WWⅡ ノーザンフロント
WWⅡ ノーザンフロント
1942年6月、アメリカ合衆国が作りし偽りの国家、満州共和国が崩壊に向かう中、太平洋の戦いも徐々に熱を帯びていった。
厳寒の冬が過ぎた北太平洋において、日本海軍は大規模な攻勢作戦を展開する。
戦略目標は北太平洋航路の安全確保である。
日本にとって北太平洋航路は北米と本国をつなぐ最短経路であり、アラスカ、アリューシャン列島はその安全確保にとって絶対に奪還しなければならない戦略的要地であった。
また、過去にワシントン講和条約でアメリカに割譲させられた失地であり、これを奪い返すことは日本の戦争目的そのものであった。
日本海軍の太平洋反攻の先鞭のつけたのは、奥千島半島や単冠湾泊地から出撃した明石輝澄中将率いる明石艦隊だった。
その戦力は以下のとおりである。
旗艦 穂高
戦艦 敷島、三笠
空母 隼鷹、飛鷹、大鷹、神鷹
巡洋艦 4隻
駆逐艦 24隻
他、上陸船団30隻
商船改造空母の隼鷹、飛鷹はこれが初陣だった。
さらに開戦前後に大量建造が始まった鷹型空母2隻が参加している。
駆逐艦についても半分が戦時急造型の松型駆逐艦となっていた。
隼鷹、飛鷹は大型客船として建造中だったところに日本参戦となって、建造途中で海軍に買収され徹底的な空母化改装が施されており、中型正規空母並の戦力だった。
より小型な、10,000tクラスの大鷹、神鷹は鷹型と呼ばれる戦時急造の小型空母である。呂宋のマニラにある太閤造船所(東亜重工傘下)に50隻に及ぶ大量発注がなされ、起工から就役まで15ヶ月という脅威的な速度で建造された。
15隻目以降は量産効果でさらに建造速度が早まり起工から就役まで9ヶ月まで短縮され、追加発注によって合計96隻が太閤造船所で建造されることになる。
ほぼ毎週1隻ずつ就役したことから、週刊空母という名の方がよく知られているだろう。
大鷹、神鷹はその最初の2隻であり、この種の簡易量産型空母が前線での運用に耐えられるかどうかを占う重要なテストベッドでもあった。
松型駆逐艦については、1300t級の戦時量産型駆逐艦として240隻の大量発注がなされ、殆どが戦時中に就役した。
また、船体を流用して機関や武装を変更した対潜フリゲート艦も大量建造された。
松型駆逐艦には他にも強行輸送のための高速武装輸送船型が存在し、こちらも52隻が日本海軍で運用された。大きな空きスペースがある高速輸送船型をベースに小型工作艦が24隻整備されて、全世界規模に広がった日本海軍の根拠地で活躍している。
改良型や派生型を含めると松型の総数は500隻程度となり、日本海軍の一大勢力となる。
松型こそ戦時の日本海軍を支えた屋台骨と呼ばれるのはこのためである。
「振り向けば、松がいる」
と揶揄される状況であった。
なお、これらの小型艦の殆どはパートタイムの短期現役将校と徴募水兵によって運用されていた。松型はそのような未熟な兵士でも運用ができるように、可能な限り簡易平準化と自動化が進められていた。
戦後の日本型駆逐艦の基礎が大型の月型や甲型ではなく、松型となったのはその高い自動化による省力運用によるものが大きかった。
話が逸れたが、敵の目から上陸船団を伴う明石艦隊をそらすため、真田艦隊も中部太平洋に進出して、太平洋各地のアメリカ軍の島嶼拠点を空襲した。
真田艦隊の奇襲攻撃は、大鳥島や中道島に始まり、日ノ出群島(英名:マーシャル諸島)の各地で小規模なアメリカ軍の基地が破壊された。
アメリカ太平洋艦隊には、無傷の空母エンタープライズが残されていたからあわよくば、これを誘い出して撃沈したいところだった。
だが、トラック環礁を監視する潜水艦からの報告では、エンタープライズの出港がなかった。
そこで真田艦隊はマリアナ諸島沖を遊弋して、これみよがしに無線通信を行ってエンタープライズの出撃を誘った。
結局エンタープライズは出撃することなく、真田艦隊はマリアナ諸島の各基地を散発的に空襲して帰途につくことになる。
その間に明石艦隊は6月4日に熱田島、神鳴島へ上陸作戦を成功させた。
熱田島や神鳴島にそれぞれ1個大隊規模の守備隊がいたが、1個師団規模の強襲上陸を阻止できるわけがなく、それぞれ1週間程度の戦いの後に降伏している。
同時期、北米大陸の西海岸ではアラスカ首府の大泊地市から南に600kmの役立湾に日本軍が海上輸送され、航空基地を建設している。
これにより大泊地市は日本空軍の空襲圏内に入り、泊地としての機能をほぼ喪失することになる。
日本軍の進撃は順調だったが、その順調さが危険な徴候であった。
アメリカ軍の海軍基地があった蘭人浜には隼鷹、飛鷹の艦載機による空襲が行われたが、この泊地を根城にしていた戦艦コンステレーションとコンスティテューションは洋上に脱出しており、影も形もなかった。
大泊地市の港にも北の女王の姿は見当たらず、日本海軍に緊張が入った。
情報が漏れていて、待ち伏せされている可能性があったからだ。
それならばエンタープライズが動かない理由もわかろうというものだった。
実際、この時日本海軍の作戦情報はアメリカ軍に漏れていた。
これまでの戦いで何隻もの伊号やロ号潜水艦が沈んできたが、中にはすぐに沈まず、駆逐艦の攻撃で航行不能となり浮上降伏を余儀なくされた船もあった。
そのうちの1隻が暗号作成機を処分しないままアメリカ軍に拿捕されており、日本軍の作戦暗号の一部が解読されていたのである。
結果は重大で、真田艦隊の陽動に引っかからないのは当然として、有力な戦艦3隻と空母2隻をもつ明石艦隊をすり抜けて上陸船団から僅か35kmの距離に戦艦コンステレーションとコンスティテューションが突然現れることになる。
既に揚陸作業は済んでいたが、船団を守るのは鷹型空母2隻と松型駆逐艦12隻のみであり、2隻の戦艦と巡洋艦3隻の艦隊に太刀打ちできる戦力ではなかった。
大鷹も新鷹も戦艦の主砲射程距離内に入っており、コンステレーションの14インチ砲弾が降り注いだ。
戦艦の砲撃で空母を沈められる機会など滅多にあることではないからその攻撃は執拗で、徹底的だった。
戦艦の砲弾が作りだす巨大な水柱の囲まれた大鷹はパニックに陥る寸前だったという。
この時の大鷹艦長の落ち着き払った態度は戦史に名高いものであり、
「お味方ではないようです。仕方ありません、皆さん、攻撃準備をお願いします」
と部下にのんびりした口調で語りかけ、パニックをおこしかけた大鷹の混乱を一発で沈静化させたという。
大鷹の格納庫では戦艦の14インチ砲弾が降り注ぐなか、ヤケクソ気味に艦載機発進の準備が行われ、準備が出来た順番に圧縮空気式カタパルトで攻撃隊を発進させた。
僅か軽空母2隻、合計22機の攻撃隊だったが、上空直掩をもたないアメリカ艦隊にこれは致命的な存在だった。
急降下爆撃と魚雷攻撃、さらに低空に下りた戦闘機の銃撃で主砲の射撃は妨害され、アメリカ海軍の奇襲部隊は適切な射点につくことができなかった。
さらに特型や甲型などの大型駆逐艦乗り達から雑木林と揶揄されてきた松型駆逐艦12隻が想像以上の敢闘を見せる。
最大戦速30ノットで突撃した松型駆逐艦12隻、第16水雷戦隊は距離1万mから酸素魚雷48本を発射して魚雷5本命中の大戦果を挙げる。
この時、発射された酸素魚雷は、その長大な射程距離を活かすために新開発された特殊なジャイロスコープを搭載しており、発射後に一定の距離を航走した所で発射前にインプットされた変進運動を行って再度直線航走に移り、反復パターンを幾度か繰り返す平面模索攻撃が可能となっていた。
一般的にはAST(Area Search Torpedo)魚雷という方が有名だろう。ドイツも半年ほど遅れてFat(Flächen-absuch-Torpedo)魚雷という類似品を潜水艦用に実戦投入している。
戦艦を戦艦以外の方法で沈めることに情熱を燃やしてきた日本海軍ならでは特殊兵器であり、酸素魚雷による遠距離攻撃の命中率の低さを補うためのアイデアの一つだった。
開戦初期には間に合わなかったのだが、1942年の半ばを過ぎると既存の酸素魚雷の半数はこの装置を備えるようになっていた。
アメリカ海軍も日本海軍の魚雷が異常な長射程を持つことには気付いていたが、AST魚雷を持っていることは知らなかった。
転舵で魚雷を回避したと思ったら、魚雷が戻ってきて命中するなど想定外の事態であり、潜水艦から雷撃を受けたと勘違いしてしまったほどだった。
酸素魚雷は戦艦なら3本で致命傷で、1本ずつ命中した戦艦コンステレーションとコンスティテューションは沈みこそしなかったものの船団攻撃は不可能となった。
巡洋艦3隻のうち、魚雷が命中した2隻は速度が低下したところを空母艦載機の集中攻撃を浴びて撃沈されている。
空母の魚雷と爆弾の在庫がもう少し多ければ、戦艦2隻も撃沈できていたのではないかと考えるほどの大戦果だった。
戦時急造の松型駆逐艦と鷹型空母で戦艦2隻撃破、巡洋艦1隻撃破、2隻撃沈なのだから、戦果誤認を疑われたほどである。
それまで雑木林と揶揄されていた松型駆逐艦は、熱田島沖海戦以後、海軍戦備の一翼を担うものとして大いなる敬意を勝ちとった。
鷹型空母も無艦橋型ののっぺりとしたスタイルから、凹凸がなく女性的な魅力のない田舎娘、芋の匂いがするといった悪評があったが、以後は一切払拭され、正妻空母というよく分からない敬意を払われる存在となった。
北太平洋の戦いは、最大の脅威だった戦艦コンステレーションとコンスティテューションが撃破されたことで、以後、終息に向かうことになる。
主要な泊地である蘭人浜や大泊地市には、日本空軍の重爆撃機が飛来するようになり、アメリカ海軍の艦艇が安全に休める場所ではなくなっていた。
日本軍がアラスカに押し寄せるのは7月に入ってからことだったが、アメリカ軍は日本軍の攻勢開始前に残存する兵力を駆逐艦や巡洋艦で脱出させており、日本軍の死傷者は事故と同士討ちによるものだった。
アラスカの首府大泊地市は無防備都市を宣言し、無血開城となったのは7月16日のことである。
大泊地市に入城した日本軍はこの日が来ることを待っていた多くの日本人市民に歓呼を以って迎えられることになる。だが、先の大戦の後に入植したアメリカ人植民者の不安げな顔もまた笑顔の日本人と同じぐらい多いものだった。
アラスカはアメリカ統治時代にアメリカ化が最も進んだ旧日本領で、人口の半数がアメリカ人となっていた。
若い世代には、アメリカ時代しか知らない者も多く、アメリカ軍に志願して戦う者もいた。
家族の中で、日本とアメリカに分かれて戦った者もいたほどだ。
日本によるアラスカ解放は複雑な影をこの地におとすことになる。
それはともかくとして、北米航路に突き刺さった棘を抜いた日本海軍は南に目を向けた。
硫黄島の遥か南1200kmの洋上に浮かぶ群島、マリアナ諸島は日米海軍決戦の地として戦史に記録されることになる。




