001
目の前が燃えていた。
見慣れた小道。明かりのないその場所で、夜をぶち壊すように燃えていた。
学校からの帰り道。そこで見た。確かに見たんだ。
「……《火焔》」
男の掌から、炎が飛び出すその瞬間を。
……ありえない。
どれだけ頭で否定しても、それは現実として目の前にあった。
夕焼けのような赤。
怒り狂うように暴れ、揺らぎながら進む熱。
そうして烈火は、たちまち異形を呑み込んだ。
ついさっきまで、喉を食い千切ろうとすらしていた化け物を。
遠目からだと犬のように見えるけど、何かが決定的に違う。
だって俺が知ってる犬はこんな、目を紅く爛々と光らせたりしない。
ヘドロみたいな身体なんて、絶対してない。
見た目以外にも明らかに何かがおかしかった。
でも、それを説明するだけの知識なんて、その時の俺が持っているわけなかったんだ。
【――!!】
悪魔のような叫び声。耳を塞いでもまだ聞こえてくる。
大勢の人の悲鳴が入り混じったような、竜巻が押し寄せたような。
何が何だか分からないくらい恐ろしい声。身体もまるで金縛りにあったみたいに動かない。
いつその牙が自分に向けられるかも分からなかったのに。
「……?」
だけど、プツンと途切れた。
耳を抑える手をそっと放しても聞こえてこない。
恐る恐る目を開けてみてもその姿はどこにもない。
代わりに。
「――……怪我はないか」
眼鏡をかけたスーツの男が、俺をじっと睨んでいた。
ついさっき掌から炎を出した男が、静かに俺を見下ろしていた。
炎はまだ燃えていた。
激しく揺らぐその姿はまるで龍のようで、気を抜かなくても次の瞬間には呑み込まれてしまいそうだった。
無茶苦茶で、出鱈目で、現実離れしたその瞬間だけは今でもはっきりと覚えてる。
あの日、あの場所で、俺の中の何かが崩れた。
そう。それが、全ての始まり。
知らなかった世界に触れてしまった夜の出来事。
魔法を初めて目にした日の事だった。
「ふぁ……」
眠い。
正午を過ぎたこの時間。
空腹感にも勝る睡魔の元凶は未だに続いていた。
チャイムが鳴るまで残り1分を切ったところ。それでも終わろうとする素振りも見せない。
(またかよ……)
だからと言って進んでいるかと言われるとそうでもなく。教室全体の空気もすっかりだらけきっている。
「(ちょっと、きっくんっ)」
「(痛っ)」
ただ1人。真面目な、それはもう真面目な我が幼馴染様を除いて。
「(おい美咲。いきなり何するんだよ。ほら、今チャイムなっただろ? なのに続ける方が悪い。俺はそう思う)」
「(うん、確かにそうかもね? でもきっくん、さっき鳴る前から話なんてほとんど聞いてなかったでしょ。具体的には半分過ぎた辺りから)」
「(どうしてそんなことまで知ってるんだよ。怖いなおい。なあ美咲。お前実は耳にも目がついてたりする?)」
てっきりずっと前向いてると思ってたんだけど。
「(ついてるわけないよね!? どこからそういう発想が出てくるの!?)」
「(いや分からないだろ。ひょっとしたらってことも)」
「(ないから! 絶対ないから! また変な映画でも見たの?)」
「(いや、別に? 隣の席だからって親切に起こしてくれた幼馴染にささやかな娯楽を提供しようと……おっ、やっと終わったか)」
「(きっくん?)」
「さーて当番だし行かないとなー」
今日も今日とて延長、と。また急がないといけなくなった。
……右隣から漂ってくる恨みがましいオーラはなるべく気にしない方向で。
あとがちょっと、いやそれなりに怖いけど。
「そういうわけだから、じゃ」
「後で覚えておいてね?」
怖い。笑顔が怖いよ美咲さん。
その俺にしか見えない阿修羅か何か、できれば早く仕舞ってもらえませんか。
一階に降りるまで怒気はそのまま。
思わず胸を撫で下ろしてしまった。
「何お前、また綾河怒らせたの?」
「またってなんだよ、またって。人聞き悪いな。ただちょっと耳にも目がついてるのか聞いてみただけなのに」
「なんとなく前後の会話の内容が想像できるなぁそれ」
「エスパーかよ」
「いつものパターンなだけだろ」
佐藤も鈴木も高橋もなんだ。そんな揃いに揃って。
ひょっとしてあれか。あれなのか。
「……モテない男の僻み」
「「「表出ろやコラ!!」」」
そんなにキレなくても。地獄耳か何か?
「す、すまん……ちょっとした冗談のつもりが……」
「おい止めろ。そのマジトーンだけは止めろ」
「喧嘩なら買うよ高橋が。言い値で」
「おうよ! ……ん? おい待て鈴木。お前どっちの味方だよ?」
「よし乗った」
「俺が了承してないんだけどな?」
言い値なんて言われたらしょうがない。
暴力なんて野蛮な方法で決めるつもりなんてない。それに丁度勝負におあつらえ向けのイベントが控えてる。
「まあまあ、殴り合いなんてする年でもないんだしさ、ここは一つ中間試験で勝負しようか」
「なぁ楽しいか? 自分有利な内容で勝負仕掛けて楽しいか?」
「じゃあ勝てばいいのに」
「だからお前どっちの味方だよ」
残念、先に言われた。
さすがに三人合わせても勝てないなんてことはないしなぁ……特に鈴木が。なんなら普通に一対一でいい勝負。
「まあまあ、心配しなくてもぼったくったりしないって。負けた方がアイス一本でどうだ? 俺ソーダ味な」
「そこで地味良心的な設定されるとそれはそれで腹立つなオイ」
「いいじゃない、一年分って言われなかっただけでも」
「そういうところ温いからなぁこいつ」
「さっき一言でキレたやつが何か言ってら」
「俺だけじゃないからセーフ」
全てが壊れる数時間前。
今になって思えば馬鹿みたいな――なんて事ないやり取りだった。
「あー、疲れた……」
放課後。
係と課題集めのダブルパンチを食らった結果、最終下校時刻は目前。
新学期早々のレクリエーションはいいけど何も初っ端からガチガチに考え込まなくても。おかげで早く決まったけど。
――prrr!
「うおっ!?」
危うく落とすところだった。
誰だよ。こんな中途半端な時間に……あっ。
「はい、こちら天条お悩み相談サービスセンターです」
『……は?』
「止めてその殺意籠った声。悪かったから。俺が悪かったから」
『謝るくらいなら最初からしないでね? って、そうじゃなくて。まだ帰ってないみたいだけど大丈夫?』
「えー…………」
心配性過ぎないかうちの幼馴染様。まだ六時かそこらだぞ?
大体なんでそんなことまで……あ、そうか。俺の部屋、美咲の部屋から丸見えだった。
最近は行ってなかったから思いっきり忘れてた。
普通見えても即連絡はしないだろうけどまあ美咲だし。
『おーい、もしもーし?』
「聞こえてる聞こえてる。今丁度学校出たところ。ほら、係のアレで」
『それにしたって遅くない? もう最終下校時刻近いでしょ』
「できるだけ早く決めたかったんだとさ」
『なら決まったんだ?』
「おかげさまで」
体育館の使用のあれとかそれがあるのはまあ分かる。
ただそれなら最初から時間バラバラにしとけよって言いたかったのは多分、俺だけじゃないと思う。
『でも大丈夫? 時間的にも危なくない?』
「心配しすぎだろ。小学生じゃないんだから」
『油断は禁物。ここのところ変な事件だって多いんだから。迎えに来てもらえないか聞いてみるとか』
「父さんも母さんも今日は夜勤。大体そんなこと頼めるわけない」
滅茶苦茶回り道だし。そもそも家が遠いわけでもないのに恥ずかしい。
変な『事件』なんて言っても怪談と変わらない。
しかもニュースになってないし。あんな情報、どこから入って来たんだか。
失踪事件。
犯人像は全く分かっていなくて、数日経つとあら不思議。病院で見つかりました――とかだった気がする。
逆にそれ以上の話はほとんど聞かない。信じろって言われたってシンプルに無理。
『そっかぁ……そういえば今日もだったっけ。そういうことなら仕方ないけど、本当に気をつけてね?』
「分かってるって。美咲こそ俺の母親じゃないんだからそんな心配しなくても。疲れるぞ?」
『またそういうこと言って……せめてお姉ちゃんって言ってほしいんだけど』
「突っ込むとこそこじゃないだろ。誕生日は俺の方が早いし」
『半年も違わないでしょ』
そりゃそうだ。五月と一〇月だからな。
『それに、私ときっくんだったらどっちが年上に見えるかなんて……ね?』
「おうケンカか。分かりやすい挑発だな買ってやるよ。なんだ。今日は虫の居所でも悪いのか? え??」
『本当のことでしょー』
誰が手の掛かる弟だ。
いつにもまして刺々しい。……それとも普段が優し過ぎるだけ?
「まあとりあえず美咲大明神様のありがたーいご忠告は胸に留めとくことにする。じゃ、また明日」
『うん、また明日。……それと今の発言、明日の朝までよーく覚えておいてね、きっくん?』
「え、ちょっ――……ヤバイ、切れた……」
二重の意味で。
割と真面目にどうしよう。
ほんの冗談のつもりだったのに、マジか。……マジか。
キレるような要素あった? 挑発云々のせい?
逃げたい。超逃げたい。でもそんなの逆効果にしかならない。放課後に家庭訪問されるに決まって――
「……やめやめ。さっさと帰ろ」
考えたってどうにもならない。
近道使ってさっさと帰る。それがベスト。腹も減ったしそれがいい。
辛うじて乗用車が一台と折れるくらいの狭い道。
こんな時期だからやっぱり暗い。
家はまばら。そもそも右手は無法地帯寸前の茂み。
電柱の防犯灯の光もちょっと頼りない。
「供物捧げてどうにか見逃してもらえたりとかしないかなー……」
無理か。俺が生贄にされるだけか。止めよ。
この先なんて特に狭いし暗いし、気を抜いてると後ろから来た自転車とかに――
「……うん?」
何か聞こえた。
虫じゃない。今も近くから聞こえてる。
もっと獰猛で、野蛮で、それこそ飢えた獣みたいな……
その時また鳴き声が聞こえてきて、猛獣って印象も一層強まる。
(……ペットの鳴き声? でもそれにしては随分野太いというか、物騒な感じが……)
微妙に犬っぽいけど犬じゃない。上手く言えない不思議な感じ。
でも今更引き返すほどじゃない。
ヤバそうならそのまま素通り。
それでも駄目そうなら引き返すことになるかもしれないけど、まあその時は仕方ない。
「――…………は?」
正直、軽く考えてた。
大した事なんてないって。たまたまそういう日だったんだろうって。
【Grr…………】
だから、正真正銘の化け物がいるなんて思ってもみなかったんだ。




