待つ夫
タウンハウスの執務室の窓からは、遠くに王城の尖塔が見える。
今日のように晴れた日はよりはっきりと見え、紅茶を運んできたダナンは視界に入った城を見て言った。
「そろそろこちらに戻ってくる頃でしょうか」
羽ペンを握り締めていたアルフレイドはその言葉にぴくりと反応する。
書机の上には書類が積みあがったままで、ダナンはあからさまに困った目で見つめてくる。
アルフレイドはペンを雑に置くとがっくりと項垂れ、呻き声のような低い声で呟いた。
「リネットのことが気になって執務が手につかない……!」
今までこんなことは一度もなかった。
(まさかこの俺が?不眠不休でも執務をおろそかにしたことのない俺が!?)
減らない書類をこの目で確認するが、やっぱり減っていない。
おかしい。アルフレイドは本気で戸惑っていた。
「怪奇現象か?」
「違います。現実を見てください」
ダナンは容赦なくそう言いながらもかろうじて空いているスペースに紅茶のカップを置いて労うそぶりを見せた。
「一度休みましょう」
おそらくアルフレイドのこの様子もある程度は予想済みだったのだろう。
ダナンの様子からは”諦め”が伝わってくる。
アルフレイドは紅茶を一口だけ飲み、カップをソーサーに戻した。
自分の体たらくに驚きすらしていた。
「──俺は、個人である前に公爵家当主で領主なんだ。大切なのは領民を守ること。いつだって立場を優先してきた」
領民が飢えないように、魔物に怯えず暮らせるように。真正面から向き合ってきた。
「ご自身の感情に鈍感でなければ当主は務まりませんからねえ」
アルフレイドをよく知るダナンも、そう言いながら頷いた。
「縁談も、断るとあとが面倒だと受けただけだ。争いはない方がいいからな」
「まあ先にとんでもない条件を出したのはあなた様ですからね」
「うっ……!だから自分で責任を取ったじゃないか!」
俺さえ心を無にすれば波風は立たない。
そう思っていたのに──。
(知ってしまった。リネットが笑うと幸せだなと思うことに。何をしてでも守りたいと願うこの気持ちに)
馬車を見送れば、いつも通り仕事ができると思っていた。
リネットが大丈夫と言ったのだから、それを信じて待っていられると……。
「俺は今初めて謀反を考えている」
「やめてください、極端ですよ!」
王妃からリネットを奪い返しに行きたい。
アルフレイドは今すぐ馬を駆りたい衝動を必死に押さえていた。
「王妃さえいなければ!俺は煩わされずに済むんだ!!リネットを守るためならすべてが正義になる!」
「なりませんって」
「おそろしい……!人は不安になると攻撃性が高まるんだ。俺は身を以って知った!」
「思い出して!公爵家当主で領主の自分を!」
ダナンに止められ、アルフレイドは渋面のまま再び紅茶を口にした。
「リネットは無事だろうか?」
内ポケットから取り出したのは、でかける前に渡されたハンカチだ。
竜の刺繍は職人並みに精巧に施されていて、リネットの想いが伝わってくる。
ふと甘い香りが鼻先をくすぐれば、愛しい妻への感情が溢れて耐えきれなくなった。
「リネットー!俺を置いていかないでくれ!」
「…………」
ダナンが死んだ目でこちらを見ているのは気づいていたし、「奥様は生きていますよ」というツッコミも幻聴として聞こえてくるがアルフレイドはハンカチを抱き締めて離さない。
「とりあえず仕事は諦めましょう。奥様が帰ってきてから夜中にすればいいです」
休むという選択肢はないらしい。
敏腕従者は厳しかった。
「やはり今すぐ城へ攻め込むか」
「冗談はやめてください。──まだ、ダメです。王妃様とレックス侯爵に動きがあるまでは。それに現時点で奥様は王妃側の関係者なので、今、事を構えれば立場が危ういのは奥様ですよ」
「そんなことはわかっている」
アルフレイドはため息交じりに返事をした後、また羽ペンを手にして書類に通し始める。
「あれ?休まないのですか?」
ダナンが不思議そうに声を上げた。
「リネットのためにもいつも通りきちんと執務はしておかねば」
たとえ進みが遅くても、何もしないよりはマシだろう。
万一リネットに今日のことが知られ、情けない夫だと思われたくない。
そんなアルフレイドの行動にダナンはにやりと笑って言った。
「夫を振り回す悪女ですねえ……」
かわいい妻のためにがんばるアルフレイドは、リネットの馬車が到着するまで懸命に机に向かっていた。




