表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/44

WWⅡ 南天解放

WWⅡ 南天解放



 1942年8月、マリアナ沖海戦は日本軍の大勝で終った。

 出撃した艦隊の半数を失い、さらに太平洋の稼働空母が0になったアメリカ太平洋艦隊に戦う力は残されていなかった。

 それどころか船を動かす重油にさえ事欠くありさまだった。

 トラック基地に戻った時、キンメル艦隊にはミシシッピ、ルイジアナ、テネシー、ケンタッキー、メリーランド、ウェストバージニアの6隻の超弩級戦艦が残されていた。

 6隻の全てを動かすには燃料が不足しており、止む得ず他の船舶から燃料を抜いて戦艦に充てるという非常措置が採られた。

 トラック環礁には70隻近い船舶、艦船が残っていたがトラックから脱出できたのはその内30隻程度であとは燃料を抜かれて行動不能だった。

 1942年8月15日に日本海軍空母機動部隊がトラックを初空襲したとき、その攻撃が虐殺の様相を呈したのはこのためである。

 雲霞の如く押し寄せた日本軍の航空部隊は泊地に戦艦がいないことを確認すると、仕方がなく残った在泊の艦艇、船舶を攻撃した。殆どの船は燃料を抜かれた民間船舶で、空のタンカーや貨客船、あとは4本煙突の旧式駆逐艦ばかりだった。

 この攻撃により、呆気なく中部太平洋最大の海軍基地は壊滅してしまう。

 戦艦などの大型戦闘艦を逃がすために犠牲になった民間船船は、太平洋上の海上交通にはなくはてならない優秀船舶が多く、アメリカ商船団にとっては大打撃と言えた。

 軍艦を逃がすことを優先して、商船を犠牲にしたこの選択は後々に大きな禍根を残すことになる。

 また、トラック基地が壊滅したことで、太平洋上でアメリカ海軍艦艇は整備補修がままならなくなり、大西洋に撤退するしかなくなった。

 状況は最悪で、もはや総崩れというしかない状況だった。

 無理を重ねてきたツケが一気に溢れ出し、伸び切ったゴムの紐が引きちぎれたかのような有様と言えた。

 トラックを更地にした日本海軍空母部隊は、さらにパラオや日ノマーシャル諸島など、米軍が占領する中部太平洋の島嶼各地を荒らし回り、残っていたアメリカ軍の航空部隊と小規模な警備艦隊などを殲滅した。

 だが、垂涎の獲物である米戦艦は捕捉することはできなかった。

 特に厄介な高速戦艦、コンステレーションとコンスティテューションが発見できなかった。

 探す場所を間違えていたからだ。

 マリアナ沖海戦後、この2隻は最寄りのトラック基地ではなく東へと向かっていた。

 どちらの船も状態は最悪だったが、最寄りのトラック基地が空爆されているのは目に見えており、敢えて危険を犯して東の日ノ出諸島に向かったのである。

 キンケイド提督の賭けは成功し、コンステレーションとコンスティテューションはまだアメリカ軍の制海権が保たれていたエニウェトク環礁で最低限の修理を行うと僅かな駆逐艦と共に佐茂サモア諸島まで撤退に成功する。

 日本艦隊が日ノ出諸島を空爆したころには、マゼラン海峡を漏水と戦いながら通過しているところで、高速戦艦ならでは逃げ足の速さであった。

 このような思い切りのいい逃亡はキンケイド提督の判断による所が大きかった。一度逃げると決めても、他を切り捨てて脱兎のごとく逃げることは難しい。

 ボロボロのコンステレーションと共にニューヨークに帰港したキンケイドは記者団に次のように語っている。


「逃げるのは恥だが、役に立つ」


 だが、多くの人々はそれができずに、プライドを優先してしまうものだった。

 特に政治がからむとその判断がしばしば妥当性を欠くものとなりがちである。

 トラックから花吹諸島のラバウルに逃れた米太平洋艦隊の残存部隊は、さらにオーストラリアに逃れたが、ここで2週間近く足止めを食らうことになる。

 太平洋艦隊の大敗に驚き、恐慌状態に陥ったオーストラリア政府が自国防衛のために、太平洋艦隊の撤退に待ったをかけたのである。

 オーストラリアにも海軍工廠あり、艦隊を支えることができるというのがオーストラリア政府の言い分だったが、現実には不可能だった。

 入れるドックは巡洋艦までしかなく、しかもドックは3つしかなかった。

 民間造船所にもドックはあったが、資源輸出国の常で通貨高によりオーストラリアの造船業は低空飛行を続けており、鋼板の溶接さえ満足にこなせない工員が多数だった。

 燃料の備蓄は半年は保つという話だったが、実際のところは民需用の燃料を含む数字で、艦隊を動かしたら1ヶ月保つかどうかも怪しかった。

 それでも、オーストラリアは艦隊を引き止める必要があった。

 ここでアメリカ軍が撤退したら、オーストラリア政府は死ぬしかない。

 オーストラリア政府は港の入り口を封鎖するなど強硬な態度で、艦隊を引き止めにかかった。それに反発したアメリカ海軍の戦艦が砲口をオーストラリア軍に向けるなど、日本軍と戦う前から内輪もめが始まってしまう。

 オーストラリア政府とアメリカ政府の対話は2週間も続いたが、結論としては艦隊の半分がオーストラリアに残る形でまとまった。

 超弩級戦艦ミシシッピ、ルイジアナ、ケンタッキーが、オーストラリアの自由と民主主義を守るためにシドニーへ残り、戦艦テネシー、メリーランド、ウェストバージニアが大西洋へ撤退することが決まった。

 米本土に撤退するには、オーストラリアからの重油供給がなければ不可能であり、燃料の代金が戦艦3隻という数字だった。

 だが、2週間という時間はあまりにも長過ぎた。

 1分1秒とて黄金より貴重な撤退作戦において、2週間のロスはもはや取り返しのつかない致命的な損失だった。

 しかも、オーストラリア政府には、多くの裏切り者を抱えており、米豪政府の交渉内容は日本にほぼ筒抜けだった。

 艦隊の脱出路についても同様であり、撤退艦隊の行く手には35隻もの伊号、ロ号潜水艦が配置を完了して待ち伏せていた。

 その中にはパナマ運河奇襲を成功させた巨大潜水艦伊号第400潜水艦も含まれていた。

 結論からいえば、大西洋に撤退できた戦艦は1隻もなかった。

 艦隊が陸上基地からのエアカバーから出た瞬間から、伊号第400潜水艦の放つ特殊攻撃機に張り付かれ、大量の潜水艦の襲撃を受けて米戦艦は3隻とも沈められることになる。

 悲惨なのは旗艦メリーランドで魚雷4本が命中して機関が停止。漂流しているところを特殊攻撃機の航空雷撃を受けて撃沈された。

 潜水艦から発進した航空機により撃沈された戦艦は、後にも先にもメリーランド1隻のみであり、非常に不名誉な記録を残すことになってしまった。

 なお、撤退艦隊を率いることになったキンメル提督は、旗艦メリーランドからの退艦を拒否して、沈みゆく船と運命をともにした。

 艦隊が脱出できる見込みが極めて乏しいこの作戦は、その当初から絶望感に包まれており、キンメル提督の最後は絶望による自殺という意見が根強い。

 35隻で始まった撤退作戦のうち、東海岸に無事たどりつけたのはその内の15隻にすぎず、半数がマゼラン海峡を越える前に撃沈されている。

 では、オーストラリアに残った方が良かったのかといえば、それは難しい判断と言えた。

 1942年9月、オーストラリアでは反政府運動が激化し、ついに民衆の武装蜂起に至る。

 その中心となったのは20年前から南天中央の砂漠地帯で、オーストラリア軍を相手にパルチザン活動を続けてきた南天の名族真田家だった。

 当代の真田家当主、真田正幸はゲリラ戦の名手として名高い。

 しかし、その真田勢とて20倍のオーストラリア軍を相手に武装蜂起するのは、


「大博打のはじまりじゃぁッ!!!」


 と、当主自ら家来衆に発破をかけざるえないほど際どい選択であった。

 しかし、かねてから幕府と気脈を通じてきた真田勢は空輸や潜水艦で大量の武器弾薬を南天各地の運び入れていた。

 そうした地下活動を影から支援したのは、もう一つの南天の名族、鍋島家であった。

 鍋島家の当代当主、鍋島尚茂はイギリスによるオーストラリア支配にいち早く恭順の意を示し、徹底抗戦を選んだ真田とは袂を分かつたが、実際には裏でつながっていた。

 そうでなければ、20年に及ぶ真田の抵抗活動など継続できるものではなかった。

 鍋島家は真田勢がゲリラ活動を行う地域で、略奪されることを前提に商業活動を行って物資の提供を行ってきた。

 一方では、オーストラリア政府、軍部を相手に信頼関係を得るため、真田の承認のもとで真田勢の情報を売り渡すなど、綱渡りを続けてきた。

 白豪主義が強化され、オーストラリアの政治経済から日本人は締め出されていったが、鍋島家はその大資本と本国とのつながりを背景に命脈を保ってきた。

 オーストラリア政府は白人優位社会を築くために奔走していたが、現実には遠いイギリス本国よりも遥かに近い日本本国や北米列藩同盟との取引がその経済活動の大半を占めていたことから、その窓口になる鍋島家はオーストラリア経済にはなくてはならない存在だった。

 白豪主義を謳ったところで、南天において白人勢力はマイノリティであって、その資本蓄積は薄かった。南天経済を握っているのは皆、日本人の民族資本であり、白人資本の会社は殆どなかったのである。

 政治権力を利用した経済的な搾取構造を作り上げたところで、資本とノウハウの不足は致命的であり、鍋島家の協力がなければオーストラリア経済は早晩に行き詰まっていただろう。

 だが、そうなれば多くの人々が困窮したことは想像に難くない。

 鍋島尚茂は裏切り者の汚名を着てでも、オーストラリアの政治経済に食い込んで、白豪主義の害悪を少しでも中和する道を選んだと言える。

 また、真田家が非合法の武力闘争に特化する一方、鍋島家は合法路線をとってオーストラリアの白豪主義と戦った。

 鍋島家の資本が入ったマスコミにより政府を刺激しすぎない範囲で反白豪主義キャンペーンや、各地での合法的な言論集会の開催支援。さらに貧困層に落とされた日本人への医療支援に資金を提供した。

 特に文化芸術活動への鍋島家のパトロン活動は大きなものだった。

 南天各地の日本人による文化芸術活動が経済的な締め付けによって資金不足に陥り閉鎖されていく中、その活動を支えた鍋島家の後援はとてつもなく大きな意義をもっていた。

 1920年代、本国から見捨てられたと考えた南天の日本人は多くが悲観主義や厭世主義に傾き、無力感に苛まれていた。

 武力による闘争も大勢を覆すには至らず、真田家のパルチザン活動も大陸中央の砂漠でほそぼそと続けられていたのが実情といえた。

 そうした状況下で、白人勢力に対抗し、日本人が決して白人勢力に劣るものでないと示したのが、文化芸術活動だった。

 鍋島家の豊富な資金により堀内唯生や宮坂勝といった南天出身の画才を発掘し、日本画の巨匠横山大観を度々招いて南天の至るところで展覧会を催した。

 横山大観も文化芸能で白人勢力に対抗する鍋島家の方針に共感し、たびたび南天を訪れて、南天の天地を題材に多くの作品をかきあげた。

 南天中央に位置する巨石卯留々(英名:エアーズロック)は大観が特に好んだ題材で、巨岩図として多くの作品を描いた。

 ただし、その作品の多くがオーストラリア政府の文化弾圧政策により没収、焼却処分されて、残っている絵は数少ない。

 3点残っている大観の巨岩図は3つで、一つは江戸の国立博物館、残りの二つは鍋島家と真田家の私蔵品である。

 また、鍋島家はスポーツの振興にも力を入れた。

 環太平洋における最大の娯楽である野球・ベースボールに多額の出資を行って、今日的な南天野球界を築いたのである。

 鍋島家がオーナーを務める南天ホークスは、環太平洋における野球の祭典であるパシフィック・ベース・ボールクラシック1933年大会において優勝。その後、奇跡の三連覇を成し遂げている。

 1936年大会においては、226事件の余波で日本人社会全体で失地運動が高揚していたことから、影響の波及を恐れたオーストラリア政府が、優勝旗を持ち帰ることを禁止したため、抗議する野球ファンが暴走し、南天各地で騒擾事件が発生した。

 所謂、野球戦争事件である。

 南天各地の大都市で発生した暴動は、1週間に渡る騒乱となり数万人の逮捕者を出し、警察機能が崩壊する事態となった。

 事態を重くみたオーストラリア政府は戒厳令を布告し、軍隊を投入して騒擾を鎮圧したがその過程で軍隊がデモ隊に発砲、数百名が死亡する大惨事となった。

 以後、戒厳令は解除されることなく、オーストラリア軍の武力弾圧と日本人の抵抗運動が熾烈を極めることになる。

 真田家の武力闘争路線に多くの支持者や志願者が集まったのも、野球戦争事件以後のことである。

 たかが野球。されど野球であった。

 なお、オーストラリアの白人層は、野球にはさほど人気がなく、人気スポーツは英国流のテニスとクリケットが主流だった。

 そのため、まさか野球大会の優勝旗の持ち込みを禁止しただけでこのような大暴動になるとは予想していなかったことが当時の政府資料から伺える。

 そして、1942年9月1日、南天は運命の日を迎えることになる。

 南天全土に潜伏した真田勢が一斉に武装蜂起。各地でオーストラリア軍との交戦状態にはいった。

 これまでのテロやゲリラ戦とは全く規模のことなる大規模な軍事攻勢であり、各地の真田勢は潜水艦の密輸や空中投下された武器弾薬で高度に武装化された準正規軍となっていた。

 この武装蜂起は日本軍によって空から支援されており、南天北部では空軍機や空母機動部隊による空爆でオーストラリア軍は壊乱し、各都市に日の丸が翻ることになる。

 決戦となったのはシドニー(和名:新上田)の戦いで、僅か数百名の真田勢が市内各所を制圧し、奪還を試みたオーストラリア軍と激戦となった。

 真田勢を味方したのは新上田の民衆だった。

 多くの人々が武器を手にして集まり、民兵として真田勢と共に戦った。

 新上田の各所には鍋島家の手引により武器が持ち込まれており、先の大戦を戦場で過ごした中高年の一般市民が武器を手にとって集まった。

 都市中心部に陣取った真田勢は、都市を包囲するオーストラリア軍をさかんに挑発し、近距離歩兵戦闘になる市街戦に持ち込もうとした。

 市街地への突入は危険として当初は包囲にとどめていたオーストラリア軍だったが、散発的な銃撃から全面的な戦闘に発展し、市街地奥深くへ侵攻してしまう。

 オーストラリア軍はアメリカから貰った戦車を前面に押し出して市内に突入したが、真田勢には潜水艦で密輸した強力な対戦車火器で武装していた。

 戦間期に日本海軍が戦艦の大口径火砲の代用品として開発していた無反動砲とロケット弾を小型化した対戦車榴弾発器である。

 モンローノイマン効果の弾頭を無反動砲で発射するもので、発射された弾頭をロケットブースターで加速することで長射程を実現していた。

 大型のものは艦上爆撃機に搭載され、戦艦攻撃に使用されていたが小型化されたものは対戦車攻撃用となった。

 真田勢は市街地の高所に潜伏し、数名の対戦車猟兵がチームを組んで行動し、対戦車ロケットを同時発射することで大量の戦車を撃破した。

 対戦車榴弾発射器は反動を相殺するカウンターマスに塩水を使うことから、水がないと使用不能という不利があったが上下水道が整備された市街地では問題なかった。

 また、真田勢はゲリラと俄仕込みの民兵とは思えない歩兵火力でオーストラリア軍を圧倒している。

 ゲリラや民兵の歩兵火力を底上げしたのは日本陸軍の39式自動騎兵銃で(スミトモM1939)であった。

 先の大戦において短機関銃や軽機関銃など日露戦争において会得した戦訓を反映した装備を開戦当初から実戦投入し、一つ頭抜けた先進装備で連合国軍を圧倒した日本陸軍は、シベリアでロシア軍に相手に思わぬ苦戦を強いられた。

 拳銃弾よりも長射程で連射可能なフェデロフM1916を装備した一部のロシア帝国軍は、塹壕戦や市街戦において日本軍の短機関銃装備の挺身隊を射程外からアウトレンジし、多数の日本兵を死傷させたのである。

 幸いなことにフェデロフM1916の配備数は少なく、殆どのロシア兵はボルトアクション式のモシン・ナガンであったことから大事には至らなかった。

 だが、短機関銃の火力不足を痛感していた日本陸軍は鹵獲したフェデロフM1916を本国に持ち帰り、詳細な分析を行って自国のあらゆる歩兵小火器よりも優れていることを認めた。

 フェデロフM1916は日本軍にコピー生産され、大戦末期の北米戦線で実戦投入されたが可動部分が多い設計から砂塵や土煙で故障が頻発したとされる。また、弾薬消費の多さから大量配備には至らなかった。

 しかし、上陸作戦時に短期間で大火力を発揮できればいい海兵隊には打ってつけの武器で、故障についてもきちんとしたメンテナンスさえできていれば問題なかった。

 徴兵された兵士での運用は困難だったが、志願兵で構成される海兵隊なら十分な教育を施すことができるので、メンテナンス問題も解決可能だった。

 だが、戦後にフェデロフから特許料支払いを求める訴訟をおこされてしまったので、フェデロフM1916の生産は戦後まもなくストップしてしまう。

 しかし、フェデロフM1916の革新性は日本陸軍に受け入れられ、フェデロフ的な小銃開発が日本陸軍の銃器開発部門で続けられる。

 第二次大戦が勃発した年に採用された39式自動騎兵銃は、その集大成だった。

 39式自動騎兵銃は、フェデロフM1916同様にショートリコイル方式を踏襲していたが、ポーランドから取得した特許を基礎にローラーロック式を閉鎖機構に採用し、フェデロフM1916よりも泥や埃に強く、故障しにくくなかった。

 なお、ショート・リコイル方式のローラーロック機構を持つ39式自動騎兵銃を開発する過程で、意図せずにロックが解除されてしまう現象が偶然発見されている。

 これを発展させたものがローラー遅延機構であり、39式自動騎兵銃の省力化を図って開発が継続されたが大戦に間に合わず、47式自動騎兵銃の採用が世界初となる。

 39式自動騎兵銃は、隅友財閥傘下の唐澤銃器(現:ジオマトリクス)で開発されたことから、カラサワ・ライフルとも、輸出先のロシア帝国においては、アフタマート・カラサワニコヴァ(AK-39)とも呼ばれている。

 この銃はフルオート射撃と単発のセミオート射撃にも切替可能で、短時間なら短機関銃のような制圧射撃も可能な、端緒期のアサルトライフルだった。

 徴兵された素人でも操作が可能となるように可能かぎり単純化された操作機構と内部構造を持ち、大量生産が可能になるプレス加工を多用していた。

 自動車化した歩兵が車内で取り回ししやすいように全長は88cmまで切り詰められており、直銃床やピストルグリップを持ち、着脱式弾倉など今日的なアサルト・ライフルの全ての要素が出揃っていた。

 なお、弾薬はそれまでのボルトアクションライフル用の7mmスミトモ弾を減装して使用している。もともと7mmスミトモ弾はフルサイズライフルとして下限ぎりぎりの存在であり、アサルトライフル用の中間弾薬に近いものだった。

 7mmスミトモ弾を減装して、その分だけ僅かに弾頭重量を増やした新7mm弾は初速は低下するものの既存のボルトアクションライフルや機関銃からでも発射可能であり、日本軍は弾薬供給体制に大きな混乱もなく、アサルトライフルの採用にこぎつけている。

 量産開始は1941年前半だったが、これは既存兵器の生産優先する軍の方針によるもので、新規生産ラインの確保にこぎつけると大量生産に適した構造だったことから量産配備は急速に進展した。

 1942年9月に南天にも持ちこれ、新上田合戦で大活躍した。

 交戦距離が短い市街戦は、連射可能で取り回しのいいアサルトライフルの独壇場で、ボルトアクションライフル装備のオーストラリア軍はさんざんに打ち破られた。

 新上田合戦は、市街地に突入したオーストラリア軍が大損害を受けて撤退しようとしたところを下水道を利用して背後に現れた真田勢が後方を遮断し、包囲殲滅して終了した。

 最後の方は逃げるオーストラリア軍を民兵の真田勢が背後から撃ちまくるという戦いとは言えないような戦いだったとされる。

 オーストラリア軍は勢いがある時はまだなんとか軍の体裁を保ったが、逆境には極端に弱く、簡単に軍組織が崩壊した。

 全人口の1割程度しかいない白人のみで構成されたオーストラリア軍は兵員を満たすために多くの傭兵を雇い入れていたが、第二次世界大戦勃発で傭兵の求人がほぼ不可能になっていたことから、有色人種(日本人以外)も兵員として受け入れていた。

 新上田合戦では、不利になると士気が低い有色人種の兵士が次々と脱走、投降してしまい軍組織が簡単に崩壊してしまった。

 オーストラリア海軍と空軍は白人のみで構成されていたが、基地の警備運営は有色人種兵を使っていたことから、基地を襲撃されると脆かった。

 悲惨なのはオーストラリア政府の要請で出動したアメリカ軍である。

 本国に帰りたいのに帰ることが出来ず、元流刑地のオーストラリアに島流しにされたあげくに、母国でもない国の政府を守るために戦わさせられるのである。

 しかも、友軍のオーストラリア軍はまったく頼りにならないどころか、脱走者続出で何もしないうちに部隊が崩壊していくのだ。

 崩壊していない部隊は、白人部隊のみでしかもそいつらは民間人への無差別発砲、虐殺を平気で実行するようなサイコ野郎ばかりだった。

 末期的なオーストラリア軍はいつかの囚人部隊を編成しており、犯罪行為そのものを目的に活動している集団がいたのである。あるいは狂信的な白豪主義を掲げる右翼団体が軍から武器を供給されて民間人虐殺を行っていた。

 カオスという他ない状況に放り込まれたアメリカ軍だったが、現地のアメリカ軍はオーストラリア政府と一蓮托生であり、逃げることはできなかった。 

 また、民兵の多くも白人兵のアメリカ軍に敵意をむき出しにしており、各地で日本人民兵とアメリカ軍が衝突した。

 アメリカ軍は装備も優良で訓練も行き届いており、支那事変で対ゲリラ戦を知り尽くしていたため、各地で民兵主体の真田勢を打ち破ったが、弾薬が枯渇すると戦況は絶望的になった。

 本国からの補給はもちろんのこと、オーストラリアの流通経済は停止状態であり、各地の駐屯地に集積されていた分を消費すると弾薬の補給が得られなかった。

 弾薬を生産する工場もそれを運ぶ運送会社もオーストラリア軍への協力を拒否してストライキを行っており、手持ちの弾を撃ち尽くしたらそれまでだった。

 アメリカ軍はオーストラリア軍やその政府ともども海に浮かぶ浮島と化し、浮力を失った順番に人民の海にへ沈んでいった。

 そして、相手は軍律もなければ、国際法の適用も受けないゲリラであり、降伏、投降したアメリカ兵には恐ろしい復讐が待っていた。

 終戦後にアメリカ本国に帰国できたのはアメリカ兵は2,000名足らずである。

 ちなみに、当時オーストラリアに駐留していたアメリカ軍は陸海軍併せて33,000人いたはずである。

 つまり、およそ3万人が消えた計算になる。

 これらの消えたアメリカ人の遺骨収集事業が21世紀現在でも南天の砂漠地帯で続けられている。

 なお、オーストラリアに身を寄せていた戦艦3隻を含む米太平洋艦隊の残余は、新上田の軍港に集まっており、最優先攻撃目標に指定されていた。

 爆薬を満載した特攻艇の自爆攻撃で戦艦ミシシッピ、ルイジアナ、ケンタッキーが大破着底し、その他の艦艇も迫撃砲などの奇襲で破損している。

 動けない船から下りて陸戦に投入された海軍将兵の多くは、その後の市街戦で死亡しており、投降した者も多くが民兵に殺害された。

 洋上に逃れた船も、燃料切れで動けなくなって陸に戻って座礁して放棄されるか、自沈しており、米太平洋艦隊は戦いとも呼べないような戦いの後、全滅することになる。

 オーストラリアから唯一生還し、北米東海岸にたどり着いたのは艦長の独断で撤退した仮装巡洋艦スコーピオン号1隻のみだった。

 後に、仮装巡洋艦スコーピオン艦長ドワイト・ライオネル・タワーズ は自伝「渚にて」を書き、国家の末期的な混乱に巻き込まれた米太平洋艦隊の悲惨な最期を書き上げた。

 最終的にオーストラリア政府がいつごろ崩壊したのかは不明だが、新上田において祖国解放宣言が発表されたのは1942年12月10日のことである。

 現在、この日は南天の祝日となっている。

 そして同じ頃、遠いロシアの大地でソビエト連邦という実験国家もまた滅亡の日を迎えようとしていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ