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WWⅡ 陸に上がったアシカ



WWⅡ 陸に上がったアシカ


 1944年夏、ヨーロッパ高緯度地域特有の深い青空を背景に、ドイツ空軍機の大群がドーヴァー海峡を越えてイングランド南部の諸都市を爆撃していた。

 アドルフ・ヒトラー総統はしぶとく抵抗を続けるイギリスを降伏させるために、英国本土に上陸してロンドンを占領するしかないという最終的な結論に達した。

 上陸作戦を成功させるには、英仏海峡の制海権を確保せねばならず、そのために制空権の確保が必須であった。

 そして、その試みは1940年にイギリス空軍の活躍で頓挫したシナリオだった。

 再びルフトヴァッフェの挑戦を受けることになったロイアル・エア・フォースにかつての面影はもうなかった。

 日独伊仏海軍の通商破壊戦で、空軍力の基盤となる工業生産が燃料と原材料不足で機能不全に陥っていたからだ。

 さらにドイツ空軍はイングランド再攻撃に際して、これまでにない多彩な新兵器をふんだんに投入していた。

 その嚆矢が、報復兵器1号(Vergeltungswaffe 1)、所謂V-1飛行爆弾である。

 V-1は1944年の夏から大量に使用され、ドーヴァー海峡対岸のカレーから20,000発以上がロンドンに向けて発射された。

 V-1は今日の巡航ミサイルの始祖的な存在である。

 だが、パイオニアの常として、その性能は非常に低く、大都市への無差別爆撃にしか使用できないものだった。

 とはいえ、V-1の製造コストは安価で、その迎撃にイギリス空軍が投入したコストを考えると非常にコストパフォーマンスに優れた兵器と言えた。

 V-1は陽動目的で大量発射され、その迎撃にRAFが駈けずり回っている間に本命の有人爆撃機による作戦が行われた。

 ドイツ空軍の爆撃機部隊の主力は、Ju88の改良型であるJu188やDo17の改良型であるDo217だった。

 この他に漸く完成した4発重爆撃機He177がイングランド南部に襲来した。

 なお、He177は42式陸上攻撃機と同じ結合エンジンを備える一見双発に見える四発爆撃機である。

 ただし、急降下爆撃という4発機にはおよそ実現不可能な要求仕様により、エンジンの信頼性の低さも相まって、He177は実用化に多大な時間と労力を費やすことになった。

 量産化されたHe177は、一応、急降下爆撃が可能とされていたが実際に急降下爆撃が行われたことは一度もなく、ダイブブレーキが装備されたこともない。

 これらの爆撃機を護衛するのは、日本から輸入したハ240(二段二速式過給器付き)を備えたMe109KやFw190D型であった。

 日本製の100オクタンガソリンで動くこれらの戦闘機はイギリス空軍自慢のグリフォン・スピットファイアとも互角に戦える高性能機であった。

 さらに水メタ噴射装置を装備したハ340(2,050馬力)も日本から輸入され、究極のレシプロ戦闘機として名高いTa152の心臓として使用された。

 連日、イングランド南部を爆撃するドイツ空軍であったが、北米大陸で日本空軍が常用する1,000機爆撃に比べればその規模は遥かに小さなものだった。

 四発のHe177の装備機は最盛期でも1,000機を越えておらず、爆撃機の主力は双発機であった。

 北米の諸都市に対する無差別爆撃に比べれば、双発のJu188やDo217によるロンドン爆撃はかわいいものとさえ言えた。

 作戦の主力はドイツ空軍であったが、イタリア空軍やフランス空軍の姿もあった。

 イタリア空軍は日本からハ240と100オクタンガソリンの供給を受けて、ハ240を装備したMC.205ヴェルトロを大量投入してファイター・スィープを繰り返した。

 ヴェルトロは航続距離を除けば、日本空軍の44式戦闘機に比肩する性能を発揮し、スピットファイアMkⅨやP-47とも互角に戦った。

 フランス空軍は国産兵器の誇りを一時的に棚上げして、日本から直輸入したハ240搭載型の満州産P-40Jを安価に導入してロンドン上空に送り込んだ。

 満州共和国(その後、王政復古して満州王国)に残されたカーチス社の生産ラインと日本製の発動機を組み合わせたP-40Jはその高高度性能から、P-40シリーズ最強とされており、こちらもスピットファイアと互角に戦うことができた。

 伊仏戦闘機部隊の成功は、発動機さえ良ければ、飛行機はなんとでもなるという典型的なパターンと言えるだろう。

 ロンドン上空の戦いは、雪解けを待って1944年5月から激化し、7月には最高潮を迎えた。

 イギリス空軍の抵抗は激烈なものだったが、燃料不足から戦闘機よる迎撃は下火となり防空戦闘の主力は対空砲となっていった。

 これは、英国本土に備蓄された燃料が危険なまでに減少していたことが原因であり、燃料資源の枯渇でイギリス空軍は戦闘機を飛ばしたくても飛ばせなくなりつつあった。

 通商破壊戦で、イギリスは失血死に近い状態へと追い詰められていたのだ。

 独伊仏日の潜水艦オールスターに、長距離爆撃機、日本海軍の高速空母25隻まで加わって商船を狩っているのだから、もはやどうにもならなかった。

 さらに1944年ドイツ潜水艦艦隊は待望の水中高速型Uボートを戦列に加え、その陣容を著しく強化していた。

 大量の蓄電池と大出力モーターを備えたUボートXXⅠ型は、東部戦線終結後の海軍重視政策を受けて、優先的に資源や資金の割当を受けたことで開発が順調に進んだ。

 連合国軍の対ドイツ空爆もなくなったことから、生産配備も順調であり、まとまった数が1944年の春から大西洋に配置されることになる。

 この新型潜水艦は、


「奇跡のUボート」


 と称されるほど優れたものであり、今日的な潜水艦のプロトタイプとも言うべきものだった。

 また、その主兵装である魚雷も音響追尾式など、新型が実戦投入されている。

 日本海軍が大西洋に送り込んだ伊号、ロ号潜水艦は在来型潜水艦であったが、魚雷についてはドイツ海軍と同様に音響追尾魚雷を実用化に成功している。

 また、大西洋で猛威を振ったAST魚雷は大西洋でも多大な戦果を挙げており、その能力はドイツ海軍のUボート戦隊に劣るものではなかった。

 さらに潜水艦用のマイクロ波レーダーや対空早期警戒レーダー、逆探知装置などの電子戦装備は長年の研究と蓄積がある日本海軍の方が優れており、Uボートは日本製のレーダーを装備してようやく電子戦で一息ついたほどだった。

 ヒトラーは自国の電子技術産業の立ち遅れに苛立ち、軍高官を罵倒したがこればかりはどうにもならなかった。

 日本製の爆撃照準レーダーのデモンストレーションで、ベルリンの町並みが真夜中でもはっきりとマイクロスコープに映し出され、丸裸にされたときなどは、


「これはアメリカ製のレーダーをコピーしたものに違いない」


 と、事実を認めようとしなかったほどである。

 またヒトラーは日本製潜水艦に比べてUボートの損害率が高いことから、ドイツ海軍内部にスパイがいると考えて、親衛隊によるネズミ狩を行うなど海軍内部への干渉を繰り返した。

 ヒトラーのネズミ狩りは一定の戦果を挙げたが、Uボートの被害が大きい本当の理由は、ドイツ軍の作戦暗号であるエニグマがイギリス軍に筒抜けだったためである。

 それに対して、日本海軍の潜水艦用暗号は今だに部分的にしか解読されておらず、情報戦で日本海軍が優位に立っていることが、日本潜水艦の損害を少なくしていた。

 話は逸れたが、通商破壊戦の優位が、航空戦の優位となって現れ、1944年7月末には、ついにドイツ空軍は英仏海峡及び南イングランドの制空権確保に成功する。

 1940年のバトル・オブ・ブリテンで失敗した制空権確保が4年越しに漸くなされたのである。

 最近、めっきり人前に姿を現さなくなったヘルマン・ゲーリング国家元帥も、この時ばかりは聴衆の前に姿を現し、ルフトヴァッフェの戦果を喧伝した。

 ただし、聴衆からの拍手はまばらだったという。

 もはやドイツ国内においてもヘルマン・ゲーリング国家元帥は過去の人になっていた。

 空軍内部の実権もミルヒ航空相次官に奪われて久しく、軍部においてはカール・デーニッツ海軍元帥の露出が多くなっていた。

 次期総統候補と目されるデーニッツ海軍元帥はUボート作戦の傍らに陸軍と協力して英国本土上陸作戦の準備を進めていた。

 上陸用舟艇については、ドイツ国内で日本製上陸用舟艇をライセンス生産する同時に、多数を日本から輸入することで1944年夏までに必要量が確保されていた。

 地中海まで分解された状態で運ばれた日本製の上陸用舟艇は、鉄路で北フランスに運ばれ、ドーヴァー対岸のカレーに集められた。

 戦車のような重器材の揚陸艦もドイツ造船界が総力を挙げて生産しており、一部はロシア帝国にも発注がなされている。

 ドイツ軍は、上陸第一波として9個師団を、さらに2波に分けて20個師団をドーヴァー海峡一帯に上陸させる計画を策定していた。

 それは基本的に1940年の夏に果たせなかったゼーレーヴェ作戦の焼き直しだったが、これまで戦訓や4年前になかった新要素が多数盛り込まれていた。

 特に4年前とは大きく異なるのは海上兵力で、日仏伊の水上打撃部隊が多数していることだった。

 枢軸各国海軍は、上陸阻止に現れるであろう英米海軍に対して決戦を挑む構えである。

 なお、ドイツ海軍も、この決戦に間に合うように建造が止まっていた空母グラーフ・ツェッペリンを就役させ、さらにH級戦艦フリードリッヒ・デア・グロッセの完成を急いでいた。

 もちろん、戦艦ビスマルク、ティルピッツも全力出撃である。

 1944年8月に、欧州近海に展開した枢軸海軍の主要艦艇は以下のとおりである。


ドイツ海軍


 戦艦 フリードリッヒ・デア・グロッセ、ビスマルク、ティルピッツ、

    グナイゼナウ、シャルンホルスト

 空母 グラーフ・ツェッペリン

 装甲艦2隻 重巡洋艦2隻、他多数


イタリア海軍

 

戦艦 フランチェスコ・カラッチョロ、クリストーフォロ・コロンボ、

   マルカントニオ・コロンナ、フランチェスコ・モロシーニ

   ヴィットリオ・ヴェネト、リットリオ、インペロ、ローマ

空母 アティラ、ファルコ

重巡洋艦6隻、他多数


フランス海軍

 

戦艦 ノルマンディ、フランドル、ガスコーニュ、ラングドック

   ダンケルク ストラスブール

   リシュリュー

空母 ジョッフル、パンルヴェ(日本からの供与艦、鈴谷型軽空母)

重巡洋艦3隻、他多数


日本海軍


戦艦 金剛、榛名、穂高、敷島、三笠、長門、陸奥、尾張

空母 剣龍、祥龍、蟠龍、大鳳、神鳳、翔鳳、沖鳳、魁鳳、鳳凰、海鳳、天鳳、飛鳳、水鳳、   祥鳳、白鳳、朱鳳、風鳳、信濃

   鈴谷、三隈、笠置、天城、葛城、阿蘇、生駒、蔵馬

重巡洋艦 44隻、他多数


 戦艦28隻、空母30隻という空前絶後の大艦隊であった。

 枢軸艦隊アクシズ・フリートの主力はもちろん日本海軍であり、高速空母だけで25隻という最大最強の洋上航空戦力を展開していた。

 その後方には支援用の小型護衛空母が控えているのは言うまでもなく、2,000機近い艦載機を同時展開できた。

 これほどの規模の艦隊を同時に動かすのは困難を極め、専用の艦隊司令部艦さえ作られるほどだった。

 栄えある艦隊指揮艦には、建造中に戦争勃発となり客船としては建造中止となった春日丸が充てられた。

 春日丸は一見すると空母のように見えるが、これは電波干渉を最小限にするため措置で、通信マストとして戦艦クラスの大型艦橋を備えていた。

 武装は機銃までだが、おびただしい数の通信アンテナを考えれば、備砲を備えることは不可能であった。

 艦内には艦隊司令部スタッフ約1,000名が生活できる設備が整えられており、小さな町一つがまるごと動いているようなものだった。

 艦内には、膨大な情報を処理するため、初期的なアナログコンピューターさえ備えていた。

 このアナログコンピューターは大量の真空管を使用するもので、小学校の体育館に比肩する巨大なものだった。

 同様の規模の真空管コンピューターは既にイギリス(コロッサス)、ドイツ(Z1~Z4)があったが、艦艇に搭載したのは日本だけである。

 このアナログコンピューターは日本神話に登場する知恵の神から「思兼」と名付けられた。 そのオペレーションには人類の限界に近い知性と熟練を要するもので、北米諸藩出身の天才的な数学的才能をもつ少女が特別に選抜されて春日丸に乗り込んでいたとされる。

 少女の正体は21世紀現在でも軍事機密のヴェールに包まれており、青みがかった銀髪という容姿のみが関係者の思い出話が伝わる程度である。

 話が逸れたが、1944年8月11日、ついにゼーレーヴェ作戦が発動された。

 攻勢に先立ち、3,000機に及ぶドイツ空軍機がイングランド南部に殺到し、ドーヴァー海峡上空に戦闘機の壁を造った。

 この日のために戦力を温存してきたイギリス空軍は全力出撃でこれに応え、イングランド南部で大規模な空中戦が勃発した。

 制空権が拮抗する中、北フランスの各飛行場からは3個師団の降下猟兵を乗せたユンカース輸送機が離陸し、上陸に先立って空挺降下が行われた。

 一部には、北米諸藩のフォッカー社製フレンドシップ輸送機も投入されている。

 フレンドシップ輸送機はアメリカ製のDC-3旅客機に対抗するべくフォッカー社が開発した双発旅客機で、乗客の視界を最優先にしたフォッカー社お得意の高翼機であった。

 フレンドシップ輸送機は傑作輸送機と名高く、主に日本合藩国の航空会社に採用され、生産終了までに1万機以上が生産された。

 軍用型は40式輸送機として日本空軍に制式採用されたが、民生品として流布したフレンドシップが愛称としてそのまま使用されている。

 ドイツ軍の空挺降下は、1個師団相当が戦闘機の迎撃を受けて空中で散華するという酸鼻極まる損害を受けたが万難を排して作戦は続行され、広い範囲に空挺隊員を降下させて、海岸に向かう英米の装甲打撃部隊の移動を妨害した。

 空挺作戦直後から、ドーヴァー一帯には、対岸のカレーから上陸舟艇に乗り込んだドイツ軍9個師団が殺到し、水際で守るイギリス・アメリカ軍と激戦となっていった。

 ドイツ軍は上陸支援に軽戦車を改造した多数の浮航戦車や潜水戦車を投入していたが、いかんせん軽戦車に毛が生えた程度なので装甲が薄く、水際に配置されたM4中戦車には歯が立たなかった。

 そのため対戦車攻撃やトーチカ突破は歩兵の肉弾攻撃に頼らざるえず、破滅的な速度で死傷者を増やしていった。

 ドーヴァー一帯は沿岸要塞が築かれ、多数の兵力が配置されていたことからドイツ軍の苦戦日は必至であり、上陸部隊は海岸に釘付けとなって地上戦は微妙な膠着状態へと陥った。

 それこそが、連合国軍の狙いだった。

 ドイツ軍の空挺降下直後から、連合国艦隊はスカパ・フローの泊地から全力出撃していた。

 水際の護りと制空権が一時的に拮抗している間に、上陸地点に戦艦を突入させ、主砲で上陸軍を粉砕するのが、連合国軍の英国本土防衛作戦だった。

 この時、スカパ・フローの泊地から出撃したイギリス・アメリカ連合艦隊の主要艦艇は以下のとおりである。



イギリス海軍

 戦艦 リヴェンジ、レゾリューション、ラミリーズ、ロイヤル・サブリン、レナウン

    フッド、ロドニー、アンソン、

    キング・ジョージⅤ世、プリンス・オブ・ウェールズ、

    デューク・オブ・ヨーク、ネルソン、ハウ、ヴァンガード

 空母 フォーミダブル、インドミダブル、ヴィクトリアス、インプラカブル

    インディファティガブル、コロッサス、グローリー、オーシャン

 重巡洋艦12隻、他多数


アメリカ海軍

 戦艦 サウスダコタ、ノースダコタ、アラバマ、インディアナ、アイオワ、ニュージャージ

    イリノイ、ケンタッキー

 空母 アルフレッド、コロンバス、アンドルー・ドリア、カボット、エセックス、

    ヨークタウンⅡ、イントレピッド、ホーネットⅡ、フランクリン、タイコンデロガ、    レキシントンⅡ、バンカーヒル、ワスプⅡ、ハンコック、インディペンデンス

    プリンストン、ベロー・ウッド、カウペンス 、モンテレー、ラングレー

    カボット、チューク・アイランズ、サン・ジャシント

 重巡洋艦15隻、他多数


 戦艦22隻、空母31隻という大戦力だった。

 イギリス海軍だけで、独仏伊の欧州枢軸に比肩する戦力である。

 他に、アメリカ海軍の水上打撃部隊と空母機動部隊を加わり、日本海軍の遣欧艦隊さえいなければ、イギリス本土防衛は十分に可能な戦力だったと言える。

 サウスダコタ級4隻、アイオワ級4隻からなるアメリカ大西洋艦隊の水上打撃部隊は、16インチ砲装備艦で統一されており、15インチ砲が上限の枢軸艦隊よりワンランク上の火力を誇っていた。

 イギリス海軍にしても、15インチ砲で統一された水上打撃部隊であり、特にフッド級巡洋艦戦艦3隻からなる第1戦艦隊は、戦間期において世界最強と目されていた。

 2番艦ネルソンをUボートの雷撃で失ったものの、3度に渡る近代化改装を受けたフッド、ロドニー、アンソンは健在だった。

 また、ネルソンはイギリス海軍の次世代型戦艦であるキング・ジョージⅤ世級戦艦にその名が受けつがれている。

 キング・ジョージⅤ世級にしても、15インチ砲3連装3基と基準排水量35,000tという海軍軍縮条約のレギュレーションに沿った船としては最強の存在で、28ノットの速力発揮し、完成されたバランスをもつ優秀戦艦であった。

 ヴァンガードは、大戦勃発後の戦艦消耗に慌てたイギリス海軍が予備の15インチ砲を活用するために造った戦時急造艦であったが、KGV級の経験を踏まえた手堅い設計の船であり、戦中に起工されたにも係わらず祖国存亡の危機に間に合った。

 アメリカ大西洋艦隊の主力戦艦サウスダコタ級も35,000t級、28ノットの中速戦艦だったが、火力はワンランク上の16インチ砲三連装3基である。

 アイオワ級も砲数こそ、サウスダコタ級と同じだったが、長砲身高初速の16インチ砲に換装しており、高出力旗艦と長船体の組み合わせで最大33ノットの高速を発揮した。

 アメリカ海軍は、アイオワ級を超える16インチ砲三連装4基の重戦艦モンタナ級の建造を計画していたが、支那事変による海軍予算の制限で建造を果たせなかった。

 サウスダコタも、アイオワも1938,1939年計画で、日本海軍の大拡張に対抗して造られた船で、日米開戦後に就役した船だった。

 同時期建造された日本海軍の長門型に比べて、戦艦大国の造った船だけあってその構造は洗練されており、コンパクトな船体で重防御と大火力を発揮した。

 基準排水量40,000tの長門は15インチ砲連装4基8門と船体規模の割に発揮できる火力が今ひとつだったと言える。

 ただし、これは日本海軍が講和条約で戦艦建造を禁止されるという技術的空白のハンデを負っているためで、長門が悪いわけではない。

 長門型は20年前に建造中止になった旧長門型戦艦の設計図面をそのまま流用した船であり、20年分の設計理論や素材技術の進歩の恩恵を預かることができなかっただけである。

 ただし、旧長門型は20年前の時点で、世界水準を遥かに飛び越えた画期的な設計であったことから、1944年のドーヴァー海峡海戦においても、その装甲防御が有効に機能したことが確認されている。

 連合国艦隊は、突進する戦艦とそれを守る巡洋艦、駆逐艦が連なる単縦陣で、先行するイギリス高速戦艦部隊、アメリカ中速戦艦部隊、イギリス低速戦艦部隊の3群に分かれていた。

 そのさらに後方には空母機動部隊が展開しており、突入艦隊に戦闘機の傘を差していた。

 対する枢軸海軍は海峡入り口に蓋をする形で展開して、連合国艦隊が現れるのを手ぐすね引いて待ち構えていた。

 この時の枢軸艦隊の作戦は、所謂、漸減邀撃だった。


「見るがいい。薄い紙でも数十枚重ねれば全てワインを吸い取ってしまう」


 真田雪村海軍元帥は作戦会議の席で、並み居る枢軸各国海軍提督を相手どって、紙束にワインを垂らせて見せた。

 赤ワインは紙の束に染みをつくったが、紙が何重にも重なると話は別となる。

 赤いワインは突撃する連合国艦隊であり、白い紙が北海からドーヴァー海峡入り口に張り巡らされた層状の邀撃部隊を意味している。

 今日では、その時使用されたドイツワインの銘柄から、ラインハルト作戦と呼ばれる水を漏らさぬ緻密な漸減邀撃作戦だった。

 枢軸の邀撃は連合国艦隊がスカパ・フロー泊地にいるときから始まっていた。

 在泊艦艇の状況は、ドイツ空軍自慢のジェット偵察機Ar234によって逐次把握されており、連合国艦隊の動きは筒抜けといって差し支えなかった。

 イギリス空軍は燃料や弾薬、防弾板まで下ろして軽量化したグリフォン・スピットファイアを投入してAr234の偵察阻止を目論んだ。

 しかし、巡航速度ですら時速700kmを超えるジェット偵察機の撃墜は、エンジントラブルを起こした一件を除いては成功しなかった。

 泊地は戦闘機と高射砲で厳重に守られており空爆は困難だったが、ゼーレーヴェ作戦発動と同時に、損害を省みないドイツ空軍の猛攻が始まる。

 泊地爆撃を強行したのは、アルベルト・ケッセルリンク空軍大勝率いる第2航空艦隊だった。

 第2航空艦隊はは地中海でイギリス地中海艦隊を相手に洋上作戦を行った豊富な経験があり、対艦攻撃には適役だった。

 総数約1,000機を誇る第2航空艦隊の中核はおよそ300機のHe177グライフ重爆撃機で、第2航空艦隊のグライフにはドイツ空軍初の対艦ミサイルHs293やフリッツX誘導爆弾の運用能力が付与されていた。

 問題は、スカパ・フロー泊地までグライフを護衛できる戦闘機がないことだった。

 だが、これは日本空軍の手を借りることを渋るゲーリング国家元帥を説得して借り受けた150機の44式戦闘機によって解決された。

 また、Do217やJu188といった双発爆撃機にも、フリッツXやHs293の運用能力が付与されており、スカパ・フロー攻撃に参加している。

 ノルウェーの各地から発進したドイツ第2航空艦隊の攻撃隊は450機を数えたが、大編隊攻撃はイギリス空軍の察知するところとなり、熾烈な迎撃を受けることになる。

 最終的に、出撃機の7割が喪われるという大損害が発生したが、停泊中のイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズにフリッツXが命中。弾薬庫まで貫通した徹甲爆弾の炸裂によって、泊地内でプリンス・オブ・ウェールズは巨大なきのこ雲に変わった。

 また、Hs293が命中した空母レキシントンⅡ、軽空母プリンストンとベロー・ウッド、コロッサスが大破して出撃不能となった。他に巡洋艦5隻、駆逐艦6隻が出撃する前から損傷してリタイアを余儀なくされている。

 損害に対して、意外にも少ない戦果かもしないが、F6Fやスピットファイア、F4Uなど有力な戦闘機部隊を数百機も上げてくる連合国艦隊を攻撃して、これだけの戦果を挙げることができたのはむしろ幸運と言えた。

 その後も、ドイツ第2航空艦隊の攻撃は続くが、固定点である泊地襲撃に対して洋上攻撃は索敵攻撃にならざるえず、緒戦の大損害もあって攻撃は下火になっていく。

 だが、多数のジェット偵察機を投入して、逐一連合国艦隊の動きを通報しており、その働きは値千金であった。

 その情報に基づき、ドイツ海軍は多数の潜水艦を進路前方に配置して待ち伏せを行った。

 Uボート艦隊を率いるデーニッツ提督は潜水艦を戦闘任務に投入することには批判的だったが、戦争が最終段階に入ったこともあって多数のUボートをこの待ち伏せ作戦に投入した。

 その中でも最も有力だったのがXXⅠ型Uボートで、特に腕利きのエース艦長が率いた場合、驚くべき戦果をあげた。

 イギリス空軍の空爆で部下、同僚、教え子と右目を失ったとなったとあるUボート教官はデーニッツ提督の慰留を振り切って現場に戻り、XXⅠ型UボートU-862を得て、英戦艦リヴェンジ、レゾリューションを撃沈するという大戦果を挙げている。

 惜しくも最後は、哨戒機の爆雷攻撃で艦を失ったが、乗員と本人は救助され生還している。

 日本海軍の伊号潜水艦も待ち伏せには参加しており、伊19が酸素魚雷の攻撃で、空母ワスプⅡを撃沈。さらに戦艦ノースダコタを大破させて撤退(後に自沈)に追い込んでいる。

 また、対潜戦闘の隙をついたドイツ空軍の空爆により、巡洋戦艦レナウンが急降下爆撃機の攻撃で沈んだ。

 レナウンを撃沈したのはJu87と1.2t徹甲爆弾の組み合わせで、潜水艦の魚雷攻撃を警戒して海面ばかり見ていたところを頭上から攻撃された形である。

 なお、攻撃したのは僅か1機のJu87だった。

 Ju87は初期作戦でこそ大きな戦果を挙げて、ドイツ電撃戦の立役者になったが、1944年にはもはや完全な旧式機で、装備部隊もごくわずかしか残っていなかった。

 ましてや、大量の戦闘機が乱舞する1944年の洋上対艦攻撃では、攻撃に参加することさえ自殺行為だったのだが、緒戦の大損害により急きょ引っ張りだされた形だった。

 なお、レナウンの上空にはF6Fが2個中隊ほど直掩についていたのだが、攻撃されるまでF6FはJu87の存在に気づかなかったという。

 爆撃後、Ju87にようやく気がついたF6Fはこれを逃すまいとして集中攻撃を行ったが、なぜかパイロットは負傷しただけで基地に帰還している。

 爆撃に成功したことも奇跡的だったが、戦闘機2個中隊に追撃されて生き残れたことも奇跡的であり、戦後に技術調査の対象となった。

 調査の結果、Ju87は特にカスタムされたものではなく、ごく一般的なレシプロ単発攻撃機であることが判明したが、それで戦闘機2個中隊の追撃を受けて生き残れるわけがなかった。

 不審に思った調査官が、パイロットへの聞き取り調査を実施したが、


「そんなに不思議なのかね? 私にはこれという秘訣は無かったのだが」


 と返答され、調査は打ち切りとなった。

 話がやや逸れたが、航空攻撃と潜水艦の攻撃で連合国艦隊は櫛の歯が欠けていくかのように戦力を消耗していき、その上で日本海軍空母機動部隊との対決を迎えることになる。

 1944年8月13日、日米海軍の最後の決戦が始まった。

 他に、イギリス海軍の空母部隊やイタリア・フランス艦隊の母艦航空戦力もあったが、実態としては日米決戦であった。

 なお、航空戦開始時点で、日米機動部隊は非常に混乱した状態にあった。

 なにしろ北海や、英仏海峡など比較的狭い海で、しかも大量の基地航空部隊が展開している沿岸域での戦いである。

 日本海軍機動部隊も、イギリス空軍のモスキート偵察機に発見されており、陸上航空部隊の激しい空襲に遭っていた。

 双発のウェリトンやモスキート、B-26は航空魚雷を搭載し、日本艦隊に突入した。

 日本艦隊は太平洋戦線の経験をフィードバックされた強力な防空網が築かれており、攻撃機の大半が撃墜されている。

 だが、高速のモスキートを改造した反跳爆撃専門部隊は、500kg爆弾を空母天鳳に命中させて、これを大破させている。

 爆装したP-47やモスキート、タイフーンのロケット弾攻撃は、軽巡洋艦の斉射なみに攻撃力があり、まともに浴びた軽空母天城や蔵馬は戦列から落伍していた。

 だが、大鳳型装甲空母は持ち前の防御装甲で攻撃を跳ね除けつつ、戦闘を継続することができた。

 4群に別れた日本海軍機動部隊は、艦隊指揮艦春日丸からの指揮統制のもとで700機に及ぶ第一次攻撃隊を発進させた。

 なお、空母艦載機の発進中も空襲は継続しており、各艦は空気圧カタパルトを最大限利用して発艦作業を行っている。

 それでも一定時間は発艦作業のため風上に向かって走らざるえず、そこを狙われて甲板に燃料と弾薬が満載していた空母祥鳳が火だるまになって沈んだ。

 陸上航空部隊の空襲圏内での空母航空戦など悪夢でしかないのだが、上陸作戦の支援という大前提がある以上、日本艦隊は一歩も引くことが許されなかった。

 無論のことだが、空襲圏内で空母航空戦を戦う羽目になったのはアメリカ側も同じある。

 発艦作業中に空母エセックス、バンカーヒルがJu188から発射されたHs293の直撃を浴びて、火だるまになって沈んでいる。

 飛行甲板が装甲化されていない改ヨークタウン型やエセックス級は一発の被弾でも、戦闘不能になる脆弱性を抱えており、五月雨式に陸上航空部隊が襲い来る欧州沿岸の戦いには不向きと言えた。

 だが、それでも400機を超える艦載機を発進させ、日本空母群に向かわせたことは特筆すべきことだろう。

 彼らはベストを尽くしたのだ。

 イギリス海軍自慢のイラストリアス級装甲空母部隊もまた日本海軍と同様に被弾しつつも航空戦を継続し、いち早く装甲空母建造を行った日英海軍に先見の明があったことを今日に伝えている。

 だが、残念なことに、彼らの努力は最終的に勝利の栄光を以って終わりを迎えることはできなかった。


「彼らの攻撃はまるで自殺的だった。バラクラヴァの戦いで全滅したイギリスの軽騎兵旅団もきっとあんな感じだったんだろう」


 米艦載機部隊の集中攻撃を浴びることになった空母大鳳に座乗した長宗我部森親提督は後に、この時の攻撃をそう評した。

 日本海軍は太平洋戦線の経験をフィードバックさせた装備と編成を有しており、特に防空戦闘機部隊の誘導と対空砲火の管制については世界最高レベルに達していた。

 カオスの塊と言って差し支えない防空戦闘の管制は困難を極めるが、日本海軍はそれを克服するために、大型電算機を装備した春日丸のような指揮統制艦の建造に踏み切った。

 そうした戦闘統制の進歩に個々のガジェットの進化が加わり、空に築かれた真田丸は鉄壁の要塞と化していた。

 対空砲火一つとっても、レーダーに連動した射撃管制は当然のこととされ、さらに対空砲弾に小型レーダーを仕込んだ近接信管が全面採用されていた。

 戦闘機部隊も在来の海燕Ⅲ型に加え、大火力の44式艦上戦闘機”千鳥”を投入していた。

 本国の三菱重工が開発した千鳥は、三菱の2,000馬力級水冷エンジン”土星”を装備した大型戦闘機で、艦上攻撃機なみの機体にモーターカノンを含めて7門の23mm機関砲を備えた重戦闘機だった。

 機体規模でもF6Fよりも一回り大きい機体だったが、海燕Ⅲ型は火力不足が指摘されており、千鳥の戦線投入は急務であった。

 千鳥は艦上攻撃機並の大型機であったが、高度8,000mで時速640kmをマークするなど、F6Fを相手なら遜色ない性能であり、特に格闘戦で初めてF6Fに勝る旋回性能を発揮して現場のパイロットから歓迎されている。

 ただし、大型機故に軽空母での運用は不可能だった。また、空戦性能も海燕Ⅲ型の方が若干上だった。

 だが、戦闘機同士の取っ組み合いから離れて、防空戦闘の一要素と見えれば千鳥は23mm機関砲7門の大火力プラットホームであり、攻撃機阻止には最適の機材だった。

 7門の23mm機関砲の掃射は頑丈なアヴェンジャー雷撃機を一撃で粉砕可能であり、迎撃効率は海燕Ⅲ型を上回った。

 千鳥の迎撃を受けたアメリカ軍攻撃隊は次々に粉砕され、レーダー連動と近接信管付きの対空砲火で蚊トンボのように堕ちていった。

 軽空母に搭載された海燕Ⅲ型装備の制空戦闘機部隊は、専らF6Fやシーファイアの相手をしたが、そのキルレシオは6対1と圧倒的な記録を残した。

 連合軍機は燃料不足により満足な訓練が行うことができなくなくなっており、練度が低下していたのである。

 英米戦闘機隊の平均飛行時間が200時間程度であるのに対して、日本軍機のパイロットは600時間もあった。

 日本軍のパイロットには開戦緒戦から戦い続けている生ける伝説のような猛者も残っており、ひよっ子ばかりのアメリカ軍航空部隊を圧倒した。

 400機の攻撃隊は、戦闘機と対空砲火の壁に阻まれ、軽空母葛城、正規空母剣龍を仕留めるのが限界だった。

 対して、700機の日本軍攻撃隊は、貧弱なアメリカ軍の戦闘機部隊を突破。対空砲火で多大な犠牲を払ったものの、エセックス級空母4隻を撃沈、3隻大破、1隻中破という大戦果を挙げた。

 マリアナ沖海戦で、米戦艦を多数仕留めた42式艦爆の40式ロケット加速砲弾発射器は今回も大活躍し、大型正規空母の艦内中枢で15インチ砲弾を炸裂させた。

 雷撃機はやや旧式化していた41式艦攻だったが、航空魚雷の改良でほぼ全速投下が可能となっており、対空砲火のリアクションタイムが短く、撃墜は困難となっていた。

 新鋭戦闘機の千鳥は、戦闘爆撃機としても運用可能で1.2tまで爆装でいた。千鳥は大量のロケット弾で空母に随伴する駆逐艦や巡洋艦を火だるまにしていった。

 続く、第二次攻撃隊の戦いは、第一攻撃隊の焼き直しのような結果に終わる。

 両軍の攻撃隊は第6次まで編成され、日米空母機動部隊は日没まで戦い尽くした。

 アメリカ海軍機動部隊は、不利な戦いの中で一歩も引くことなく踏みとどまって戦った。

 そうすることで、航空攻撃を一身に引き寄せ、突進する戦艦部隊を守ることが彼女たちの任務の一つだったからだ。

 故に、突進を続ける英米戦艦部隊を阻止するのは、枢軸海軍の戦艦の役割となった。

 戦艦の砲撃戦は、午後7時過ぎに始まった。

 午後7時といっても高緯度地域の夏であり、日没まではまだ2時間以上あったので昼戦といって差し支えない。

 潜水艦や航空攻撃で被弾損傷、沈没して数を減らしていたものの、英米戦艦部隊は今だに17隻を残した。

 ただし、絶え間ない陸上航空部隊の攻撃で、ほとんどの船が損傷しており、統制のとれた砲撃戦は困難な状態だった。

 枢軸戦艦部隊はほぼ無傷の状態で迎撃配置についており、28隻が全艦健在だった。ただし、ドイツ艦隊は未着であり、実際には23隻の日仏伊艦隊のみでの戦いだった。

 その内、最初に連合国艦隊を出迎えたのがイタリア艦隊である。

 戦艦ヴィットリオ・ヴェネトを旗艦に、主力戦艦8隻が勢揃いである。

 イタリア艦隊は、突進する英米戦艦部隊に対して、海峡入り口で横並びに待ち伏せており、理想的なT字態勢であった。

 連合国艦隊の戦艦で最初に発砲したのはイギリス海軍第1戦艦隊の戦隊旗艦フッドだった。ほぼ同時に、イタリア戦艦部隊旗艦ヴィットリオ・ヴェネトが発砲している。

 これまで活躍の場がなかったイタリア戦艦部隊だったが、日本からの燃料提供を受け1年に渡って訓練に励んだ結果、その練度は列強海軍として満足できる水準に回復していた。

 また、日本製の対水上レーダーを装備したイタリア戦艦部隊は、遠距離から正確な砲撃が可能であり、T字態勢で待ち構えていたこともあって、フッドをそうそうに大破、落伍させる。

 海峡入り口に蓋をする形の枢軸艦隊に対して、正面から突破を図るしかない連合国艦隊は本来投射できる火力の半分以下しか展開できなかった。

 さらにイタリア艦隊にとって有利なのは、連合国艦隊の正面突撃によって急速に距離が縮まり接近戦になっていったことだった。

 ヴィットリオ・ヴェネト、リットリオ、インペロ、ローマが装備する15インチ高初速砲は、近距離での船舷装甲貫通に適した砲だったからだ。

 突進する連合国艦隊はそれをまともに浴びることになり、米戦艦部隊の先頭を走るサウスダコタは16インチ防御の装甲を格下の15インチ砲に撃ち抜かれて大破することになった。

 戦闘を有利に進めたイタリア艦隊だったが、T字態勢を維持できたのは20分程度のことであり、あっさりと転舵して戦場から離脱していった。

 同航戦でもなければ、反航戦でもない、あっけない戦場離脱に連合国艦隊はあっけにとられたが、すぐにその意味に気がつくことになる。

 イタリア艦隊が向こう側には、完全なT字態勢で待ち受けるフランス艦隊がいたからだ。

 その向こうには、同じ待ち伏せ態勢で手ぐすね引いている日本艦隊がいた。

 イタリア艦隊が戦場を離脱したのは、その後ろへ再配置するためだった。

 所謂、


「戦艦三段撃ち」


 である。

 この独創的な戦法は、真田雪村提督の構想したラインハルト作戦の最終段階を成しており、イタリア・フランス・日本艦隊が輪番で連合国艦隊を迎え撃つ必勝策だった。

 もちろん、その発想の源流は戦国時代に織田信長が長篠の合戦で武田軍を打ち破った鉄砲三段撃ちである。

 この時の連合国艦隊は武田軍と同じ立場に追い詰められていた。

 長篠の戦いで武田軍が自滅的な突撃を敢行するに至ったのは、設楽原決戦の前に、鳶ヶ巣山攻防戦により武田軍が退路を立たれ包囲殲滅の危機に陥ったためである。

 退路を絶たれた武田軍は包囲の中で降伏するか、一か八か目の前の信長本陣へ突撃するか、二者択一を強いられ、後者を選んで壊滅することになる。

 この時、連合国艦隊の脳裏にはノルウェーを出撃して後方から迫るドイツ艦隊があった。

 ドイツ艦隊旗艦、枢軸艦隊最大最強の16インチ砲搭載戦艦フリードリヒ・デア・グロッセを英米海軍は極度に警戒していた。

 実際には、フリードリヒ・デア・グロッセは、完成度90%で艦内で工事を続けながらの出撃という状態で、使用可能な砲塔は1,2番砲塔のみで、何の脅威にもならなかった。

 また、連合国艦隊が恐れていたドイツ海軍の到着は翌朝の、海戦終了後のことであり、ドイツ艦隊は史上最大の海戦において、一発の砲弾も撃つことなくその任を終えた。

 もちろん、そのどちらもこの時の連合国艦隊が知るすべのないことである。

 完全な包囲殲滅を避けるためには、どれだけ無謀であっても目の前の日仏伊艦隊を突破するしかなく、連合国艦隊は無為な突撃を続けることになる。

 状況を俯瞰することができれば、連合国艦隊は完全に詰みであった。

 さらに日没となると真田雪村提督が用意した最後の罠が連合国艦隊を飲み込んだ。

 カレー一帯に配置された魚雷艇部隊が損傷して身動きが取れなくなった連合国艦隊に群がったのである。

 魚雷艇部隊の主力はドイツ海軍のSボートだったが、イタリアから陸路送られたMAS部隊もあった。

 イタリアのMAS部隊はアドリア海で鍛えられた歴戦の強者が揃っており、45,000tの戦艦アイオワ、ニュージャージー、ケンタッキーの3隻を仕留めるという大金星を挙げた。

 大破して行動不能になっていたフッドやその他の戦艦も魚雷艇を追い払うことができず、次々に討ち取られていった。

 後方を走っていたイギリス海軍の低速戦艦部隊は、損害が少ないことから魚雷艇の攻撃を撃退していたが、逆襲に転じた枢軸艦隊の集中砲火を浴びて全滅することになる。

 最後に沈んだ戦艦ラミリーズは、日・伊・仏の戦艦14隻から集中砲火浴びて、船体が爆散するという悲惨な最後を遂げている。

 枢軸の戦艦部隊には損傷艦こそあったものの損失艦はなく、22隻あった英米海軍の戦艦は全艦が喪われるという海戦史上稀に見るワンサイドゲームだった。


 この海戦結果を受けて、イギリス連邦は枢軸同盟への降伏を申しでることになる。




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