010
橘の炎が燃え上がった。
車を中心とした円を描くように燃え上がった。
橘の指示を合図に車から飛び出した桐葉は走る。
脇道のないアスファルトの上をひたすら走る。
乗用車が走るには幅の広い、蛇のようにうねる道。
桐葉の左側には雑木林。反対側のガードレールの向こうには星空が広がっていた。
町に着くまでどれだけかかるのか。桐葉は知らない。
しかし今の彼に走る以外の選択肢など残っていなかった。
炎の波を乗り越えたその瞬間。
「ぉ……!?」
桐葉の前に現れたのは黒い体に紅い眼を持った犬の怪物だった。
すぐには桐葉へ飛び掛からず、右へ、左へ、彼のステップに合わせて行く手を塞ぐ。
(くっそ、こっちにもいるのかよ。面倒なことしやがって……!)
桐葉は硬く拳を握る。
彼にとっては最も手早く確実な攻撃手段がそれだった。
「――《火焔》!」
それを突き出す間もなく、短い叫びと共に桐葉の視線の先が激しく燃える。
断末魔の叫びを上げる間もなく、桐葉の目の前の黒い体の怪物は消え失せた。
「……はっ?」
「呆けている場合か! 早く行け!」
「あ……ありがとうございますっ!」
振り返ることもなく、桐葉は再び走り出す。
怪物を塵に変えたのは橘の魔法だった。
投げつけることもなく、怪物がいるその場所に炎の魔法を現出させたのだ。
(って、またかよ!)
しかし、橘の炎は怪物を一匹仕留めたに過ぎなかった。
桐葉が一息つこうと思った瞬間、今度は両脇から怪物が迫る。
飛び掛かる隙を窺うように、怪物は並走を続ける。
桐葉がどれだけ速度を上げても怪物を引き離すには至らない。
(こうなったら……!)
丁度カーブに差し掛かろうというところ。
最高加速の状態から、桐葉は自身の身体に無理矢理ブレーキをかけた。
さすがの怪物も一瞬反応が遅れ、挟み撃ち寸前の状況を桐葉は脱する。
一方、勢い余って一匹だけでも崖の下に転落するかもしれないという彼の期待が叶えられることもなかった。
右手側――カーブの外側にいた黒い犬の怪物の更に外から追い越し桐葉は走る。
怪物が再び陣形を整えたのはそのすぐ後の事だった。
(なんでこんな無駄に速いんだよこいつらは! 前のヤツらもっと遅かっただろ!)
既に桐葉の視界から橘の姿は消えていた。
走り続けた結果、先程のような援護も期待できない状況に陥ってしまっていた。
しかし今更足を止めるわけにもいかず、結局桐葉は梺を目指すほかなかった。
これは橘の誤算でもあった。
自身が相手をしている間に桐葉が全速力で逃げれば、問題なく振り切れると思っていたのである。
実際、橘は取り囲んだ怪物を一人で相手していた。
数は多くとも、橘にとっては犬の怪物など恐れるに値しない。
しかしこの夜、キリハ達を襲ったのは素早さに特化した個体ばかりだった。
直接的な攻撃を仕掛けることなく好き勝手に飛び回る怪物を一掃できずにいたのだ。
その上、今桐葉を追っているのは山の中で息を潜めていた二匹だった。
橘が防げるものではない。
(……こうなったら……)
再び桐葉は、加速し得た勢いを殺した。
「っ、いい加減に――」
カーブは遠く、やはり怪物が桐葉の数歩先で同様に足を止める。
しかし桐葉はどちらの外側を回るでもなく、
「しやがれこの犬ッコロ!」
後ろを向いたままだった右側の黒犬を、ありったけの力で蹴り上げた。
蹴られた犬の怪物にとって予期しないものだったその一撃は、黒い体を軽々飛ばす。
怪物が掴めるものは何もなく、白いガードレールの向こう側へ吸い込まれるように消えていった。
音さに満ちた叫び声も桐葉から遠のき、やがて完全に聞こえなくなる。
「っし、いっp――ぅおっ!? ……なんで三匹!?」
しかし喜ぶ暇も桐葉にはなかった。
飛び掛かる影を躱して向き直った桐葉。
彼の目には、何故か蹴り飛ばす前よりも怪物の数が増えて見えたのである。
「一匹見つけたら何匹も、ってゴキブリかよお前らは……!」
悪態をつく桐葉だったが状況は変わらない。
目を爛々と光らせた怪物は桐葉から目を離そうとはしなかった。
唸り声を上げる怪物に、桐葉は身体の震えを感じていた。
拭っても、拭っても、汗が頬を伝う。
(光らせて逃げても、どうせすぐ追いつかれる……なら)
桐葉は両手を硬く握った。
倒さなければどうしようもないと頭で、本能で理解していた。
橘の救援を待つのも難しいだろう、と。
「かかってこいよ化け物が。こっちは約束だってあるんだ。……お前らなんかに時間使ってられないんだよ!」
「…………」
時刻は二〇時を過ぎようとしていた。
しかし美咲の前に、幼馴染の姿はない。
帰ると言っていた時間はすぐ目の前だというのに、現れる気配は全くなかった。
(……昔は、そういう嘘をつくことなんてしなかったのにな……)
普段のような冗談は美咲も聞き慣れていた。
度が過ぎれば容赦なく叱っていた。
一方、ある程度の範囲に収まるものまで深いに感じていたわけでもなかった。
そんな関係をすぐ近くで見ていた友人にはいつまでも進展しない関係を度々呆れられていた。
それでも、無理矢理に変えようとは思わなかった。
「きっくん……」
溜息と共に、目尻の雫が垂れ落ちそうになる美咲。
彼女の耳に見知ったチャイムの音が鳴ったのは、まさにその時の事だった。
涙も引っ込み、両親が立ち上がる頃にはもう美咲は玄関の扉を開いていた。
やっと帰って来た。そんな予感を胸に。
「あ、どうも、宅急便です。ここにサインお願いしていいですか」
「ぁ……はい」
しかし扉を開いた美咲の前に現れたのは見知らぬ青年だった。
向こうを見ても、桐葉の姿はどこにもない。
「またのご利用お待ちしてまーす!」
父親宛ての荷物を受け取った美咲だったが、どうしても家の中に入る気にはなれなかった。
今扉を開いても、桐葉の姿があるわけではない。
最後のチャンスすら失われてしまった。
「……ほんとバカだよね。きっくん」
怒りすら湧いてこない。
ただ、悲しさが彼女の胸の内を覆い隠そうとしていた。
「――一体、どこの誰が馬鹿だって?」
悲しみが頂点に達しようとしていた、まさにその時。
「……え?」
「『え?』じゃないだろ。俺だよ、桐葉だよ。時間、まだセーフだよな……?」
配達員の青年が去った後。
家の前には、待ち続けていた幼馴染の姿があった。
その時丁度、セットしていたアラームが鳴り響く。
「っし、ギリギリセーフ……間に合わなかったらどうしようかと思った……」
「ぎ、ギリギリ過ぎだよ。どれだけ待ってたと思ってるの?」
震える声。
しかしそんなことも気にならないくらい、美咲は安堵していた。
もしかしたら、今日も。
魔戦を隠す桐葉の言動は、美咲に抱かせるには十分過ぎた。
「……ごめん、遅くなった」
「……ほんとだよ。もうっ」
桐葉は三匹の怪物を見事倒して見せた。
手で、足で、炎で。
これまで神堂に鍛えらる中で得た全てを使って、数的不利すら覆した。
体力も全て使い切った。
どうやって戦ったのか、その記憶も曖昧なもの。
ただ、彼にとっては間違いなく、過去一番の激闘だということだけは確かだった。
全てを出しきってなお、まだ終わらなかった。
桐葉を狙う怪物は更に森の奥に隠れていたのだ。
そこへタイミングよく、炎と共に橘が車で駆けつけた。
おかげでなんとか約束の時間に間に合わせることができたのである。
「早く入って。今日は時間制限付きだからね。残ったら片付けるよ」
「待って勘弁して。俺いまクタクタ。ちょっとでいいから温情措置を……」
「遅れたきっくんのせいでしょー」
いつものように笑いながら。
桐葉にとっても美咲にとっても不安だらけな一日は、その時やっと平穏な終わりを迎えたのだった。




