017
自身の目の前で今、何が起きているのか。一瞬、桐葉は理解することができなかった。
「まったく、余計な事をしてくれますねぇ……こちらの配慮もお構いなしですか」
篝の脚まで包み込んだ黒紫が消えるその時まで、彼は呼吸すら忘れていた。
「っ、篝さん……篝さん! しっかりしてください、篝さんッ!!」
突如現れ、消え去った怪物のことも気にせず駆け寄る桐葉。
今にも崩れ落ちそうだった篝の身体を、寸でのところで受け止める。
「桐葉、くん……大丈夫そうだねぇ……? 衣璃亜ちゃんも、怪我はぁ……?」
「俺達の心配してる場合ですか! 喋らないでください。すぐになんとかしますから!」
応急手当の知識など、ないに等しい。
それでもおぼろげな記憶を頼りにシャツをちぎろうとして、桐葉は袖が妙に湿っていることに気付いた。
(濡れ……血……? これ、全部? どうして、どうしてこんな……!?)
攻撃を受けたのは主に腰から下。腕からの出血はほとんどない。
にもかかわらず、桐葉のシャツの袖は薄黒く染まりつつあった。
「手当てをするなら早くなさった方がいいのではありませんか? その傷……おそらく長くはもちませんよ?」
「ッ……」
既に《クレーラカージュ》はその形を失っていた。
篝の意識が途切れたことで全体の制御も、魔力の供給も失われたからだ。
「無視、して。まだ動いたら、駄目。桐葉。あれ、また来る」
「わ、分かってる。あんなやつの言うことなんて、最初から真に受けてない」
一刻も早くこの場を離れなければならない状況に変わりはない。
分かっていても、ほんの少し、足首だけを動かすのが桐葉には精いっぱいだった。
僅かばかり広がった視界に、桐葉はあの怪物の姿を見つけることが出来なかった。
いつまたその牙が剥かれるかも分からない中、無闇に走り出す事などできる筈がなかったのだ。
「おや……逃げないんですか。馬鹿ですねぇ。すぐに離れてしまえば安全なのに」
「……どうせ、どこかにさっきのやつが隠れてるんだろ」
「どうでしょうねぇ? 案外、疲れて一時的に休んでいるだけかもしれませんよ?」
「休んでるだけ、なら……すぐに攻撃、できる」
一瞬の出来事であったが故に、その姿を桐葉もはっきり見たわけではなかった。
しかしながら、怪物の身体が地面の下へ吸い込まれるように消えるのを見た。
まるで液体のような姿に変わった瞬間を、桐葉はその目に焼き付けていた。
今まで彼が遭遇してきた個体が一度も見せたことのない能力。
橘達からも聞かされたことのない能力。
「いいんですか? 無意味な警戒を続けて時間が経てば経つほど、彼女が助かる可能性も低くなりますよ?」
真っ当な助言のようにも思える言葉。だからこそ、余計に動けなかった。
本来、男がそのような言葉を発する必要がないのだ。
「っ……」
衣璃亜と二人、抱き寄せ合うようにして篝の身体を支えながらも、桐葉の目は男に向けられていた。
ほんの僅かな動きも見逃さないよう、静かににらみ続けていた。
「そんなことをしたって無駄ですよ。そちらの方が攻撃を受けた時の事、覚えていないんですか? 私から視線を逸らしたことなんて一度もありませんでしたよ?」
「……知ってるよ。そんなこと。……あんなのを見せられたんだから」
確かに篝は、《クレーラカージュ》の向こうの男にだけ意識を向けていた。
周囲から襲い掛かる攻撃は、全て桐葉が受け持つことになっていた。
「では、知っていますよねぇ? いくら前を見たって無駄だということに」
「……ああ、知ってる。それも。覚えてる」
その攻撃は、紛れもなく篝の足元から行われた。
(三…………)
冷たい夜風にさらされたことで冷静さを取り戻した桐葉は、そう結論付けた。
(二……)
前触れなく、一瞬のうちに篝の脚を包み込んだ黒紫。
(いちっ!)
それは消えるときもまた突然に、そして、地面に溶け込んでいくかのように。
「――飛べ!!」
そう。正体不明の怪物は、地面の中から現れ攻撃を仕掛けていた。
(当たり……っ!)
そしてその最初の攻撃は、上空まで届かない。
地上の標的を狙っていた怪物の攻撃は、空へ届くほどのものではない。
「イリア、そっちは!?」
「平、気……! ……でも、重い……!」
「もうちょっとだけ、こっちに。もっと近く……そう、そのまま!」
強引な飛翔。不安定な姿勢。
それでも巨大な翼を大きく羽ばたかせ、桐葉は三人分の重さを支え続ける。
落ちないだけで精一杯の状況。
飛び上がると同時に放つつもりだった魔法も、その時は諦めるしかなかった。
「これは、これは……随分と大きく飛び上がりましたねぇ? 大丈夫なんですか? そちらの方」
「すぐに手当てしに行くんだよ! お前達の結界なんて知るもんか!」
その言葉の直後、桐葉の前を紅蓮が焼いた。男の魔法だ。
(あのやろ、さっきからバカスカと……!)
進もうとしたまさにその瞬間を狙って、何度も何度も魔法が放たれる。
バランスを崩され、立て直し、桐葉に反撃の余裕はない。
「お前……!」
「そう怒らないでください。貶しているわけではありませんから。一度見ていたとはいえ、大したものだと思いますよ」
攻撃を回避したという事実に変わりはない。
それでも、男は普段と一切変わらぬ調子で桐葉に向かって語り続ける。
「桐葉」
「分かってる……っ!」
しかし、桐葉は感じていた。
暗闇の中、ほとんど見えない男の顔にいやらしい笑みが浮かんでいるのを感じていた。
何かを企んでいるに違いない。その確信が桐葉にあった。これ以上この場に留まるべきではない、と。
「……ああ、そう言えば。一つ、お伝えしていないことがありましたねぇ」
魔法に何度も足止めを食らいながらも、それでも進もうとする桐葉の元に、またしても男の声。
「っ、こんどはどういう――」
問い返すだけの時間も、桐葉にはなかった。
「別に、空を飛べないわけではないんですよ」
桐葉が気付いた時にはもう、目の前にその姿があった。
「い――ッ!?」
反応する間もなく、突如として覚えのない力に押し退けられた。
桐葉がいたその場所から、大きく校舎に向かって突き飛ばされた。
(こ、今度は風……? っていうか、あの化け物、一体どう……やって……)
その正体を掴む間もなく、見下ろした地面。
「…………はぁっ!?」
舗装されている筈の地面が、割れていた。
強大な力によって引き裂かれたかのような、無残な有様だった。
(ど、どんな馬鹿力だよ……! 師匠かよ! 空の上からだっただろ、今の!?)
子供どころか車すら呑み込みかねない巨大な穴が、そこにはあった。
(あいつ、ヤバい。絶対にヤバい。今までと、何か、違って……!)
それを引き起こした怪物の姿を、桐葉は見つけた。
六足の、犬型より一回りも二回りも大きな怪物がとうとう姿を現していた。
「……本当にしぶといですねぇ。助けがあったとはいえ、器用に何度も……大人しく魔法に当たって落ちてもらえませんかねぇ?」
「お断りだって……のっ!」
飛ぶ以外のイメージを込めるだけの余裕は、桐葉になかった。
ただ魔力を、光線のように撃ち出したのみ。
周囲に光の粉を散らす光線を出すのがやっとだった。
(やっぱり、効いていない……!)
狙いは確かでも、怪物にかすり傷を負わせる事すらできない。
(あんなの、一体どうやって……!)
降り立つことはできない。
しかし、空でも当然のように狙われる。舗装された路に巨大な爪跡を残すほどの一撃に。
「……桐葉は、そのまま」
男の更なる追撃を躱す中、声がした方に目を向けると、青白い光が宿っていた。
「い、イリア? お前、いつの間に……」
「いいから、準備、して?」
「……へっ?」
「返事」
「は、はいっ!」
ひたすら頷く。頷くしかなかった。
「――消え、て!!」
衣璃亜の手から青白い光が放たれるその瞬間まで、攻撃を逃れ、そして。
「逃げる!」
言われるまま、校舎へ飛び込むように羽ばたいた。




