六章「学生の本分は勉強です」4
事情を聞き終えたいそべん先輩は、なんとも言いがたい顔で開きかけた口を閉じた。そのまま、耳の上をかいて顔をしかめる。
「バスケ部は支持を約束してくれましたし、女子バスも佐倉の助っ人条件に支持くれました。他の部も」
「わーってるよ」
旗色わるし、と見た時任の補足を面倒そうに遮って
「耳に入ってる。支持集めにはいいパフォーマンスにはなっただろう。いなかった奴らの間でも評判になってるし。新聞部も記事にしてえ、って言ってる。それが目的なら、な」
う、と黙る俺たち。
「今回は竹センの勧誘だろ。事を聞いてると、竹センの心情的にはマイナスじゃねえか」
「……」
確かに。あの時は藤田の男気と佐倉さんに意識を持っていかれっぱなしだったが、記憶の片隅にある先生の様子はとても喜んで顧問になってくれるような顔じゃなかった。
無理もない。あの時の竹下先生は衆目にも、そして自分のバスケ部にも完全に置いてけぼりだった。そして目の前での勝手なやり取り。あれでほいほい顧問になってくれるほど、お人よしではないだろう。
「気乗りしない人間を動かすってのは、難しいぞ。奴が顧問ってのはメリットはあるが、労力も大きい」
いそべん先輩は切ってゆうちゃんに目を向けた。
「篠原、それでも竹先か?」
視線を向けられてゆうちゃんはうつむいた。その先の視線で、何を考えていたんだろう。小さく息を吐いて顔をあげた。
「もう少し、粘ってみてもいいですか」
時任と半田君が戸惑い顔を見合わせたのがわかる。
「……かまわないが」
「篠原先輩がそう言うなら」
ありがとうございます、とゆうちゃんが頭を下げる。
「んじゃあ、がんばってみな」
そういうわけで、また職員室に。
「バスケ部の許可もいただきました。先生、どうかお願いします」
こうして竹下先生のもとにはせ参じて頭を下げることも三回目。竹下先生は苦い苦い顔をして俺たちを見返した。
「まず、君たちは許可を得られれば引き受けてくれると言ったそうだが。そんなことを僕は一言も言っていない」
「だめなんですか?」
これは捨てられた犬バージョンだな、半田君。
「もう一度聞くよ。ざっくりと。どうして君たちは僕がいいんだ? どうしても僕じゃなきゃならないという理由はないだろう」
時任君、前と同じ建前はいらないよ、と竹下先生は釘をさした。どうして彼でなくてはならないか。実はここまでしながら俺たちの中にその答えはない。時任と半田君もそうだろう。佐倉さんの中には「なんとなくー」というのがあるかもしれないが。
「私の問題です」
――ん?
「私がこだわっているせいです。竹下先生に」
ためらいがちにでもまっすぐ、ゆうちゃんが竹下先生を見ていた。竹下先生は、うっすらと。――青ざめた。
「し、のはら」
「お願いします、先生。新生生徒会の顧問になってください」
一瞬、彼は泣き出すかと思った。大の大人なのに。先生なのに。でもすぐかきけして、あわただしく立ち上がった。
「先生」
戸口に去ろうとするその進路をゆうちゃんが塞ぐ。
「お願いします。また何か条件をつけてもかまいません。諦めたくないんです」
竹下先生はとっさに顔をそむける。でもその先で、そむけているのにそれでも見えてしまうように苦しく目をつぶって。
「……次の中間考査で全員、数学の順位を前回の半分にくりあげる」
「はあ!?」
「できなければそれでいい。それが条件だ。顧問にはならない」
ドアを閉じることもなく、竹下先生が出て行った。ゆうちゃんはつらそうにそちらを見ていたが、やがて振り向いて「ごめんなさい」と言った。
そうして今、俺たちは部室で顔をつき合わせている。若干難しい顔。とりあえず、と持ち寄った、前回のテストの成績表をおずおずと出して。
「悪いので初めに出させてください」
殊勝に言ったのは半田君。320人中214人。うん。確かに決してよくはない。
「すいません。文系なんで国語や英語はもうちょっとはいいんですが」
半田君の成績はわかっていたのか時任がノーコメントで
「国枝は?」
「俺は……」
勉強は人並みにがんばっている方だ。でも、元々の頭の良さというのがある。
「312人中105人か。まあ、いい方だな」
「俺は逆に理系だから他の方がもうちょっと落ちるな」
「篠原さんは、80番と」
ちなみにゆうちゃんは文系だ。うう。
「時任は?」
奴が持っている成績表をのぞきこむ。びっくりした。
「33番!」
成績がいいのは知っていたけど、特進クラス狙いの奴もいる中で凄い。時任は「俺も理系だしな」となんでもないように肩をすくめて
「まあ、今回の条件では自分の成績の半分だから、基本的に順位はあまり意味がないんだが……」
「でも僕、百人近く抜かなきゃなりません」
普段より元気がない声で半田君。そこでふと、俺は気づいた。まだ言っていない人がいる。
「佐倉さんは?」
佐倉さんは口をあけて明瞭に返答した。
「さーんいちいちー」
さんいちいち……311?
「――ビリッ!?」
「そうちゃん!」
頭で変換しなおしたそれに思わずあげてしまった俺。ゆうちゃんが慌てて咎めて、耳打ちする。「もう一人いるよ。312人だもの」
「いや。二年の最後は決まってるんだ。いつもテストを白紙で出す奴がいる。だから佐倉は実質ビリだ」
……いや、いやいやいや。
「佐倉さん、150人抜かなきゃいけないよ!?」
150人? と可愛く首を傾げてもどうしようもない! 頭が痛そうに時任が片頬をしかめて
「佐倉は俺が集中でしごく。数学だけしろ、お前は。どうせ他の教科だってビリだから、落ちようがなくてある意味専念しても問題ない」
容姿にあの謎の運動神経、天は二物くらいは与えてきたけど、最後の一物をごそっと奪っていった感じだ。しかし、数学で絞ったとしてもなんとかなるのか……?
正直、自分だってしんどい。50番近く繰り上げろなんて今から頭が痛い。でも、佐倉さんはほんと、どうにかなるんだろうか……。
多大な不安を抱きながら、俺たちは教科書とノートをそれぞれ広げた。
とんとん、とガラス戸を叩かれたのは、もう窓の向こうには薄影がさしている時刻だった。戸の近くには守衛さんが立っている。
「もう時間だよ」
あ、はい。わかりました。とうなずいた。半田君はぐったりしている。ゆうちゃんが時計を見ているので、俺も壁の時計を見た。遅くなったなあ、と思ったけれど、7限まであったので、勉強したのは実質二時間くらいだ。進み具合も、がんばったとは思うけれど、そこまで劇的な感じではない。しかし、うちの学校、そんなに校則が厳しくないけれど、昨今の物騒な世相も相まって、下校時間オーバーにはうるさい。あんまり遅くなっては活動停止もくらったりする。ともかく、帰る用意をしなければ。
「時任――」
そちらを見て、俺は言葉を失った。
普段は茶のみテーブル扱いの古いちゃぶ台を使っていた俺たち三人とは違い、古い机と椅子を使った独立座席に時任と佐倉さんは向かい合って座っていた。佐倉さんは鉛筆を持ってこしょこしょと何かを書いているのが、その前に腕を組んで座る時任の、その、――仁王さんみたいな般若顔。
「あ、の。時任。……大丈夫か?」
返事はなかった。苦虫を噛み潰す、ってこういう顔なんだろうか。虫を食べる習慣はないけど、応答しない横顔を見ながらそんなことを思う。半田君もおそるおそる
「えっと、部長。時間なんですけど…」
「時間?」
時任の返答は妙に静かなのにドスが効いていて。背筋が寒くなる。
「……あの、進み具合、芳しくないですか?」
「――今の進度を言ってやろうか」
底冷えするような声音。そして。
「九九の七の段が終わったところだっ!」
時任が叫んだ。火を吹かんばかりだ。ってか九九。――九九!?
え、嘘だよね、と固まる俺たちの前で佐倉さんは「しちは57ー」と戦慄の一言を言い放つ。時任が頭をかきむしる。
「せめて算数から数学の領域にたどりつけよ!」
小学校が、卒業できない。
佐倉さんの現状を前に、俺たちは何も言えずにおおう、と胸中で唸る。縦横無尽な方向に規格外な人だ。時任は頭を抱えてちょっとは休んだのか、疲労が濃い動きで腰をあげ
「居残り――が出来ないから、どっかで放課後勉する」
ゆうちゃんが時計を見てちょっと迷ったようだが、うなずいた。
「付き合います」
「お、俺も」
「僕もお供します」
言い出す俺達三人に時任は動きをとめて、うろんな目でこちらを見た。そ、そんなお前を放っておけない! 半田君も危機感を覚えたのか慌てて
「場所はどうしましょう。ファミレスとかでしょうか」
うーん。小遣いが心元ないけれど、仕方ないかな。日が暮れた今ではフードコートとかも目が厳しいだろうし。
「うちー」
ウチ?
突然、佐倉さんが関西人のモノマネをし始めたのかと思った。
「佐倉さんの家ですか?」
ゆうちゃんの言葉にこくんとうなずく。ええええ。




