十章「決戦の文化祭」17
「うわあ…。気持ち悪い」
道行く生徒たちを見ながら聞こえない声でぼそりと呟いたのは西崎だ。
「なかなか圧巻だね」
ひとつ飛び出た頭上から見回す南城に、傍らの東堂は激しく顔をしかめている。腕には本部の腕章をつけた彼らの行き来には、周りの生徒からの注目が集まる。規約違反の取り締まるもかねているので、なにかしら後ろめたいことをしているものはささっと隠れもする。
だが、今、彼らが視界に入れているのは、違反者ではない。人がごったがえす中で混じり、揺れるボブの髪の女生徒だ。一様に眼鏡をかけている。中には女性徒ですらないものもある。
「一匹見たら三十匹って奴かよ」
「ともも東堂には言われたくないだろうね」
「気持ち悪いからさっさと終わらせよ。男三人でずらずら言っても仕方ないし。南城は東校舎。僕は西校舎。東堂は運動場でいいでしょ」
「勝手にわりふんな」
「まあ。このままじゃ効率が悪いのは確かだし」
無視された形で二人はさっさと校舎の方に向かってしまった。ひとつ鋭い舌打ちをして、東堂は怯える店内に剣呑な視線を向けつつ、歩き始めた。人ごみは嫌いで、祭り騒ぎも嫌いとあってはこの状況で東堂の機嫌を直すものはない。
ふと元々つりあがった眼が、視界のある一点をさしてさらに鋭くなった。人ごみの中にぽつんと少し落ち込む、ボブの黒髪が揺れていく。
他に低レベルな類似の中とあっては、それは間違えようもなかった。この茶番の全ての根源でもある相手と期せずして遭遇した。知らぬふりをするという選択肢は、粗暴さと紙一重の荒々しい精神の持ち主である彼にはない。
周囲の人間を有無を言わさず押しのけて。おい、と声をかけた。相手は振り向かない。足も止めない。
「友子」
肩をつかむと、ようやく立ち止まる。
「なにシカトかましてやがる」
ぐっと振り向かせた相手は、まるで無抵抗にひとつ揺れて。前髪の向こうからそっと視線を向けた。
「……!」
校舎内廊下は当然運動場より狭いが、その分、教室のスペースが使えるので必ずしも廊下にせり出す必要はない。
だが、行きかう客を呼び込まんと、巨大な立て看板やらなんやらを並び立てる店は後を絶たない。天気のせいで校舎内にいる人数が想定より多いとなっては、それが人の流れを妨げ摩擦の元にもなる。
訓告とチェックを繰り返しながら進むうちに、早くも予想より大幅に手間がかかる仕事だとわかってしまい、南城は内心で辟易した。
正直、東堂にこの役目を押し付けた方がよかった、と思うが、あれがそこまで丁寧に見るとも思えない。
どうせ連中はすでに適当に切り上げているのだろうな、と腐りながら一階を片付けて二階にまわった踊り場で、ふとその姿を見つけた。
何度か見かけた偽者とは違う。たとえボブの頭を見なくとも、また前にまわって眼鏡を確認しなくともわかる。ひそやかに自信がなさそうに歩く動きだけでもう確定だ。
「とも」
呼びかけた。相手は振り向かない。先に歩いていく。ふうん、と冷ややかに思う。そう出るか、と呟いた胸中の声には一片の温かさもない。
柔和とも言い表されることもある顔立ちの中で、光のない瞳が見やる端にボブの髪が揺れる。軽く駆けて回り込んだ。前髪の向こうに見なくてもわかる。大きな眼鏡が覆っていて。くどく他人行儀を作った。
「篠原友子さん、」
だよね?
眼鏡をつけた顔がぴくんと動いた。
面倒だなあ、と思いながら、西校舎を終わらせ本部に戻ろうとしたところで、真上に出会った。あまり表情には出ていなかったが響く硬い声に「女王様はご機嫌斜め」と書いた付箋を、西崎は頭の中に貼った。
「もう、雨だから大変だよ」
後は何も気づいていないように、けれど決して刺激しないように、廊下を共に歩く。
「でも、ぼちぼち止むかな。天気予報でも昼間でだったし」
ことさら無邪気な顔はもう素の表情よりも馴染んでいるかもしれない。人の社会において「悪気はなかった」「気づかなかった」は思う以上に効果を発揮する。悪意の立証などは突き詰めれば不可能と、法すらも保障する。
だから西崎はいつも無邪気な顔をするのだ。
隣の真上は察知しているのか、してもそれを気にかける気分ではなかったのか、ほとんど無言に近い状態で歩く。行く先に南城がいるのに気づいたのは西崎が先だった。
「まだ終わらせてないのかな」
階段付近に立っている南城の、その長身が隠していた向こう側にいる人物に、呟いてから西崎も気づく。
「篠原さん」
気づいた真上が名を呼ぶ。妙に硬い声だ。
「ほんとだ」
真上のそれに少し追求したい気もしたが、触らぬなんとやらだと思い直してのんきそうに近づいた。
「ともたーん。もどきいっぱい見ちゃったよ」
そこで南城の表情のおかしさに気づいた。横に立つ彼は目を見開いて見下ろしている。
またあの凶暴性が出たのかと思っていると、真上もそばに来た。先ほどは少し強張っていた顔がほどけて、うつむきがちのボブの少女をじっと見つめる。
「……? 篠原さん、よね」
どこからどう見てもそうだ。そこにいるのは篠原友子だ。彼らのうちにあり、そして離れて敵対した。その事実が信じられないような内気で自信のない少女。
なにを、と一瞬、気をとられたところで、少女の顔があがった。ほんのわずかに首をかしげる。その仕草も、そのまま。
「違います」
声が出た瞬間、ぴくりと動いた。電子機器でも通さない限り、他人の声を偽ることは難しい。ましてや――男女のそれでは。
「……国枝くん?」
少しずらした眼鏡の向こうから、瞳が注がれる。「はい」
「――驚いた」
真上の呟きは、西崎、南城も同じだ。言われて改めて見ても、ほとんど違いがわからない。篠原友子が篠原友子のままそこにいる。
確かに彼らはほとんど身長が変わらなかった。まだ華奢なところが多い彼は体格もあまり違わなかったかもしれない。しかし、それでもその類似は尋常ではない。見つめたまま、真上は呟いた。
「さすが……」
途中でつぐむ。ハッと言葉を飲み込んだ様子を見せないようにうまく。
「これは相当、間違えられたでしょ」
相手は真面目に相手をする気はないように肩をすくめた。
「本物のともたんってどこにいるの?」
そこで相手は初めて自ら完全に篠原友子であることをやめた。馬鹿にしたように口の端を翻し、けれど軽蔑だけではない。うちに秘めた激しい怒りをのぞかせて。
「俺が、答えるとでも思ってんですか」
半瞬後に、廊下は完全に時を止めた。廊下にいた生徒達はぎょっとしたように振り向く。中には教室から出てきた者もいた。一様に度肝を抜かれた顔で、見やる先には生徒会役員の姿がある。顔を歪め、誰も平静ではない。その中で颯爽ときびすを返して去ったのは、ボブの女子制服姿の人影だった。その相手が放った「残念」の残滓響く、廊下に。
空が少しずつ明るくなると同時に、雨も弱くなってきた。銀糸のように細い雫をまだ名残惜しく滴らせてはいるが、西の空に目を向ければ雲がかなり薄くなってきているが見て取れる。雨が止むのも時間の問題だ。テントのたるみに溜まる雨水も、かなりペースが遅くなってきた、そんな中。
「いっぱい飲ませてくださーい」
まるで繁華街の暖簾をくぐるサラリーマンのような口調で、半田が靴を脱いであがってきた。こちらの事情など知らずにするりと入り込む猫のようだが、一応は客のきれを確認しているらしく「先輩も休憩ですか」と聞いてくる。
「お疲れ様」
結城がちょうど持っていたポカリを示すと、半田はありがたいです、と受け取った。
「カツラって暑いんですね」
夏じゃないからいいですけど、とコップを持つ手とは反対の手で、ぱたぱた風を送る。
「長時間つけるのはほんとは髪にはよくないんだけどね…。一度外すとセットしなおさないといけないから」
「もうちょいですから、がんばります」
「どう? 磯部先輩はまずまずだって言ってたけど」
「来てますよ。手ごたえかなり」
少なくとも注目は貰いましたよ、とむんと手を握る。
「おかげさまで僕も結構、参加券貰いましたからね」
「半田君は部外者ならひっかかると思うよ。十分女の子に見えるし」
「新しい自分を開花した気分です」鼻をそらして得意げに言う。けれどその後「でも、ちょっと半端ないですよね」
「国枝?」
「はい。もうびっくりしましたよ。女の子に見えるってレベルじゃないじゃないですか。篠原先輩ですよ」
「確かにね」
相槌を打ち、何か考えるところがあったように結城が少し言葉を切り――
「こんな言い方してどうかと思うんだけど。篠原さんって元々ちょっと人工的なところがあるんだよね」
「?」
「もっと言い方悪くなっちゃうけど「誰かが変装した後の姿」みたいな感じかな。髪だって輪郭や顔立ちをかなり隠すし」
眼鏡も伊達だし、とは心の中で呟いて。
「もちろん、体格だのなんだのはあるけど…。そういう人工的な特徴を一緒にしちゃえばさ、後は篠原さんっぽさを作るのは、ほんの些細なところなんだよ」
「些細なところ……」
「動作とか姿勢とか、小さな癖とか。ちょっとネタバレすると、俺がウィッグかぶって眼鏡つけたときも、意識して真似した」
採用して欲しかったから、とほんの少しの抜け目のなさをさらしながら微笑んで
「眼鏡とウィッグだけじゃやっぱりそこまで出ないわけ。けど、そこを意識してみると俺のこの体格でも篠原さんっぽさは出たわけだよね」
「……はい」
「だから、後はもう理解力が物言うっていうかな。どれだけ篠原さんを知ってるかにかかってると思う。本来ならほとんどの人が意識してない、もしかしたら自分自身ですらわかってないくらいの細かいところを熟知しているか」
はあー、と半田が息をつく。
「それは国枝先輩が文句なしの優勝ですね」
「うん」
「勝利インタビューでは「勝利の秘訣は愛です(キリッ」で決まりですね」
「ま、まあ国枝に限って言えばそうかな」
そこで「すみません」と女子の声がかかる。そちらを見て、結城がごめん、と言うと、半田も一気に残りのポカリを煽った。
「僕も企画発案者として、準優勝狙います」
「うん。がんばって」
靴を履きかけて、あ。と振り向いた。
「ところで本物の篠原先輩にまだお会いしてないんですけど」
半田の視線の先で、美容師は一拍おいて。
「きっと会ってるよ」
してやったりというように笑った。
「緊張してる?」
結城の問いかけは暖かい。そうすることはとても自然だと、寄り添うように響く。
「そうだよね。篠原さんは普段は化粧とかは全然だし。俺達の年であんまりメイクがメイクがって言うとちょっと遊んでるとかけばいってマイナスイメージもあるよね」
言葉以上に髪をくしけずり、よりわける手は優しさを語って。
「でもね。化粧って元々は綺麗になるためだけのものじゃなかったんだよ。お祭りとか神事とか、普段とは違う特別なときに、普段とは違う特別な自分になるためのものだったんだ。お面だって本当はそうだよね。自分の顔を隠して、別のものになったりする」
お盆の時のお祭りなんかはお面をつけることで、死者が混じっててもわからずに、お祭りを楽しめる、みたいな意味もあったらしいよ、と結城はまるで絵画を描くように十何種もの色をのせたパレットを脇の机に広げて置く。掌の甲にクリームを出して馴染ませながら
「今日は特別な日だから、特別なことをする。前に言ったよね。篠原さんは一番腕のふるいがいがあるって」
俺はずっと待ってたよ。
特別な変化を口にする、彼もまた普段とは様子が違う。気が弱く周囲の反応をうかがいがちな彼が、今は何かが乗り移るごとくに自信をみなぎらせて言葉を放つ。
「俺に任せて。君を最高の仕上がりにする。終わったら、君は別の自分になってる。でも心配しないで。それが自然だから。特別な日に特別になるようにしたんだから。焦る必要も、恥じる必要もないよ。俺に任せて。全部、俺を信じて」
――大丈夫。
一拍おいて、はい、と小さな声が紡がれる声。鏡越しに結城は一つ微笑み、クリームを馴染ませた指先をそっとなめらかな頬に触れて
「君はきっと特別な自分になれる」
人ごみの中を行く、その足取りは颯爽としていた。
時折、近くで「篠原友子さんですか」「残念」のやりとりがあがるが、あくまでも脇だ。彼女の周囲で響くことはない。
歩みは阻害されることもなく、順調に続く。ふと上着のポケットに振動を感じて携帯を取り出した。歩きながら耳にあてた携帯電話の向こうからは、時任大介の声が聞こえてくる。聞こえてくる言葉に、はい、と明瞭に答える。歯切れも極めてよい受け答えの合間も足は、しゃきしゃきと動く。短いスカートから伸びた足は、膝までひきあげた長ソックスに包まれて細いが活動的だ。
教室で展開される出店がきれて、階段が見えた。曲がって一階へ向けておりかけたとき。
「――」
小さな呼気だった。ただの呼吸に近いものかもしれない。やかましい、というほどでもないが、活気に包まれた後者の中で拾えるものではない。けれど聞こえた。
あるいは存在を感知していたかもしれない。見上げた先には、その姿全てで静を体現しているかのように動じない顔立ちがあった。彼はちょうど反対に階段をあがろうとしていたけれど、振り向いて見下ろした、そんな格好をしていた。整って、けれどそれ以上に無感動さが目立つ。左手には本部の腕章。この学校の生徒なら誰もが顔と名を一致させる、生徒会会長、北原透。
彼はじ、と見下ろした。
見上げる形の女生徒は、たくさんのヘアピンで髪を押さえつけて、無造作に見えてその実、計算されつくした髪型をしていた。前髪を大きくかきわけ、顔にかかる遊び髪がほとんどないため、顔の全面がはっきり露になっている。けれど、綺麗な富士額に透明な肌色、湧き水のような清涼感が香る顔は現れれば現れるだけ印象的だ。化粧もしているようだが、透明感と清潔感が際立つナチュラルメイクだ。
背はそこまで高くないが、身体の細さと姿勢の良さで小さくは見えない。清潔な女性らしさとボーイッシュさがせめぎあい、ちょうどいい中性のバランスを保っている。なによりも、生まれてこの方うつむいたことなどない、とばかりの堂々とした様子が彼女の独特な雰囲気を作り出すのに大きくかっている。
彼を見上げても、もう表面上は怯みを見せない。それをひとつずつ、拾うように確かめて。小さな呼気。そして、彼は唱える。確信と言うほどには意気込まず。けれど。揺るがぬことは紛れもなき事実のように静かに。
「篠原」
彼女は見上げて、そして横の手すりに小さな紙切れを置いた。それから一度も振り向かず、たん、たん、と階段を下りていった。
残されたのは、階段で平らになった手すりにそれが残っている。小さな紙切れだ。デフォルメされたボブの髪の女性徒がクリップを手に持った絵が描かれて、紙全体の可愛らしさがひどく違和感を際立たせている。
『正解。おめでとう。本物です』
紙の中のキャラクターが持つクリップに描かれたその文字を、視線が拾って。そして見やった階下にはもう、彼女の姿はなかった。




