友達
いつの間に、俺は寝たのだろうか。
目を覚ました時に俺の鼻孔をくすぐったのは、薬品の香り。知らない天井を見上げ、薄ベージュ色のカーテン、そして純白の毛布と視線を動かした。
「ようやく起きたか」
俺が眠るベッドの傍らで、浦野はスマホをいじっていた。俺に目配せをする様子はない。
いつもの彼らしい、塩対応である。
「ここどこ?」
「病院」
「なんで俺、病院にいるの?」
当然の疑問。
それを投げかけると、浦野はスマホから目を離して俺を見た。
「お前、殴られて気絶したんだ」
ちょんちょん、と浦野は自分の頬を突いた。
俺も、浦野のように自分の頬を触ろうとして、触る前に、寝ぼけていたせいか鈍っていた感覚が戻ってきた。
「……めっちゃ痛い」
ジンジン、と痛む頬。まもなく俺は、口の中に血の味が広がっていることに気付いた。
「口の中、切れたんだと」
「それで」
納得。
……ついで、俺は右手の平の痛みに気付いた。
「右手は?」
「カッターナイフを握ったせいだ」
「……思い、だした」
気絶する前の記憶が蘇ってきて、一瞬爽快感を覚えた。でも、頬と右手が痛くて、まもなくそれどころではなくなった。
痛い。泣きそう……。
「思い出したか?」
浦野は、ようやく思い出した俺に呆れながら、続けた。
「手の怪我は、軽井沢を襲おうとしたお前が、遅れてやってきてお前を制止しようとする水原ともみくちゃになった末に負った怪我だ」
「……え?」
「頬の怪我は、止まらなくなったお前を抑えるため、水原が殴った時に出来た怪我だ」
……え?
え、そうなの?
そんな記憶、一切ないけど。
俺の記憶では……手の怪我は、軽井沢さんを襲うとした水原とやらを止めるべく、あいつが振りかざしたカッターナイフを握った末に出来た怪我。
そして頬の怪我は、あいつが俺の妨害に腹を立てて、俺を殴った怪我。
なんで曲解されて話が伝わっている……?
いや、その理由はあまりに考える意味がない。
だってそんなの、答えは明白だから。
水原が、嘘を伝えたんだ。
……ちょっと考えればわかりそうな話じゃないか。
昼休みになって、水原と軽井沢さんは一緒に教室を出ていった。
水原の話が事実なら、一緒に教室を出ていくのは、俺と軽井沢さんになるはずじゃないか。
少なくとも、軽井沢さんのクラスの連中は、二人が一緒に教室を出ていく姿を目撃しているはず。
そうだ。あの美穂って女子は少なくとも、その認識があったじゃないか。
……その認識があった上で、その話が事実だと皆捉えたのか?
……恐らく、社会科教室にやってきた皆が見た光景は、伸びた俺と、怯える軽井沢さんと……そして、飄々とするあいつ。
その場で水原にそんな話をされたから、周りはそれを信じた?
……もしくは。
あの場にいた登場人物で、連中は頭の中で空想の物語でも描いたのかもしれない。
伸びているブサイク。
怯える美女。
そして、まるで救いのヒーローのように佇むイケメン。
そんな一枚絵を見させられて連中は……俺が悪漢だと判断し、水原がその悪漢を討ったと思ってしまったのだろう。
なんて、不条理な世界だろう。
……結局、顔か。
今日ほど、自分の容姿を憎んだことはない。
……ただ、それはつまるところ、俺を産んでくれた両親への冒涜。
俺がこの世界に生を受けさせてもらえたのは、他でもない両親のおかげ。
だとしたら、これ以上、容姿のことを恨むべきではない。
仕方ない。
仕方ないじゃないか。
……見る目がない連中と絡んでしまった、自分の運の無さを呪うんだ。
「すごい顔してるぜ」
浦野は、笑っていた。
よく笑えるもんだと、俺は思った。
「……今のは全部、水原があの場で俺達に伝えたことだ」
「そっか」
「否定しないのか?」
「しても、もうどうにもならないだろ? あれから何時間経ったか知らないけど、そういうのは最初の印象が全てだ。真実なんていくらでも捻じ曲げられる。後から何を言ったって、心象は変わりゃしない。つまるところ、俺は運が悪かった」
「……割り切り良いな、お前」
「ブサイクってのは、そうじゃないと生きづらいのさ。不条理まみれだぜ、この世の中は」
「……そうでもないさ」
浦野は、肩を竦めていた。
今の話を聞いて、不条理をどう感じずにいろと言うのか。甚だ疑問だ。
「言ったろ。今の話は全部、水原が言ったことだって。お前が気絶した後、あの場は騒然さ。そりゃそうだ。暴力行為が起きて一人気絶した挙げ句、刃傷沙汰まで起きてんだ。俺達。あいつ。ついでに集まってきたギャラリー。その間の、皆のお前を見る目は酷いもんだった。それこそ、さっきの寝取りの濡衣騒動どころのもんじゃなかった。
……今思えば、あの濡衣騒動も水原達にお前が激昂した一因に、周りは見えただろうな。
水原は、そんな大衆の前で御高説を垂れ始めた。
お前が、どれだけ愚かな行為をしたか。
自分が、どれだけ偉大な勇者だったか。
その時の皆の頭の中には、もう出来上がっていたよ。
悲劇のヒロイン、軽井沢。
そんなヒロインを救ったヒーロー、水原。
そして、悪魔のお前。
周りの皆は呟いていた。最低、だとか、キモ、だとか、死ぬばいいのに、だとか。
……そんな時だったよ。
軽井沢が、一連の騒動の録音を大音量でその場で流したのさ」
「……え?」
「水原と一緒に教室を出ると決めた時から、あいつ、自分のスマホで録音を始めてたんだと。恐らく聞けるだろう、あいつの本性を、白日の下に晒すために」
遂に、浦野は堪えきれなくなって声を上げて笑いだした。
「あの時の水原の顔は、傑作だったぜ」
しばらく笑って、浦野は優しい微笑みで俺を見た。
……そう言えば、浦野と友達になって半年近く。いつも仏頂面をしているこいつの笑顔を見たのは、初めてかもしれない。
それだけ、その時の水原の顔が傑作だったのか。
……それとも。
「良かったな、槇原」
友達である俺が謂れのない罪に問われなかったことを、喜んでくれたのか。
答えは、定かではない。
そしてその答えを、こいつはきっと俺に与えてくれないだろう。
……ただ、恐らく浦野は、俺の無実を信じてくれていただろう。
だってこいつは……俺を追いかけて、わざわざ社会科教室まで来てくれたわけだろ?
そんなの、俺を心配してくれていたから、してくれた行為以外、ありえないじゃないか。
頼れる友達に、俺は何か言わないといけないことがあると思うんだ。
「……浦野」
「あん?」
「……あ、ありがと」
適当にはぐらかすようなことばかりを言うようになってから、他人へ素直に感謝の言葉を口にすることが激減した。
少なくとも、心からこんなに、お礼を言いたいと思うことはなかった。
だから、恥ずかしかった。
浦野の顔が、直視出来なかった。
「……気にすんなよ。それより、この世の中は不条理ってお前は言ったな」
「……ぅん」
「まー、何度も悪魔のような奴に濡衣着させられかけたのは同情しか出来ねえ。挙げ句、お前の良心を利用して自分は救われようとしたあいつの行いは、罪に問われてほしいとすら思う」
「うん」
「……でも、お前には最後まで、助けてくれる友達がいたんだな」
浦野は、ふふっと笑った。
「軽井沢、水原に向かって言ってたぜ? 直前まで、カッターナイフで脅されていたような奴に向けて、鋭く睨みつけてさ。……あたしの友達を傷つけたあなたを、絶対に許さないって」
俺は、ただ黙ってその言葉を聞いていた。
「……そんな素晴らしい友達を持ったお前の見る世の中は、意外とまだ、捨てたもんじゃねえんじゃねえの?」
「……そうかも」
今、俺は思っていた。
そんな友達と……。
軽井沢さんと、話したいと。
そう言えば、告白以降、俺に異常に絡む彼女がこの場にいないことは……酷い違和感を覚えた。
「浦野、軽井沢さんは?」
「カッターにビビって転けた拍子に手首を捻挫したから、その治療中」
そう言って、浦野は病室を後にするのか、俺に背を向けた。
「多分、そろそろ来るんじゃねえの?」
その声は、いつも背後で聞いていた少し冷めたいつも通りの彼の声。
「じゃあ、後はよろしくしてろよ」
そう言って、浦野は病室を後にした。
もう一度、俺は心の中で、浦野にお礼を言った。
浦野が去ってしばらくして、俺はベッドのそばにあった窓ガラス越しに外を見た。
赤々とした夕日が、ゆっくりと沈んでいく。
恐らく、学校だったら今の時間は……ようやく放課後になった頃か。
丁度、生徒達が騒ぎ出す頃だ。
……騒がしい活力ある子供達の少ない病院は、学校に比べて酷く静かだ。
退屈だ。
……軽井沢さん、早く来ないかな。
病室の扉が、静かに開く音がした。
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