出発前日。衣璃亜と美咲の場合
「えー……きっくん、こんな時間なのにまだどこかに行ってるの?」
その話を聞いた美咲が顔をしかめるのは当然の事だった。
そのような話を聞かされては呆れるしかない。
桐葉が今もどこかに出かけていると、電話越しに衣璃亜が教えてくれた。
当然、美咲は衣璃亜がいる施設の規模を把握していない。
衣璃亜の口調から屋内であることは察していたが、それでも彼女にとっては大問題。
『みたい。……さすがに帰ればいいのに、ね?』
「ね。もー、明日のこと、本当に分かってるのかな……」
『さすがにそれは大丈夫だと思う、けど……』
桐葉と衣璃亜が旅立つ日はもう、目と鼻の先まで迫っている。
彼が乗る予定の電車が出発するまで、もう半日の時間も残っていない。
(もー……ちゃんとしてっていったのに)
美咲の瞼の裏には、ほんの数時間前まで言葉を交わしていた幼馴染の姿が浮かんでいた。
あれだけはっきりと言いきったのだから、桐葉はきっと帰ってくる。
美咲はそのことに何の疑いも抱いていなかった。
遠い日の約束を桐葉が覚えているかどうかなど、美咲にとっては関係のないことだった。
「私、家からかけてみようか? 衣璃亜ちゃんからは……難しいんだよね?」
『ん。他に電話、ないから。でも……いい』
「ほ、本当に? きっくんの居場所、衣璃亜ちゃんも知らないんだよね?」
その確信があったからこそ、美咲は桐葉を送り出すことを選んだ。
『多分、あれと一緒、だから。……あれ、と』
「分からないからね。『あれ』って言われてもさすがに分からないからね?」
『じゃあ……暴力、メガネ?』
「その呼び方は止めなさいって前に言ったでしょーっ!」
複雑な事情があることは、以前から感じていた。
今まさに離している少女も、全くの無関係ではないのだろう、と。
しかし、衣璃亜だけの問題でないことも薄々ながら感じとっていた。
「ん……次から、気を付ける。できるだけ」
「いつも言ってるよね、それ……。結局そのまま一回も直そうとしてないよね?」
「……そう、だった? 覚えて、ない……」
「見え透いた嘘をつくんじゃありません。去年も言ったと思うんだけどなー……」
「……むぅ」
一年前、原因不明の失踪をはじめ奇妙な噂が流れていたことを美咲はよく覚えていた。
奇怪な現象が起こらなくなり、次第に風化していった噂。
それにつられるように、桐葉の生活リズムも規則正しいものに戻っていった。
――自身の知らない場所で何かが起きている。
それを悟りながらも、美咲が桐葉を問い詰めることはなかった。
確かめたいという気持ちがなかったわけではない。それでも、問い詰めようとはしなかった。
まだ完全に終わったわけではないと、分かった上で。
「ところで、どう? 向こうの家の場所。教えてもいいって言われた?」
『……ごめん。美咲の頼み、でも……駄目、って』
「…………そっか」
それも呑み込み、長期休暇の際には桐葉達の転居先を訪ねようと考えた。
二人が引っ越す町までは、美咲も知っている。
しかしそれ以上のことは、どれだけ頼んでも衣璃亜は語らなかった。
――まるで、それ以上訪ねてきてはならないと忠告するように。
「あ、衣璃亜ちゃんが気にすることじゃないからね? こっちでもそうだったんだもん。きっと事情があるんだよ」
『……ごめん、ね』
「もー……気にしなくていいって言ったでしょ?」
場所を知れないことに、美咲も思うところはあった。
隠さなければならない理由があるとはどうしても思えなかった。
美咲から見た衣璃亜という少女は、ただ人より知らないことが多いだけ。
それ以外の何者でもなかったからだ。
学校での生活を通じて、知らないものも次第に減っていった。
今まで知らなかっただけで、呑み込みはむしろ早い方だった。
『でも、美咲……』
「衣璃亜ちゃんのせいじゃないでしょ? ……それは、他のこと」
『……ぇ』
そして、学校での生活を通じて美咲が気付いたことがひとつ。
「衣璃亜ちゃん、もう記憶も戻ってるんだよね?」
『――っ』
――電話の向こうから、息を呑む音が聞こえた。
衣璃亜のその反応は、限りなく確信に近かった美咲の予想を変えるには十分だった。
「……そっか、やっぱり」
『ち、違う。なんのことか、全然……』
「いいよ? 誤魔化さなくて。去年の今頃には気付いてたことだから」
『……っ……』
今日この日まで、桐葉にもそのことは明かさなかった。
たとえその場で桐葉が肯定しなくとも、反応を見れば分かる。
桐葉に訊ねさえすればすぐに確証を得られると分かった上で、そうしなかった。
『…………いつ、から?』
そして衣璃亜も、すぐに白旗を挙げた。
「んー……きっくんが退院した後くらいかな? 少し前からそんな気はしてたけど、その頃はまだ『なんとなく』だったから」
たとえ衣璃亜が否定を続けても、美咲の確信が揺らぐことはない。
美咲が知る限り、学校では衣璃亜は以前のままだった。
しかし、桐葉のとの距離の近さが、以前とは変わっているように思えた。
それがより明確になったのが、桐葉が退院した後。
他のクラスメイトは誰一人として気付かなかった、本当に小さな変化。
『…………怒って、る?』
「うん、怒ってる。もっと早く教えてほしかった」
『……ごめん、なさ――』
「でも、衣璃亜ちゃんの記憶が戻ってくれた嬉しさの方が大きいよ。今は」
しかし美咲は、はっきりそれに気付いていた。
『……どうして、今……?』
「今だからだよ。衣璃亜ちゃん、明日には行っちゃうから。……本当は、衣璃亜ちゃんの口から訊きたかったけど」
『ぅ……』
きまり悪そうに視線を逸らす衣璃亜の姿が目に浮かぶ。
それを思うと、思わず小さな笑みがこぼれてしまった。
「ごめんね、意地悪しちゃって。……嬉しいって思ってるのは本当のことだから」
『……それなら、もっと優しく言って』
「我がまま言うんじゃありません」
ただ、どうしても、出発前にそれだけははっきりさせておきたかったのだ。
(学校では、以前のように振舞っていた筈ですが……)
さすが美咲と言うほかありませんね。
まさか、気付かれているとは思いませんでした……
(……それに、あんなことまで……)
きっとこの先も、桐葉は戦いのことを明かさないのでしょう。
その気持ちもよく分かります。今まで以上に。
この町を離れるという決断も、きっと彼にとっては生まれ育った場所から離れる以上に重いものだったでしょう。
『ちゃんと、帰って来てね。二人で』
「……ええ、約束です」
……そのためにやるべきことは、まだまだ山積みのようですね?




