滲む。
結婚するタイミングを失ったのか。
それともそんなタイミングなど、そもそもなかったのか。
悟とは、付き合ってすぐに同棲をした。
『同棲をすると、いつでもSEXが出来ると思う様になってレスになることがある』
TVだったか、雑誌だったかで誰かが言っていた。
同棲をして3年。
レスになって1年半。
悟から触れてこようともしないし、拒否られるのが怖くて自分から誘う事さえ出来ない。
私も今年で28歳。
結婚に焦りがない訳ではない。
でも、レスの私たちに結婚なんて有り得ないだろう。
レスでも、私は今でも悟が好きだ。
それでも、結婚するなら悟しかいないと思う。
私は宝飾店で販売員をしている。
職業柄、ほとんど平日休だ。
悟はサラリーマン。土日休み。
今日は土曜日。今日は悟の仕事が休み。
「木内さーん、DM投函して来てー」
「あ、はーい。行ってきまーす」
店長に頼まれて、DMを投函しに店の近くの郵便局に向かった時だった。
「……悟?」
悟が若くて可愛い女のコとデートをしていた。
あれはまぎれもなく悟だ。
3年も一緒に暮らしているんだ。見間違えるはずがない。
そして、あれは間違いなくデートだ。
だって、2人は慣れた様に指と指を絡ませ合いながら手を繋いでいた。
友達とは、普通あんな風に手は繋がない。
悟が、楽しそうに笑っていた。
悲しくて、悔しくて、苦しくて、赦せなくて。
目にじわり、涙が滲んだ。
結婚を考えて、焦っていたのは私だけだった。
私は悟にとって、ずっとただの同居人でしかなかったのかもしれない。
涙は1度滲むと、溢れ出そうと量を増やす。
でも、今は泣きたくない。
失恋のショックで泣いた所で可愛く見える歳でもなければ、泣き顔で仕事に戻れる程常識がない大人でもなかった。
絶対に泣くものかと口を真一文字にして喰いしばり、涙が引く様目に力を入れる。
がんばれ、私。
頑張りは実を結び、涙を流す事もなくお店に戻った。
いつも以上にテンションを上げて、普段以上の笑顔を作る。
ここは宝飾店。
こんな時、『どうしてこんな職業を選んでしまったんだろう』と後悔をする。
仕事自体は嫌いではない。と言うか、好きだ。
でも、宝飾を買いに来られるお客様には、カップルも多い。
そんな幸せいっぱいのカップルに、笑顔でジュエリーを勧めなければいけない。
今の私には、なかなか過酷だ。
でも、笑え。がんばれ、私。
「木内さん。今日の棚卸し、何時まで平気? 終電何時だっけ?」
ショーケースに付いてしまった指紋をふきんで拭いていると、店長がシフト表を見ながら私近くに寄って来た。
そっか、今日は棚卸しの日だ。
終電は24:05。でも……。
悟のいる家に、帰りたくなかった。
もしかしたら、悟は私のいない間にあの彼女をアパートに入れたかも知れない。
私たちのベッドで……寝たかもしれない。
だとしたら、いつからあのベッドで……。
私は、何も知らずに毎日寝転がっていた。
自分が、滑稽に思えた。
「私、今日大丈夫です。最後まで出来ます」
てくてく歩けば2時間でアパートに着く。
極力遅めに帰りたい。
「そっか、悟くんが迎えに来てくれるんだ?」
笑顔で話し掛けて来たのは、同期の百花。
百花は結婚していて、産休前の妊婦さんだ。
優しくていつも親切な百花の事は大好きだけど、幸せ絶頂期の悪意のない言葉は、ヒリヒリ痛む胸に更に針を差し込む様だ。
そんな百花に、何も言わずにただ笑顔を返した。
「最後まで残れるの、木内さんと橘さんだけみたい。悪いんだけど、みんなの終電までに数え終わらなかった分は2人にお願いしていい?」
店長が申し訳なさそうに両手を合わせた。
「はい。任せて下さい」
店長にも笑顔を返す。
「助かるよ、木内さん」
店長はポンと私の肩を叩くと、百花と一緒に自分の持ち場に戻って行った。
「橘さんかぁ……」
橘さんはこの宝飾店の社長の弟の息子らしい。
社長の一人息子は、店を継ぐ事はなく弁護士をしているとの事。
そんな息子の代わりに、橘さんが次期社長になるらしい。
そんな橘さんは今年入ったばかりの新入社員。
新入社員だけれど、後々上司になる彼を、皆『さん』付けで呼ぶ。
陰では「コネ入社」と嫌味を言いながら。
通常営業を終え、妊婦の百花以外の社員は店に残り、棚卸しに取り掛かる。
都会の5階建ての大層な宝飾店。
店頭に出ているものと在庫を合わせた数を、データーと照らし合わせる。
1つ1つの単価が高い為、合わないとかなり大変。
でも、何故か合わない事がやっぱりある。
合わない分はさておき、次々数を数える社員たち。
みんな、少しでも早く帰りたいらしい。
テキパキ動く他の社員とは対照に、むしろ帰りたくない私の動きは鈍い。
そんな私の姿が目に余ったのか、
「俺もラストまでなんで、もう少し早く動いてもらえませんか?」
イラついた様子の橘さんが、私の方に寄ってきた。
「あ……すみません」
今のは私が完全に悪い。
でも、このひとなんかヤな感じ。
ほとんど喋った事ないから分かんないけど、あんまり優しくないタイプの人間だと思う。
この人と2人で仕事するの、ヤだな。
なんなら1人でするのに。橘さんも帰ってくれていいのに。
予想通り、みんなの終電までに棚卸しは終わらなかった。
橘さんと2人、黙々と在庫を数える。
言葉は交わさない。
世間話をするほど仲が良い訳でもないし、橘さんは一刻も早く帰りた気だし。
だったら『俺も終電なんで』って言って帰ればいいのに。
沈黙の中作業を続けていると、
「俺、ちょっとトイレに行ってきます」
橘さんが席を外した。
「ふー」
肩の力が抜けた。正直、やり辛い。
重かった空気が、途端に吸い易くなった気がした。
深呼吸をして、棚卸しを続ける。
……遅い。
橘さんが帰って来ない。
『トイレに行く』と言って30分は経ったと思う。
……おっきい方かな。お腹、壊したのかな。
あまりの痛み耐え切れなくなって、トイレに辿り着く前に倒れてたりしないよね?
探しに行った方がいいかな。だって遅すぎる。
立ち上がろうとした時、
「どうぞ」
目の前にニョキっとペットボトルのお茶が現れた。
見上げると、『早く受け取れよ』と言わんばかりの橘さんが私を見下ろしていた。
「あ……どうも。あの、大丈夫ですか?」
とりあえずお茶を受け取る。
「何が?」
どこも具合の感じは見受けられない橘さんは、缶コーヒーの蓋を開け一口含んだ。
「イヤ……なかなか戻って来ないから、お腹が痛いのかと⁉…」
「だから、そのお茶とか買いに行ってたんだよね?」
バカじゃないの? という視線を落としてくる橘さん。
心配して損した。
「パンとかいっぱい買って来たから、木内さんも適当に食って。腹減ったっしょ?」
橘さんは、他にもおにぎりやお菓子の入ったコンビニ袋を無造作に置いて、パンを齧りながらまた棚卸しをし始めた。
私の分、1000円くらいかな。
そそくさとロッカーに戻り、鞄から財布を取り出すと、橘さんの元に駆け寄った。
財布から1000円札を抜き取り、
「あの、買って来てくれてありがとうございます。これ、私の分です。足りますか?」
橘さんに差し出すが、彼は受け取ろうとしない。
「足りませんか?」
このひと、どれ程買ってきたんだろう。
「律儀っつーか、真面目っつーか、貧乏臭いってゆーか」
私を馬鹿にした様にに笑うと、「いらねぇし」と橘さんは1000円札を私に押し戻した。
貧乏臭い……。確かにウチは橘さんの家から比べたら貧乏かもしれないけれど、両親共働きの普通の一般家庭で、裕福ではないけれどひもじい思いをした覚えはない。
コイツ、失礼だ。てゆーか、嫌いだ。
「『お金のことはキッチリしなさい』って、親に言われて育てられたもので」
受け取らないのは分かっていたけれど、それでも1000円札を橘さんの近くに置いて、少し離れたところで私もまた作業を再開した。
「生真面目な女は、わがままな女よりめんどくせーかも」
橘さんはそう言って1000円札をポケットに雑に突っ込んだ。
本当に腹が立つ男だ。
「不真面目よりましじゃないですか」
こんな奴、放っておけないいのに。言い返さなきゃいいのに。
「独り言ですよ。誰も木内さんがそうだとは言ってないでしょ?」
返事をした橘さんの目が『くそめんどくせぇ』と言っていた。
「……ですね」
もう喋らない。この男とは一生喋らない。
一言も喋らず淡々と仕事を進め、あとは数が合わなかった分の原因を探る作業だけになった。
「橘さん、後は私1人で大丈夫です。先に上がって下さい」
どうか、さっさと帰って下さい。
橘さんを帰るように促す。
「あ、それさっきやっておきました。単純なカウントミスでした。じゃあ、棚卸し終了ですね。お疲れ様でしたー」
橘さんが「疲れたー」と言いながら首を回した。
気付かなかった。いつのまにカウントし直してくれたんだろう。
橘さんは、口は悪いが仕事は出来る人間だった。
「木内さん、彼氏さんが迎えに来るんでしたっけ? でも、こんな時間に駆り出されるとか彼氏さんが不憫なんで、一緒にタクシーで帰りましょうよ。家、どこですか?」
腕時計を見ながら「もう2:00かよー」と顔を顰める橘さん。
悟は迎えには来ない。呼びたくもないし。でも、橘さんと一緒にタクシーに乗るのも嫌だ。
タクシーに乗ってしまったら、あっと言う間にアパートに着いてしまう。
悟は明日もお休みだ。きっと今日は朝方まで起きている。
悟と普通に会話出来る自信がない。
「橘さんはどちらにお住まいですか?」
「B町」
橘さんの言うB町は、私が住んでる場所と方向が真逆だった。
「方向が違うので、お一人で帰って下さい。戸締りは私がしますので、どうぞ先に上がってください」
お店の鍵を取ろうとキーボックスを開けると、
「『夜中に女性を一人で帰すな』と親に言われて育てられたもので」
私の言葉を引用した橘さんが、私の横から手を伸ばし、キーボックスから鍵を抜き取った。
この人、口は悪いけどやっぱり育ちが良い。
こんな尊敬さえ出来ないだろう年増の私を、レデイとして扱ってくれる。
でも、やっぱりこの人、苦手だ。
一緒に帰らない口実が見つからず、とりあえずお店に施錠をして、タクシーが拾えそうな大通りに出た。
ものの1分でタクシーを捕まえてしまう橘さん。
停車したタクシーのドアが開くと、
「どうぞ、乗って下さい」
橘さんが『早く乗れ』とばかりに私の背中を押した。
乗りたくない。帰りたくない。
「……私、助手席側の後ろが好きなので、橘さんが先に乗ってくれませんか?」
私の意味不明発言に、橘さんは思い切り嫌な顔をし、「変な女」と気持ち悪いものを見るかの様な視線を私に飛ばすと、先にタクシーに乗り、運転手側の後部座席に身体をずらした。
「すみません、B町まで‼」
そう運転手さんに伝えると、タクシーには乗らず思い切りドアを閉め、タクシーの進行方向と真逆の方向に走った。
ドアが閉まる間際、橘さんの「オイ‼」と言う大きな声がしたけれど、聞こえなかった事に。
きっと明日、何か言われる。
でも、明日の心配はまず今日を乗り越えてから。




