第95話 エピローグ ジプシー
彼女が、――高橋麗香がもう一度、たとえ真夜中になってでも、必ず俺のところへ訪れると思っていた。
特別な術が使えなくなって、普通の人間になったとしても、絶対に俺の前へ現れると考えていた。
ところが、こなかった。
京一郎のいうところの「女」というものが、わかりかけてきたと思った俺の勘。
外れたのだろうか?
一晩寝ずに待っていたが、次の日の朝、俺は午前中の授業を休む連絡を職員室にいれて、彼女の家へと向かった。
驚いたことに、俺を出迎えた彼女の母親は、彼女が普通に登校したと告げた。
詳細を聞くと、俺の予想通り、昨日の夜にひとりで帰ってきて部屋に閉じこもっていたらしい。
そのあと、夜中に部屋から飛びだし家を抜けだした気配に、家の者が心配していると、彼女を抱きかかえた親切な男性が、道で倒れていたと連れてきたそうだ。
その送ってきた人物は、ここからはそう遠くない大学の医学部の学生証を見せたらしいが、お礼をいう暇もなく、すぐに帰ってしまったらしい。
次に目を覚ました彼女は、能力を失っていた。
そして、俺に関する記憶だけが、きれいに抜け落ちていた。
しかし、日常生活には不都合がなく、彼女自身も違和感を持っていない様子だったので、今日は本人の希望で休まずに登校させたと母親は告げた。
そんなに都合のいい記憶喪失が、あるはずがない。
だが、実際に彼女は普通の日常生活を送れそうな様子だと、俺は、彼女の母親から感謝をされた。
催眠術という能力を利用して雑誌のモデルもしていたであろう彼女が、能力を失ったいま、どう変わっていくかは予測がつかない。
だが、ただ見守るしかないだろう。
俺は、納得がいかない気分だったが、これ以上は手のだしようがなかった。
学校へ向かう途中、ふと俺は、文化祭のときにもらったままで未開封の手紙を思いだした。
高橋麗香の強烈な想いによって、今更だが気づかされた。
それぞれ一通ずつに、いろんな人のいろんな想いがこめられているであろう、手紙。
かなりたくさんあったが。
野郎からの手紙もいくつか混じっていたが。
一通ずつ、読んでみようか。
どれだけ時間がかかるかわからない。
いままで、他人の感情というものに無関心だった俺には、精神的に厳しいかもしれない。
しかし、どの手紙にも返事はださないにしても、俺はひとつずつ、想いを受けとめていくべきなのかもしれない。
「ジプシー!」
登校したあと、俺は職員室の担任のところへ最初に顔をだした。
病弱のフリで時々学校を休むが、トップクラスの成績とまめなフォローが、担任の心証を良くしている。
そして、職員室からでてきて、ちょうどドアを閉めたとき、渡り廊下の向こうから、ほーりゅうが手を振りながら俺を呼んだ。
「昨日の今日だから休みかと思っちゃった。でも授業中、窓から校門を通るジプシーが見えたから、迎えにきちゃったよ」
無邪気にそう言ったほーりゅうに、俺は呆れた顔を向ける。
「おまえ、窓の外ばかり見ていないで、ちゃんと授業に集中しろ」
そう口にしながらも、わざわざ迎えにきてくれた彼女に、悪い気はしない。
並んで教室へと向かいながら、ふと、俺は隣を歩くほーりゅうを見た。
そういえば。
今回、ほーりゅうを私事で巻きこんだうえに、大変な思いをさせてしまった。
そう考えたら、なんとなく口から言葉がこぼれでた。
「ほーりゅう。今回は、俺のことで巻きこんで悪かった。お詫びというわけではないが、なにかひとつ、おまえの希望を聞いてやるよ」
「本当?」
ほーりゅうが、驚いたように聞き返してきた。
「本当になんでもいいの? 制限なし?」
彼女のその言葉で、急に俺は思い当たる。
無制限にいうことを聞くなどといえば、こいつのことだ。
また文化祭のときのような女装がみたいなどと口にしかねない。
俺は条件を考えた。
今回の事件のキーワードは、京一郎曰く「女」だったか。
「ただし、女らしい希望をしろ。それが条件だ」
「え~!」
なにそれ~とつぶやきつつも、ほーりゅうは真剣に考えこむ。
どうせ、前に行った喫茶店のパフェをおごれというくらいのことだろうと思いながら、俺は彼女の言葉をゆっくりと待った。
しばらくして、思いついたらしいほーりゅうが口を開いた。
「――わたし、ジプシーのピアノが聴きたいな」
予想をしていなかった思わぬ言葉に、俺は、唖然とほーりゅうを見つめた。
無邪気な顔で、ほーりゅうは、俺の顔をのぞきこんでくる。
「ジプシーってピアノ、弾けるんでしょ? 夢乃に聞いたんだ。ピアノが聴きたいだなんて、女の子らしいじゃない? 条件に合ってるよね」
たしかに俺は、印契をすばやく結ぶ指の練習も兼ねて、従兄弟のトラと一緒に、昔からピアノを習っていた。
練習に没頭すれば、ほかのことを考えなくてもいいという利点も俺にはあったため、嫌々習っていたトラよりも、熱心に練習をした。
――だが。
「曲。なにかリクエストはあるのか?」
そうつぶやくように口にする俺へ、ほーりゅうは決めていたように、すぐに返事をする。
「わたし、『幻想即興曲』が聴きたい!」
よりにもよって、ショパンの幻想即興曲か!
たしか中学のころ、つまずかずに弾けるようになるまでに半年、そのあと納得できる仕上がりまで、さらに半年かかった曲だ。
「――おまえ、その曲はCDを貸してやるから」
「え~! やっぱり生演奏で、ジプシーが弾くところを眺めながら聴きたいな」
とんでもない要求に思えた俺は、頭を抱えたい気分になった。
だが、こちらから言いだした約束は約束だ。
仕方がない。
「わかった。弾いてやる。ただし、最近はピアノに触っていないから、指が思い通りに動くかどうかわからない。しばらく練習期間がほしい」
「うん、わかった! 約束だよ。絶対、忘れないでよ」
そう返事をしたほーりゅうは、嬉しそうに、屈託のない笑顔を俺に向けた。
この一連の出来事を思いださなくなったころ、繁華街に並ぶ小さな書店の店頭で、俺は平積みにされた、本日発売の札の下にある雑誌を手にとった。
あまり興味のないジャンルでも、知識や情報を増やすためと割り切って、俺はなんでも見るし読む。
お笑い芸人のテレビ番組も観るし、人気のモデル大集合! などという文字の躍るページも顔と名前や個人データを頭に叩きこむという面白味のない目的で、次々とページを繰る。
最近の女子高生に一番人気らしい東条ツバサというモデルと、以下に続く数人の男性モデルの座談会方式の記事のあと、女性モデルの個人データ一覧表があった。
そのなかの高橋麗香の名前のあとに、以前の近寄り難さが和らぎ同年代女性の支持率上昇の現役女子高生モデル、と記されてあった。
俺は、雑誌を閉じて店頭の山に戻す。
そして、夕方の慌ただしさを増した街を歩きはじめた。
しばらく歩いていくと、前方からこちらへ向かってくる女子高生集団に気がついた。
五人ほどが固まって歩いている。
楽しそうな笑い声と絶え間ないおしゃべり。
その中心で、ゆるく巻かれたロングヘアーに、きれいな二重の瞳が印象的な少女が、ひときわ目立っていた。
楽しそうに友人と話をしながら動いている彼女は、先ほどの雑誌に載っていた写真よりも、活き活きとした華やかな印象がある。
その女子高生集団とすれ違うとき。
一瞬、俺と彼女は、目が合った。
彼女は俺に向かって、鮮やかに微笑む。
だが、誰にでも向ける表情なのだろう。
見知らぬ者同士と同じように、すぐに視線は、お互いの顔からそれる。
そのまま、先ほどと変わらぬ笑い声とにぎやかな会話を背に受けながら。
俺は顔をまっすぐ前に向け、ゆっくりと歩き続けた。






