002
この世のものとは思えない怪物。
血肉に飢えた、全身真っ黒な猛獣。
頭の形はよく分からなかった。
四つ足。けど、遠目からでも分かるくらい大きい。
ガードレールどころじゃない。
下手したら俺のヘソの位置より高い。
(……え、何あれ)
分からない。
何もかもが分からない。
逃げなきゃヤバい。
分かり切った事なのに身体が言うことを聞いてくれない。
「……おや?」
だから見つかった。
曲がり角の向こう。白いローブ姿の男に見つかった。
「人払いをしておいた筈ですが……まさかこんな子供の侵入を許してしまうとは。己の未熟さには眩暈がしますよ」
何を言ってるのかさっぱり分からない。
けどヤバい。絶対ヤバい。テキトーに反応して、なんとかその隙に……
「――なるほど? 魔力を……人払いが効かなかったのはそのせいですか。まさかこんな低級魔法も使えそうにない子供に……いけませんねぇ」
「ま、魔力? 魔法? さっきからなに言って……」
「知る必要はありませんよ。知ったところですぐ無駄になりますから」
「いやいや、勝手に分かった気になられても――」
「やりなさい」
「…………はっ!?」
避けられたのは偶然だった。
いきなり飛び掛かってきた真っ黒な犬。
それもじゃれつこうとしたわけじゃなくて、あんなの、どう見たって――!
「まったく、困ったものですねぇ……避けないでもらいたいものです。苦しむ時間が延びるだけだというのに」
「――っ!?」
逃げなきゃ殺される。
「……だから余計な手間をかけさせないでくださいってば」
気を逸らすとか、そんなこと言ってる場合じゃなかった。
(なんだよ……何がどうなってるんだよ!)
無我夢中で走った。
何をされるか分からない。そんな恐怖が身体を必死に動かしてた。
荷物もどこに行ったか分からない。
見慣れた道がその時だけは全く知らない場所みたいだった。
脇道なんてない。普段は放っておいても見えてくる家の明かりも分からない。
とにかく走るしかなかった。どんな方向音痴だって脇に逸れずに引き返せば――
「前方不注意ですよ」
でも。
(二匹目!?)
見えたと思ったら、消えた。
「ぁう゛っ!?」
背中の痛みに気付いたのは、電柱の向きがおかしくなってることに気付いた後。
真っ直ぐ上に伸びてる筈のものがどういうわけか前を向いていたからだった。
それに重い。胃袋が潰されそうなくらい、痛い。
力を込めても全く身体は起き上がらなくて、そうこうしている内に白ローブにまで追い付かれる。
「よくまあ無駄に走り回ってくれましたねぇ……理解に苦しみます。何故あんな無駄な抵抗を続けるのですか? 苦しみたくはないでしょう?」
「離せって、この、離s――ぁ゛っ!?」
こ、声が……!
「さすがの嗅覚と言うべきでしょうか。ああも容易く……私だけでは捕らえられなかったかもしれません」
勝手なこと言いやがって。
でも今いい事を聞いた。この白ローブだけなら逃げ切れるかも。
(なんとか、こいつだけでも――……!)
そう思ったのが間違いだった。
「――ぅぇ゛っ!?」
「だから無駄ですってば。いいからこっちに来なさい。見られるわけにはいかないんですよ」
「おい、やめ……!」
さっきとは比べ物にならない圧迫感。
ほんの一瞬だったけど、息苦しくて手足もまともに動かない。
擦るような背中の痛みも、引きずられてるってことも、おかげですぐには分からなかった。
「君にいつまでも付き合っている訳にはいかないんですよ。我らが主の悲願のためにも、ここで大人しく消えてください」
「させるかたわけめ」
気付いたのは、圧迫感が消えたその瞬間。
若い男の声が聞こえてきた時のこと。
「……お出ましですか」
その後の事は、正直あまりよく覚えてない。
それでもあの暴力的な炎だけは今でもはっきりと思い出せる。
薙ぎ払うような深紅。
叫ぶように燃え上がる龍。
得体の知れない炎に化け物犬がたちまち呑み込まれて、噛み千切られて、気付いた時にはもうあと一匹まで減らされていた。
動けるわけがなかった。
誰のことも知らない。顔を見たこともない。
そんなやつらが目の前でとんでもない力を使って戦ってるのに、どうしようもなかった。
俺を一方的に踏みつけた化け犬を眼鏡の男は簡単に消し炭にした。
最初は助けてくれたように見えたけど、下手をしたら俺だって何されるか分かったもんじゃない。
……なんて、それもこれも後から無理矢理こじつけた言い訳だった。
あの時はもう頭が真っ白で、目の前の異常事態を呆然と眺めることしかできなかった。
誰かが叫んでいたのを、なんとなくだけど覚えてる。
内容はほとんど頭に入って来なかった。
恐怖と驚愕。その二つに頭の全部を乗っ取られてたんだ。
「……何故、逃げなかった?」
最後の一匹が完全に塵になった時、もう白いローブの姿はどこにもなかった。
そこでやっと炎も収まって、眼鏡の男と二人きり。
「聞こえていないのか。何故逃げなかったのかと聞いている」
「こ、腰が……」
「何? 聞こえん。腹から声を出せ」
……人の気も知らないで。
こっちは今の掠れた声を出すだけでもやっとだってのに。
「化け犬に、踏まれてたせいで、身体が、まともに動かないんですよ……! 声だって、ゲホッ、出したくても出せないんです……!」
「……相変わらず悪趣味な連中だ」
相変わらず?
さっきのローブ野郎とは知り合いなのかもしれない。
でも、すぐに分かった。この男とさっきのやつが敵同士だって。
じゃなきゃこんな忌々しそうな顔するわけない。
殺意すら籠ったような声で吐き捨てられるわけがない。
「ならばそれに関しては謝ろう。それと、そのままでいい。大きく息を吸って、それから吐き出せ」
「す――ゲホッ!? い、嫌がらせですか!?」
「焦り過ぎだ馬鹿者め。……動くなよ。今楽な体勢にしてやる」
「動きたくても動けないですよ、こんちくしょう……」
痛ってぇ……どんな力してやがるんだよ。あの化け物。
でも、その時はちょっと安心してた。
とりあえずこの人は敵じゃないんだろうって。
そうでも思わないといよいよおかしくなりそうだった。
「もう一つ質問だ。貴様、魔法は使えるか?」
「……さっきのやつがそんな感じのこと言ってましたけど、何が何だかさっぱりですよ」
「ふむ……やはり」
やはりって何がだよ必要最低限の説明くらいしてくれよ。
どいつもこいつもこうなのか?
勝手に納得して終わらされてもこっちの問題はなんにも解決しちゃいない。
目の前であんなものを見せられたら魔法の存在を認めるしかないっていうのはまあ、まだ納得できる。
受け入れたくないけどそれが現実だった。
「次だ。受け取れ」
「ぅおっ!?」
今度はなんだよ何投げつけて来たんだよ。
人が怪我してるって忘れてるんじゃないだろうなあの眼鏡。
馬鹿みたいな炎のせいでレンズも使い物にならなくなったんじゃないか?
しかも投げつけてきたものはと言えば。
「えっと、この板で何をどうしろと……?」
「それは今から説明する。いいから黙って私に従え」
「あっ、はい」
からかわれてるんじゃないだろうな。
さっきの男もみんなグルで、実は全部何かのドッキリ企画みたいなもので。
そんな展開だったらどれだけよかったことか。
何を言ったって現実が変わらないことくらい分かってる。
でも、それでも、もしかしたらって思った。
夢でもいい。あんな悪夢みたいな出来事を笑って流せるなら、どうだって。
「そいつに魔力を流せ。その窪みを親指で抑えながら……そうだな。『硬くなれ』とでも念じてみるといい」
「……は?」
「今言った通りだ。早くしろ」
「そんな無茶な……」
もう少し落ち着いたらどうなんだよ。
大体、硬くなれって念じたくらいで本当に硬くなるなら苦労しない。
そりゃあの炎には驚かされたけど、今そこは関係ない。
大体、『硬くなれ』って念じたって……
「うんともすんとも言いませんけど? あと今、首に何か当てませんでした?」
「『F-』か。成程。道理で何も反応がないわけだ」
「答えろよ。それになんかとびきり悪そうな判定出てません?」
「その通りだ。一番下と言ってやれば分かりやすいか?」
……喧嘩売ってんのかこの野郎。
事実だっていうなら仕方ない。
けど、もうちょっと言い方くらいあるだろ何か。
「そういうことならもう用はない。家に帰してやる」
「はぁ!?」
「なんだ、叫ぶくらいの余裕は戻ったか」
「そりゃこの状況でそんなこと言われたら叫びたくもなるでしょうよ!」
痛みが治まったわけじゃない。
今だって起き上がる余力もない。
「大体、なんなんだよあの犬は! あんたもいきなり炎なんて出したりして! せめて何か説明くらいしてくれてもいいで、ぇ゛う゛っ!?」
な、なんだ? 今一体、何をされた?
「……無知は罪だが、幸福でもある」
「っ、ぐぅううう……! あんた、何して……!」
「生憎役立たずを育てている暇はない。精々今日見たことは忘れて普通に生きることだな。……その方が貴様のためにもなる」
「さっきから……なに、言って――」
意識が途絶える寸前。
男が、どことなく悲しそうな眼をしていたような気がした。




