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WWⅡ 北米戦線1942



WWⅡ 北米戦線1942


 日本合藩国軍は第二次世界大戦勃発後、空軍は旗本八万機(生産数)を掛け声に装備機12,000機体制を目指し、10個航空艦隊を整備しようとしていた。

 1個航空艦隊は定数を1,200機として、1941年12月の段階で、10個航空艦隊のうち編成済みは5個航空艦隊だった。

 ビルマ・インド洋戦線に1個、ロシア遠征に1個、2個が本国周辺展開していたので、北米戦線でアメリカ陸軍航空隊と向き合うのは第3航空艦隊のみであった。

 この戦力のみで、北米戦線を支えるのは無理があった。

 少なくとも攻勢に出られる兵力ではない。

 北米戦線は南端のテキサス共和国国境から、北極海まで南北4,000kmに及ぶのである。

 もちろん北部の不毛なツンドラ地帯に展開する部隊はなかったが、アメリカ国境線だけでおよそ1,500kmの広がりがあった。

 これだけ広い戦線では第一次世界大戦の西部戦線のような切れ目のない塹壕線を築くことは不可能であり、各地の拠点とそれをつなぐ線とその間を自由に機動部隊が動き回る運動戦が北米戦線の基本な戦争様式だった。

 先の大戦において機動戦力といえば騎兵であったが、今次大戦では戦車がその役割を果たすことになる。日米双方の戦車開発競争は過熱して恐竜的な進化を遂げることになるのだが、それはもう少し先の話である。

 少なくとも開戦初期においては両軍ともに攻勢戦略は採用せず、防御拠点の整備に汲々とすることになる。

 日米共に太平洋戦線を重視したためだ。

 ヤマザクラ奇襲に始まる太平洋戦線は、唯一アメリカの望む形で戦争を終わらせられる可能性がある戦いであり、北米戦線の意義は二次的なものだった。

 とりあえず今ある国境線を守れていればそれでいいのだ。

 日本にとっても同様に、本国の失陥はこの戦争の敗北を意味しており、あらゆる戦争資源が本国防衛と太平洋線戦線に投入されることになる。

 よって、1942年を通じて北米戦線に大きな戦いは生じていない

 だが、有利な位置に拠点を構えたい日米双方の間で、小規模な地上戦が起きるのは当然のことだった。

 特に、高峰藩とサウスダコタ州の間にまたがる黒森峰ブラックヒルズは広大な森林地帯が広がり、戦線が入り組んでいたので小戦闘が頻発した。

 現在は、広大な学園都市が築かれている黒森峰であるが、かつては日米が寸土の土地を巡って争う激戦地だった。

 黒森峰の戦いは双方が航空支援を呼び寄せ、日米開戦初期においても比較的、規模の大きい空中戦が起きている。

 なお、開戦当初にアメリカ陸軍航空部隊が実施した航空撃滅戦はほぼ不発に終わっていた。

 日本軍の航空部隊は地上軍支援のため前線の簡易な野戦飛行場に中隊単位で展開し、必要に応じて次々に拠点を変えて移動するので地上で纏めて撃破するのは不可能だった。

 もちろん、それはアメリカ軍の航空部隊とて同様であり、日本軍の反撃も不発に終わっている。

 太平洋戦線のような、孤島に展開した航空部隊がまとめて撃破され無力化されるのとは対照的に、縦深のある大陸での地上航空戦はタフな戦いだった。

 日米の航空部隊は、ともに地上支援に投入される割合が高く、第3航空艦隊の装備機の陣容からもそれが伺える。

 開戦以後、単発急降下爆撃機の39式軽爆の割合が増え、それを援護する40式戦闘機も増えたが、その反対に長距離援護機の39式双発戦闘機や中型爆撃機の割合は減っている。

 第3航空艦隊は地上軍の要求によく応え、近接航空支援を重視したことから小型機の割合が増えていた。

 もちろん、部隊移動を妨害するため戦線後方を叩くことを忘れていないが、どちらかといえば地上軍の直接支援を重視した。

 対して、アメリカ陸軍第7航空軍は近接航空支援よりも、戦線後方を叩くことを重視しており、中型爆撃機の装備率が高かった。

 

「やつらはいつも俺たちを無視して、戦線の後方を叩きたがる」


 というのはアメリカ陸軍が空軍を語るときに用いる常套句だったが、アメリカ軍の航空部隊は地上部隊の緊密な連携よりも独自戦略に従って動いていた。

 この場合、どちらが正しいかは難しいところである。

 前線で低空飛行する近接航空支援は犠牲の大きい戦いであり、旧式化していた39式軽爆は猛烈な勢いで消耗していった。

 場合によっては、歩兵用のボルトアクションライフルさえ対空射撃を行う低空で一日に5,6回も陸軍の支援要請があれば飛ぶである。

 作戦中に被弾することは当然であり、39式軽爆には生産途中から爆弾搭載量を削ってでも防弾鋼板が追加されたのは当然と言えた。

 だが、それでも損害が減らなかった。

 前線には対空砲火以外にも敵戦闘機の脅威があり、アメリカ軍のP-40戦闘機は低空では侮れない強敵だった。

 また、本国防衛戦のために本国で生産される39式軽爆は北米に回らなくなり、北米日本空軍の地上攻撃機部隊は壊滅の危機に瀕することになる。

 この危機を救ったのが、坂本財閥傘下の北米航空ノースアメリカン社で開発中だった42式襲撃機だった。

 北米航空は日本の航空機産業の中では新興のメーカーで、大手との競争を避けて練習機の開発、生産を行っている小規模な会社だった。

 しかし、丁6型練習機(社内名称)の成功で、会社の運命が啓ける。

 制式名称37式高等練習機「黄鶲」はその高い操縦性と生産性、整備の容易さから大戦勃発後に15,000機に達する大量生産が行われ、戦後も生産が続く大ヒット作となった。

 丁6型練習機は操縦訓練だけでなく、対地攻撃、連絡、偵察、救難などに幅広く用いられ、対潜爆弾を搭載して、米潜水艦をも撃沈している。

 丁6型練習機の成功で自信をつけた北米航空社は、39式軽爆のライセンス生産を断り、逆に新型戦闘爆撃機の開発を120日で達成するという逆提案を行って空軍を驚かせた。

 既に戦争も始まっており、予算に余裕があった日本空軍は本当に120日で開発することと試作機1機分のみ予算提供という条件をつけて、北米航空の逆提案を認めた。

 そして、本当に北米航空は112日で新型機を初飛行させ、空軍を驚かせた。

 北米航空が開発した新型機は、同じ北米諸藩の航空機エンジンメーカーの有村エンジン社の一段一速式過給器装着液冷V型12気筒1,300馬力エンジンを搭載し、急降下爆撃も可能で大量の燃料を搭載できる運動性も高い優秀な戦闘爆撃機だった。

 高度4,000m以下なら飛燕Ⅱよりも運動性能が高く、模擬空中戦で飛燕Ⅱを何度も撃墜判定を得るほどだった。

 空軍は狂喜乱舞して、すぐさま制式採用して大量生産を命じている。

 42式襲撃機「銀鶏」が前線に届いたのは1942年3月で、既に対米戦は始まっていた。

 39式軽爆は補充が届かず、高い消耗率から壊滅寸前であり、すぐさま各部隊に銀鶏の配備されていった。

 なお、非公式ながらアメリカの侵略に立ち向かうという意図で、銀鶏にはアパッチというインディアンの部族名が愛称として定着することになる。

 250kg爆弾2発か、ロケット弾12発を搭載して急降下爆撃可能な銀鶏は、近接航空支援において大活躍することになる。

 13mm機銃6丁を備え、爆装していなければ迎撃のP-40戦闘機を返り討ちにした。

 海面高度で時速600kmも出せる銀鶏はP-40から逃げるのも、追撃するのも自由自在だった。

 あまりにも銀鶏の空戦能力が優秀すぎるため、護衛の戦闘機隊がやる気をなくしてしまうほどだった。

 ただし、単段過給器の銀鶏は高高度性能が低く、B-17のような高高度爆撃機の迎撃には使えなかった。P-38のような高高度戦闘機を相手に高高度へ釣り上げられてしまうと一方的に撃墜されてしまった。

 だが、低空で近接航空支援を行っているときに遭遇するのはP-40のような低空戦闘機ばかりだったので特に問題にはならなかった。

 その優秀な成績から銀鶏を高高度戦闘機としても使えないか検討されることになり、二段二速過給器装備のハ240に発動機換装が実施され、今次大戦最優秀戦闘機となる。

 話は少しそれたが、銀鶏配備後も第3航空艦隊の苦闘は続いた。

 何しろ相手はアメリカ本土航空軍であり、戦力差は単純計算で3倍以上あったのだから苦戦は必至である。

 第3航空艦隊が近接航空支援に力を入れたのも戦力差を考えれば当然の戦略だったと言える。自陣近くの地上攻撃なら被弾して不時着してもすぐに友軍に救助される見込みがあった。

 反対に後方への爆撃を重視したアメリカ軍航空部隊は双発爆撃機のB-26やA-20を主力としており、戦線後方に進出する関係で、撃墜された場合パイロットの殆どが捕虜になってしまうため、損失率は割合高くついた。

 アメリカ軍航空部隊のターゲットは戦線後方で行軍中の縦隊や、補給段列、軍用列車などだったが、日本側の対応は素早く、多くのトラックや軍用列車に対空機関砲を搭載して防空能力を強化し、レーダーによる早期警戒網を北米大陸全土に張り巡らせていった。

 レーダーによる対空監視は最前線での近接航空支援においても有用で、敵戦闘機の接近を早期に察知できるため、地上攻撃機は速やかに離脱することができるようになった。

 アメリカ軍は前線配備のレーダーの存在を察知すると、長距離砲で狙撃する戦術を編み出して日本軍の対空レーダーの活動を妨害している。

 なお、この時飛来する砲弾を高精度のマイクロ波レーダーで探知できることに気がついた日本軍は、対砲レーダーを多数整備して迅速な対砲兵戦射撃を行える体制を整え、1944年以後の砲兵戦で、アメリカ軍砲兵部隊に壊滅的大打撃を与えることに成功する。

 話が逸れたが、日米開戦以後の北米航空戦は前線での地上支援に終始していた。

 そうした状況が変化するのは、1942年8月以後だった。

 1942年8月16日、アメリカ軍第7航空軍は320機のB-17を投入し、赤土藩の中心都市、田場市を爆撃した。

 これが北米戦線で初の大規模都市爆撃だった。

 ターゲットになったのは、田場市にある鉄道操車場だったが、大編隊爆撃により多数の流れ弾が市街地に着弾。市民2,450人が犠牲になった。

 この攻撃は早期警戒レーダーによって察知されており、第3航空艦隊は多数の戦闘機を発進させ迎撃したが、その迎撃戦闘は必ずしも有効なものではなかった。

 地上攻撃機の援護に従事していた戦闘機部隊は大型爆撃機の迎撃に不慣れだった。

 また、40式戦闘機Ⅱ型の23mmモーターカノンはB-17にも有効だったが、要撃に参加した機体が僅か33機では爆撃機を護衛するP-38の壁を破ることができなかった。

 逆に12機が撃墜されるという大敗を喫し、北米での戦いに黄色信号が灯ることになる。

 この大敗を受けて日本空軍は、満州の戦いが一段落ついた段階で2個航空艦隊の北米移送を決定する。

 さらに戦略爆撃専門の航空艦隊を新設することになり、これが第6、第7、第8航空艦隊となる。

 さらに北米防空専門の第9航空艦隊が新設されることになるのだが、新設部隊の全戦力が展開完了するのは1944年には入ってからとなる。

 北米に送られたのは、本国防空戦でB-17と戦った防空戦闘機部隊を含む最精鋭の第1航空艦隊とB-17の発進基地を叩くために多数の39式重爆を装備した第4航空艦隊である。

 2個航空艦隊を本国から北米戦線に送るため、正規空母含む多数の護衛空母が動員され、そのためにパナマ作戦は1ヶ月も延期されることになる。

 だが、飛行甲板まで埋め尽くせば一度に正規空母なら200機、護衛空母なら70機は輸送できるため、航空戦力の大洋間輸送にはなくてはならないものだった。

 ただし、航空機輸送任務中に米潜水艦の雷撃を受け空母大鳳が大破。さらに護衛空母神鷹が沈むなど、大損害が発生する。

 ちなみに大鳳は潜水艦の魚雷でガソリンタンクが歪み、燃料が漏れて気化したガソリンが艦内に充満してもう少しで大爆発、轟沈するところだった。

 幸いにも大鳳は沿岸で雷撃を受けたことから、近くの港に戻って修理することで事なきを得た。

 以後、この戦訓を反映してガソリンタンクの周りにはコンクリートを封入する対策がとられることになる。

 大損害にもかかわらず航空機輸送は強行され、多数の防空戦闘機が北米に展開するようになるとアメリカ軍の戦略爆撃機部隊は大損害を出すようになる。

 防空戦闘機隊の主力は”エンテ型の脅威"42式戦闘機「斑鳩」だった。

 斑鳩は23mm機関砲を機首に4門備え、二段二速式過給器を備えた高高度戦闘機であり、高空の凍てつく大気に凍りつかないようにエンジン排気によって機内が暖房されていた。 

 多くの場合、B-17には護衛のP-38がついていたが、42式戦闘機は速力においてP-38に勝り、空戦性能でも凌駕していたので有利な戦いを進めることができた。

 P-38が斑鳩と互角だったのは、急降下性能のみで、爆撃機護衛戦闘では役に立たない能力だった。

 急降下して離脱しては爆撃機の護衛は果たせないからだ。

 風車と称されるほど横転性能の高い斑鳩は、双発故に特に横転性能の低いP-38にとっては天敵に近い存在で、空中戦になれば奇襲以外では一方的な戦いとなった。

 護衛戦闘機としてのP-38の運用には黄色信号が点灯し、より高性能のP-47が登場すると交代して第一線からは退くことになる。

 護衛戦闘機を欠く場合、B-17は多数が撃墜されるようになり、一旦、アメリカ軍の戦略爆撃は下火となった。

 1942年10月になると太平洋戦線で、アメリカ軍の敗北が決定的となり、北米航路が安定化すると多数の重爆撃機が北米に展開し、日本軍による戦略爆撃が始まる。

 最初の爆撃目標としてミズーリ州の最大の都市カンザスがターゲットになった。

 1942年10月25日、日本空軍の爆撃機452機の大編隊がカンザスの中心部に飛来。鉄道関係施設を爆撃した。

 この爆撃もアメリカ軍同様に昼間精密爆撃だったが、大編隊による爆撃で流れ弾がでないはずがなく、多数の市民を巻き添えにする事実上の無差別都市爆撃だった。

 本国を侵略された日本人は見境をなくしている部分があり、アメリカ本土の一般市民に爆弾の雨を降らすことに躊躇はなかった。

 アメリカ軍は迎撃にP-38を多数発進させたが、日本軍の護衛戦闘機の前に敗北し、カンザスは火の海となった。

 日本空軍は、爆撃機の護衛に飛燕Ⅲ型を投入しており、カンザス爆撃には鉄壁の布陣をもって臨んでいた。

 飛燕Ⅲ型は二段二速式過給器装備の倒立V型液冷12気筒ハ240(1,700馬力)を備えており、飛燕タイプの最終生産型で、高度8,000mで時速680kmに達する高高度高速戦闘機に化けていた。

 武装は23mmモータカノンと13機銃4丁と初期型から変更がないが、迎撃戦闘機と戦うなら十分だった。ただし、過給器を配置するスペースが不足した関係で、胴体前部の燃料タンクを潰したために航続距離が増槽込みでも2,000kmまで低下していた。

 これは長距離爆撃機の護衛作戦が増えた大戦後半では大きな問題となり、飛燕Ⅲ型の運命を暗転させることになる。

 長距離護衛の戦闘機として開発された39式双発戦闘機もまた投入されたが、連雀のエンジンは一段一速過給器の有村エンジンのため高高度性能が不足していたことから、爆撃機の間接護衛を務めた。

 連雀は爆撃に先立ってカンザス周辺の航空機基地を強襲して、敵戦闘機をおびき出すファイタースウィープを敢行。多数の戦闘機を撃墜する大戦果を挙げている。

 大量の護衛戦闘機を連れて高高度から侵入する39式重爆も、これまでの戦訓を反映してエンジンの換装(護発動機:1,700馬力)や武装強化(13mm機銃12丁)、防弾鋼板の追加など改良を繰り返して名脈を保っていたが、1942年半ばを過ぎると後継機への切り替えが始まることになる。

 42式陸上攻撃機、長元坊である。

 戦略爆撃を行う陸上攻撃機というのは妙な話であったが、長元坊は雷撃が可能であったことから水平爆撃のみ39式重爆と異なり分類は陸上攻撃機で間違いなかった。

 42式陸攻の開発は、40式陸攻の一年後の1937年に試作発注された。1936年試作発注の40式陸攻は双発雷撃機であったのに対して、42式陸攻は4発雷撃機であった。

 これは40式陸攻の開発中に、双発ではエンジン馬力の限界から機体に十分な防御装備を施すことが困難であるという結論に達したためである。

 実際、40式陸攻は航続距離と速度性能のために防御装備を切り捨てており、極めて被弾に弱く、開戦以来多くの損失を被っていた。主翼のインテグラルタンクが集中的に狙われ、防弾タンクや自動消火装置を搭載しても弱点として残り続けた。

 40式陸攻では戦闘機の護衛がない昼間攻撃は無謀となり、41年半ばには夜間攻撃に転向するか、対潜哨戒に回されることになる。

 これは開発段階で予想されていたことで、その対応策として42式陸攻の開発は進められた。決して日本空軍は航空機の防御や生存性確保を軽視していたわけではない。

 問題は4発機で航空雷撃が可能か、どうかであった。

 航空雷撃は適切な射点につくまでに高い運動性能が必要であり、双発機でなければ不可能というのが、1936年時点の日本空軍の認識であった。

 それでは防御力が不足することが明らかになったから4発陸攻となったが、雷撃ができないのでは意味がなく、42式陸攻の開発において雷撃が可能という条件がついたことから開発が難航した。

 双発機並の運動性を持つ4発機という無理難題を突きつけられたのは、川西重工と呂宋の東亜重工である。

 川西重工は実現不可能として開発から降りたので、呂宋の東亜重工のみが試作発注を受けることになった。

 東亜重工は、航空機開発部門は志保設計主任を中心に詳細な検討の結果、開発中の時期主力航空機用発動機NTD-FC8BIT二段二速過給器装備のV型12気筒液冷エンジンをタンデム結合させれば、双発機並の前方投影面積で4発陸攻は実現可能という結論に達した。

 タンデム結合エンジンは、イタリアの実験機マッキM.C.72に採用されており、技術的に可能といえば可能だった。

 だが、30分回れば十分な速度記録機と異なり、次期主力攻撃機は軍用機として十分な信頼性がなくてはならなかった。

 このため、42式陸攻の開発は難航し、制式採用は1942年にずれ込むことになる。

 斑鳩にも採用されたNTD-FC8BIT二段二速過給器装備のV型12気筒液冷エンジンは1800馬力を発生するので、タンデム結合した場合3,600馬力に達した。

 長元坊はこれで三翅二重反転プロペラを回して、高度8,000mで時速600kmに達し、戦闘機並の速度をもつ高速爆撃機として完成した。

 段差を廃した葉巻型の胴体に遠隔操作式の13mm連装動力銃塔4基、尾部には人力の連装銃塔を備えたので、13mm機銃10丁であった。

 コクピットには18mm防弾鋼板を配して12.7mm機銃に対する完全な防御があった。燃料タンクも防弾化され、3重の自動消火装置を備えている。

 航空魚雷4本が入る爆弾倉には、爆装時には8tまで爆弾を搭載することができた。其の上で、5,300kmを飛び、北米国境からシカゴやデトロイトを爆撃可能だった。

 推進式プロペラ故に降着装置は前輪式となったが、これは斑鳩で既に運用されており、離着陸が容易でパイロットの負担が少ないこともわかった。

 問題は二つのエンジンを連結するギアボックスだった。

 42式陸攻の開発計画の大半がタンデム結合エンジンの開発に費やされており、機体そのものは1年以上前に開発終了しているほどであった。

 タンデム連結エンジンがなんとか実用レベルに達したのが、1942年の末頃とされているが、前線ではギアボック関係の故障が頻発し、稼働率30%が限界だった。

 これは100機用意しても飛べる機体が30機ということで大問題となり、39式重爆を完全に置き換えることは不可能となった。

 だが、日本空軍と東亜重工の不断の努力によって、稼働率は徐々に改善し、1943年には50%まで上昇し、1944年半ばにはギアボックス問題は解決され稼働率は70%まで上昇することになる。

 ギアボックスの改良のみならず、整備方法の改善やマニュアルの改善、大量の予備エンジンを用意するという力技を駆使して、42式陸攻は1944年半ばまでに実用レベルに達した。

 それまでは旧式ながらも信頼性の高い39式重爆と42式陸攻が並行配備された。

 なお、現場のパイロットは革新的な42式陸攻よりも39式重爆に好んで乗りたがった。

 ギアボックス由来の故障が空中で起きた場合、ほぼ確実に墜落する42式陸攻よりもエンジンが一つ、二つ止まっても飛べる39式重爆の方が現場の支持を集めるのは当然だった。

 ただし、42式陸攻の信頼性が向上すると低速の39式重爆は戦闘損失が目立つようになり、45式重爆の実用化で第一線からは引退することになる。

 なお、39式重爆の最終生産型は排気タービン付き誉発動機2,000馬力を備え、高度8,000mで最高速力540km/hに達していたが、それは42式陸攻の巡航速度であり、もはや時勢にあらずとして少数生産で終わっている。

 カンザス爆撃には42式重爆が72機参加しており、およそ560tの爆弾を市街中心部に投下している。

 政権与党であった民主党の大票田であるカンザスが焼き払われたことは、民主党出身のルーズベルト大統領にとって、決して容認できないことだった。

 アメリカ合衆国政府は、カンザス爆撃を戦争犯罪であるとして、撃墜された爆撃機の搭乗員を軍法会議にかけて銃殺刑にしている。

 報復に幕府も、田場市爆撃を行って撃墜されたアメリカ軍爆撃機のクルーを捕虜ではなく、戦争犯罪者として銃殺とした。

 田場市爆撃とカンザス爆撃は北米大陸における戦略爆撃戦争の始まりとなり、日米双方が戦略爆撃にのめり込んでいった。

 なお、戦闘行動半径2600kmで、8tの爆弾を運搬できる42式重爆を有する日本空軍は、五大湖周辺のアメリカ重工業地帯への爆撃を強化し、シカゴやデトロイトが日本空軍の激しい空襲を浴びることにある。

 特に、重工業が集中していたデトロイトは、最優先攻撃目標となった。

 ただし、デトロイト爆撃は戦闘機の護衛が不可能で、高速爆撃機の長元坊であっても、血まみれの爆撃行となった。

 損耗率は一回の爆撃で10%に達しており、高性能な長元坊であっても戦闘機の護衛なしでは大損害を被ることが明らかになる。

 アメリカ軍航空部隊の主力迎撃機はP-38だったが、排気タービンを装備したP-39も加わって、日本の戦略爆撃機部隊が大きな出血を強いられた。

 爆撃機迎撃において特に有効なのはP-39だった。

 P-39はプロペラ軸内に37mm機関砲を装備しており、重装甲の長元坊でさえ1発で撃墜可能だった。

 P-39は死を呼ぶ鰹節として日本軍重爆部隊を恐怖のドン底に叩き落としたのである。

 ただし、排気タービン装備のP-39はエンジンに故障が頻発する欠陥機で、数が少ないのが不幸中の幸いだった。

 また、対戦闘機戦闘では飛燕Ⅲ型に勝るところは何一つなく、殆ど一方的に撃墜されている。欠陥の原因となった排気タービンを除いたP-39も生産されたが、これは存在意義ないほど性能劣悪で、少数生産で終った。

 日本軍重爆部隊は、損害の激しい昼間精密爆撃を中止し、夜間爆撃に切り替えるが爆撃精度は大幅に低下し、事実上の無差別都市爆撃となった。

 アメリカ軍爆撃機も42式戦闘機の迎撃によって甚大な損害を被り、昼間爆撃を中止して夜間爆撃に切り替えており、こちらも無差別都市爆撃となった。

 1943年になると北米航空戦は、夜間航空戦へと移行していった。

 なお、日米ともに北米大陸の中枢である西海岸、東海岸の主要都市を爆撃することはかなわず、より航続距離の長い新型重爆撃機の開発に邁進することになる。

 アメリカ合衆国ではB-29スーパーフォートレスが急ピッチで開発され、日本合藩国でも西海岸から東海岸を爆撃可能な超重爆撃機の実用化を急がれた。




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