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キスメット 【第7章まで完結】  作者: くにざゎゆぅ
【第三章】サイキック・バトル編 『ジプシーダンス』
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第94話 麗香

 月もでていない真夜中だった。

 時間が遅いため、もう窓からの明かりもない住宅街を、わたしは胸前に大きなハンカチで包んだものを抱えて走る。

 ところどころ、街灯だけがぼんやりと道を照らしている、人のいない街。

 わたしのかすかな足音だけが響く。




 負けた悔しさから、最初は考えた。

 あの女を殺したい。


 そう思っていても結局は、力も、もしかしたら彼への想いも、わたしより彼女のほうが強かったことになる。

 そして、いまのわたしには力が残っておらず、もう闘うすべがない。


 それに、彼女がいなくなれば、彼は悲しむだろう。

 そして、彼女を一番想っているときに彼女を失うとしたら、彼の中に残る彼女の影にも、わたしは勝てなくなってしまう。


 わたしは、彼女を殺せない。

 ならば、――彼を殺してしまおう。


 わたしに殺されるなら、彼は、その瞬間は、きっとわたしだけをみてくれる。

 わたしだけを瞳に焼きつけて、そのあとは誰も、彼女でさえも、彼の瞳には映らない。


 それとも、わたしが彼の目の前で彼のために死んだら、わたしはずっと、彼の心のなかにいることができるだろうか。

 たとえそれが憎悪であろうと。

 わたしは彼の心のなかに、ずっといることができるはずだ。




 わたしはいま、死に囚われている。

 もしかしたら、自分の考えに酔っているのかもしれない。

 でも、そう思いついてしまったから。

 わたしは急いで、彼が待っている彼の自宅へ向かって走っている。




 もう少しで、その先の角を曲がったら、彼の家が見える道へとさしかかったとき。

 ひとつの影が、わたしの視界に入った。

 街灯の逆光でよく見えないけれど、そんなに大柄じゃない輪郭。


 一瞬、体格から彼かと思ったけれども、まさか、ここでわたしを待っているわけがない。

 そう考えて、よくよく瞳を凝らしてみる。

 すると、それはいままで会ったことのない男の子だった。

 彼は、こちら側を向いて、道の真ん中に立っている。


 目的が目的なので、わたしは、それ以上目を合わせないようにしながら、小走りに通り過ぎようとした。

 でも、すれ違う瞬間。

 その人影は、ささやくような声で、わたしに告げた。


「いまから、人を殺しに行くような眼だ」


 ぎくりと、わたしは足を止める。

 そして、もう一度、その正体が誰なのか確かめるために、振り向こうとした。


 ――振り向こうと思うのに、身体が暗闇に絡めとられたかのように動かなかった。


「きみが殺したいのは、彼女のほう? それとも奴?」


 なぜ、そこまで知っているのだろう?


 彼の声が、先ほどとは違って明瞭に響く。

 おそらく振り返り、いまはわたしのほうを向いて話しているに違いない。


 この肌寒い季節に、冷や汗の流れる背中へ、まっすぐに突き刺さる鋭い視線。


 そんな彼は、笑いが滲んだ声で続けた。


「でも、奴は殺させないよ。奴を生かすのも殺すのも、俺が決めることだから。他人には指一本、触れさせない」


 近づく気配。

 身体が動かないわたしは、恐怖で力が抜けて、手に持っていたものを取り落とす。

 鋭利なナイフが包んでいたハンカチから滑り落ちて、アスファルトに当たり跳ねあがった。

 響く高音。

 それでも、わたしの身体の自由は戻らない。


「催眠術、もう、使い方がわからなくなったんだ? 中途半端な知識で、あれだけ派手に乱用したんだもの。当然の結果だね」


 彼が、ゆっくりとわたしの前に回りこんできた。

 そして、真正面からわたしの目をのぞきこむ。


 吸いこまれそうな、きれいなダークブラウンの瞳。

 けれど、どんなに近くても、その奥底までは深すぎて見えない。


 ああ、彼も催眠術を操るんだ。

 わたしも同じ術を使っていたんだから、瞳を見れば、それくらいはわかる。

 それも、わたしとは比較にもならないほどの、膨大な力と技術を持っている。


 わたしはいま、まだ術にかかっているわけじゃないとわかっているのに、力の格差をみせつけられ、もう抵抗する意志さえ残っていなかった。




 彼は、そんなわたしのうなじへ向かって、わたしの長い髪をかき分けながら、ゆっくりと右手を伸ばしてきた。

 ひんやりとした指先が、触れる。

 そして、徐々に手のひら全体の感触へと変わっていった。


 つぶろうとしてもまぶたが動かず、見開いているわたしの瞳を、彼はじっと見つめてくる。

 やがて、ぽつりと声をだした。


「一途な気持ちはよくわかる。だが、今回は相手が悪い」


 身動きができないわたしは、されるがままになりながら。

 ――それでも、わたしの大好きな彼と、この彼とは、なぜだろう? どこか重なる、共通する部分があるとぼんやり考える。


 すると。

 そう思った瞬間、わたしの思考を読み取ったかのように、彼は驚いた表情になった。

 けれども、すぐに笑みを浮かべる。


 ああ。

 その素敵な笑顔が。

 どこか陰りを帯びた魅力的な笑顔が。

 文化祭のときに、舞台の上の彼が一瞬だけ浮かべた笑顔とそっくりなのだ。


「この一件、俺が最後のケリを掻っ攫ったって知ったら、きっと奴は怒るだろうな。いまよりよけいに恨まれそうだ」


 声にも笑いをにじませてつぶやいた彼は、そしてようやく、わたしに別れの言葉を告げた。


「さようなら」


 自由のきかないわたしの身体は、彼の言葉を聞いたとたんに力を失った。

 まぶたが重くなり、続いて全身も立っていられないほどに重力がのしかかる。

 わたしは、ゆっくりと、彼の足もとへ崩れ落ちた。




 力が入らない。

 まぶたも開かないけれど、それでもまだ聴覚だけは働いているらしい。

 地面へ伏したわたしに、彼の独り言が海中の音のように、ゆらゆらと響く。


「心理戦はみていて面白かったが。そのあとは、こうなることが予測できるだろうに。本当に奴は、考えと詰めが甘い男だな」


 そのとき、わたしに近づいてくる別の足音を、意識の遠くで聞いた。

 そばまで寄ってきた足音は、すぐに、ホッとしたような別の男の声に変わり、わたしの上から降ってくる。


「良かった。もうあなたが、この少女を殺してしまったかと思いましたよ」


 わたしを手にかけた彼は、返事をする。


「彼女は倒すという言い方ではなく助けると言った。俺がこの女を殺してしまったら、それじゃあ意味がなくなる」

「でも我龍。あなたは用が済んだら、この彼女をこのまま放ったらかしで置いていく気だったのでしょう? あなたの後始末はいつも、私がしているのですが……」

「夏樹。貴様はそのつもりで、いまもついてきたんだろう? 貴様は好きでしているのだと思っていたが」


 その言葉のあと、たちまち我龍と呼ばれた彼の気配が、空気に溶けるかのようにその場から消えうせた。


「まあ、半分は、好きでしているのも事実なんですがね……」


 あとからやってきた夏樹と呼ばれた男の、苦笑まじりの声を聞きながら。




 わたしの意識は、本当に、音の届かない暗闇へと落ちていった。


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