11.恋する乙女の祈り
ハットン家は代々優秀な魔法使いを輩出することで有名な貴族であるが、それと同時に出不精で人見知りな一族であることでも非常に有名な貴族であった。
それは、ハットン家に代々伝わる秘術が関係している。人見知りで引っ込み思案なハットン家がなるべく人に注目されず貴族社会を生きるため、精霊の力を使い編み出した門外不出の魔法ーーそれは、視覚認識を阻害する魔法。そこにいるのに、姿を見えなくする事で人目を気にせず過ごせるようにしたのである。
その魔法のおかげもあって、ハットン伯爵は毎日王宮に出仕してきているにも関わらず、ほの姿を見た者はほぼいない。
そしてそのハットン家の令嬢であるシルフィーも例に漏れずしっかり人見知りで、その魔法を使うことができた。
そんなシルフィーだが、今窮地に立たされていた。
いつもは教室では魔法を使って視覚阻害した上で、空気のように振る舞って地味に過ごしている。授業が終われば空気のように消えて、図書室に引きこもるシルフィーだが、今日はそういう訳にもいかない。
シルフィーは心臓の音が大き過ぎてどうにかなってしまいそうであった。
クラスメイトに話しかける。
そんな単純な事なのに、目を回して、膝は震え、汗が止まらない。
婚約破棄されてしばらくの間、人との関わりを最小限にしてきた。もとより人見知りなのに人と話すのが久しぶりという事もあって、いつも以上に緊張していた。
図書室でラビやゼノ、そしてルークから励まされて、涙目になりながら今この教室に来ていた。
シルフィーは休み時間に教室に行くという事でさえ渋って駄々をこね、三人に宥めてもらってようやくここにいるのである。「シルフィーに何かあったらすぐに駆けつけるよ」なんてルークは言っていた。ルークの甘い言葉は冗談だと思っているのだが、何故か少し心が軽くなる。
大きく深呼吸して、シルフィーは教室を見渡した。
シルフィーの標的は窓際の前から二番目に座っているクリスティーナ=バーバル。おっとりとした雰囲気で、座っているだけで品のある。まさにお手本のようなご令嬢である。
シルフィーは大きく息を吸い込んで、教室に一歩踏み入れた。
「くく、くっくくクリスティーナさん……。」
蚊のような声で噛み噛みになりながら話しかけると、クリスティーナはゆっくりと顔を向けてきた。そしてシルフィーを見てこてんと首を傾げた。
「貴方は……?」
「わ、私はシルフィー=ハットンといいます。」
だんだんと声が小さくなっていってしまう。
クリスティーナがこちらを見てくれるのに、シルフィーは顔を見ることもできない。
恥ずかしくて、消えてしまいたい気持ちでいっぱいだった。
きっと笑われる。鬱陶しそうな目で見られている。
そう違いない、とシルフィーは思っていた。
「まあ。貴方があのシルフィー様!」
しかしクリスティーナの声は明るく、むしろ喜んでいるように聞こえた。それに少し安心したシルフィーは恐る恐るクリスティーナの顔を見た。
シルフィーと目が合ったクリスティーナは穏やかに微笑んだ。シルフィーのことを受け入れてくれている様子に少しずつ緊張がほぐれていく。
「何かご用ですか?」
クリスティーナが優しく問いかけた。
シルフィーはハッとしてまた顔を背けた。
そう、これは任務なのだ。魔導書について情報を集めなければならない。シルフィーは視線を泳がせながら、口を開いた。
「あの、えっと……。図書室からのお願いなんですけど……その、本。い、今、借りて、ませんか……?」
「え?ええ。借りてますわ。シルフィー様も興味がありますの?」
クリスティーナは優しく微笑んだまま頷いた。全く悪意の感じられないクリスティーナの態度に、シルフィーは困惑した。
クリスティーナが自分の鞄から本を取り出して、シルフィーに見せてくれた。読んでいる本に興味を持ってもらえたことが嬉しいらしく、ニコニコと微笑みながら本の内容を説明してくれた。
「この本は、一人の少年が石に刺さった剣を抜いて王様になるお話ですの。石に刺さった剣は、王の素質を持った者にしか抜けない剣で、なかなか抜けなかったところに、何の取り柄もなかった少年が抜くんです。そして少年は多くの経験を得て成長していき、ついには王様になる、そういうお話ですわ。」
クリスティーナは遠くを見つめながらそう教えてくれた。まるで誰かを想像して思いを馳せているように見える。うっとりした瞳には熱がこもっていて、まさに恋する乙女そのものであった。
そして何か祈りに近いものも感じた。
「す、素敵な、物語ですね。」
「ふふ。シルフィー様も気に入ってくださって嬉しいですわ。」
クリスティーナは笑顔を崩さず答えた。しかし、クリスティーナの様子の所々に恋する乙女の祈りを感じる。
ーークリスティーナ様は、何を望んでいるのだろう。
シルフィーはゆっくりと口を開いた。
「あの、」
そして大きく息を吸い込んで、勇気を出して尋ねてみた。
「クリスティーナ様、何か悩んでますか?」
クリスティーナは目をパチクリさせた。まさかそんな事を聞かれるとは思っていなかったのだろう。
しかしすぐにクスクスと笑い始めた。
「ふふ。シルフィー様はお優しいんですね。」
穏やかなクリスティーナの笑顔に、シルフィーは気恥ずかしくなって俯いてしまう。
「実は……私の恋人がもうすぐ騎士の模擬戦なんですの。」
話し始めたクリスティーナは、俯いて少し落ち込んだ様子に変わった。そのクリスティーナの様子に、シルフィーは内心かなり慌てていた。
「最近、彼がその模擬戦に向けて練習に打ち込んでいて、本当に必死に頑張っていますの。私には見守ることしか出来ないんですけど。」
クリスティーナは泣き出しそうな表情を見せた。
「私、彼には勝ってほしいんですが、それ以上に怪我してほしくないんですわ。」
「……心配、ですね。」
こんな時、シルフィーは気の利いた言葉をかけてあげる事ができない。声をかけておいて、何も出来ないのが悔しく思う。
だが、こんなに婚約者を想っている人が魔導書を使って恋人を貶めようとするなんて事はない。
シルフィーはそう確信した。
騎士クラブの先輩のためにも、そしてクリスティーナのためにも、魔導書を何とかしなければならない。シルフィーはぎゅっと拳を強く握りしめて、クリスティーナが持つ本に視線を向けた。
本からは、確かに魔力を感じる。
ーーこれが、魔導書……。
初めて見たが、間違いないとわかる。
「クリスティーナ様、きっと大丈夫です。」
「恋人を信じましょう」なんて、シルフィーには言えなかった。信じていた婚約者に裏切られた事があるので、相手を知らないのに信じろなんて無責任な事は言えない。
だからシルフィーも祈るしかないのだ。
そして、シルフィーに出来ることを精一杯するしかない。
そう、シルフィーが決意した時だった。
「あらぁ?シルフィーじゃなあい。」
聞きなれた声がシルフィーの名前を呼んだ。シルフィーは全身に寒気が走り、手が震え始めた。
もう二度と会いたくなかった。
「久しぶりねえ。」
そこには、カリナが立っていた。




