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WWⅡ 北米戦線1944

WWⅡ 北米戦線1944



 1943年4月から始まった日本軍の春季攻勢”大陸打通作戦”はアメリカ軍の反撃と補給の欠乏により頓挫した。

 だが、日本軍は攻勢開始地点から1,000kmも離れたカナダの大都市、ウィニペグを占領。さらに中央戦区ではミズーリ川西岸まで進出していた。

 アメリカ軍は、北米戦線において総兵力300万を投入しており、日本軍の侵攻を十分に阻止できると考えていたことから、国土を大きく失った衝撃は大きかった。

 戦傷者、戦死者は100万人に達しており、兵員の3分の1が4ヶ月足らずの間に失われたことも大問題である。

 アジア太平洋において既にアメリカ軍は120万の兵力を失っており、開戦以来の死傷者は300万に達しようとしていた。

 支那事変での死傷者を加えれば、350万を越えて400万人の背中が見えてくるほどだ。

 この数字は第一次世界大戦時の損失を遥かに上回り、南北戦争の損害すら霞むほどものだった。情け容赦ない徹底的な総力戦がどのようなものであるか、全てのアメリカ人に理解させるのに十分だった。

 なお、この損失には、全市街地が完全に真っ平らになったオマハや死都と化したウィニペグ攻防戦に巻き込まれた一般市民の死傷者は含まれていない。

 現在進行形で続く、北米大都市への戦略爆撃による死者も含まれていない。

 1944年春まで、かろうじて東海岸は日本軍重爆部隊の攻撃を免れていた。

 だが、航続距離を増した偵察タイプの42式陸攻は既にニューヨーク上空に現れていた。

 日本軍は戦略爆撃を戦争戦略の中心に据えており、五大湖周辺の大都市は入念な航空偵察を経て、綿密な計画的爆撃を受けて灰燼に帰していった。

 日本軍は1943年末に、アメリカ第二の大都市シカゴをターゲットに大規模な無差別爆撃作戦を開始する。

 日本空軍は、1943年末までに、北米大陸に2個航空艦隊(定数1,200機:装備機は全て重爆撃機)の戦略爆撃兵団が展開を完了していた。

 アメリカ軍が生産力と燃料制限から、徐々に生産の主力を爆撃機から戦闘機に移しつつあったのに対して、日本は航空機生産の60%を爆撃機(重爆)の生産に割り当てられていた。

 戦闘機の護衛つきで重爆が飛来するようになったシカゴは、1943年12月11日に39式重爆及び42式陸攻合計1,200機による絨毯爆撃を受ける。3日間に渡って述べ3,200機の爆撃機が襲来し、市街地を焼き払った。

 この大規模都市爆撃による直接の死者は4万人、さらにその10倍の一般市民がホワイトクリスマスを屋外で迎えることになり、凍死者さえでる大惨事となった。

 大惨事になったのはホワイトハウスのオーバルルームも同様であり、その損害に青くなったアメリカ政府は損害を過小評価し、報道もそれに倣うことになった。

 戦争において、最初に犠牲になるのは真実であると言われるが、報道の自由に気を使ってきたアメリカ合衆国でさえ、シカゴ炎上の損害は隠さなくてはならないほどものだった。

 ただし、日本軍にとってもこの種の爆撃作戦は犠牲の大きいものであり、アメリカ軍の迎撃により損耗率は5%に達していた。

 これは20回出撃すると1個航空艦隊(1,200機)がほぼ全滅する損耗率であり、如何に日本合藩国の生産力といえども、許容できるぎりぎりの数値であった。

 だが、それ以上に高い損耗率を記録するのが、地上部隊を支援する近接航空支援だった。

 1944年の春の訪れと共に、


「戦闘機の墓場」


 とまで称されたミズーリ川湾曲部の戦いが始まろうとしていた。

 1943年の春季攻勢において、後退につぐ後退に追い込まれたアメリカ軍は、ノース・ダコタ州とサウス・ダコタ州にまたがるミズーリ川まで撤退し、漸く日本軍の攻勢を食い止めることに成功した。

 日本軍中央軍集団は渡河点を求めてミズーリ川に沿って南下し、ミズーリ川に跨って発展したオマハ市を巡ってアメリカ軍と衝突した。

 オマハ市は全市街地が焦土と化す攻防戦の果てに日本軍の手に落ちた。

 北方軍集団は多大な犠牲を払って、カナダ・マニトバ州の州都ウィニペグを陥落させた。

 結果として、ミズーリ川にそって、戦線の突出部が形成された。

 これがミズーリ川湾曲部である。

 即座に包囲戦とならなかったのは、日本軍もまた疲弊の極みに達しており、すぐさま攻勢に投入できる兵力がなかったことと冬が来たためである。

 日本軍は20個戦車師団を編成していたが、その内の7割が1943年の戦いで消耗しつくしており、機動部隊がほぼ壊滅状態という惨状を呈していた。

 もちろん、壊滅状態なのはアメリカ軍の戦車部隊も同様であり、1943年の冬は日本軍の苛烈な戦略爆撃を除けば、平穏と行って差し支えない状態で過ぎていった。

 両軍ともに冬の間に作り貯めた武器弾薬で翌年の春の戦争計画を練ることになる。

 ミズーリ川湾曲部がその焦点となった。

 アメリカ軍は、この地を絶対防衛線として五大湖周辺への日本軍の侵攻を阻止する作戦を立てていた。

 北米大陸中央に広がる大平原において、ミズーリ川がほぼ唯一、日本軍の東進を防ぎ得る天然の防壁であり、ミズーリ川より東には防壁と成りうる自然障害がなかった。

 日本軍がこの突出部に包囲戦を仕掛けてくることは容易に予想可能であり、アメリカ軍は三重の対戦車陣地を構築し、ハリネズミの如き防衛線を築いていた。

 日本軍が包囲戦を仕掛けきたら、彼らを限界まで消耗させ、その上で戦略予備を投入。側面攻撃によって日本軍を壊滅させる戦略だった。

 いわば、


「後の先」


 と呼ばれる後手からの攻勢転移が、アメリカ軍の1944年の決戦策であった。

 これに対して、日本軍の対応はシンプルな、


「先手必勝」


 である。先に相手を撃てば、後から撃たれることはないという発想を地で行っていた。

 また、北米戦線での数的優位の確立がその発想を後押ししていた。

 1944年初頭、北米戦線においてアメリカ軍の総兵力は480万人に達しようとしていたが、日本軍の総兵力は1,000万に達し、2倍の戦力を揃えつつあった。

 こうした破格の大動員が可能なのは、総2億人という人口プールの存在も大きかったが、国家全体の生産力も大きかった。

 単純な生産力ならば、アメリカ合衆国と日本合藩国はほぼ同値と言えたが、彼我の国が置かれた戦略環境がまるで違った。

 既に本国周辺の安全を確保し、太平洋のシーレーンを絶対的なレベルで確保した日本合藩国に対して、アメリカ合衆国は国土を侵され、絶え間ない戦略爆撃と通商破壊戦の脅威にさらされていた。

 日本空軍の戦略爆撃に対抗するために投じられた防空兵器の生産・開発配備は、陸戦兵器や水上艦艇の生産リソースを大量に消費するものだった。

 アメリカ合衆国は第二次世界大戦当時、もっとも民主主義が浸透した国家であった故に、アメリカ政府は軍事的には無意味な地点にも、国民の支持を得るために防空兵器を配備する羽目に陥っていた。

 そうしないと選挙民からの指示が得られないからだ。

 特に連戦連敗を続けるルーズベルト大統領とその支持母体である民主党は次の選挙で議席減少が確実視されていたが、それを最小限に食い止めるために我田引鉄のごとき防空兵器の争奪戦を繰り広げており、資源や生産力の浪費が甚だしかった。

 対して日本軍は本国周辺の絶対的な安全を確保しており、効率的な戦時生産を実現していた。

 本土に奇襲侵攻を受けた直後を除けば、本国防衛に投入された資源や予算は軽微なもので、全てを前線に効率的に投入できる日本軍は、アメリカ軍の二倍の正面戦力を揃えるに至った。

 労働力においても、既に生産人口の限界から動員できる青年人口の枯渇が見え始めていたアメリカ合衆国に対して、日本は生産の現場に大量のロシア人や中国人を投入できるので、まだまだ兵力増強の余地があった。

 ソ連崩壊後、ロシア帝国は急速に動員を解除して、戦後復興に勤しんでいたが、復興に必要な外貨獲得には、日本への出稼ぎ労働が一番だった。

 もちろん、スターリンの置き土産であるソ連時代の重工業プラントを使った武器輸出もセットである。

 北米大陸の日本軍装甲師団の3割がロシア帝国製のT-34を装備していたほどである。

 中国人労働者については掃いて捨てるほどあったので、それを生産の現場に投入することも全く問題なかった。

 中国人労働力の投入は、既に第一次世界大戦の際に前例があり、ノウハウも豊富にあったことから大きなトラブルもなかった。

 日本語がわからないロシア人や中国人を生産の現場に投入してまともな武器が作れるのかと問われれば、そもそもマスプロ生産の現場に職人芸など不要であり、むしろ有害であるという答えに行き着く。

 それでも不足する分は、女性労働力の投入で賄われた。

 これは余談だが、第二次世界大戦において女性労働力の活用にもっとも熱心だったのは日本合藩国であった。

 生産の現場のみならず、組織管理者などの責任ある地位への抜擢など、女性の社会進出が広範囲で進展した。

 逆に最も女性労働力の活用に冷淡だったのが、ナチス・ドイツだった。

 良きドイツ人女性=良き母というヒトラーの方程式によって、生産の現場に女性労働力が投入されるのは大戦末期に入ってからだった。

 それも東部戦線の破滅的な損害を埋めるために、男性労働力が不足したために起きたことで、窮余の策というレベルだった。

 アメリカ合衆国はその中間と言えた。生産の現場への投入や、軍の後方支援に女性が投入された。

 ただし、最前線の戦闘任務までに投入した日本軍に比べると些か物足りないレベルと言える。

 日本軍が女性兵士の前線投入を何処かの時点で決意したのは不明であるが、少なくとも第一次世界大戦直後の事例研究には既にその萌芽が見られる。

 それは

 

『第二労働力の前線運用に関する研究』


 というタイトルで纏められた小冊子から始まった。

 第二労働力とは障害者や年少者や老人を含めた2線級労働者で、国家総力戦において絶対不足するであろう青年労働力を補うための研究であった。

 研究の中で、第二労働力はやがて女性労働者を意味するところとなったが、保守派への政治的配慮から長く女性労働者という言葉は使われなかった。

 日本軍は来るべき次の戦争において最終的に2,000万人の人命損失を見積もっていたとされるから、この種の研究は必要にして不可欠なものと認識されていた。

 研究は理論面から実践の場に移り、1930年代後半の支那事変激化に伴い対米戦争が現実の脅威となると急速に具体化された。

 特に陸の国境線でアメリカ合衆国と直接対峙する北米では、長大な国境線管理のためにどれだけ人員があっても足りない状況であり、国境警備任務に女性局員の投入が早期に実現した。

 国境管理局内において、女性労働者の活用を強力に推進したのは白人系移民のレジアス・豊田中将だったとされる。

 当時としては非常に先進的なこの施策は、残念ながら国境管理局内での性犯罪発生というスキャンダルにより、その推進者であるレジアス中将を失うことになる。

 だが、施策そのものは継承され、第二次世界大戦勃発に伴って後方勤務から、前線まで広い範囲で女性兵士が投入される際のテストケースとして広く活用された。

 なお、レジアス中将の失脚は、スキャンダルが直接の原因ではなく国境管理局内の権力闘争により陰謀という説もあり、2000年代に入って編成された中島調査委員会による詳細な調査の結果、冤罪であることが確定して故人の名誉回復が行われた。

 女性兵士の活用には軍内部に温度差があった。

 最も否定的だったのは海軍であった。

 海軍は後方勤務にさえ女性活用を拒否した。また、女性登用を拒否しても所帯の小さい海軍は何とか組織を維持できる見込みが立っていた。

 そのため、 


「軍艦に女性用トイレをつくるぐらいなら、全員がオマルでした方がまだマシだ」


 と言い放った海軍提督がいたほどである。

 それに対して陸軍は、多数の女性兵士の前線投入していた。

 膨大な人員を抱える陸軍は、人員確保のためなら阿羅斯加の辺境基地の片隅に女性トイレを設置することを厭わなかった。

 日本陸軍において、女性兵士活用の中心人物となったのは、陸軍人事局局長佐藤大輔大佐だった。

 

「人類の半分は女だから」


 というのが口癖の佐藤大佐は、人的資源の損耗という容赦ない現実を味方につけて、女性兵士だけで編成された幾つかの実験部隊の編成に至る。

 現在の戦史研究においては佐藤編成と呼ばれる将校から末端の兵士まで女性だけで編成された独立部隊で、海外の事例研究ではSATO・HEARTと呼ばれている。 

 佐藤編成で最も著名なのは、1944年のミズーリ川湾曲部において活躍した第601独立重戦車大隊だろう。

 ティーガーⅠを定数装備した第601独立重戦車大隊はオマハ渡河点から北上する第5戦車軍の先鋒として、大隊全車両を以って編成した楔形隊形パンツァーカイルでアメリカ軍の築いた四重の対戦車陣地突破を成し遂げ、300両以上のM4中戦車を撃破したとされる。

 戦意高揚映画「鋼鉄の少女達」では、うら若き乙女達が、100mmに及ぶ重装甲を誇るティーガーⅠに乗り込み、アハト・アハトでアメリカ軍装甲部隊を殲滅するという大活躍が描かれたが、部隊員の平均年齢は26歳で少女というには少し無理があると言えるだろう。

 また、大隊長の神岸少佐は映画では赤毛のショートカットが似合うくまのぬいぐるみが好きな美少女となっているが、実際は32歳のゴリラである。

 空軍もまた女性兵士の登用には熱心で、佐藤編成の部隊を幾つか用意し、1944年の戦いに投入している。

 第501統合戦闘航空団の活躍が著名で、同航空団は飛燕Ⅲ型やFw190、連雀を混成装備する制空戦闘機部隊だった。

 一部には、第二次世界大戦最優とされる44式戦闘機を装備しており、航空団司令の坂本少佐も44式戦闘機の初期型に乗って、ミズーリ川湾曲部の戦いで10機以上のP-47を撃墜している。

 44式戦闘機は、北米航空が開発した42式襲撃機のエンジンを高空性能の優れたハ240(1,700馬力)に換装したものである。

 44式戦闘機の発動機換装は実験的なものだったが、発動機換装後の試験飛行でいきなり高度8,000mで最高速力705km/hをマーク。増槽使用時の航続距離は3,700kmに達し、すぐさま量産配備が決定された。

 なお、同じエンジンを装備する飛燕Ⅲ型は同高度で660km/hが限界であり、増槽を使用しても航続距離2,400km前後にとどまった。

 当時、速力に30km/hの速度差があれば、一方的に追撃、離脱が可能で空中戦のイニシアチブが握れると考えられており、同じエンジンを使用してここまで能力に差が生じるのは機体設計の優越以外に理由は存在しなかった。

 戦略爆撃が強化された大戦後半においてニューヨーク爆撃にさえぎりぎり随伴可能な44式戦闘機はもはや戦略戦闘機とさえ言えるほどの存在であり、飛燕Ⅲ型は海軍艦載機用途を除いて速やかに生産が停止された。

 44式戦闘機は原型となった42式襲撃機の愛称アパッチに、その長大な航続距離からロングボウを名を加え、非公式にアパッチ・ロングボウと呼称されていた。

 アパッチ・ロングボウは低空専用の42式襲撃機に擬態して低空を飛行し、釣られたP-47をその卓抜した上昇性能で高高度に釣り上げ、上昇に追随できなくなったところを反転して狩りとった。

 坂本少佐が撃墜したP-47もほとんどが44式戦闘機を42式襲撃機と誤認した米軍機を狩り取るだまし討ちだったとされる。

 戦意高揚映画「ストライク・ウィッチーズ」では、ほとんどが一騎打ちの格闘戦で敵機を撃墜したかのように描かれているが、実際のところはそうだった。

 坂本少佐は戦後に、


「はっはっはっは!騙して悪いが、これも戦争なのでな」


 と、テレビ局の取材に答えている。

 1944年5月1日に始まった日本軍の第二次春季攻勢”大陸打通作戦”2号(オペレーションナンバー2)は、7,800機に及ぶ各種戦術航空機の航空支援によって、戦場上空の制空権を支配した日本軍の勝利に終った。

 というのが、近年まで定説とされてきた。

 だが、戦史研究の進展に伴い戦場の実相に明らかになるに連れて、日本軍の勝利の要因が別にあることが分かってきている。

 日本軍は、1944年の春季攻勢において、北方軍集団および中央軍集団を併せて256個師団が参加し、戦車・各種装甲車両12,000両、火砲32,000門を投入した。

 対するアメリカ軍は、ミズーリ川湾曲部に186個師団を投入。戦車・各種装甲車両8,000両、火砲28,000門を投入していた。

 アメリカ軍はブルドーザーやショベルカーなど、大量の土木建設機械を投入して何重にも及ぶ対戦車壕を構築、さらに大量の対戦車自走砲を配置した縦深陣地は作り上げていた。

 造った当のアメリカ軍でさえ、この防衛ラインは攻略不可能と判断するほどだった。


「アブソリュート・ディフェンスライン」


 などという後で思い出して自分の言葉で思わず赤面するような肩をいからせた単語がニューヨーク・タイムズに掲載されたほどである。

 だが、アメリカ軍が絶対の自信を以って築いた防衛線は僅か2週間で崩壊する。

 日本軍は大規模な対砲兵戦を展開。その戦いでアメリカ軍の砲兵段列を作戦開始から僅か72時間で壊滅させたからである。

 ミズーリ川湾曲部南方戦区にアメリカ軍が投入した8,000門の火砲は、日本軍の攻勢開始から72時間後には4,000門以下まで減殺され、壊乱状態に陥った。

 このような一方的な砲兵戦の勝利は、日本軍が野戦防空のために大量に投入していたレーダーによるところが大きかった。

 日本軍は高精度のマイクロ波レーダーに、飛翔する砲弾が映ることに1941年の段階で気づいており、海軍艦艇の長距離射撃に活用できないか研究開発を進めていた。

 強力な対空砲火を備えた海軍艦艇に接近して水上偵察機などで着弾観測を行うことは既に自殺行為になっており、レーダーを使用した着弾観測技術の確立が急がれていた。

 そうした研究の中で、飛翔する砲弾を観測することで、高度に擬装された隠蔽陣地にこもる敵砲兵を捉え、迅速な対砲兵射撃カウンター・バッテリーを行える可能性が浮上。1943年後半には、初期的な対砲レーダーの前線配備が実現する。

 日本軍は攻勢にあたって強力な準備射撃を行ったが、この砲撃は防衛陣地破壊よりも、アメリカ軍砲兵をおびき出すための罠の意味が強かった。

 アメリカ軍もまた日本軍砲兵壊滅を狙って対砲兵射撃を行ったが、日本軍の砲兵はアメリカ軍の砲撃前に陣地から離脱しており、アメリカ軍のカウンター・バッテリーはほぼ不発に終わっている。

 これはアメリカ軍のカウンター・バッテリーが目視観測や着弾穴から逆算する在来の方法に終始していたためで、日本軍の砲兵はアメリカ軍の反撃が来る前に陣地から離脱することができた。

 対して、日本軍は対砲レーダーでアメリカ軍の砲撃を捉え、最短15分で対砲射撃を実施し、アメリカ軍の砲兵を吹き飛ばした。

 ミズーリ川湾曲部を巡る戦いで、戦後にアメリカ軍将兵が口を揃えて言う、


「こちらが1発撃ったら、日本軍は100発撃ち返してきた」


 というのは、アメリカ軍砲兵が一方的な敗北を喫して、彼らが砲兵支援なしで戦う羽目になったことを歩兵の視点から言い表すものと言えよう。

 砲兵戦というある意味、地味な、戦車や航空機に比べて目立たない部分で、アメリカ軍は致命的な敗北を喫していた。

 第二次世界大戦において、最も大規模な砲兵集団をつくり、運用したのは日本陸軍であったが、1944年の砲兵戦において、日本軍の砲兵戦術はその極致に到達したと言えるだろう。

 なお、日本軍が殊の外、大砲を重視したのは、第一次世界大戦の経験もさることながら、日本陸軍がナポレオンの大陸軍の直系を自認していることも大きい。

 日本陸軍において、ナポレオンと同じ砲兵将校の道を歩むことはエリート・コースなら当然ことであり、砲兵の運用を極めることは日本陸軍の戦術を極めることであった。

 砲兵の壊滅により、アメリカ軍に残された火力支援は航空戦力のみとなった。

 アメリカ陸海軍航空部隊は海軍機や海兵隊機を含めて8,000機もの戦力を投入して、日本軍に対抗した。

 だが、戦闘機部隊を爆装させて航空支援に投入するのは明らかに失策であった。

 P-47はキャディラックのようにゴージャズな如何にもアメリカ的な戦闘機であったが、爆装して低空を飛んでいてはFw190や飛燕Ⅲ型、アパッチ・ロングボウを大量投入する日本軍に生贄を差し出すようなものであった。

 特にフォッケウルフは高度5,000m以下の低空域なら圧倒的な存在であり、P-47は高高度に逃げるしかなく、高高度に逃げるとP-47よりもさらに高速な44式戦闘機が待ち構えていた。

 まさに、


「戦闘機の墓場」


 と言う他無い壊滅的な損害を米国航空部隊は被ることになる。

 海軍の空母艦載機すら投入したこの戦いで、アメリカ軍はベテラン・パイロットが枯渇し、回復不能な打撃を被った。

 もちろん、彼らの航空阻止攻撃は全く無駄なものではなく、日本軍装甲部隊に甚大な被害を齎したことは付記すべきだろう。

 戦闘爆撃機としてP-47は極めて有力な存在で、その爆撃で血祭りに上げられた日本軍戦車は数知れない。

 包囲の輪を閉じようとする日本軍とアメリカ軍が正面から激突したサウス・ダコタ戦車戦において、少なくとも戦闘開始から3日間はアメリカ軍が優勢に戦いを進めることができたのは航空支援が有効に機能してからである。

 M6重戦車や新型のM26重戦車を含むアメリカ軍戦車第6軍は、北上する日本軍第5戦車軍と激突し、両軍併せて3,000両の戦車が激突する史上最大の戦車戦が生起することになった。

 ティーガー並の重装甲を持ちながらも高い運動性や高い砲火力をバランス良く実現したM26重戦車の登場は、日本軍戦車部隊を震撼させた。

 ただし、アメリカ軍もまた日本軍の新型戦車に恐怖していた。

 この戦いで初陣を飾った44式騎兵戦車は日本軍がT-34ショックを受けて、全て発想をソ連式に改めて設計開発した新世代戦車だった。

 55度傾斜した90mmの前面装甲は、この戦車がT-34の強い影響を受けて設計された事を示している。

 車体下部の補助装甲を兼ねる大直径転輪なども、そのままT-34である。

 ただし、車体は生産性に優れた完全な箱型となりT-34にあったスポソン(車体張り出し部)は廃され、サスペンションもクリスティー式ではなく、より地形追従性の高いトーションバーサスペンションだった。

 数珠型と呼ばれる大型砲塔は3人乗りで、バスケット砲塔を備えていた。

 主砲はティーガーと同等の88mm56口径砲であった。

 これだけの機能を備えた戦車を僅か30tで実現したのは、日本の戦車開発技術の高さとソ連式設計の優秀さによるものだろう。

 44式騎兵戦車は戦後開発される日本式戦車の始祖的な存在となった。

 この戦車の車体を拡大してお椀型砲塔と100mm戦車砲を搭載したのが、日本陸軍の戦後第一世代型戦車である54式戦車である。

 54式はロシア帝国でのライセンス生産型(T-55)を含めれば、10万両が生産された戦車の大ベストセラーとなった。

 さらに54式戦車の改良車体に水平対向ディーゼルエンジンと122mm滑腔砲、自動装填装置を搭載したのが64式戦車である。

 64式に複合装甲を備えたものが72式戦車となり、ディーゼルエンジンからガスタービンエンジンに換装したものが80式戦車となる。

 80式戦車をデジタル化したものが90式戦車となり、現在でも改良型のⅢ型が日本陸軍戦車師団の主力を務めている。

 話はやや逸れが、M26重戦車や44式騎兵戦車も投入された数は少なかったものの、どちらも印象的な活躍を果たし、その有用性から大量生産された。

 しかし、日米戦車師団の数的主力はやはり38式歩兵戦車とM4で、どちらも終戦まで生産が継続し、M26や44式が全数を置き換えることは結局できなかった。

 サウス・ダコタ戦車戦は、アメリカ軍の航空戦力が枯渇したことや、後方から追いついた日本軍砲兵軍団の展開により、砲兵火力に勝る日本軍が戦場を制することになる。

 戦車同士の戦いも大規模に発生したが、アメリカ軍の戦車損失の30%は砲兵の阻止砲撃によって発生しており、日本軍の砲兵火力が戦場を制したことが分かる。

 ちなみに、日本軍戦車によって撃破されたアメリカ軍戦車は全体の10%程度だった。

 

「砲兵は戦場の神」


 という言葉が日本軍末端までに浸透し、金科玉条のごとく崇め奉るようになったのも無理はないだろう。

 サウス・ダコタ戦車戦につづいて、それを小規模にしたノース・ダコタ戦車戦も発生するが、もはやアメリカ軍は航空支援も砲兵火力も枯渇しており、こちらはほとんど一方的に日本軍が蹂躙する形で終わっている。

 北方軍集団の先鋒である第3戦車軍と中央軍集団の先鋒がファーゴ市で握手したのは攻勢開始から2週間後のことである。

 これにより、55個師団のアメリカ軍が日本軍の重包囲下に陥った。

 本来ならこれほどの大敗であれば、即座に撤退と脱出作戦が計画されるものであるが、祖国防衛戦争を戦うアメリカ政府にとって、国土を失うことになる撤退は禁忌であり、撤退の判断は遅れるだけ遅れた。

 アメリカ軍はなけなしの爆撃機と輸送機で空中補給を行ったが、さらにアメリカ軍航空部隊の壊滅を促進するだけで、何の意味もなかった。

 戦いは大規模包囲戦を経て追撃戦へと移っていた。

 1944年6月15日には、ミネアポリスが陥落。

 日本軍は休むことなく東進を続け、1944年6月29日には五大湖の湖岸が日本兵の前に現れることになる。

 これにより、アメリカ軍の大部隊が五大湖西岸の狭い地域に閉じ込められることになった。

 事実上、中央アメリカ軍は壊滅状態に陥り、五大湖の湖上輸送で脱出できた僅かな人員を除いて、大半がその編成表から消えることになる。

 8月にはシカゴが包囲され、第二次世界大戦最大の市街戦が始まった。

 

「スターリングラードよりも、下にはまだ下があった」


 とドイツ軍の派遣将校に嘆かせるシカゴの攻防戦である。

 アメリカ第2の都市の全てが都市要塞と化し、多くの市民兵が雑多な小火器を手に自発的に軍に協力して抵抗を行ったのだから、その戦いは地獄の惨状を示すことになる。

 だが、シカゴの抵抗も日本軍の無差別砲撃と絨毯爆撃の前に潰えていった。

 アメリカ軍が1944年の夏に失った兵力は、200万人に達していた。これは1944年当初の総兵力の半数に達し、回復不能な損害であった。

 9月1日には、44式戦闘機の護衛付きで、42式陸攻によるニューヨーク初空襲が行われ、ニューヨーク海軍工廠が大損害を受けることになる。

 もはや、アメリカ軍は総崩れであり、各地で個人レベルの英雄的な敢闘が見られたものの日本軍の侵攻は止められず、1945年には国土の完全占領という悪夢が迫っていた。

 アメリカ合衆国の断末魔の叫びをあげてのたうち回る中、アメリカ唯一の同盟国のイギリス連邦にも最後の時が迫っていた。




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