も言わず、視線を逸らす。
過去に何度も行われ、その都度失敗に終わった計画。
現在では封印されたも同然のプログラムに篝も一度参加していた。
その頃はまだ、神堂零次という人物を噂でしか知らなかったのだ。
「貴様の言い分も理解はできる。神堂のやつが稀に加減を誤るのは事実だ」
「稀に……?」
「あれでも最低限は考えている。あいつの基準の『最低限』だがな」
「でも桐葉くん、空から投げられたって言ってましたよぉ?」
「……その件に関しては私からも言ってやった。ああ、言ってやったとも。処分も下した」
その時の事を思い出すだけでも傷むこめかみを押さえる橘。
寄りかかった椅子が、彼の胃の痛みを代弁するかのように軋んだ。
非常識の極致。
命綱もパラシュートもなしに放り投げるなど正気の沙汰ではない。
直撃させないよう自らの手で回収したからと言って、そんなものは何の免罪符にもならない。
イリアの部屋に戻る頃にはすっかり抜け殻になってしまった桐葉もその場で当然ぶち切れた。
誰もあんな方法など容認していないのである。
犯行に及んだ本人だけが、周りの反応に納得していなかった。
生温い方法では遅い。追い込むくらいでなければ足りない、と。
「処分って言っても形式的なものだけですよねー? あの人を遊ばせておく余裕なんてないんですから」
「減給が精々だ。……山にでも放り込んでみろ。何をしでかすか分からん」
「真っ先にそんな罰が思い浮かぶのもどうかと思いますけどー」
どうなるか分からないという意味では篝も同意だった。
あの力が振るわれた痕など誰も想像したくはなかったのである。
「とにかく、もうちょっとだけ検討してくださいねー? あの子だって翼を掴もうって、頑張ってるんですから」
一例と主に去る篝。
たちまち部屋は静寂に包まれる。
「……翼か」
孤独感を誤魔化すように橘が視線を向けたのは、整然としたテーブルの一角。
そこには三人の少年の姿が映っていた。
何年も前、同世代のメンバーで撮影したものだ。
「お前の翼を、もっとよく見ていれば――……」
伸ばした橘の右手が写真立てに触れようとしたその瞬間。
静寂を突き破るように、備え付けの警報器が叫びを上げた。




