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WWⅡ メキシコ湾航空戦


WWⅡ メキシコ湾航空戦



 メキシコ湾は、北アメリカ大陸南東部とメキシコ北東部に挟まれた湾である。

 フロリダ海峡を経て大西洋を通じ、メキシコとキューバの間にあるユカタン海峡を経てカリブ海へと通じている。

 メキシコ領のユカタン半島から、フロリダまではおよそ900kmである。

 これは単発の戦闘機でも十分に往復可能な距離だった。

 そして、そこにはアメリカ合衆国最大のオイル・シーレーンが通っていた。

 テキサスの油田地帯から石油積出港を経て、米東海岸に至る北米沿岸石油航路である。

 アメリカ合衆国はモータリーゼーションの先進地域だったが、石油の自給率が低く、石油供給はテキサス共和国からの輸入に頼っていた。

 テキサス共和国は、1846年の米墨戦争(実質的には日本・アメリカ戦争)の結果、日米墨の緩衝地帯国家として独立を果たした。

 産業は当初は綿花栽培ぐらいだったが、20世紀初頭に油田の発見が相次ぎ、1940年代には世界最大級の石油輸出国となっていた。

 テキサス油田の開発は綿花栽培に深く関わっていたイギリス資本で行われ、ロイヤル・ダッチ・シェルの広大な石油採掘施設や精油場があった。

 なお、米墨戦争の講和条約であるポーツマス条約の結果、テキサス共和国は日米英墨がその独立と不可侵を保障する中立国となっており、第二次世界大戦においても中立を守っている。

 中立を守るならば、厳密には軍需物資となる石油をどの陣営にも売ってはいけないことになるのだが、油が売れなくては国家が成り立たないテキサスは連合・枢軸のどちらにも平等に売ることを条件に両陣営の黙認を得ていた。

 日米あるいは墨による保障占領とその後の併合という悪夢が現実に起こり得るテキサス共和国は、その独立を守るために神経をすり減らす外交戦を戦っており、枢軸と連合の間で綱渡り続けているのが実情と言えた。

 実際にアメリカ合衆国は石油輸入の安全確保と称してアメリカ軍の進駐を迫るなど、テキサス共和国に軍事的な圧力をかけていた。

 テキサス共和国にはしぶとくアメリカ合衆国により再併合を望む白人極右勢力があり、1942年3月にはクーデター騒動があったほどである。

 ただし、


「整列して行進するのが好きなバカの集まり」


 と、テキサス・タイムスが揶揄したように、クーデタを起こした極右団体は人生の落伍者がお互いを慰めあう無能の集まりであり、騒ぎは短期間で沈静化した。

 米墨戦争に敗北してから、テキサス共和国への白人移民は総人口の1割までと制限されており、国民の4割がヒスパニックで残りは日系人だった。武装蜂起した白人極右勢力は国民から総スカンを食らっており、クーデタなど成功するはずもなかった。

 アメリカ軍内部には、クーデタ鎮圧と白人系住民保護を名目にテキサスへ侵攻し、そのまま再併する計画さえあったのが、太平洋戦線の崩壊により沙汰止みになっていた。

 もしも、日米どちらかがテキサスの保障占領に及んだ場合、テキサス共和国は国防計画として全ての油田に火を放ち、焦土作戦を行う予定になっていたとされる。

 なお、平等に油を売るという建前があったものの、加州油田を有する日本はテキサスから買うものがなく、大規模な油田を国内にもたないアメリカ合衆国だけがテキサスから戦時の割増価格で石油を買っているというのが実情であった。

 問題は、それをいかにして消費地まで送り届けるか、だった。

 大量輸送となるとやはり海路ということになる。

 アメリカ合衆国はモーターリゼーションが進んだ結果、メキシコ湾から東海岸にいたる石油輸送の沿岸航路が、国家安全保障上のウィークポイントとして浮上することなった。

 北米沿岸航路の防衛はアメリカ海軍の管轄であったが、戦間期の準備はお粗末なものだったと言わざるえない。

 それは大西洋を横断するという極めて効率が悪いはずのドイツ海軍のUボート戦隊による通商破壊戦で、容易に航路寸断がなされたことでも明らかである。

 アメリカ海軍は、日本の復讐戦争を極度に警戒しており(そして、それは正しかった)、その海軍軍備の整備方針は戦艦や空母のような正面装備に偏っていた。

 さらに30年代後半からは、支那事変によりアメリカ軍は泥沼の中華大陸に足を取られることになり、予算は陸戦兵器の開発に充てられ海軍整備の充実は大きな打撃を受けた。

 その結果は無残なもので、日独の仕掛けた潜水艦による航路寸断によって、太平洋や北米沿岸航路はズタズタに寸断されていった。

 Uボートの脅威により、北米沿岸航路は一時期、夜間は航行禁止にまで追い詰められたほどである。

 太平洋においては、立て直しの前に戦線が崩壊し、再起不能となった。

 だが、1943年半ばにもなると戦時生産が軌道に乗り、大量の航空機と護衛艦が配備されるとUボートの沿岸作戦は困難となっていた。

 昼間に北米沿岸でUボートが浮上航行することは自殺行為になり、夜間でさえマイクロ波レーダー装備の対潜哨戒機によって、Uボートは爆雷攻撃を受けた。

 1943年半ばには、哨戒機の活動範囲からUボートは引き上げられることになる。

 だが、メキシコ参戦と日本空軍のユカタン半島進出で、北米沿岸航路は再び重大な脅威に直面した。

 1943年8月以後、ユカタン半島には、太平洋で不要になった大量の対艦攻撃部隊(陸上攻撃機)が進出して、メキシコ湾を航行するオイルタンカーを狩るようになっていった。

 所謂、

 

「タンカー戦争」


 と呼ばれる戦いの始まりである。

 日本空軍対艦攻撃部隊の主力は、最新鋭の42式陸上攻撃機”長元坊”だった。

 既に同じ機体が対米戦略爆撃の主力と成りつつあったが、陸攻の本業は対艦攻撃である。

 長元坊は、一見すると双発爆撃機見えるが、タンデム結合した4基のエンジンをもつ四発高速攻撃機であり、航空魚雷4本を抱いて雷撃が可能だった。

 長元坊の航続距離であれば、メキシコ湾を2往復してもまだ余りあるほどであり、長時間の哨戒・攻撃には最高の機材であった。

 また航空魚雷以外にも新世代の対艦攻撃兵器が続々と実用化されていった。

 対艦誘導噴進弾(ASM)である。

 現在は43式対艦誘導噴進弾と呼ばれる、ごく初期型のASMが初めて実戦使用されたのもメキシコ湾でのことだった。

 当時は秘匿名称として、○大金物(○の中に大が入る)と呼ばれており、一部には桜花という文学的な愛称も用いられた。

 1943年9月9日に、フロリダ半島の沿岸10kmをP-40の護衛付きで航行中だったタンカー船団6隻に対して、日本空軍は戦闘機2個中隊(飛燕Ⅲ型)の援護付きで長元坊1個小隊を発進させた。

 長元坊は、対艦誘導噴進弾を各3発ずつ装備した特別編成の実験部隊だったとされる。

 先行した戦闘機部隊がファイタースィープで護衛のP-40を引きつけている間に、4機の長元坊は偵察機から情報に基づき、高度6,000mから緩急降下して加速。誘導噴進弾発時には、時速830kmまで加速していた。

 迎撃機を振り切った長元坊は、誘導噴進弾を発射。

 3本の固体ロケットを同時点火して加速した桜花は、音速近くまで加速して船団に突入していった。

 これが歴史上初の空対艦ミサイルによる対艦攻撃となった。

 この間、母機の42式陸攻は船団にむけて直進飛行を続けており、激しい対空砲火を浴びることになった。

 発射された桜花は、目視による指令誘導という極初期の対艦ミサイルに用いられた原始的な誘導方式を採用しており、母機は一定時間/距離、目標に向かって直進しなければならなかった。

 端的にいえば、ミサイルを目標までジョイスティックで操作して命中させるものであり、ラジコン飛行機の操作とやっていることは大差なかった。

 照明弾を使用すれば夜間でも攻撃可能だが、概ね昼間のみ使用され、爆撃手はミサイルの尾部にある青いフレアを目印に、目標へとミサイルを誘導した。

 この誘導方式は、爆撃手の技量や天候などに大きく左右される不安定なもので、発射母機は命中まで回避行動をとることができず、極めて脆弱だった。

 高速かつ重武装、重装甲の長元坊でさえ、この初期的な対艦ミサイルを使った攻撃には護衛戦闘機の活躍が必要不可欠だった。

 この時は、飛燕Ⅲ型装備の戦闘機2個中隊がアメリカ軍の戦闘機部隊を制圧しており、戦闘機の妨害は全くなかった。

 天候のコンディションもよく10km以上視界が通る状態だったとされる。

 発射母機は対空砲で1機が撃墜されたものの、残り3機は噴進弾の誘導を継続。

 最終的に発射された12発のうち、5発が3隻のタンカーに命中した。

 1t近い破片効果弾頭(榴弾)が船内で爆発した中型タンカーは深刻な大火災に見舞われて、30分後には沈没した。他の2隻も間もなく同じ運命を辿った。

 誘導噴進弾による攻撃は、命中率としては40%という同時期の理想的な条件下での急降下爆撃に比肩する数値を叩き出しており、圧倒的なコストパフォーマンスを発揮したと判断されるに至る。

 桜花は月産600発の生産体制がとられ、電波妨害対策を施したⅡ型やジェットエンジンに換装して射程距離を延伸したⅢ型、赤外線誘導のⅣ型にまで発展することになる。

 対艦攻撃のみならず、橋梁や重要施設へのピンポイント爆撃にも用いられ、地上戦においても絶大な威力を発揮した。

 なお、指令誘導装置の小型化が困難であるため、桜花は陸上攻撃機の専用装備だった。

 アメリカ軍は、日本空軍が運用する未知の新兵器に一種のパニックを起こし、桜花には存在しないコクピットを描いたイラスト付きの戦訓レポートを作成して、日本軍が組織的に自殺攻撃機の運用を開始したと報道するに至る。

 後に、誤報であったことが明らかになったが、長くアメリカ軍は日本軍が自殺機を組織的に運用していると信じ込み、その対策に狂奔することになった。

 話はやや逸れたが、このような当時のハイテク兵器に対して、より野蛮で力任せの対応も時としては有用であった。


「ロケット弾をとにかくたくさん発射すればいいんじゃないか?」


 そんな発想で生まれたロケット掃射型の長元坊は、航空魚雷4本を格納できる広大な爆弾倉に、斜め下方向に固定装備された多連装ロケット(20連装)ランチャーを5基(100門)を装備して、目標上空をかすめ飛ぶ際にロケット弾の雨を降らせるというものだった。

 旧ソ連製の82mmロケット弾をそのままコピー生産した日本陸軍のロケットランチャーをそのままポン付けした兵器であり、元々は近接航空支援に開発されたものだった。

 だが、幾ら高火力といっても、大型で高価な4発攻撃機にそのような任務に割り当てるのは所要コストに対して割に合わないことは明らかであった。

 そのような任務には単発の戦闘爆撃機で十分であることは少し考えれば分かりそうなものだったが、戦時で予算が青天井だった日本軍は、このような何に使うのか定かではない試作兵器を山のように作っていた。

 開発中止の憂き目にあったロケット掃射機だったが、商船攻撃に使えるのではないかと考えられ、ユカタン半島のメリダ空軍基地へ送られることになる。

 そして、最初の戦闘で大型タンカー1隻(英船籍KAGA号)を火だるまにして撃沈することで、その有用性を証明することになった。

 投下速度に制限がある航空魚雷よりも高速で投弾が可能、しかも急降下爆撃なみの命中精度(個々のロケット弾の命中精度は低いが大量発射によりトータルでは高い)をはじき出せた。 ロケット掃射機は、70機程度がユカタン半島で運用され、陸軍からロケット弾の供給を受けて、終戦まで商船狩りに活躍することになる。

 アメリカ軍はこのロケット掃射機に驚き、空飛ぶ悪魔フライングデビルという仇名をつけて忌嫌った。

 アメリカ軍は日本軍のユカタン半島進出をうけて、フロリダ半島及びキューバ島に航空部隊を送り、多数の戦闘機部隊を展開して日本空軍機を迎え撃った。

 もっとも熾烈な戦いとなったのは、フロリダ海峡上空の戦いであった。

 タンカー船団が大西洋に出るには、必ずフロリダ海峡を通過するためだ。

 この海峡上空の制空権確保は、ニューヨーク防空に匹敵する優先順位を与えられていた。

 アメリカ軍の主力戦闘機は、旧式化しつつあるP-40やP-38、新鋭機のP-47だった。太平洋戦線では日本海軍航空隊に敗れたアメリカ海軍航空隊も新型のF6FやF4Uを陸上展開して日本軍機を迎え撃った。

 船団攻撃とその阻止という戦いの性質上、戦闘機同士の空中戦は低空や中高度で発生することが多かった。

 そのため、P-40やF6Fといった比較的低速ながら、翼面荷重が低い機体が有利に戦うことができた。対艦攻撃機が低空を飛ぶため、護衛戦闘機だけ高高度飛行するわけにはいかなかったのである。

 特に艦上戦闘機のF6Fヘルキャットは、低空で格闘戦に入った場合、フォッケウルフや飛燕Ⅲ型では回り負けてしまう危険があった。


「ヘルキャットとキャットファイトをする奴はバカだ」


 というのが、日本軍戦闘機部隊の合言葉になるほどだった。

 日本軍の戦闘機部隊の主力は飛燕Ⅲ型だが、フロリダ海峡までなら、航続距離が短いFw190でも十分に往復が可能であり、爆装したFw190とそれを護衛するFw190という組み合わせも多かった。

 戦闘爆撃機型のフォッケウルフは、対艦攻撃には250kg爆弾による急降下爆撃、あるいは航空魚雷を用いた。

 単発戦闘機に航空魚雷を搭載した例は、大戦中にはフォッケウルフのみである。

 2,000馬力級の誉発動機は、気難しいところはあったものの、原型のBMW801よりも高出力であったため、このような芸当も可能だった。

 双発艦上爆撃機の42式艦爆も大量に使用され、40式ロケット加速砲弾発射器で、タンカー攻撃を行っている。

 タンカー攻撃に戦艦用の15インチ徹甲弾を用いると船底まで突き抜けてしまうため、使用されたのは軟目標攻撃用の榴弾であった。

 高速の鰹鳥であっても、大量の戦闘機が張り付いたタンカー船団攻撃には多大な犠牲を発生することになり、戦闘機部隊の活躍がなければ早晩、活動は行き詰まっていただろう。

 日本軍は制空権確保のために、精鋭部隊を惜しみなく投入して対応した。


「積乱雲と翼が黄色い奴に出会ったら退避してもいい」


 とアメリカ軍が称するに至った伝説的なエースパイロット集団”黄色中隊”(現、第156戦術戦闘航空団)もメキシコ湾航空戦に投入されている。

 中隊装備機の斑鳩は航続距離が短い迎撃戦闘機だったためユカタン半島の防空戦で活躍した。

 1943年10月15日の空中戦では僅か5機で24機のP-47とB-26の混成編隊を全滅させ、神通力としか言いようがない活躍を見せている。

 そうしたエースの活躍にもかかわらず、メキシコ湾でのタンカー攻撃は、第二次世界大戦における航空戦において最も過酷な戦いであった。

 とある陸上攻撃機のパイロットは、


「俺たちは消耗品だった。ベテランのパイロットでも1ヶ月保たない。中堅で3週間。新品の少尉の寿命は1週間。名前を覚えてもらえない新人は3日。もう何も怖くないとか言い出した奴はその日のうちに死ぬ」


 という当時の極限状況下での生命判断を後に述懐することになる。

 船団上空には、大量のアメリカ軍戦闘機が張り付いており、攻撃隊の生存率は極めて低かった。

 攻撃のたびに日本軍は大打撃を被ったが、日本軍の執拗な攻撃に根をあげたアメリカ軍は、1943年10月末には昼間のフロリダ海峡通行を中止することになる。

 以後、フロリダ海峡の戦いは夜戦へと移るが、夜間の航行もまた1943年末までにはほぼ停止させられることになる。

 あまりにも大量のタンカーが沈められたため、フロリダ半島一帯が漂着した原油で黒く染まったほどだった。

 アメリカは石油輸送を陸上交通に切り替えるが、海上輸送を封じられたことは輸送効率の大幅な低下を招いた。

 さらに、大西洋の海上交通は、カサブランカへ進出した日本海軍空母機動部隊の襲撃を受けるようになっていた。

 1942年12月8日に、パナマ運河を空爆で完全破壊した日本海軍は、太平洋の絶対的な安全を確保するとその戦力を西に振り向けていた。

 インド洋を越えて、スエズ運河を通過し、地中海を経て大西洋へと向かったのである。

 カイロ会談以後、スペインやフランスが参戦し、ジブラルタル要塞が陥落すると、日本海軍は大西洋の拠点として、フランスから北アフリカのカサブランカを借り受けることになる。

 カサブランカ泊地に、最初に到着した日本海軍の大型軍艦は空母剣龍だった。

 ときに1943年3月13日のことである。

 剣龍につづいて祥龍、蟠龍もカサブランカ泊地に集まり、遣欧艦隊司令部が開設された。

 遣欧艦隊司令長官には、太平洋戦線でアメリカ太平洋艦隊を殲滅した真田雪村海軍元帥が就任している。

 もちろん、軍艦だけでは作戦行動は不可能であり、膨大な数の支援艦艇がカサブランカに集められた。

 明石型工作艦だけで6隻も進出し、新造の50,000t級浮きドックを含む6つの浮きドックがはるばる日本本土から運ばれた。

 この他に火砲修理艦や機関修理艦、魚雷整備艦、電探修理艦、発電機修理艦など大量の専従工作艦がカサブランカへと進出していった。

 これらの支援艦艇の他、間宮と呼ばれる給食艦と呼ばれる炊事専門艦さえ日本海軍に存在し、艦内で味噌や醤油、みりん、日本酒を醸造するほどであった。

 21世紀現在、北アフリカで和食のことをMAMIYA料理と称するのは、給食艦間宮の活躍から和食=MAMIYAという誤解が広まったためである。

 これらの支援艦艇の進出に並行して陸の設備の整備されていき、カサブランカには巨大な日本人向け歓楽街が花開くことになる。


「町を一つまるごと移築した」


 と謳われたカサブランカ泊地には、最盛期に10万人の軍属が生活していたとされる。

 日本海軍は大西洋進出に1年のタイムスケジュールを設けており、大西洋戦線で傷ついた艦艇の修理と平行して新造艦をカサブランカに送り出していった。

 遣欧艦隊旗艦に指定された戦艦長門、陸奥がカサブランカに錨を下ろしたのは1943年6月のことである。

 戦艦長門は、先の大戦末期に建造計画され建造途中で廃棄させられた16インチ砲搭載の名を受け継いだ日本海軍待望の”本物”の戦艦だった。

 ヴィットリオ・ヴェネト級の高初速15インチ砲をライセンス生産し、長門はそれを連装4基8門を搭載した。基準排水量40,000tに達する巨大戦艦で、戦艦もどきの金剛型と異なり、自艦の主砲に耐える装甲を備えていた。

 最高速力は30ノットに達し、波穏やかな地中海で31ノットに達する高速を発揮した。

 16インチ砲3連装3基を備えるサウス・ダコタ級戦艦や、アイオワ級戦艦に比べれば、その攻防性能は一歩劣るとされるが、長門型こそ20年以上戦艦建造を禁じられた日本海軍が漸く復活させた新世代戦艦であった。

 惜しむらくは、長門が完成したときには既に海戦の主力は空母と航空機に移り変わっており、3番艦以後は全艦が建造中止になったことだろう。

 最終的に8隻建造される予定だった長門型は、2隻で建造終了し、日本戦艦の歴史は終焉を迎えることになる。

 ただし、長門型用に用意された15インチ砲や、18万馬力を発生する主機関は金剛型戦艦の主砲換装や仏戦艦リシュリュー、伊戦艦インペロの建造に転用され、無駄にはならなかった。

 また、鹵獲戦艦ウォースパイトの主砲や主機関換装にも流用され、ウォースパイト改め戦艦尾張は最高速力28ノットの高速戦艦としてカサブランカに姿を現すことになった。

 戦艦尾張のカサブランカ進出は、1943年8月のことであり、大鳳型空母4隻(大鳳、神鳳、翔鳳、沖鳳)もまた同時期、カサブランカに姿を現した。

 これでカサブランカ泊地の大型正規空母は7隻となり、長門、陸奥、尾張、重巡洋艦12隻、駆逐艦44隻の一大戦力となった。

 9月には、巡洋艦改装の鈴谷型空母8隻がカサブランカに進出し、12月には鹵獲空母のサラトガ改め信濃も艦隊に加わって、大西洋で猛威を奮うことになる。

 空母機動部隊を投入した通商破壊戦は、既にイタリア海軍がファルコ・アクティラ(元日本空母・隼鷹、飛鷹)で実施していたが、大型正規空母を多数投入した正面攻撃は、日本海軍のカサブランカ進出以後のことである。

 1943年8月18日には、


「地獄の釜の底が抜けおちた」


 と称されることになる、空母機動部隊での破滅的な船団攻撃が実施された。

 テキサスやベネゼエラで積み込んだ石油や各種援助物資を満載したポーツマス行きの54隻の巨大船団が、正規空母5隻、軽空母4隻を主力とする日本海軍の機動部隊に補足され、ほぼ全滅することになった。

 護衛には、コルベット8隻とハンター・キラーの護衛空母を旗艦とする対潜艦隊を同行していたのだが、全く無駄だった。

 300機以上の第1線級の機材とパイロットを有する機動部隊の前には、その護りは紙障子に等しく、最初の攻撃で護衛のコルベットや護衛空母が全滅すると、あとは七面鳥狩りの様相を呈した。

 船団攻撃には、カサブランカに進出した伊号、ロ号潜水艦も加わり、54隻の輸送船団のうち、イギリスのポーツマスにたどり着けたのはわずかに4隻であった。

 もちろん、英米海軍も日本の機動部隊が中部大西洋に進出していることは把握していたし、迎撃のために正規空母を含む艦隊を差し向けていた。

 だが、あと一歩のところで間に合わなかった格好である。

 この攻撃を行ったのは、マリアナ沖海戦にも参加した長宗我部森親提督で、長宗我部艦隊は追撃する米大西洋艦隊を振り切って、カサブランカに帰還した。

 なお、この時点で日米機動部隊が激突しなかったのは、カサブランカ泊地の能力が完全ではなく、損傷修理能力に不安があったためである。

 この時点では、大型の正規空母などは重大な損害を受けた場合、南フランスのマルセイユかイタリアのタラント海軍工廠まで戻らないと修理不能であった。

 カサブランカで正規空母の損傷修復できる体制が整ったのは1943年末のことであり、その頃には日本海軍は、大鳳型空母14隻を中心に25隻の高速空母群を投入できるようになっていた。

 さらにカサブランカ泊地に進出した伊号、ロ号潜水艦の数は200隻を超えており、Uボートやイタリア海軍の潜水艦と併せても、常時300隻近い潜水艦が英国本土周辺を封鎖していたことになる。

 その結果は重大なものだった。

 国家経済の血液である石油が大幅に不足し、イギリスの戦時経済は貧血状態に陥ったのである。

 ただし、1943年の戦いは冬季を迎え、大荒れの北大西洋航路のお陰で完全な枯死は免れた。

 厳寒の上、強烈な波浪が吹きすさぶ冬の北大西洋では空母機動部隊は活動不能の上、潜水艦さえも魚雷攻撃が困難だった。

 連合国軍の輸送船団は、アイスランド沖を通過し、限界まで北上してから一気に英国本土近海へ南下するという冬の悪天候を最大限活用した航路をとっていた。

 ただし、この手は北大西洋のみ有効で、中部や南大西洋は破滅的な火力を振りまく日本海軍空母機動部隊と潜水艦艦隊に封鎖されたも同然だった。

 ベネゼエラからの石油輸入は不可能となり、アルゼンチンからの牛肉輸入も途絶えた。

 紅茶の在庫などとっくの昔に払底しており、ロンドン市民は色だけ似ている代用紅茶をさもうまそうに飲んでいたが、その紅茶はとても苦かった。砂糖のストックも尽きかけていた。

 英国全土で燃料の節約が叫ばれ、限界まで冬の暖房が削られたが、枢軸国の通商破壊を打破しないかぎり、次の冬が越せないのは明らかだった。

 イギリス空軍と海軍の燃料割当は、1944年の半ばまでは目処が立っていたが、その後は未定という有様だったからだ。

 アメリカはそれよりもマシだったが、テキサス油田からの石油輸送を海路から鉄道に切り替えたことで著しい効率低下を招いていた。

 タンク貨車の不足で鉄道輸送できる絶対量は海上のタンカー輸送には遠く及ばず、大量の機関車を石油輸送に割り当てることは、必然的に他の輸送計画にしわ寄せがいくことを意味していた。

 燃料不足は軍事作戦にも大打撃を与えており、重油の不足から海軍の作戦にも制限が入った。航空作戦においても練習機の飛行時間に制限がかけられ、パイロットの養成計画も大幅な変更を余儀なくされている。

 大量の燃料を消費する四発重爆撃の生産は大幅に縮小、さらに五大湖周辺の防空強化ための戦闘機の増産に資材が振り向けられることになる。

 1944年になるとアメリカの軍需生産は信じられないほどの大量の戦闘機を前線に送り出すことになるが、それはアメリカ軍の守勢を意味していた。





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