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WWⅡ カイロ会談



WWⅡ カイロ会談


 1942年12月8日、アメリカの奇襲参戦の日から1年が経過した。

 この日、太平洋における日本軍の最終攻勢作戦が発動された。

 攻撃目標はパナマ。

 1年前に伊号潜水空母艦隊が攻撃し、破壊したパナマ運河を再度、空母機動部隊を用いて完全破壊することが目的とされた。

 パナマは運河こそ使用不能だったものの、米太平洋艦隊最後の生き残りと若干の潜水艦艦隊が残っており、北米航路への攻撃を継続していた。

 南天の解放やアラスカ、太平洋の島嶼領土の解放を進めてきた日本軍は、太平洋方面の総仕上げとしてアメリカ最後の太平洋拠点、パナマに押し寄せた。

 パナマにはアメリカ軍部隊が駐留していたが、複数の正規空母を含む大艦隊に対抗できる規模ではなく、戦闘そのものは短時間でケリがついた。

 アメリカ政府は太平洋戦線崩壊が明らかになるとパナマへの興味を失っており、運河修復工事もペースダウンしていた。

 12月8日にパナマが大規模な空襲にあったとき、運河の修復率は70%程度のところで工事を中断していたほどだった。

 日本海軍の空襲は、修復工事の途中で放棄された運河を完全破壊して終わり、パナマ運河が第二次世界大戦中にその機能を取り戻すことはなかった。

 パナマにいた在泊艦艇や僅かな潜水艦部隊は壊滅し、日本は太平洋航路の完全な安全を確保するに至る。

 これにより、本国や呂宋、あるいはシベリアなどから大車輪で北米への戦力移送が進むことになる。非効率的な輸送船団ではなく、独航船が経済速度で聖域化した北米航路を行き来するようになり、日本の戦時経済運営は大幅に改善された。

 そして、太平洋での役目を終えた日本海軍はその戦力を再び西へ振り込むけることになる。

 日本海軍の目はインド洋を超えて、その向こうにある地中海のその又向こう。大西洋に向けられていた。

 日の丸を掲げる艦隊が地中海、大西洋に至るにはもう少し後の話になるが、その前に幕府は政治代表と外交使節団を北アフリカのカイロに織り込むことになる。

 所謂、カイロ会談である

 1943年1月12日、枢軸国首脳がエジプトのカイロに集まった。

 この会談には各国の軍事外交政治経済のエキスパートが集い今後の戦争運営方針と戦後処理が討議された。

 この会談に集った首脳は、

 

 ナチス・ドイツ アドルフ・ヒトラー

 イタリア ベニート・ムッソリーニ

 日本 豊臣英頼

 中国 蒋介石

 ロシア アレクサンドル・クテポフ


 の5人で、膨大な数の代表団を率いてカイロに集った。

 またオブザーバーとして、フランス、スペインといった親枢軸中立国の姿もあり、この2国の枢軸側での参戦が近いことを示していた。

 参加国のうちイタリア、中国、ロシアは国力の限界から大きな発言力はなく、カイロ会談は究極的には日独の外交頂上決戦という印象が強かった。

 この戦後世界を占う巨頭会談で、日独は対象的な姿を印象つける。

 各国の首脳陣を無視して一方的に持論をマシンガンのように話し続けるヒトラーに対して、英頼は貴族的な鷹揚で公平な態度ときめ細かい根回しで会議の主導権を握った。

 ドイツ最大の友邦であるイタリアのムッソリーニでさえ、途中からヒトラーの独演会にうんざりして、日本との連携強化に動いたほどだった。

 イタリアとドイツの関係は日本が思っていた緊密なものではなかった。

 ドイツはイタリアのギリシャ侵攻や北アフリカでの軍事的な失敗の尻拭いをさせられたという意識が強く、逆にイタリアはドイツがソ連と戦うためにイギリス軍の地中海戦力をなすりつけられたという被害者意識があって、両国の関係はギクシャクしていた。

 まともな国家元首なら、そうした関係を修復しようとするものだが、ヒトラーはイタリアの不甲斐なさを罵倒するばかりだった。

 イタリアは日本から多数の経済協力と軍需物資の無償支援を取り付けるとあっけなく日本支持の姿勢を打ち出し、多くの日本外交官を拍子抜けさせた。

 ロシアは元より日本の同盟国であり、ソ連兵捕虜抑留を続けるドイツに対して良い印象を持っておらず、蒋介石は日本の支援以外にあてにできるものがないことから、日本支持以外に結論はなかった。

 つまり、ドイツ一人負けだった。

 ヒトラーの独演会は孤立したヒトラーの自己防衛反応的な側面が強く、ぼっちが空元気を振りまいてる図と言えなくもなかった。

 後に英頼は非公式の場で、


「ヒトラーはきっと、まとな恋愛をしたことがないに違いない」


 という辛辣なコメントを残すことになる。

 実際にヒトラーと関係があったとされる姪のゲリ・ラウバルが自殺している。そもそも叔父と姪は近親相姦であって、この事は国家機密となっていた。

 だが、枢軸陣営第2位の軍事大国をぼっちにしておくわけにはいかず、日独は交渉を重ねて一定の結論を得るに至る。

 その結論は、カイロ宣言として発表された。

 カイロ宣言の基本骨子を端的に表現するならば、連合国陣営の条件付き降伏を認め、今次大戦の政治的解決を図ることである。

 既にドイツはイデオロギー上の最大の敵であるソビエトを打倒し、欧州世界の盟主として君臨し、政治的にも経済的にもほしいもの全て手に入れていた。

 日本も先の大戦で失った全ての領土を回復し、太平洋から英米仏を完全に叩き出していた。

 つまり、感情的な面を除けば、既に日独は戦い続ける意義を喪失しており、叶うことならさっさと戦争を止めたいと考えていた。

 特に戦前から綱渡りの国家運営を続けてきたドイツは財政破綻が迫っており、イギリスが降参してくれるなら、多少の妥協は止む得ないと考えていた。

 ドイツの人的資源のダメージは深刻で、2年に渡る東部戦線の戦いで220万人が死傷したドイツ軍は嘗ての精鋭部隊の面影もなく、武装親衛隊は外国人志願兵を募るほど人的資源の確保に困窮している有様だった。

 それに比べれば日本はずっとマシだが、ドイツと異なり現在進行系で北米戦線という世界最大の地上戦を戦っている最中で、膨大な死傷者を出していた。

 日本にはアメリカに対する強烈な復讐感情があったが、ではニューヨークまで進撃してアメリカ全土を制圧しようと考えているわけではない。

 アメリカ太平洋艦隊は既に全滅しており、このぐらいのところで勘弁してやってもいいのではないかという意見が政府内部の本音となっていた。

 戦争に勝ちつつあった日本は、勝ち逃げを狙っており、あとは英米がうんと言ってくれれば、それは達成されるのだ。

 このカイロ宣言に対して、イギリスとアメリカは異なった反応を見せる。

 アメリカは即座に妥協を否定して、勝利の日まで戦い続けるとして徹底抗戦を宣言した。

 途中参戦したアメリカはアジア・太平洋の戦いでは日本に完敗したが、戦時生産が軌道に乗りつつあり、北米戦線は互角の状況で、国内の世論の士気もまだ高かった。

 イギリスはアメリカに1週間おくれてカイロ宣言に対して談話を発表するが、完全拒否とまではいかないが時期尚早という表現をつかって曖昧に否定していた。

 この場合、結局は拒否ではないかと考えるのは早計であり、条件次第ではイギリスは交渉に応じる可能性がでてきたと言えた。

 インド洋から完全に叩き出され、中東は失陥、北アフリカも喪失、ドイツ軍の主力を引きつけてきたソ連が敗北した今となっては、イギリスの勝利はもはやありえず、これ以上の戦争継続は普通に考えて無意味だった。

 それでもイギリスが戦争継続を選んだのは、ジョンブルの意地もあったが、イデオロギー上の理由があった。

 ファシズム勢力に、近代デモクラシー発祥地の地であるイギリスが負けることなどあってはならないとイギリス人達は考えていたのである。

 だが、アメリカと異なり、デモクラシーでは飯は食えないことも理解しており、それがカイロ宣言に対する曖昧な態度になって現れていた。

 なお、このイギリスの反応に驚いたアメリカ政府は膨大な軍需物資の無償支援を行うことでイギリスの戦争参加をつなぎとめようと努力することになる。

 イギリスの曖昧な態度は、有償のレンドリースから、無償支援に切り替えるための瀬戸際交渉だったのではないかという意見もある。

 枢軸に思わせぶりな態度をとると同時にアメリカを慌てさせ無償支援を引き出したことを意図して行ってたとしたら、老獪なイギリス外交の勝利と言えるだろう。

 枢軸の主要国は、アメリカが発表した大量の無償支援の内容を確認し、イギリスの海上交通を完全に破壊しないかぎり、イギリスは交渉に応じないと考えて、大西洋の戦いは新たな段階を迎える。

 なお、カイロ会談にオブザーバーを送ったスペインとフランスは、戦後の発言権を得るため、枢軸同盟に参加して、宣戦布告に至る。

 これが1943年2月1日のことだった。

 スペインの参戦により、イベリア半島の先端にあるジブラルタル要塞はスペイン軍に包囲され、事前に準備を済ませていたドイツ空軍の急速展開と空爆によって壊滅することになる。

 諜報活動でスペインの戦争準備を掴んでいたイギリス軍は、全ての設備を破壊して、撒けるだけの機雷をばら撒いて既に撤退しており、大きな損害はなかった。

 スペイン軍は廃墟になったジブラルタルを占領し、レコンキスタを宣言する。

 大量にばらまかれた機雷の掃海には数週間を要したが、ジブラルタルや対岸のセウタにはイタリア海軍が進出していった。

 イタリア海軍はスエズ経由でインドネシアやイランの石油輸入が始まったことで、ようやく燃料不足から解放され、汚名返上のチャンスが巡ってきた。

 だが、地中海専用に設計されているイタリア海軍は広大な大西洋の戦いでは航続能力が不足しており、自慢のヴィットリオ・ヴェネト級戦艦はセウタにとどめ置かれることになる。

 代わって大活躍したのが、先の大戦の賠償で日本から入手した伊勢型戦艦こと、フランチェスコ・カラッチョロ級だった。

 海軍休日時代に、大改装を施したフランチェスコ・カラッチョロは25ノット、14インチ12門の有力な戦艦としてイタリア海軍に君臨していた。

 太平洋を巡航する日本戦艦らしく十分な航続能力を与えられていたフランチェスコ・カラッチョロは、16ノットで9500海里も走り続けることが可能で、通商破壊戦にはもってこいだった。

 さらに、イタリア海軍は日本から空母2隻を輸入し、艦隊編成に加えて陣容を大幅に強化している。

 イタリアが日本から輸入した空母は、ファルコとアクィラと名付けられた。

 日本海軍に就役していた時は隼鷹、飛鷹と呼ばれていたことがある。

 ファルコとアクィラは所謂商船改造空母だったが、建造途中で戦争が勃発し、本格的な空母として徹底的に作り直されたことから、正規空母並の能力を持っていた。

 マリアナ沖海戦では、日本海軍空母機動部隊の一翼を担った有力艦であった。

 だが、最高速力は25ノットであり、30ノットクラスの艦が揃っている日本海軍では鈍足で使いにくいと船になってしまった。

 低速の20ノットクラスならまだいっそ割り切って使えるのだが、25ノットというのは中途半端な数値であり、20ノットクラスの護衛空母と併せて使うには足が早すぎるし、30ノットクラスの正規空母艦隊では遅すぎて使いづらい船だった。

 ドイツ海軍あたりが聞いたら卒倒するような贅沢な悩みを抱えた日本海軍は、空母航空戦力の不足を痛感して、空母建造に狂奔していたイタリア海軍に接触して、この2隻を譲渡することになった。

 艦載機のおまけ付きでイタリア海軍に譲渡された隼鷹、飛鷹はファルコとアクィラに名を変え得て、元日本艦のフランチェスコ・カラッチョロと共にセウタへ進出。大西洋の通商破壊戦に投入されることになる。

 これにさらにフランス海軍が加わった。

 フランスはアルザス・ロレーヌ地方をドイツに割譲させられたが、北フランスのドイツ軍占領地とフランス軍捕虜の返還を受けて、スペインと歩調を併せて枢軸陣営での参戦となった。

 これにより、北アフリカ、カサブランカにいたフランス海軍は本国へ帰還して、再整備の上で、大西洋の戦いに加わることになる。

 有力な戦艦としては、ノルマンディ、フランドル、ガスコーニュ、ラングドックの4隻が残っており、これもまたイタリア海軍と同様に元日本戦艦の改伊勢型4隻(加州、有砂、台湾、南天)であった。

 いずれも戦間期に大改装を受けており、14インチ12門、25ノットの有力戦艦だった。

 ただし、円筒を組み合わせたような独特の艦橋をもつに至った伊戦艦フランチェスコ・カラッチョロに比べると仏戦艦ノルマンディはダンケルク級によく似た複雑な陰影の塔型艦橋となっている。

 ほぼ同型艦であった伊勢型と改伊勢型であったが、異郷の地で4半世紀近い時間が経過したこともあって、艦容はかなり変化しており、それと指摘されなければ元日本戦艦であることに気付かないほど変わっていた。

 この他に14インチ4連装2基8門という有力な高速戦艦ダンケルク、ストラスブールがいた。ダンケルクとストラスブールは、メルセルケビール海戦においてイギリス海軍の攻撃を受けて損傷してトゥーロンに脱出した過去があり、イギリス海軍に対する復讐感情が強くヴィシー・フランスの参戦を歓迎していた。

 この他にフランス海軍には未完成の15インチ4連装2基8門の新型戦艦ジャンバールとリシュリューがあった。

 この2隻は日本海軍の協力を得て呂宋まで回航され、同地で長門型戦艦用の15インチ砲を搭載して完成することになる。

 イタリア海軍もまた未完成艦のインペロを日本海軍の協力を得て完成させている。

 他に日本海軍は伊仏海軍に鷹型護衛空母を10隻ずつ、松型駆逐艦に至っては80隻を供与するに至っており、その圧倒的な経済力を見せつけていた。

 カイロ会談が日本のペースで進んだのは、この種の軍事援助の存在が大きかった。

 日本は多額の軍事援助をばらまくことで、枢軸同盟内の政治的主導権を握ろうとしていたのである。

 また、艦艇燃料であるインドネシア産の重油や加州で製造される100オクタンガソリンはドイツでは提供不能な資源であり、むしろドイツもそれが必要で日本に頭を下げなければならないほどだった。

 ゴムや錫、ニッケル、マンガン、亜鉛、クロムや銅のような戦略物資も日本は豊富にストックを抱えていた。それを運ぶ船舶もまた膨大な量を保有している。

 ドイツよりも日本を見て動く枢軸国を見てヒトラーが何を考えたのかは不明だが、日本の後援で仏伊海軍の立て直しは急速に進んだ。

 ちなみにドイツも鷹型護衛空母と松型駆逐艦を供与された国の一つで、陸路で地中海へ兵員を運んでイタリア海軍の施設を間借りして母港を確保し、ドイツ初の空母機動部隊が編成された。ただし、供与されたのは空母は3隻にとどまっている。

 これは国産のグラーフ・ツェッペリンの就役が迫っているという事情もあったが、実際にはドイツ空軍のヘルマン・ゲーリング国家元帥の横槍とヒトラーが日本製兵器の供与を人種的な理由から嫌悪したことが大きかった。

 毎週1隻ずつ呂宋の太閤建造所から送り出される鷹型空母は、3分の1が同盟国に供与され運用されることになる。

 もちろん、艦載機は全て日本製であった。

 日本製の護衛空母を編成に加えたフランス艦隊がカサブランカに舞い戻るのは1943年6月に入ってからであるが、高速戦艦ダンケルクを含め6隻の戦艦を擁するフランス海軍のプレゼンスは巨大なものだった。

 イタリア海軍のヴィットリオ・ヴェネト以下戦艦7隻とドイツ海軍のビスマルク、ティルピッツを含めれば枢軸海軍の戦艦は合計15隻に達する。

 これは同時期のイギリス海軍の保有戦艦13隻を上回っていた。

 ただし、アメリカ海軍の大西洋艦隊のサウスダコタ級戦艦4隻、アイオワ級戦艦4隻がスカパ・フローに来ていたので未だ、海軍戦力は枢軸劣勢であった。

 パナマ運河が完全破壊されると太平洋への再侵攻が不可能になったアメリカ海軍は英国本土防衛と大西洋航路防衛に全力を注ぐようになっていた。

 イギリス海軍はインド洋、地中海から駆逐されたが、全力を大西洋の戦いに集中投入する体制を整え、大西洋航路を死守する構えだった。

 1943年前半の大西洋の戦いでは、Uボートの勢いにストップがかけられた。

 対ドイツ夜間戦略爆撃機を中止して多数整備されたイギリス空軍の長距離哨戒機が英国本土やアイスランド、北米から発進し、Uボートを狩っていた。

 さらにイギリス海軍は護衛空母を中心とするハンター・キラーグループを編成し、対Uボート戦に投入した。

 航空対潜哨戒の効果は画期的なものであり、対水上レーダーを搭載したウェリトンやハリファックスなどによって次々にUボートは浮上航行中に撃沈されることになった。

 1943年3月には、1ヶ月のうちに10数隻のUボートが撃沈され、在来のUボート戦術はもはや通用しないことが明らかになった。

 イギリス海軍がハフダフやマイクロ波レーダー、前方投射爆雷、アズディックを戦線に投入し、暗号解読でUボートの襲撃を交わしつつ、Uボートの展開状況を掴んで、これを効果的に沈めていったのだ。

 ドイツ海軍は対策に狂奔することになる。

 この内、比較的短期間に対応できたのはレーダー対策とシュノーケル装備だった。

 いずれも日本海軍からの助言によるもので、日本のロ号潜水艦は既に波長10サンチクラスのマイクロ波レーダに検知するEMS(逆探知装置)を備えていた。

 さらに日本潜水艦はシュノーケルを以前から標準装備しており、EMS付きシュノーケルがUボートにも後付されることになる。

 これよりUボートは潜行したままディーゼルエンジンを駆動して高速航行ができるようになり、哨戒機の接近を早期に探知できるようになった。

 だが、哨戒機が来るたびに深深度に潜行しなければならないため、大幅に稼働率が低下するのは避けられなかった。

 ドイツ海軍は大量のUボートを建造することで効率低下をカバーしようとしていたが、最も効果的な手段は、戦闘機で哨戒機を撃墜することであった。

 1942年12月にスターリングラードが陥落し、東部戦線が終結するとドイツ空軍は全戦力を西部戦線に移し、これまでやりたくてもできなかった哨戒機狩りを行うようになる。

 Uボート基地のあるビスケー湾には、多数の戦闘機部隊が常時滞空して飛来する哨戒機からUボートを守った。

 また、東部戦線に使われていた資材を用いて、新たにノルウェーのトロンハイムに巨大な軍港が建設されることにもなった。

 バルト海は冬の間凍結するためUボートの出撃基地には不適当だからだ。

 ドイツ海軍の水上艦部隊も、戦艦ティルピッツを迎え、破損したビスマルクの修理を終えて、トロンハイムに進出しイギリス海軍を牽制した。

 ヒトラーは英国本土への報復爆撃を指示したが、防空体制を整えたイギリス軍の迎撃により大損害を被る結果に終わっており、これは短時間で命令そのものがなかったことにされた。

 消耗戦にケリをつけて、イギリス空軍を打倒するにはイギリスの海上連絡線を破壊して、軍需物資の流入を止めるしかなかった。

 話が逸れたが、Uボートの稼働率低下によってイギリス有利の体制となったところで、現れたのがイタリア、フランス海軍という増援だった。

 戦艦フランチェスコ・カラッチョロ(伊勢)、クリストーフォロ・コロンボ(日向)及びファルコ(隼鷹)、アクィラ(飛鷹)の4隻を旗艦とする通商破壊艦隊が、大西洋で活動を開始するとイギリス海軍はその対応に追われることになる。

 ファルコ、アクィラの搭載機は、合計111機に達しており、護衛空母で対抗できる戦力ではなかった。

 1943年4月の遊撃戦では、ファルコ、アクィラの攻撃で護衛空母バイターと同行のコルベット数隻の艦隊を全滅させ、3つの船団を壊乱させた。壊乱して独行状態になった輸送船をUボートが攻撃し、1940年ごろのような多大な黒字を稼ぐことができた。

 イギリス海軍は、本国艦隊から高速戦艦と空母を引き抜いてイタリア艦隊を追撃したが、イタリア艦隊はまともには戦わず、大胆な航路変更でこれを振り切った。

 イタリア海軍の空母や日本海軍の活躍を見て、ドイツ海軍も建造途中だった空母グラーフ・ツェッペリンの完成を急ぐことになるが、当面、大西洋で活動できるのはファルコとアクィラの2隻だけだった。

 このため、ベルリンは長期に渡ってイタリアに気を使うことになる。

 ヒトラーは苦虫を噛み潰したが、イタリア海軍は元々、世界有数の海軍国であり、先の大戦で一度海軍が絶滅したドイツ海軍とは比べるべくもないのである。

 ましてや、正規空母16隻あまりを大西洋に送る算段を整えつつある日本海軍と比較することすら無駄だった。

 20世紀の無敵艦隊アルマダ、ジンギスカンの艦隊と後に呼ばれることになる日本海軍欧州派遣艦隊が現れるまで大西洋の戦いは拮抗状態を保ったが、連合国にとって真の脅威は北米大陸の西からやってきた。

 日本軍の1943年春季攻勢である。




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