24 漸減邀撃作戦の可能性(5)
欧州戦線の激化によって、イギリスは手薄となりつつあった東南アジアの防衛をアメリカ太平洋艦隊に任せようとしていた。
そのために、イギリスが整備したシンガポール軍港を米艦隊の拠点として提供する意向をアメリカに示している。
当時のシンガポール軍港は、アメリカが整備したフィリピン・キャビテ軍港よりも格段に工廠能力が高く、東南アジアにおける艦隊基地としてまさに最適なものであった。
実際、史実でも日本はシンガポールとその対岸のリンガ泊地を利用しているのだから、東南アジアにおけるシンガポール周辺海域の艦隊基地としての優秀さは推して知るべしである。
イギリス側のこの提案によって、これまでアメリカの対日戦争計画の悩みの種であった日本の南洋群島をどう通過するのか、という問題が解決された。
アメリカはインド洋経由で艦隊を東南アジアに送り込むことが出来るようになったのである。
これにより、フィリピン救援もそれまでの計画よりはるかに容易に実行出来ることとなった。
インド洋経由での米艦隊の東南アジア回航は、1941年1月より具体化していく。
まず手始めに、空母ヨークタウンを中心とする空母部隊をインド洋経由でマニラに回航することとなった。
計画では、3月に太平洋よりパナマ運河を経由して大西洋に出、そこからインド洋を経由してマニラに至る予定であった。
しかし1941年前半は、大西洋におけるドイツ水上艦艇による通商破壊作戦が活発化している時期であった。
1月には独巡洋戦艦シャルンホルストとグナイゼナウが大西洋に進出して活発な活動を続けており、5月には戦艦ビスマルクが大西洋に出現する事態となった。
ビスマルクはイギリス軍によって撃沈されたものの、大西洋にはドイツ艦隊の脅威が存在すると、アメリカ側は認識するようになったのである。
結果として、大西洋方面への戦力引き抜きや大西洋経由ではドイツ艦隊の脅威などもあって、大西洋とインド洋をぐるっと回って太平洋艦隊を東南アジアに回航する計画は立ち消えとなってしまった。
当然、ヨークタウンのマニラ回航も行われず、彼女は一時期、大西洋バミューダ沖で偵察活動に従事しただけであった。
ヨークタウンが太平洋に戻ってきたのは、1941年12月12日。この日、再びパナマ運河を抜けて太平洋に入り、12月30日サンディエゴに到着。そこでフレッチャー提督の第十七任務部隊の旗艦となる。
つまり開戦時、米太平洋艦隊の空母戦力はエンタープライズ、レキシントン、サラトガの三隻しかいなかったのである。ホーネットが太平洋に回航されるのは、1942年3月になってからのことである。
しかも12月10日にはマレー沖海戦が発生し、航空機によって戦艦が撃沈されるという海戦史上の画期が起こる。
ますます空母戦力に不足した状況での出撃を、太平洋艦隊司令部は厭うだろう。
なお開戦時の太平洋艦隊の主要な兵力は、次のようであった。
太平洋艦隊 司令長官:ハズバンド・キンメル大将
【戦艦】〈メリーランド〉〈ウェストバージニア〉〈ペンシルバニア〉〈アリゾナ〉〈ネバタ〉〈オクラホマ〉〈カリフォルニア〉〈テネシー〉
【空母】〈レキシントン〉〈サラトガ〉〈エンタープライズ〉
【重巡】〈ニューオーリンズ〉〈アストリア〉〈ミネアポリス〉〈サンフランシスコ〉〈ノーザンプトン〉〈チェスター〉〈シカゴ〉〈ソルトレイクシティ〉〈ポートランド〉〈インディアナポリス〉
【軽巡】〈フェニックス〉〈ホノルル〉〈セントルイス〉〈ヘレナ〉ほか
【駆逐艦】多数
空母戦力以外では、先に記した日本側の兵力を大きく上回っている。
なお、戦艦コロラドは西海岸で修理中、重巡ルイビルも東南アジアからの輸送船を護衛中で史実ではそのまま西海岸に向かってしまったため、戦力には換算していない。
それでも、南方作戦に艦隊を引き抜かれてしまった日本側にとっては、十分な脅威となる兵力である。
ただし、日本側が艦隊兵力を南方作戦に引き抜かれているという点を考慮しない場合、すべての兵力において太平洋艦隊の方が日本側に劣っていると見ることも出来る。
そうした総合的な艦隊兵力を比較して、アメリカ側が当初のオレンジ計画を修正して迎撃に徹する対日戦争計画を策定したのは、決して故のないことではなかったといえよう。
故に、仮に日本が真珠湾攻撃を行わず漸減邀撃作戦を行おうとしたとして、アメリカが太平洋艦隊を当初のオレンジ計画のように太平洋を横断させてフィリピンへと進撃させるのか、これは大いに疑問である。




