第89話 ほーりゅう
――あれ?
どこも痛くないや。
壁際に座りこむ形で呆然としていたわたしは、ようやく頭が回りはじめる。
そしてジプシーが、わたしと後ろの壁のあいだに入って受け止めてくれたことを知った。
そうか。
ジプシーはたぶん、防御が間に合わないってわかったから、とっさに身体を張って、わたしが壁にぶつかるのを防いでくれたんだ。
でも、さすがにジプシーでも、いまの衝撃はきつかったのではなかろうか?
わたしはきっと、すごい勢いで吹っ飛ばされちゃったよ。
やはり彼の身体が心配で、わたしは振り返って顔を見る。
ジプシーは、そんなわたしを後ろから抱きかかえて立たせながら、相変わらずの無表情を保ってつぶやいた。
「――なるほどね。五感を使う術だから、触覚ということで、接触しての衝撃波も使えるってわけだ」
すぐにジプシーは、わたしの表情を読んだらしい。
「俺は心配ない。おまえ、彼女から直接受けた攻撃のダメージはどうなんだ?」
「あ、そうか」
麗香さんからの攻撃、直接胸もとに受けて吹っ飛んだんだ。
でも、衝撃はあったけれど、痛くない。
そして、思い当たって首にかけていた鎖を引っ張り、トップについているロザリオを取りだした。
「場所的には、たぶん制服のなかにあったロザリオに当たったんだと思うけれど」
でも、大丈夫。
ロザリオ本体にも石にも、傷や歪みもないし壊れていない。
「たしかにカディアの石の力なら、それくらいの衝撃も吸収するだろうな」
ジプシーも、石を見つめてそうつぶやく。
わたしは、自分のロザリオを握りしめたまま、前方に立つ麗香さんへと目を向けた。
彼女は、悔しそうな表情でわたしを見つめ、責めるように言った。
「そうやって、あなたは彼に、ずっと護ってもらえるわけね」
違うんだけれど。
わたしはジプシーの彼女じゃないし、今回ジプシーが護っているのは、わたしと麗香さんの両方なんだから……。とは、作戦上、口にできない。
言いよどんだわたしへ向かって、麗香さんは右手を頭上にあげると、ぎりっとわたしを見据えた。
「さあ、続きをやりましょうよ」
その台詞を聞いたジプシーが、わたしから離れるように数歩さがる。
そうだよね。
表面上、わたしと彼女の一対一の闘いなんだから。
なにか作戦を考えているのか、しばらく手をあげたまま動かない麗香さん。
力をためる時間が必要なわたしにとってもありがたいので、無言で彼女を見つめたまま集中する。
徐々に慣れてきているのか、今度はすぐに、わたしのなかで力が大きくなる。
どのくらいそのままでいたのだろうか。
急に彼女は、あげていた手を目の前までさげると、手のひらを上に向ける。
なにが起こるのかと訝しげに見たわたしへ、麗香さんは親切にも、こう告げた。
「わたし、火も扱えるのよ」
言葉とともに、手のひらの上で、炎がぼっと燃えだした。
「え? ――それって、熱くないの?」
たぶん見当違いなわたしの言葉を聞いて、彼女は苦笑する。
後ろにいるから見えないけれど、ジプシーもおそらく呆れた顔をしているに違いない。
そして、彼女は笑いながら、大きく振りかぶって言った。
「熱いかどうか、自分で確かめてごらんなさいよ」
そのまま、まっすぐ、炎の玉は、わたしに投げつけられた。
え?
もしかしたら、これってまずい状況?
慌ててわたしは両手を頭上にあげると、いままでと同じように炎の玉に向かって振りおろした。
今度は、うまい具合に力が炎へ向かって飛んでいく。
まあ、これもきっと、ジプシーの軌道修正サポートが入っているんだろうなと思うけれど。
そして、ぶつかった力は、跳ね返すというよりは力が炎と絡まり大きくなって、彼女のほうへと返っていった。
やった!
願い通りの力のラリーになる!
そう喜んだとたん、彼女が慌てたように、右手で飛んできた炎の玉を振り払った。
打ち返された炎の玉は大きくそれて、わたしの頭の上を通り越し、さらに廊下の向こうの遠くまで飛んでいった。
あれ?
彼女のほうがノーコンだったら、ぜんぜんラリーにならないじゃん!
そして、炎の玉が転がり落ちたところは、わたしやジプシーと、遠巻きに見ていた京一郎と夢乃とのあいだをわける、廊下の上だった。
炎の性質なのだろうか。
すぐに煙があがり、火が一気に広がる。
「うわっ! 結界が張ってあっても、これは俺ら全員がヤバいんじゃねぇ?」
そう叫んで、京一郎が廊下に設置されている消火器を引っつかみ、黄色い安全栓を引き抜いた。
夢乃も慌てたように、ほかの消火器を取りに走っていくのが、炎越しに見える。
「あら大変。早くケリをつけて逃げないと、炎と煙に巻かれちゃうわ」
余裕で微笑みながら、麗香さんはわたしへ向かって、今度は横に右手を伸ばす。
麗香さん、火が怖くないんだろうか?
一瞬そんな考えがよぎったけれど。
彼女のこの体勢に気がついたわたしは、また切り裂き系のかまいたちかなと思って、両腕をあげて防御の構えをとる。
たぶんジプシーも、これに対しては前と同じ防御結界を張ってくれると思って。
でも。
だから。
彼女が手を真横に振り切ろうとしたとき、ジプシーが自分の身体を両手で抱きしめて膝から崩れ落ちたのが目の端に見えてしまって、わたしは彼のほうを振り返ってしまった。
ジプシーの異変に、わたしの意識が完全に彼女からそれる。
それでも思い直して、慌てて彼女のほうに振り向いたけれど。
わたしは、彼女の攻撃から逃げるタイミングをはずした。
さすがに、これは食らったと覚悟する。
とたんに、渾身の力を振り絞り、わたしに向かって飛んだらしいジプシーに抱きかかえられ、わたしとジプシーは床へ転がった。
「痛ったぁ!」
横向きに落ちて身体を床にぶつけた痛さに、わたしは思わず悲鳴をあげたけれど。
わたしに覆いかぶさり抱きしめたままのジプシーから、なんの反応も返ってこない。
「ちょっと! いつまでくっついてんのよ。また麗香さんが誤解しちゃう!」
助けてもらったのにひどい言い方になってしまったけれど。
ささやきながら、ジプシーを押しのけようとしたわたしの右手が、生温かいものに触れる。
驚いたわたしは、ゆっくりと自分の両手を、目の高さにあげた。
暗い廊下。
ちょっと離れたところで燃える炎の逆光になる。
ゆらゆらと、わたしの右手が黒く染まって見えた。
――な、に、これ?
そして、廊下の床上に広がりだした血溜まりに気がついたわたしは、叫び声をあげた。






