逃げてもいい
林兄は「逃げるのを悪いことだと思わない」と言い残して帰って行った。
見送る後ろ姿の様子で、ポケットからスマホを取り出しているのが分かる。きっと、絶対にいつもの英語長文だ。
林兄が勉強できるのは理解力が凄いのもあるだろうけど、こうやっていつでも当たり前のように努力を積み重ねているから。
電車で一緒に帰宅するときも林兄の視線はいつもスマホにあって。
他の子のようにゲームをするとかマンガを読むとかじゃなく、必ず英文。その隣でわたしは車窓の風景を眺めたり、スマホで友達とチャットしたり、料理のレシピを検索したりだった。
「努力の差なんだろうな」
後悔しても遅いけど、正解を見せつけられた気分。だけど林兄との差に気付いても落ち込まなかった。
逃げるのは悪いことじゃないって言葉は、林兄の経験から来たものだろう。
中学の時、そうやって林兄は転校してきたんだ。
家族全員で引っ越しをして、林弟も友達との繋がりを捨てて一緒に転校してきた。
林兄は自分のせいでって思ったんだろうな。そう思うことで家族が悲しむことも経験したのだろう。
だけど逃げてたどり着いた今をまっすぐに進んでいる。家族が与えてくれた環境の中で前だけを見てるのだ。
「なんか……かっこいい」
林兄をこんなふうに思うなんて初めてだった。
とっつきにくい印象が強いし、まわりのことなんて見てないように感じるけど、本当はよく見てるんだなって気付かされた。
林君のお母さんが言ったように、彼は硬くてとっつきにくいけど努力をする人だ。自分の性格が硬いって分かってて、まわりに合わせようと努力した人。
そこで駄目になった経験がある人。
逃げるのは悪くないって、先生や友達に言われても上辺だけでしか聞けなかったと思う。
だけど林兄は自分の経験からそう学んでわたしに教えてくれた。無視するんじゃなくて、わたしの変化に気付いて、口に出して指摘した。
いつもは無口でこっちを見もしないのに。
それからわたしはもう一度よく考えた。
英文が壊滅的な以上、通える範囲での国公立は無理がある。県外の国公立ならどうにかなりそうな大学はあるけど、やっぱり陸斗と離れるのは嫌だった。
陸斗のせいじゃなくて、わたしが陸斗と離れるのが怖い。
家から30分の私立はランクが低いのもあるけど、特別学びたいと思えるものがない。ただ距離で選んだだけの大学。
そこでふと思ったのが看護師になることだった。
一生の資格だし、常に人手不足らしいからどこでだって就職できる。
とても大変な仕事だし簡単じゃないけど、林兄が医者を目指していると知ってから、看護師もいいなと頭をよぎった事があったのだ。
医療に従事することで、陸斗に何かあったときに役に立つかもしれないとも考えた。
だけどわたしの頭じゃ国立の医学部看護学科は到底むりで。でも調べたら1時間ちょっとで通える距離に私立の看護大学があった。
苦手な英語は重要視されてなくて、レベル的にも無理な状況ではない。
わたしは国立に向けての勉強をしつつ、看護大学への進学を一番に考えるようになった。
そうしたら不思議なことに、夏休みを過ぎる頃には英語の実力がぐんと上がっていた。志望の国立は無理なままだけど、苦手な英語が改善されたことで気持ちがとても楽になった。
夏休みの期間中、陸斗が家事と料理の全部を受け持ってくれたのもあったと思う。
陸斗から「家のことは俺がやるから」って言われた時は、わたしはできない子なんだと落ち込みかけたけど、「その代わり、来年は俺が受験だから姉ちゃんがやって」とのことだったので甘えた。
お陰で自宅ではなく、予備校でビデオ授業を受けた後に自習をして、分からないことは補助の先生にすぐに確認することができて勉強が捗ったし、ストレスもかなり軽減された。
下校時の電車内で、隣に立ってスマホを見ている林兄にほんの少しだけ近寄る。
これまでの距離よりもほんの少しだけ近くに立って、同じくスマホを手に英文を開いた。




