tail-06: 順風
状況を整理する。観客席の安全を確保した。残りは倉庫と狙撃手だけだ。リグはその片方、狙撃手を片付ける。倉庫はロゼが蟻地獄となり睨み合いをしている。他へ行こうとする襲撃者は入り口前のダスクを見て倉庫のほうがいいと考える。リグが離れる間の通信席はレデイアに任せた。
狙撃手を狙撃する。リグは車を走らせた。狙撃地点は事前に調べていた。それらすべてへの回答も。
出入りの可能性は端の階段だけで、隣の建物へ飛び移るには高さと距離のどちらかで問題がある。無傷で飛び降りられる限界は五階の連中が教えてくれた。この場は地上から20mの六階だ。閉じ込められれば逃げ道がない反面、立てこもるには有利だ。
大荷物を抱えるのでペースは控えめに、確実に。踊り場のたびに息を整えがてらにSLLS、止まって、見て、聴いて、匂う。意識を移動から観察へ割り振りなおす。片膝をついて光源と物と目の位置関係を変える。
赤子の目、という言葉がある。何を見ても初めての赤子はすべてを観察する。口に入れられるのか、指を入れられるのか、触ると何が起こるのか。すでに知っている範囲が増えるほど観察と発見の楽しみが減っていく。脳が報酬を得られないから省力化しようとする。しかし人間には理性がある。無益と知りながらでも動けるし、報酬を得られないことさえ報酬にできる。赤子に戻って観察する。見慣れたつもりをやめて、意識の大盤振舞いだ。
土埃の積もり方、足跡は一人分だ。足跡の時期と形、昨日の下準備で自分でつけたものだ。風の音、聞いたことがある。風以外の音、聞こえない。匂いの残存、温まった砂埃だけだ。0を発見し、報酬の安全を得た。
扉を押し開けた。元より狭い空間をテントがさらに狭くしている。人の目は初めからないが、現代にはドローンがある。他ならぬ自分たちと同じ武器だ。武器は人を選ばない。同じ刃は自分へも向く。受け止め方を知っている。カメラはテントを透過できない。
テントは文化祭レベルの帆布だが心理的な防弾性能がある。貴重な弾薬を当てずっぽうでは使わない。側面には隙間があり、内側から銃口と視界を通せる。簡易的な狭間だ。
「こちらリグ、到着しました。位置をお願いします」
無線機でレデイアへ。一人きりの空間では無線機と少しの風だけが耳を探し出す。その風の発生源の呼吸は深くて早いハイパーベンチレーション、血中酸素濃度を高めて、息が上がるまでの時間を少しでも縮める。
目は二機の有線ドローンにある。一見してライブ記録映像のための全方位カメラだが、中身はナゴルノ・カラバフでも活躍した偵察機に近い。地平線を越えて敵部隊を発見する精度を持つのだから、もっと近い狙撃手を、しかも事前に見当をつけた位置から見つけるくらいお手のものだ。
空の目と自分の目を合わせて位置関係を知る。こちらは大荷物から出した狙撃銃のスコープで。
「レデイアからリグ、標的は二名、ブルー・ツーとクリムゾン・フォー、よろしいか」
「ええ了解、クリムゾン・フォーを視認しました」
「先にブルー・ツーを。期限は二十六秒後」
狙撃手は彼我の位置が重要になる。レデイアの指示はすなわち、ブルー地点の二番区域からの射線が二十六秒後にアリナを捉えるから、その前に。二十六秒とは狙うだけなら大急ぎで済むが、実際は限界への挑戦だ。
まず重たい銃を持ち上げてテントの反対側へ歩く。銃身が少しでも歪まないよう丁寧に置く。これで八秒。
スコープ越しに標的を目視して狙いを修正する。銃弾が長く飛ぶほど重力や風の影響が増す。コリオリの力も影響する。今回は予習のおかげで角度の目印となる傷や模様までわかっていた。ここまで十九秒。
最後に手ぶれを抑える。この時だけは銃の重さが役に立つ。慣性の法則、止まっているものは止まり続けようとする。骨と銃で皮膚を挟み、柔らかい毛細血管を押し潰して、呼吸による上下まで抑えて。ここまで二十四秒。
会場の上では常に数機の無線ドローンが演出している。小型軽量のこれらは風に対する制御が必要で、逆説的に風見鶏としてデータを届けてくれる。頭に入れていたデータと計画に狂いなし、あとは指一本を動かすだけだ。
正しく用意して、正しく狙って、正しく引き金を引けば、必ず正しい結果になる。どんな時でも同じだ。銃の扱いも、リグ自身も。
骨を経由したわずかな音だけが不発ではなかったと教えてくれる。超音速の弾は静かに飛び、手遅れになってから予兆が届く。
「沈黙。次は三分後」
信じるべきは無線機だ。自分の目よりも。今のリグは腕で、腕には視覚も聴覚も嗅覚もない。触覚だけが現実になる。
弾丸は放物線、光は直線だ。スコープの角度を戻して状況を目視する。ブルー地点は狙撃銃の陳列棚になった。隣のテディベアが頭にチューリップを咲かせていた。名前も声も知らない、どちらも持たないかもしれない。わかるのはその席に辿り着いた事実だけだ。有能であり、同時に不運でもあった。別の時代や別の場所に生まれていれば、あるいはどこかで別の配属になっていれば今日この場にはきっといなかった。この場にいた理由はただひとつ、偶然だ。
リグも同じく。偶然ここにいなければテディベアとは無縁に生きていたかもしれない。逆にテディベアになったかもしれない。自分がやらなくても誰かがやる。誰もやらないなら自分がやる。呪いの椅子はいつでもどこかで椅子取りゲームの結果を待っている。目を背けてはいけない。他人任せにしてもいけない。キラーT細胞と癌細胞の違いは統制にある。リグはまだキラーT細胞でいられる。
「ロゼからレデイア、二人が離れた。行き先を追え。嫌な予感がする」
予感はリグにも伝わった。距離を踏まえると幸い時間は三分もある。得物をスコーピオンに持ち替えて、一発では撃たれない位置を陣取る。偽装はいらない。敵の目的はリグ個人ではなく狙撃手の役割だ。
手榴弾を持たなかったのを後悔した。扉を開けた瞬間にピンが抜けるよう仕掛けられれば話がもっと早かった。荷物が重すぎて手が回らなかった。自分よりも前で動くロゼに回した。言い訳ならいくらでも浮かぶ。後悔と言い訳ばかりが人生だ。誰も助けてくれない。自分を助けられるのは自分だけだ。今までも、これからも。最も心強いのは無線機の先にいる最愛の人だが、今だけは手元の短機関銃が躍り出る。
「レデイアからリグ、二人がそこを登ってる。必ず迎撃を」
「了解、装備は見えましたか」
「ボディアーマーなし、得物はAR系」
ここは六階建てだ。上る時間を加味したら。
姿勢を低く、側面を向けて、近距離で。ライフルに対し距離を離しても嬉しくならないが、距離を詰めればあわよくば嬉しいことがある。弾は銃口から飛ぶ。銃口までが遠い銃は手元を撃てないし、掴めればテコの原理で狙わせない。手が届く範囲では相手の手も届くが、リグの短機関銃へのそれは、肘打ちを突破してからだ。
もちろん敵も他の銃に持ち替えるかもしれないが、見えなかったなら候補は拳銃だ。拳銃相手なら手数で、ライフル相手なら取り回しで。短機関銃はニッチな状況で強い。
この短機関銃、スコーピオンは薬莢を真上に排出する。右利きでも左利きでも、あるいは味方が右にいても左にいても、傾け方だけで安全な方向を切り替えられる。
これが仇となり、胸の前では構えられない。薬莢が首を殴りつけるか、弾倉が胸に引っかかる。必然、構えはコンバットハイ、視界を広く、右腕を遠く。左側の壁で薬莢が跳ねるが仕方ない。目と耳を撹乱する可能性と思って受け入れる。
攻略のイメージは固まった。必要な備えもある。あとは扉が開くまで待つ。
屋上のテントに静寂が戻った。本当は最初から静かだったが、脳が擬似的に感覚を作りあげていた。扉はどんな音で開くか、その後で誰の音が続くか。電子耳栓は鼓膜へ届く銃声を打ち消すだけで、勝手に鼓膜の奥で神経を尖らせた結果は打ち消せない。騒がしかった。
静寂を破る声がする。壁越しのひそひそ声さえよく目立つ。言葉はわからないが矛先ならわかる。分担だ。狙撃を受ける側は痛い位置を知っているから真っ先にそこへ向かう。狙撃の狙う側はそれへの対策に別の場所で構える、と考えて別の場所に潜むとも考えられる。結局は普段通りの安全確認か、危険を承知で痛い位置だけでも守るかだ。
組織と人の痛覚はしばしば矛盾する。組織にとってはダメージコントロールでも、人にとっては自分の死だ。トカゲは捕食者から逃れようと尻尾を切るが、切られる尻尾にとっては結局は逃れられない。
尻尾になくて人にはあるもの。それは意思だ。あわよくば組織を助けた上で自分も助けられるかもしれない。だから安全という名の賭けに出る。組織もそれを承知で指示を出す。例外は自らの身を顧みないワーカホリックだが、貴重な人材の使い先としてこの場は軽すぎる。
だから思った通り、扉を開けてからは二人が左右を分担した。片方が左側の怪しげな荷物の奥にある微妙な死角を、もう片方が正面から右側を。
リグの手元でスコーピオンが火を吹いた。まず片方が沈黙、もう片方は振り返る時間があり、いざ振り返っても倒れ切らない味方が視界を塞ぐ。訓練した兵は銃口を味方には向けない癖がつく。よく訓練していれば癖を知った上で無視できたかもしれない。咄嗟の状況で癖が出る。リグはフルオート射撃を続ける。倒れきらない兵のすぐ脇から拳銃弾が抜ける。お互い目を合わせた所で二発目、反撃しようとして三発目、引き金を動かそうとして四発目。まともに狙えず構えられずではせっかくのライフルも床に傷をつけるだけのおもしろインシデント発生器が関の山だ。
無傷で立つのはただ一人になった。舞い上がった薬莢が成功を示すように高く鳴り、ひとつが襟首に入り込んだ。
「熱っ、だから嫌なんすよ」
服を揺らして裾から落とした。念のため倒れた二人の頭に一発ずつ入れて、ちょうど空になった弾倉を交換する。セフティをかけて、再び屋上に静寂が戻った。
テディベアを宝箱と呼ぶ気にはなれなかった。道具に困ってないのに汚い汁や粉で感染症のリスクを増やすのは損だ。なるべく触らないように押して通り道を作る。中身は発見者へのプレゼントだ。
「リグからルルさん。こちらは安全です。狙撃に戻ります」
戻れるなら。甘い考えを次の言葉が押し流した。
「目標は屋上からひとつ下に移動、正確な位置が見えない。伴い時間を更新、四分後に」
屋内からでも狙えるが、窓枠の都合で撃てるチャンスが遠のく。反撃よりましと判断したらしい。
お仲間の様子が聞いたのはいいが、こちらの銃を見誤っている。壁を貫通させても殺傷力が残る。とはいえ、当たるかどうかもわからない撃ち方では弾がいくらあっても足りない。最悪なのは机の足などの円柱形だ。面に対し垂直にならないから貫通せずに跳弾する。
「確認しました。マズル周りがわずかに見えるんで位置はわかりますが、部屋に遮蔽物は?」
「ドローンの軌道にも限界がある。壁一枚の奥は不明」
「それじゃ困るんすよね。変に阻まれると当たりませんよ」
「マズル部分を撃つのは?」
「無茶っすよ。可能性があるのは推定頭の位置と推定胸の位置、それ以外は角度や柱の関係で無理っす。当てずっぽうの連射も一応はできますけど、まさか民間人の犠牲は呑みませんね」
レデイアは目的のためならなんでもするが、命だけは取らない。謝っても弁償でも済まないと理解しているからだ。そのくらいの分別はつく。
なら、どうする? リグはこの場を動けない。ロゼが倉庫を離れれば敵さんと酒屋が大喜びだ。レデイアは動けるが、観測手なしで動けば成否と修整がわからない。
可能性はダスクだけが持つ。同時に、片付けるべきリスクも。
「こちらダスク、動きます」
「レデイアからダスク、銃を置いてもいい」
公には銃の所持への規制がある。ライフルは隠せないし、持って歩けばダスクこそがテロリストになる。だからライフルを置いて走る。見張り番はレデイアが操縦するドローンでやれる。有線ドローンで見て、無線ドローンで追い払う。
ダスクが走る。レデイアが見て、リグへ伝える。会場の外、ちょうどいい建物の管理人と話をつけて上階から見る。ドローンより低い位置、徒歩より高い位置。事前に知らなければ誰も見ようとしない部屋を。
「ダスクからリグさん、部屋に障害物は無し、目視しました」
「了解、それがわかれば任せてください」
狙いを調整する。推測した位置、壁への角度、重力、風向き、コリオリの力。すべて加味して調整し、目印と十字線の重なりを見て、銃を止める。
超音速の弾丸が壁に穴を開けた。
「レデイアからリグ、命中と推定。不確かだが戻ってきて。総合的敗因を潰す」
「了解、引き継ぎます」
荷物をまとめて駆け下りた。通信席で元に戻した。レデイアは倉庫のロゼに加勢する。
リグはやはり補佐のほうが馴染む。全力を出す助けになる。少なくとも通信はレデイアよりうまくできる。
それに、今の手応えで再確認した。自分の心を満たせない。報酬もなく汚れるなど。組織にとって自分は手だが、自分にとって自分は全身だ。




