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WWⅡ 北米戦線1943



WWⅡ 北米戦線1943


 1943年春までの日本軍の北米戦線の戦略は守勢防御であった。

 本国の浮沈がかかった極東アジアや太平洋の戦いが片付くまでは北米戦線はひたすら防御に徹する戦いを続けてきた。

 また、そうした戦いが可能だったのは、富士山脈(ロッキー山脈)という天然の要害があることが大きかった。

 高地に築かれた日本軍の陣地は難攻不落の要塞であり、日本軍はアメリカ軍の攻勢を容易く頓挫させることができた。

 富士山脈の東峰に沿って展開する日本軍を相手に、アメリカ軍は攻めあぐねたまま1943年の春を迎えることになる。

 1942年いっぱいの戦いでアジア・太平洋からアメリカ軍を駆逐した日本軍は陸上戦力の大半を北米戦線に集中し、大規模な攻勢作戦を計画していた。

 この時、北米戦線の日本軍は3つの軍集団に分かれていた。

 北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団の3個軍集団で、総兵力はおよそ540万に達していた。

 対するアメリカ軍は動員を繰り返していたものの中国大陸で多くの兵力を失っており、総兵力は300万程度だった。

 それでも十分に凄まじい動員力であり、ドイツ・東部戦線を越える空前絶後、世界最大の地上戦線であった。

 総兵力は日本側が有利になっていたが、決定的なものではないと考えられていた。

 そのため、日米両国は相手の生産力へのダメージを狙って北米大陸で戦略爆撃を強化していた。相手の工業生産を破壊しない限り無限に補充が続くからだ。

 それが可能なだけの生産力が日米双方には存在していた。

 その上で、カナダ・サスカチュワン州の航空基地から発進するB-17やB-24は日本の戦時生産にとって大きな脅威となっていた。

 アメリカ軍の戦略爆撃のターゲットは北米加州油田だった。

 加州油田は日本の生命線である。

 採掘される油質は世界最高峰に近く、特に近代戦において死活的に需要なガソリンの大量精製に適していた。

 産油量ならインドネシアのパレンバン油田も優秀だが、硫黄分が多く、脱硫技術が未熟な1940年代では船舶用燃料としてはともかく、ガソリン精製には不向きだった。

 日本軍は大量の戦闘機と高射砲で油田地帯を防衛していたが、爆撃機の全てを撃墜することはできず製油施設の破壊や操業率の低下を招いていた。

 ただし、西海岸への爆撃は戦闘機の護衛が不可能であるため、アメリカ軍も恐ろしい損害を被っており、継続的な爆撃は不可能だった。

 1回の出撃で10%が撃墜されるのはざらで、出撃機の半数以上は何らかの損傷を受け、修理機がバックヤードで滞留していた。

 戦闘機なしでの戦略爆撃で大損害を被ってるのは日本軍も同様だった。

 日本軍もまた五大湖周辺の工業地帯を戦略爆撃していたが、損害に比して成果は芳しいものではなかった。

 高度8,000mで時速600kmの快速を叩き出す42式陸攻であっても、P-47やP-38を振り切れるほど速いわけではない。ただし、高速の42式陸攻は迎撃のチャンスが限られるため、低速の39式重爆に比べれば生存性は格段に高かった。

 だが、42式陸攻であっても戦闘機の護衛なしでの継続的な空爆はやはり困難であった。

 そこでカナダ・サスカチュワン州を奪取して、西海岸の安全を確保すると共に、北米大陸北部を打通して五大湖周辺まで進出し、護衛戦闘機の発進基地を確保することが求められた。

 カナダ領の五大湖沿岸の都市「サンダー・ベイ」まで進出できれば、ニューヨークさえ42式陸攻の射程圏内に捉え、アメリカ合衆国の心臓である東海岸を爆撃可能となる。

 攻勢発起点の刈狩市から終末点のサンダー・ベイまで直線距離で1800kmの作戦距離をカナダ軍と戦いながら走り抜けるのである。

 それが大陸打通作戦と名付けられた空前絶後の攻勢計画の骨子であった。

 日本軍の正式作戦名称は、1号作戦と名付けられた。

 今日では、後年に撮影された映画のタイトルにも使用されたオペレーション・ナンバーワンと呼ぶ方が一般的であろう。

 作戦の主役を務めるのは北方軍集団で、中央軍集団が側面援護を務めることになった。中央軍集団戦区はミズーリ川まで進出することが求められた。

 激戦が予想される北方軍集団には戦車師団や機械化歩兵師団が集められ、極端なまでの戦力集中を図られた。

 最終的に北方軍集団に集められた戦車師団には18個にも及び、火砲に至っては1kmあたり150門が用意された。火砲の総数は戦線全体で28,000門に達し、装甲車両に至っては9,800両に達している。

 通常形式の火砲に加えて、ロシア戦線で大量に鹵獲され、コピーされたソ連製の多連装ロケット砲も密かに前線に運び込まれ、発射の瞬間を待ちわびていた。

 他の戦区は側面支援と防御に徹する方針だったが、陽動のために航空戦力は強化されており、攻勢開始まで中央軍集団戦区では激しい爆撃作戦が続いた。

 反対に、北方軍集団戦区は戦力が引き抜かれて航空戦力を低下させており、アメリカ軍は航空戦の推移を見て、中央軍集団戦区での攻勢を予想していた。

 なお、北方軍集団戦区での主敵はカナダ軍だった。

 カナダ軍は士気は高かったが軍組織全体と装備の程度は決して高いものではなかった。

 レンドリースで供与された多数のアメリカ軍装備で固めていたので遠目にはアメリカ軍とは変わらなかったが、生産力の限界から機械化率が低く歩兵主体の軍隊だった。

 また、カナダ軍とアメリカ軍は連携が悪く、統一的な軍司令部も持っていなかった。

 両軍にとって北米戦線は祖国防衛戦争の側面があり、自軍の兵隊を他国の指揮下に預けることに抵抗があった。とくにアメリカ軍はカナダ軍の指揮下にはどんな場合でも入ろうとしなかった。

 その逆もまた然りである。

 カナダ軍は自軍の兵隊を祖国の防衛と何の関係もない場所へ送られることを恐れており、アメリカ軍の支援をあてにしながらも、アメリカ軍の指揮下に入ることは拒んでいた。

 カナダ軍は祖国防衛のために、イギリスからの派兵要請さえ断るほどであり、アメリカ軍指揮下に入ることなど全く考慮の外だった。

 そのため、1943年5月15日に、日本軍の大攻勢が開始されると、カナダ軍は進退窮まる事態に陥った。

 日本軍の攻撃はコピー生産したソビエト製の多連装ロケット砲に一斉発射に始まり、28サンチ列車砲から120mm重迫撃砲までにあらゆる種類の火砲が事前準備砲撃を行った。

 日本軍は比較的弱体なカナダ軍の担当戦域をターゲットに集中砲撃と爆撃を行って、津波のように押し寄せてきた。

 装備と練度に優れるアメリカ軍の守備担当地区は事前の航空偵察と諜報活動で把握した上で攻撃目標から外されており、弱体なカナダ軍のみが攻撃を受けた。

 このような日本軍の戦術は前年の満州侵攻作戦でも実施され、有効に機能していた。

 強力なアメリカ軍の防衛する場所は避けて、弱体な同盟国の満州共和国軍の担当区域を集中攻撃して突破。その後、救援のために防衛拠点から移動するアメリカ軍を機動戦で撃滅するというある種の必勝パターンであった。

 実際に、初動においてこの戦術は有効に機能した。

 特に制空権が絶対的なレベルで確保されている場合、前線に移動するアメリカ軍の車列はいいカモだった。

 戦闘団単位で前進する機械化部隊の上空は約3,600機、3個航空艦隊の空軍機によって守られており、攻勢発起から3週間は絶対的な制空権を確保するように厳命されていた。

 日本空軍は、一時的に戦略爆撃を中止して、重爆を阻止爆撃作戦に投入してでも、地上軍の攻勢を支援した。

 大量の爆弾を搭載できる42式陸攻は高い精度で鉄道や橋を爆撃して、アメリカ軍の移動を妨害した。

 1918年春攻勢の再来となった日本軍の大攻勢は1日に50kmも前進し、2週間で700km先のレジャイナを占領するにいたる。

 日本軍の兵站は、膨大な数のトラックによって確保されており、先の大戦のように進撃疲れで動けなくなることはなかった。

 カナダ軍はアメリカ軍の増援到着までなんとか戦線を維持しようとしたが、却って退路を失って包囲殲滅される結果に終わった。

 アメリカ軍の増援は日本軍の激しい阻止爆撃で到着の見込みがなく、そもそもどこへ行くべきかカナダ軍司令部からの的確な情報もなかった。

 カナダ軍は日本軍の戦線突破を許すと砲兵段列や、師団司令部を蹂躙されて壊乱した。

 日本軍の進行速度があまりにも早いので、現在戦闘地点が捕捉できなくなり、カナダ軍は軍団司令部が日本軍の先頭をはしる偵察部隊に補足され、まるごと捕虜になってしまうほどだった。

 この戦いで特に大きな戦功があったのは、第13戦車師団を預けられた楊文里中将であった。 疾風のごとき進行速度は伝説的なものがあり、後方の北方軍集団司令部も彼の戦車師団がどこにいるのか分からなくて、困ったという逸話がある。

 北方軍集団司令部は、彼の戦車師団が突出しすぎていると考え、停止命令を度々出したが無線機が常に故障して停止命令は受電されなかった。 

 逆に航空支援や砲兵支援を求める第13戦車師団からの通信は明瞭に届いたという。

 度重なる命令無視の独断専行で、楊中将の更迭もやむなしとなったが、同じ日に楊中将からレジャイナ突入に成功した報告が届いて沙汰止みになったのはもはや冗談の類である。

 楊中将は中国人留学生として加州に留学していたが、支那事変勃発で祖国に帰ることができなくなり、そのまま日本に帰化した移民一世であった。

 軍人になったのは、奨学金の返済が困難になったためであり、食い詰めて軍という組織に身売りしたというのが実態に近い。

 その勤務態度は周囲をハラハラさせるほど酷いもので、戦争がなければ少佐止まりだったと言われている。

 だが、支那事変観戦武官から戦場でキャリアを積み上げ、戦争の申し子とも言うべき才覚で今孔明という仇名を頂戴することになる。

 ただし、本人には至ってのんきな人物であり、そうした評価を疎んでいたという副官の証言がある。

 カナダの大都市レジャイナ突入もその非凡な才覚が遺憾なく発揮された。

 強固に防衛されたレジャイナ攻略のため、楊中将は師団にいたドイツ系日本人を集め、カナダ軍から奪った軍服を着せて、秘密裏に市中に入れて偵察と破壊工作を行った。

 破壊工作により大混乱に陥ったレジャイナの守備隊本部へ楊中将は戦車部隊を突撃させ、一気にこれを陥落させている。

 後にこの戦法は戦時国際法違反であるとして大問題となり、アメリカ軍からは「ペテン師楊」と呼ばれ、味方からは「魔術師の楊」と呼ばれる原因となった。

 レジャイナ陥落で、大陸打通作戦に弾みがついたが、攻勢開始から3週間もするとアメリカ軍は日本軍の戦略意図に気が付き、反撃は必至だった。

 アメリカ軍は中央アメリカ軍集団を北上させ、鋭い日本軍の槍の柄を折ることにした。

 日本軍北方軍集団もまた攻勢部隊の側面への攻撃を予想していたことから、側面の守りを固めていた。

 1943年6月28日に始まるヴァル・マリー会戦は北方軍集団の側面を食い破ろうとするアメリカ軍6個戦車師団と側面を守る日本軍3個戦車師団の激突であった。

 アメリカ軍は航空戦力を集中させ1,800機規模の航空支援の元で日本軍の防衛ラインに突入した。

 日本軍は野戦早期警戒レーダー網を整備しており、アメリカ軍の空爆は的確に察知されて、激しい迎撃を受けることになった。

 この航空戦で、アメリカ軍戦闘機部隊は意外な敵と戦うことになった。

 ヴァル・マリー上空には、日の丸を描いたFw190戦闘機がいたのだ。

 地上部隊支援に投入されたP-40やP-47は和製フォッケウルフの前に大きな損害を強いられることになる。

 日本合藩国を代表する航空機メーカー、中島飛行機は戦前からフォッケウルフとの関係があり、幕府から資金を得てフォッケウルフの株式を買取るなど親しい関係であった。

 もちろん、フォッケウルフ社の株式は非公開非上場であり、株売買は営利目的ではなく、フォッケウルフ社への資金提供に他ならなかった。

 1941年12月にモスクワが陥落すると日独は鉄道で連絡がとれるようになり、フォッケウルフ社から日本へライセンス生産の依頼があった。

 会社規模が小さいフォッケウルフ社は生産そのものは大半を他社に委ねる方針であった。

 幕府はこの申し出を技術取得や対ドイツ支援として了承し、本国では中島飛行機がライセンス生産を担当した。北米では日本パッカード社(坂本財閥)が担当している。

 ちなみに中島製のFw190はほぼ全てがドイツへ輸出されている。北米戦線で使われたFw190は加州の日本パッカード社の工場で作られたものだった。

 中島飛行機で国産化された和製Fw190とドイツ純正品の相違点は発動機で、中島飛行機は自社製の2,000馬力級空冷発動機「誉」への換装を実施した。

 オリジナルのBMW 801に比べて小型軽量の誉への換装によって、機体各部のカウンターマスが全体的に軽量化され、速度と上昇性能が原型よりも向上した。

 飛行中の前方視界も格段に開けたものとなり、その前方視界の悪さに頭を悩ませてきたルフトヴァッフェのパイロットは和製フォッケウルフを大歓迎した。

 ただし、BMW 801と一体化したエンジン自動運転装置コマンドゲレートは発動機換装で使用不能になり、パイロットによる細かい調整が必要となっていた。

 ドイツへ輸出された誉発動機装備のFw190を分析したクルト・タンク博士は高性能だが、実用性が低下しているというレポートを残している。

 また、誉は生産性や整備性に難があるエンジンだった。

 誉は2,000馬力級の空冷発動機としては、小型軽量小排気量のエンジンだった。

 日本の小型化技術は世界最先端を走っていたが、やや小型化が行き過ぎており、誉は生産に飛び抜けて高い技術が必要な難物になってしまっていた。

 初期の中島飛行機発動機工場で作られた誉は製造不良が続出して、軍から受領を拒否されるなど暗澹たる惨状を示した。

 中島飛行機の武蔵発動機工場は当初は東洋一の発動機工場と称されていたが、技術支援を行った大量生産ありきの自動車メーカーの豊田自動車からすると


「信じられないほど非効率の極み」


 と駄目だしを食らうほど実態は酷いものであり、誉量産化にあたっては豊田自動車の生産技術者を派遣してもらってやっと量産にこぎ着けたという有様だった。

 なお、自動車メーカーの日本パッカード社は特に問題なく誉発動機の大量生産を達成しており、中島飛行機の大量生産技術の低さを物語っている。

 ただし、これは戦間期の航空機生産が年間数十機という手工業レベルであったことを考えれば止む得ないものであり、大量生産ありきの自動車メーカーに生産技術で劣っていることはむしろ当然と言えた。

 奇跡の発動機として中島飛行機は自社製品をアピールしたが、誉はBMW 801と同じ一段二速式過給器装備のエンジンで、高度5,000mより上ではパワーダウンする中低高度向けの発動機だった。

 中島飛行機は過給器開発において他社から遅れをとっており、和製Fw190も制空戦闘機としては運用困難として、主に戦闘爆撃機として生産されることになる。

 なお、武装は13mm機銃を機首2丁、主翼4丁装備で統一された。原型の20mm機関砲4丁に比べると火力が低下していたが、13mm機銃は発射速度が高く弾幕を張れるので練度の低いパイロットでも弾を当てられる利点があった。

 同時期、北米航空で生産していた42式襲撃機は二段二速式過給器を備えたハ240への発動機換装を経て、長距離護衛戦闘機に生産転換されることが決定し、代替の戦闘爆撃機を探していた空軍は、和製フォッケウルフをその任に充てることにした。

 結果、終戦までに本国と加州で和製フォッケウルフが合計12,000機が生産されることになる。

 ヴァル・マリー会戦において、Fw190装備部隊は繰り返し近接航空支援に出撃し、飛来するアメリカ軍機と激戦を繰り広げた。

 対戦車攻撃には、37mmガンポッド装備のFw190が絶大な威力を発揮した。

 生産中止になった39式騎兵戦車用の長砲身37mm砲を転用した急造品だったが、両翼に1門ずつ37mm砲をぶら下げたFw190は戦車の薄い上面装甲を狙って大戦果を挙げた。

 また、高い精度での攻撃が可能な37mm砲は近接航空支援にも有効だった。

 護衛の戦闘機は二段過給器装備の40式戦闘機Ⅲ型だったが、低空域での戦闘ではその高い高高度性能を活かす術がなかった。

 また、機体下面のラジエーターが対空砲火の被弾に弱いという欠点を露呈することになったので、Fw190の護衛はFw190で行われることになる。

 飛燕よりも頑丈でタフなFw190は前線のパイロットから歓迎された。

 整備についてもエンジンを除けば、それまでの日本軍機よりも格段にワークロードが軽減されており、最前線での運用については満点を得ている。

 話は逸れたが、アメリカ軍の反撃を受けた日本軍は戦線と呼べるものを構築しておらず、各地の村落や高地などの防衛に有利な場所を兵力を集め拠点防御方式をとっていた。

 あまりにも土地が広すぎるので、塹壕線を張り巡らすことなど不可能だった。

 このため拠点の間は僅かな警戒線があるのみで、地上戦は拠点に対する攻城戦か、機動部隊同士の遭遇戦だった。

 防衛に有利な地点に拠点を築いた日本軍にアメリカ軍は手を焼くことになる。

 また、日本軍の歩兵師団は必ず1個大隊の突撃砲を装備しており、大平原のような平坦な戦場では車高が低く狙いにくい突撃砲は極めて有効な兵器だった。

 車高が高いM4はこのような戦場では遠距離から目視されてしまうので、突撃砲の長砲身75mm砲で呆気なく撃破された。

 さらに日本軍は急速に歩兵の対戦車火力を高めており、1個分隊に1基は携帯対戦車擲弾発射器パンツァー・ファウストを備えていた。

 ロケット推進の成形炸薬弾を無反動砲で発射するもので、バックブラストが派手なことから前線の兵士からは自殺兵器として忌み嫌われが、歩兵の対戦車戦闘能力は格段に強化された。

 日本軍は迫撃砲で歩兵と戦車を切り離すと、単独で前進してくる戦車をパンツァーファウストで次々と討ち取った。

 だが、歩兵と戦車の分離が上手くいかないと返り討ちに遭うこともしばしばだった。

 日本軍の拠点防御部隊は容易に包囲されたが、包囲された部隊は秩序だった戦闘を継続し、アメリカ軍の兵站線延長を阻止した。

 このため、拠点を無視して後方に進出したアメリカ軍の機動部隊は兵站がもたず進撃停止に陥ったところで、日本軍の機動防御部隊の逆襲を受けることになる。

 ヴァル・マリー会戦において両軍併せて1,200両を超える戦車が激突したが、その中でも特筆すべき働きを果たしたのは両軍の重戦車部隊だった。

 アメリカ軍は、M6重戦車を突破戦闘の先頭に配置していた。

 M6重戦車はアメリカ軍戦車部隊の切り札的な存在で、重防御で長砲身3インチ砲を装備した大型重装甲戦車だった。

 この種の重戦車は侵攻作戦ではインフラに対する負荷が高いため忌避されるものだが、アメリカ合衆国にとって祖国防衛戦である北米戦線の場合は問題にならなかった。

 装甲が比較的薄いM4に対してM6重戦車はその攻防性能から戦車部隊の中核として期待され、5,500両もの大量生産計画が策定された。

 インフラが未整備の満州や中国大陸では運用が困難で、しかも日独の潜水艦作戦で輸送途中で沈められ、戦闘参加できなかったM6重戦車だったが、インフラが整備された自国内ではその威力を遺憾なく発揮して、38式歩兵戦車を遠距離から撃破していった。


「38式はブリキ缶だぜ」


 というのはM6重戦車で大量の日本軍戦車を撃破したアメリカ軍戦車兵の有名なセリフである。

 日本軍は対戦車機関砲装備のFw190を出動させたが、態勢を立て直したアメリカ軍航空部隊により、空爆は阻止されるようになっていた。

 アメリカ軍重戦車部隊の進撃を止めたのは空爆ではなく、同じ重戦車の壁だった。

 地平線に日本軍の戦車とは明らかに異なるシルエットの大型戦車が現れると、M6重戦車は砲塔を吹き飛ばされ、次々と撃破されていった。

 アメリカ製重戦車の進撃を止めたのは、ドイツ製重戦車VI号戦車ティーガーⅠであった。

 生まれはドイツ、生産は日本の第二次世界大戦を代表する重戦車は88mm砲の甲高い発射音を響かせて、北米の地で伝説を打立てることになる。

 ティーガーⅠはドイツ陸軍のT-34ショックが生み出したある種の鬼子だった。

 1941年のヨーロッパ東部戦線において、ドイツ戦車軍団はソビエト製の傑作中戦車T-34やKV-1重戦車にショックを受け、その対策に狂奔することになる。

 だが、その対策が実を結んだころには、ソ連は断末魔の叫びをあげて崩壊していくところだった。

 スターリングラードが陥落し、ソビエトが消滅するとドイツ陸軍は大規模な動員解除を行った。

 東部戦線でドイツが被った凄まじい人的資源の消耗は、即座に大規模な動員解除を行って労働者を生産の現場に戻さないと国家経済が破綻させかねないほどのものだった。


「ドイツ人は決してあの凍りついた大地を忘れることはないだろう」


 とされるほど消耗であった。

 困ったのはT-34対策に開発された新型重戦車である。敵となるべきソビエト戦車群が消滅してしまったのである。

 57tに達する大重量はインフラに対する負担が大きく、さらにⅢ号戦車の3倍に達する高コストが大問題となった。 

 巨大で角ばったシルエットの重戦車ティーガーはヒトラー総統のお気に入りだったが、如何にヒトラー総統をしてもその高コストは擁護不能だった。

 兵站や経済について一家言あるヒトラー総統は泣く泣くⅥ号戦車の量産化を諦めたが、そうなると困るのが開発元のヘンシェル社である。

 戦車の開発費が回収できなくなったのだ。

 東部戦線の消滅によって経営に大穴が空いたヘンシェル社は遠い極東の大国に泣きつくことになる。

 日本も独自にT-34対策を進めていたが、T-34の構成要素を取り入れた新型戦車はその革新さ故に開発が難航していた。

 また、日本は伝統的に海戦兵器や航空兵器に多くの予算を充てており、陸戦兵器の開発にまで十分に手が回っていないのが実情であった。

 それでも列強としては十分満足できるだけのものを量産配備していたが、重戦車となると本国では運用困難として開発の機運さえなかった。

 本国で開発中の新型戦車も重量制限から苦心と試行錯誤を重ねており、50tオーバーの重戦車など考慮の埒外であった。

 だが、アメリカ軍が量産配備を進める新型重戦車に対抗しうる新型戦車の配備は喫緊の課題であり、ヘンシェル社製重戦車の生産ライセンスが結ばれた。

 ライセンス生産は加州の坂本鉄工所で行われ、月産300両を目標に生産体制が整えられた。主砲の88mm戦車砲については既に同等品の88mm高射砲を大量生産しており、生産については全く問題がなかった。

 エンジンは国産品(航空機用の有村V12型エンジンのディチューン版1,000馬力級)に換装するなど、オリジナルよりもパワープラントは強化された。

 ドイツの名誉のために記述するが、これはドイツのエンジン技術が劣るわけではなく、両国のおかれた燃料資源環境の違いによるものである。

 ドイツは燃料資源の不足から、高オクタンのガソリンを航空兵器に集中しており、低品位のガソリンしか戦車には充当できなかった。

 そのためハイオク燃料が前提となる高馬力のエンジンを開発することができず、重戦車ティーガーのパワープラントは不満足なものとなったのである。

 95オクタンのガソリンを戦車に回せる日本軍の方がある意味、異常であった。

 潤沢な燃料資源に支えられた日本製のⅥ号戦車は量産中に生産性の改善や機械的な欠陥が急速に改善され、第二次世界大戦末期まで前線で活躍することになる。

 なお、ポルシェ社も似たような理由で開発中の(しかも、100両分も発注済)の電動式重戦車の発注がキャンセルされ、進退極まったところを日本陸軍に引き取られている。

 所謂、ポルシェ・ティーガーである。

 こちらはドイツ国内で重突撃砲に改造された上で、シベリア鉄道経由でユーラシア大陸を横断して、北米航路を経由して北米戦線に持ち込まれた。

 制式化されなかったので、非公式なものであるが日本軍内では開発者のフェルディナンド・ポルシェから名前をとって、フェルディナンド重突撃砲と呼ばれた。

 なお、この重突撃砲は65tに達する大重量が祟って戦略的機動性が著しく低く、運用には専用のトランスポーターが必須であった。

 また電動モーター駆動という未来的過ぎるエンジンシステムは生産に大量の銅が必要であり、領域内に大銅山を幾つも抱える日本合藩国であっても、フェルディナンドを量産化することは不可能だった。

 フェルディナンドもまたティーガーと共にアメリカ軍迎撃に出動し、その重装甲と長砲身88mm砲によってアメリカ軍戦車を大量に撃破した。

 ティーガーを超える重装甲と火力は前線では大絶賛となり、その報告はヒトラー総統には届けられ総統の自尊心を大いに満足させたとされる。

 気を良くしたヒトラー総統は自国では使うあてが全くない新型重戦車の開発計画のGOサインを出すことになり、これが後に日本で量産化され北米戦線末期に猛威を奮うことになるティーガーⅡ/ヤークトティーガーとして結実することになった。

 話が逸れたが、日本軍の3個戦車師団は獅子奮迅の機動防御を展開、2倍のパットン戦車軍団を阻止することに成功する。

 この戦いで日本軍3個戦車師団を率いてアメリカ軍の側面攻撃を阻止した日本軍指揮官は北米ノイエ・ドイチェラント自治領出身のドイツ系日本人ナイトハルト・ミュラー中将だった。

 ミュラー中将はその巧みな防御戦闘の冴えから、鉄壁ミュラーの名を頂戴することになる。

 金髪碧眼で整ったマスクのミュラー中将は、ナチス・ドイツが理想とするアーリア人種そのものであり、その活躍がヒトラー総統から絶賛されて特別に騎士鉄十字が贈られている。

 この際に飛び出したヒトラー総統の迷言、


「北米で活躍する上品な日本人は皆、ドイツからの移民に違いない」


 は、とても有名である。

 なお、ミュラー中将はナチス・ドイツの人種政策を嫌悪しており、騎士鉄十字を受け取ったのも政治的な要請から仕方なくというものだった。

 アメリカ軍の側面攻撃は阻止されたが、日本軍の侵攻正面にも続々とアメリカ軍が増援を送り込んでおり、激戦となった。

 北方軍集団戦区において、日本軍は1km前進するのに1個師団をすりつぶすような有様となる。

 日本軍は初期において迅速な進撃により広大な占領地を得たが、逆に兵站線が伸び切ってしまいアメリカ軍の反撃も重ねって進撃が止まることになる。

 ただし、第一世界大戦時の戦いを思えば、それさえも折込済みの損害といえた。

 だが、それでも攻勢開始地点から攻勢が止まる8月半ばまでの間に、1,000kmもの前進に成功していた。

 8月18日にはカナダ・マニトバ州の州都ウィニペグが6万人の死傷者を出しつつも陥落し、限界に達した日本軍はそこで止まった。

 カナダ領のサスカチュワン州から連合軍は一掃され、西海岸への戦略爆撃は不可能となった。

 中央戦区でもミズーリ川まで前進に成功し、広大な北米の穀倉地帯が日本の手に落ちた。

 ミズーリ川沿いで最大の激戦となったのはネブラスカ州最大の都市、オマハだった。

 渡河点としても重要なオマハは寸土の土地を奪いあう激戦となり、アメリカ軍が二度奪回して、日本軍が三度占領。最後には全市が焦土と化した。

 オマハ攻防戦は、観戦したドイツ軍のとある派遣将校は、


「私はハリコフにいるかと思った。だが、しばらくするとハリコフの方がまだマシだと気がついた」


 東部戦線の激戦区の一つとなった重要都市ハリコフ攻防戦を超えるオマハ攻防戦は、日本軍の重爆撃機による絨毯爆撃により全市街地が焦土と化して、最終的に日本軍が制するところになる。

 オマハから300km南にはカンザスがあり、東に700km進めば、アメリカ第二の大都市シカゴがあった。

 アメリカ軍は後退を繰り返しながら、ミズーリ川に沿った防衛線を形成し、日本軍の進撃を食い止めようとしていた。

 そして、ミズーリ川に沿った戦線がノース・ダコタ州とサウス・ダコタ州に広がるミズーリ川湾曲部を形成することになる。

 東海岸への爆撃拠点を得ることは叶わなかったが、西海岸への戦略爆撃基地を壊滅させ、その安全を確保したことから日本軍は1943年の春季攻勢を50%の成功と評した。

 その代償として、兵員150万名が死傷して後送された。

 なおアメリカ軍の損害はそれより少ない100万人程度とされるが、戦力の3分の1が死傷し、使い物にならなくなったのは大問題だった。

 カナダ軍はこの戦役で兵員の消耗が限界に達して、徴兵年齢の下限上限の引き下げ、引き上げが行われ老人や子供兵、女性兵士まで前線に投入しなければならない事態に陥っている。

 まともな兵隊がたった一度の攻防戦で払底したカナダ軍は完全に祖国防衛戦争においてその主導権を失って、アメリカ軍の影に隠れることになった。

 兵員の消耗は日米ともに深刻な問題であったが、人口2億人の日本合藩国と1億人のアメリカ合衆国では同じ消耗でも、全く意味が異なっていた。

 最大2,000万人が動員可能な日本軍に対してアメリカ軍は、その半分が限界であり同じペースで消耗を続けていけば、先に干上がるのはアメリカ軍の方だった。

 戦略爆撃と消耗戦略は北米戦線における日本軍の二大戦略として位置づけられ、占領地の建設された重爆用の広大な飛行場から連日、五大湖工業地帯にむけて爆撃機が飛び立つことになる。

 また、日本軍の優勢が北米においても確立されたと考えられ、南北アメリカ大陸諸国はその去就を迫られることになった。

 その中で際立って旗幟を鮮明にしたのがメキシコ共和国だった。

 米墨戦争における徳川幕府の献身を覚えていたメキシコ政府は、北米戦線の日本優位を確認すると枢軸陣営に加わり世界大戦に参戦した。

 既に日墨政府の間では以前から秘密交渉がもたれており、メキシコ参戦と同時にユカタン半島の航空基地へ日本空軍が進出していった。

 メキシコの参戦は間に中立国のテキサス共和国を挟むことから、地上戦を意味しなかったが、メキシコ湾、カリブ海に突き出たユカタン半島に日本空軍が進出したことは重大な意味を持っていた。

 アメリカ合衆国及びイギリス連邦は燃料資源の輸入をテキサス共和国に依存しており、その輸送はカリブ海を経由していた。

 ユカタン半島に進出した日本空軍が大量の陸上攻撃機でタンカー攻撃を行うのは火を見るより明らかであり、連合国の石油供給に対する重大な脅威であった。

 アメリカ軍は激戦の続く北米戦線北部から航空部隊を引き抜き、多数をフロリダ半島に配置。ユカタン半島に展開した日本空軍との間に、空中戦が続発することになる。

 メキシコ湾航空戦の始まりである。





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