第100話 夢乃
「もう、桜井さんったら、信じられない!」
わたしは、彼の慌てた顔を一瞥すると、自分の鞄を引っつかんで車外へでる。
そして、ドアを外から勢いよく閉めた。
「お嬢さん、困ります! ぼくが怒られちゃいます」
情けない彼の声を尻目に、わたしは車から離れて道路を見渡した。
父から話を聞いたのは昨日。
日が変わるまえに、ジプシーと京一郎は現地へ向かった。
だからわたしも一刻も早く現場へ着きたいために、朝一番に警視庁から備品を受け取り、車を走らせてもらったのに。
桜井さんは、警視庁の刑事なのに、性格的には臨機応変という言葉に程遠い。
こんな場所で車のエンストを起こし、立ち往生するとは。
彼もわたしもついていない。
「あとから来て。現場のホテルの場所はわかっているから、わたしは先にそちらに向かって歩いていくわ。桜井さんは、わたしたちの泊まるホテルにチェックインしたあとで、わたしに連絡してください」
そう告げると、彼の返事を聞かないまま、事前に叩きこんでいた地図を頭のなかで広げる。
エンストを起こしたこの道は、おそらくホテルの裏に位置する、ちょっとした小山を走る道のはず。
真新しいホテルに合わせて作られた綺麗なアスファルト舗装の道だ。
車が通るには、このような道を通らなければならないが、歩くなら舗装されていない坂道をおりて横切れる。
ホテルは眼下に見えているし、近道として行けそうだ。
ガードレールをまたいで越えると、朝の露草の雫が、わたしの黒いパンツスーツの裾を濡らす。
けれど、わたしは構わずに、草を分けて歩きだした。
地図で傾斜のきつさは確認したはずなのだけれど、想像以上の急な坂に苦戦する。
体力には自信があったのに、近くの枝を持ちながら坂をくだっていたとき、つかんでいた枝が折れた。
その瞬間、足をとられて坂を滑ってしまう。
滑り落ちた先の平らな地面に、どうにか足から着地したけれど、バランスを崩してそのままわたしは転んでしまった。
「あ~あ。ドジっちゃったか」
誰もいないけれど、声にだして言ってみる。
最近は雨も降っていなかったらしく、服は、叩けばほこりが落ちる汚れだけで済んだようだ。
ホッとしながら立ち上がろうとしたとき。
右足首に激痛が走った。
「痛っ!」
右足に力が入らず、立ち上がれない。
気が動転したわたしは、血の気が引くのを感じた。
先を急ぎたいのに。
とりあえず落ち着こう。
まだ早朝で天気もいい。
自分の居場所は把握している。
自分が時間を気にしているだけで、特別支障をきたすものはない。
そう考えた瞬間、近くで落葉を踏む音がした。
「誰!」
わたしの気色ばんだ声に反応したように、木陰からゆっくりと、ひとりの男が姿を現した。
「こちらで音がしたようなので。どちらかと言えば、わたしのほうがこんなところに女の子がいて驚いているのですが」
そう口にしながら、その男はわたしのほうへと近づいてきた。
わたしは、彼の姿をすばやくチェックする。
年齢は、二十代半ばだろうか。
細身で、身長は百八十あるかないか。
カジュアルなジャケットをはおった、一見印象に残らない色の地味な服装だ。
女性に間違えられそうとまではいかないけれど、線の細い整った顔立ちと穏やかな表情を浮かべている。
背に長く伸ばした黒髪をゆるく束ねており、わたしのほうへ身体をかたむけたとき、その髪が肩口からこぼれ落ちてきた。
――綺麗な男の人だ。
わたしは、一瞬脳裏に浮かんだ関係のない感想を、急いで打ち消す。
そして、立ちあがれずに警戒をしているわたしのそばへ片膝をついた彼に、繰り返し訊いた。
「あなたは誰? なぜここにいるのかしら?」
彼は、ふわりと微笑んだ。
「怪しい者じゃない。そこに見えているホテルの宿泊客です」
そして、彼は座りこんでいるわたしの足に、手を伸ばそうとした。
慌ててわたしは、痛む足をひいて隠す。
その様子を見た彼は、わたしの顔をのぞきこんだ。
「私は大学で医学と薬学を学び、その分野にはかなり精通していると思います。この場所にも、薬草のことを考えながら入ってきたのですが。いま、あなたの怪我を診るくらいはできると思いますよ」
そう言って、彼はわたしの足に再度、繊細そうな長い指を伸ばしてきて触れた。
わたしは、彼の表情を間近で見る。
たしかに、怪我を確認する医者のような顔つきだ。
医学を学んでいると言う彼は、小児科の先生が似合いそうだと考える。
ぼんやりと彼の顔を眺めていると、わたしの足から視線を上げた彼の視線とぶつかった。
わたしは慌てて視線をそらす。
薄っすらと笑みを浮かべた彼は言った。
「軽度の捻挫だけのようですね。靭帯の断裂も脱臼も起こしていないようだし、これなら骨には異常はない。テープで固定して冷やせば腫れもひきますよ」
そして彼は勝手に、わたしの膝の後ろと背中に腕を回して抱えあげた。
驚きのあまり声のでないわたしに、彼は告げる。
「無理をして動かさないほうがいい。痛めた足では、ここはくだれない。私が病院に連れて行ってあげましょう」
慌てたわたしは、ようやく言葉を口にした。
「いいえ! 病院じゃなくて……。あの、あそこに見えるホテルに知り合いがいるから」
「そうなの?」
彼の瞳が一瞬光ったように見えたのは、光の加減だろうか。
はっと見直したけれど、彼は微笑を浮かべたまま言葉を続けた。
「それじゃあ、このまま下のホテルまで連れて行ってあげましょう。私もちょうどホテルへ戻ろうと思っていたところだから」
「でも、ちょっとこの状態は……」
身長があるせいか、かなりの高さで抱えられている上に、足場の悪い坂をくだる。
言葉とは裏腹に、わたしは思わず両腕を彼の首にまわして、しがみついてしまっていた。
そんなわたしを見て、彼はいたずらっぽい表情を浮かべる。
「知り合いがいるって言いましたよね。誤解されたら困るのかな? 下に着いてホテルのそばまで行ったら、人に見られる前におろしてあげますよ。それなら大丈夫でしょう?」
そのまま彼は、くだり続けながら口を開く。
「自己紹介、まだでしたね。私は島本と言います。大学院に籍があって、今回は薬の研究をしながら友人とふたりで、そこのホテルに昨日から泊まっているんですよ」
薬・研究・昨日。
わたしのなかに、たちまちキーワードが入ってくる。
――薬と細菌というキーワードは、つながりのあるものだろうか。
まさか、こんなに早く、目的の人物が見つかるわけがないと思うけれども。
わたしは、まだ正体のわからない彼に、こちらの情報を与えないほうが良いだろうと判断した。
無難に、名字だけ告げることにする。
「わたしは、佐伯と言います」
それだけしか口にしなかったわたしに、島本さんは、うっとりするような笑みを浮かべてみせながら、器用に坂をくだっていった。






