第65話 ジプシー
自宅から俺が通っている高校まで、普通に歩くと30分ほどかかる。
電車では一駅分。
途中にはバス停もあるが、あえて普段から徒歩で通っている。
いつも途中まで一緒に歩いて帰る京一郎は、今日はバイクで移動だったために別行動だ。
ほーりゅうと夢乃も、クラスの女子と甘味処に寄ると言っていた。
予定もない俺は、ひとりでぶらりと歩いて帰る。
ようやく姿を現した敵。
だが、俺は「敵」と呼んだが、京一郎は「女」だと言った。
当然、性別だけの意味じゃない。
俺には、まだ京一郎の言葉の意味がよくわかっていないが、勘のいい奴のことだ。
なにか思い当たる節があるのだろう。
そして、「敵」である彼女。
彼女が首謀者としてひとりだけなのか、あるいは、複数の仲間がいる組織であれば、どの辺りの立場の人間なのか。
片鱗が見えたとはいえ、確認したいことはまだまだある。
そんなことをつらつら考えながら歩いていると、当の「敵」である高橋麗香が、先の道の壁に背をあずけて寄り掛かり、ひとりで立っていた。
俺のほうを、じっと見つめている。
なるほど。
もう姿を隠す必要もないから、堂々と待ち伏せか。
何度も同じ手が通用するとも思えないが、朝と同じ防御結界でも、ないよりはましだろう。
そう考えた俺は、眼鏡のブリッジに左手の中指を添え、すばやく真言を唱える。
それから俺は、必要以上に彼女の眼を見ないように無関心を装って、さっさと通り過ぎようとした。
「聡くん、今朝は頬を叩いたりしてごめんなさい」
彼女はそう口にしながら、俺の横に並んで歩きだす。
「付き合いは断ったはずだ。それに、下の名前を呼ばれるのは好きじゃない」
突き放すように、俺はそっけなく言う。
「じゃあ、友だちが呼んでいるように、わたしもジプシーって呼んでいいですか」
いきなり通り名で呼ばれるのも、本当は気に入らない。
この場合は苗字だろうと思ったが、そう口にしたことで了承を得たとばかりに、この女に苗字を連呼されるのも、なんだか気に食わない。
無視することにして、俺は歩調を速めた。
本当は、正体のわからない人間に背中を見せたくはないところだ。
だが、なんらかの攻撃をされたら、最初の一撃くらい意地でもかわしてやる覚悟で、あえて彼女の前を歩く。
「わたし、文化祭の舞台であなたを観たときから一目惚れしちゃったんです。あと、あなたが道で女の子を助けたこと、あったでしょう? あのときも偶然近くで見ていたんですよ」
その言葉に、俺は内心驚いた。
――へぇ!
ほーりゅうにも、女の勘ってのがあったんだ。
その辺りは、あいつの予想通りだったわけか。
「何度か、学校帰りに待ち伏せしちゃったんです。遠目からでも会いたいなって。――まだわたしが、どんな女の子かも知らないでしょう? どうかこのあと、話だけでもしませんか?」
彼女からの誘いを、俺は無言を貫くことで断った。
本当は、この機会になにかしら情報を引きだす方向へ持っていくべきなんだろうが。
じつは先ほどから、口を開く気が起こらなかった。
なぜだろう?
――俺の身体の奥底にある勘が、彼女との会話を拒絶するように警告しているのだ。
「やっぱり、彼女がいるんですよね。――わたしは自分の学校の文化祭帰りだったんですけど、土曜日もあなたを見かけたんです。女の子とふたりで一緒にいるところを。普通、彼女じゃない人と、キスなんてしないですよね」
やけに手の内を明かすようにしゃべってくるこの女の目的は、なんだろう。
――いや。
それ以上に、俺は彼女の声を、これ以上聞きたくもなかった。
この彼女の話をやめさせろとばかりに、身体のなかの警鐘の音が、どんどんと大きくなって鳴り響く。
俺の背に、冷たい汗が流れた。
そして、俺は突然、この警告の意味に気がつく。
だが、そのときにはもう、彼女は術を発動していた。
「ジプシー。立ち止まって、わたしのほうを向きなさい」
突然の命令に、俺は、言われた通りに足を止める。
そして、後ろから制服の袖をつかんだ彼女のほうへ、ゆっくりと振り向いていた。
――この女?
眼だけではなく、声でも術を発動できるのか!?
しかも、おそらく意味のある言葉ではなく、ただの「声」だけで!
おとなしく振り返った俺へ、彼女は少し背伸びをしながら、ゆっくり顔を近づける。
まったく無抵抗の俺の様子に、彼女は、満足そうな笑みを浮かべた。
そして、彼女は、瞳を閉じて唇を重ねてきた。
やわらかい感触と、かすかに漂うフローラルの香り。
角度を変えて、ゆっくりと触れ合わせるだけのキスを何度か重ねてきた彼女は、吐息がかかる距離でささやいた。
「口をひらいて」
俺の意思に関係なく、俺が引き結んでいた口もとをゆるめたとたんに、彼女はするりと舌を絡ませてきた。
それは、それほど長い時間ではなかったはずだ。
ふいに、辺りに響き渡った突然の爆音に、彼女がビクッと身体を震わせて飛びのいた。
ギリギリかすめるようにして、俺と彼女のすぐそばを、後ろからきた黒いバイクが追い抜いていく。
爆音と同時に術の束縛から解放された俺は、通り過ぎざまに放られたフルフェイスヘルメットをつかみ、バイクのあとを追って走りだした。
彼女が慌てて言葉を発する前に、急ブレーキをかけて停まったバイクの後ろへ、俺はヘルメットをかぶって飛び乗る。
すぐさま走りだしたバイクの重力に振り落とされないように、俺は京一郎の腰に両腕をまわした。
遠ざかる風景を映すミラーのなかで悔しそうに唇をかむ彼女の顔が、一瞬映って消えた。






