小さなスパイ
幼稚園生活が始まって数週間、俺は悟りの境地を開きつつあった。
俺のポジションは「クラスのアイドル」ではない。
上野動物園のパンダだ。
それも、世界に一頭しかいない超希少種のパンダ。
「たつやくん、これあげる! ママがつくったクッキー!」
「たつやくんはわたしのドロダンゴをみるの!」
「きょうはわたしがお世話係よ! トイレいっしょにいこう!」
登園から降園まで、一瞬の隙もなくアプローチの嵐。
トイレに行こうとすれば民族大移動のように女子たちがついてくるし、お昼寝の時間になれば俺の両隣を確保するために血で血を洗う(比喩であってほしい)ジャンケン大会が開催される。
俺はただ、静かに積み木で遊びたいだけなのに。
「はいはい、みんな席につきなさい。龍弥くんが困ってるでしょ?」
パンパン、と手を叩いて場を収めてくれるのは担任の佐藤先生だ。
彼女だけが、この過剰な世界における俺のオアシスだった。
「龍弥くんも、嫌な時は嫌って言っていいのよ。みんなと同じお友達なんだから」
先生は俺の頭を特別優しく撫でることもなく、他の園児と同じ力加減でポンと叩く。
その「普通」の扱いがどれほど心地よいか。
もしかしたら教育委員会あたりから「男児の健全な精神育成のため、過度な特別視を禁ず」といった通達でも出ているのだろう。
佐藤先生、あんたはプロだ。俺が大人になったら真っ先に口説きに行きたいくらいだ。
しかし、先生の目が届かない場所では、相変わらずの包囲網が敷かれる。
ある日の自由遊びの時間、俺はついに耐え切れず、積み木を崩しながら傍らの園児に問いかけた。
「ねえ、サキちゃん」
目の前で俺の顔をじーっと見つめていたツインテールの少女、サキちゃん。
俺と目が合うと、パァっと顔を輝かせた。
「なあに!? たつやくん!」
「どうして、そんなにボクのこと見るの? ボク、そんなにめずらしい?」
ただの子供の疑問を装って聞いたつもりだった。
だが、サキちゃんから返ってきた答えは、俺の想定の斜め上を行く生々しいものだった。
「だって、ママがいってたもん!」
得意げに胸を張り、大きな声で宣言する。
「『おとこのことは、ぜったいになかよくしておきなさい』って! 『しょうらいゆうぼうなんだから、いまのうちにツバつけときなさい』って!」
「……は?」
「あとね、『おうちに連れてこれたら、ごほうびに新作のゲーム買ってあげる』って言われたの!」
ツバをつけておけ。家に連れ込め。
園児に向かって吹き込むにはあまりに俗物的で、戦略的な言葉の数々。
俺は開いた口が塞がらなかった。
幼稚園児の熱烈なアプローチの裏には、純粋な好奇心だけでなく、母親たちのどす黒い……いや、切実な野望が渦巻いていたのか……
この子たちは、親から派遣された小さな工作員ってか。
「あ……っ!」
サキちゃんは急に両手で自分の口をバッと塞いだ。
その顔がみるみる青ざめていく。
「ど、どうしたの?」
「いっちゃダメだったんだ……! ママに『これはふたりだけのヒミツよ』って言われてたのに……!」
涙目になりながら首を振る。
「たつやくん、いまのナシ! わすれて! じゃないとゲームかってもらえない!」
必死に懇願する姿を見て、俺は深い闇を覗いた気分だった。
やはりこの世界、狂っている……
幼稚園児にそこまでの口止め工作を強いるほど、男という資源を巡る競争は激化しているらしい。
そして、その口止めを守り切れずに喋ってしまう子供の無邪気さが、逆に事の深刻さを浮き彫りにしていた。
「うん、わかった。ボク、なにもきいてないよ」
「ほんと!? よかったぁ~!」
安堵して笑うサキちゃん。
だが俺の目は笑っていなかっただろう。
教室の隅で気配を消している桜さんが、インカムに手を当てて小声で何かを報告しているのが見えた。
おそらく「特定児童の保護者による接触計画あり。警戒レベル引き上げ」とでも言っているに違いない。
俺は手元の積み木を積み上げながら、溜息交じりに思った。
ハーレムへの道は、想像以上に政治と利権にまみれた修羅の道になりそうだ、と。




