WWⅡ 満州共和国崩壊
WWⅡ 満州共和国崩壊
1941年12月、第二次世界大戦はアメリカ合衆国が参戦により文字通り、世界規模の広がりをもつ大戦争になった。
アメリカ軍は開戦奇襲で日本本国に上陸して各地で日本軍を打ち破ったが、硫黄島沖海戦が転機となり敗北の坂道を転げ落ちた。
坊ノ岬沖海戦はアメリカ海軍の大敗となって、日本軍は反攻の転機を掴んだが一つの戦いで戦争が終わるような時代は既に終わっており、日米はその強大な生産力で戦力を補充して次の戦いに臨もうとしていた。
この時、日本軍は主に5つの戦線で戦っていた。
1つは対英戦線であるインド洋戦線である。
1941年中の通商破壊とセイロン島攻略、マダガスカル島進駐さらにソコトラ島攻略でイギリスのインド洋航路は封鎖されていた。
インド戦線は地上戦が続くビルマの戦いがあり、乾季到来と共に航空撃滅戦が開始され、空軍の援護下で陸軍がカルカッタへ向けて戦線を押し上げていた。
この方面で戦っている日本軍は多くて3個師団程度であり、主力はイギリス軍捕虜で編成されたインド国民軍だった。
次の雨季が到来する1942年6月までにはカルカッタを陥落させる予定だったが、アメリカ参戦によってカルカッタ占領の野望はご破産となり、膠着状態が続いていた。
また、それで特に問題なかった。
征服するにはインドは広く、人が多すぎたからだ。
インド洋航路さえ封鎖していれば日本の戦略目標は達成されるのだから、地上戦を戦う意味のない場所だった。
日本がチャンドラ・ボースのインド国民軍を支援しているのは、インドを混乱状態にしてイギリスの足を引っ張るためであり、インド全土の解放など夢物語と考えられていた。
それよりも多少、優先度が高いのはスエズ経由の日独の海上連絡路開設だった。
ただし、これはドイツアフリカ軍団のエジプト征服とスエズ占領が大前提である。
なお、北アフリカ戦線は進捗が捗々しくなかった。
1941年12月にトブルクを陥落させドイツ軍史上最年少の元帥に昇進したロンメル率いるDAKは、これまでの北アフリカでの連戦で激しく消耗しており、エジプト侵攻のために補給と休養が必要だった。
DAKのエジプト侵攻が始まるのは1942年2月に入ってからであり、守りを固めるイギリス軍との間ではまだまだ激戦が続く見込みだった。
イギリスはスエズを枢軸に渡さないために出来る限りのことはするだろうし、スエズを手放すにしても廃船などを沈めて運河を使用不能にするのは目に見えていた。
イギリス軍を排除し、スエズ運河を復旧するのはドイツの仕事であり、日独の海上連絡路開設はあとはドイツの努力次第だと、幕府は突き放して考えている節があった。
日本は特にドイツから輸入したいものがないためである。
ドイツが持っているものは日本も既に持っていた。高性能な武器弾薬はもちろん産業用機械の類も日本勢力圏内で調達できた。
むしろ、大量生産技術に関してはドイツよりも勝っている分野が多かった。
ドイツは自軍向けの兵器生産にさえ苦しみ、同盟国への支援をおざなりにしているが、日本はロシア・シベリア帝国や蒋介石を支援しながら、自国向けの兵器を増産するほどに余裕がある戦時経済運営を行っていた。
日独の海上連絡路開設を待ち望んでいるのは、ヒトラー総統は決して認めないだろうが、ドイツの方だった。
ドイツ政府は幕府とスエズ陥落前から、日本勢力圏内の各種資源やどれだけあっても不足するトラックや鉄道貨車、機関車などの有償、無償支援の交渉を行っていた。
日本からの有償支援は、主に衛生資材の輸出でまとまり、シベリア経由で一部行われており、主に東部戦線で活用されていた。
だが、日本は戦略的見地からロシア・シベリア帝国への支援を優先しており、ドイツが手にした物資はロシア帝国に渡った量の10分の1以下だった。また、武器弾薬やハイオクタンガソリンなどの戦略的軍需物資の無償支援には応じなかった。
これにヒトラーは激しく反応し、激烈な口調で同盟不履行と日本を非難していた。
しかし、日本は断固たる口調で、ロシア帝国が要求するソ連軍捕虜の解放要求に応じないかぎり軍需物資の無償支援はできないと回答していた。
ナチス・ドイツは戦争捕虜を強制労働させて労働力が不足する生産の現場を補っていたが、ロシア帝国にとって祖国は違えど同胞を非人道的な環境で酷使するナチス・ドイツの政策は絶対に認められなかった。
日本はドイツよりも長年の同盟国であるロシアの肩を持ち、ナチス・ドイツの人種政策に小言を増やしていた。
ロシア帝国によるモスクワ攻略によって、日独はユーラシア大陸で陸路連絡がとれるようになっていたが、捕虜解放問題や以後の戦争方針を巡って早くも仲違いを起こしており、統一的な戦略司令部の開設は全く暗礁に乗り上げていた。
早くも枢軸内の隙間風が吹き始めていたが、1942年にはまだ日独には強大な敵が存在しており、同盟崩壊という最悪の事態は回避されている。
また、日本は本国でアメリカ軍と戦うことになり、対独無償支援を行う余裕を失ってしまい一時的に人種問題も沙汰止みとなった。
2つ目の戦線は、北米戦線だった。
アメリカが参戦したことで南北4,000kmに及ぶ広大な戦場が現出していた。
北の不毛なツンドラ地帯はともかくとして、広大な大平原と世界の果てにある壁のようにそびえ立つ富士山脈の間に日米の大軍が向き合う北米戦線は独ソの東部戦線を超える世界最大の地上戦線だった。
日本軍は、北米戦線において防御に徹する方針だった。
天然の要塞である富士山脈があるかぎり、守りに徹した北米の日本軍に負けはありえなかった。
少なくとも太平洋からアメリカ軍を追い払うまでは攻勢は厳禁と考えられていた。アメリカ本国軍は、他の戦線の片手間で片付けられる相手ではないからだ。
日本軍だけで200個師団が展開し、さらに動員を進めて最終的に350個師団まで編成される見込みだった。
対するアメリカ軍も同じ方針から開戦当初は防衛に徹しており、日本軍とほぼ同数の戦力が展開して守りを固めていた。
北米戦線が動くとしたら、それはどちらかが相手を圧倒する戦力を用意した時だった。
3つ目の戦線は太平洋戦線である。
北はアラスカ・アリューシャン列島から、南はオーストラリアまで広がる太平洋の全てが日米の海軍力が激突する戦場となっていた。
太平洋の戦いは、インド洋と同じく通商路を巡る戦いである。
特に北側においては日本が守勢に回る戦場だった。
北のアラスカ・アリューシャン列島はアメリカ軍の拠点として機能し、本国と北米諸藩をつなぐ北米航路を攻撃していた。
コンスティテューション、コンステレーションの2隻は高速戦艦として日本軍の航空戦力がいない北の海で、日本軍の輸送船団を幾つも蹂躙して天魔の魔女として君臨していた。
日本は護送船団を編成し、艦隊型駆逐艦や大型巡洋艦を投入して船団を守っていたが、抜本的な解決策としてアラスカ奪還が急務だった。
だが、冬の北太平洋での大規模上陸作戦は無謀であり、天候の安定して航空戦力が展開できるようになる6月までは苦しい戦いが続くことになる。
これが太平洋の南側となると攻防が逆転して、日本海軍の潜水艦が星条旗を掲げる商船を大量に撃沈していた。
パナマ運河を爆破されたアメリカ軍は太平洋への補給を南米のマゼラン海峡を回って運ぶしかなく、東海岸から数万キロに及ぶ長大な航路を日独の潜水艦艦隊に晒していた。
アメリカ軍が開戦緒戦に占領した富士諸島や佐茂諸島までは有力な米軍の陸上航空戦力の展開がなく、南太平洋の広大なエアポケットは日本海軍潜水艦艦隊の根城となっていた。
同時期に北米東海岸に展開したドイツ海軍のUボート艦隊がアメリカの沿岸航路を激しく攻撃しており、アメリカ軍の対潜作戦の未熟さから信じられないほど大量の商船が撃沈されていた。
それは南太平洋上でも同様であり、日本の伊号潜水艦が大量のアメリカ商船をつかみ取り、アメリカ太平洋軍の戦争計画を根底から狂わせていた。
アメリカ太平洋軍の燃料備蓄はトラック環礁とアラスカに1年分の蓄えがあったが、戦時の浪費に耐えられず急速にストックが減っていた。
海上護衛に必要な駆逐艦に燃料を回す必要があり、大量の燃料をバカ食いする戦艦を動かすことは徐々に困難となっていった。
日本海軍を圧倒する強力な戦艦部隊が、まさか燃料不足で行動不能になるなど開戦前の想定にはなかった。
日本の通商破壊は想定されていたが、その想定は甘すぎる見通しで、しかもパナマ経由ではなくマゼラン経由での海上護衛までは考えられていなかった。
米太平洋艦隊が必要とする重油は満州になら幾らでもあったが、琉球と台湾の日本軍航空戦力が回復すると黄海には戦闘機の護衛付きで日本軍の攻撃機が飛び回るようになり、燃料を運ぶタンカーは最優先攻撃目標として片っ端から沈められていった。
パナマ運河の復旧には1年を要する見込みで、時間経過で重油不足が解消する見込みはなかった。
4つ目の戦線は、本国戦線である。
奇襲上陸によって、北九州と山陰、山陽に上陸したアメリカ軍は岡山決戦に敗北すると無理な兵站計画が破綻して大敗を続けていた。
アメリカ軍は北九州の大港湾をおさえていたが、航空戦力が枯渇してしまい海上連絡線に激しい爆撃を浴びるようになっていた。
満州共和国の限定的な生産力では月産200機の補充が精一杯だったが、北九州の工業地帯を失って、流通に大混乱を来した日本本国であっても月産1,800機は可能であり、極東のアメリカ軍航空部隊は消耗に補充が追いつかなくなっていた。
だからこその短期決戦戦略だったのだが、岡山防衛線を抜けなかった時点で、日本の上陸したアメリカ軍20万の運命は決まったようなものだった。
日本軍は、大分に増援の4個師団を上陸させると豊前と久留米から戦線を押上げた。
北九州戦線は激戦となったが、航空戦力に勝る日本軍が制空権をとって火力を集中したため、アメリカ軍は後退するしかなかった。
航空戦力もそうだが、砲兵火力でも日本軍が上回っており、殆どの戦いは砲兵戦でケリがついた。
太宰府防衛線が抜かれ、28サンチ列車砲が博多湾を射程内に収めるとアメリカ軍の輸送船はつぎつぎと沈められていった。
脱出も補給も不可能になったアメリカ軍には降伏勧告が行われた。
ここでアメリカ軍日本本国侵攻軍の総司令官のウェインライト中将は徹底抗戦を選択する。
既に勝機が喪われていた在日本アメリカ軍は戦略を変更し、少しでも長く日本本国にとどまり北九州の産業施設やインフラを破壊することで戦略的ダメージを与えることが目的となっていたのである。
70万人の一般市民が住む福岡市を舞台にした凄惨な市街戦は3週間に渡って、アメリカ軍が壊滅するまで続くことになる。
福岡市の陥落は3月3日となるが、戦場になった福岡市は壊滅し、10万人の市民が巻き添えとなって死亡した。
さらに3日後の3月6日に北九州市も陥落するが、こちらも徹底抗戦を選択したアメリカ軍を掃討するために大規模な市街戦を行うしかなく、街は壊滅し、大量の一般市民が巻き添えとなった。
支那事変で鍛え上げられたアメリカ軍は下士官や将校の層が分厚く、経験豊富であり対ゲリラ戦に知悉していた。
それは逆に、自分自身がゲリラとして戦うときに最高の教科書となっており、市街地に引き込んでからのアメリカ軍は頑強な戦いを見せている。
また、アメリカ軍は捕虜になることを極端に恐れていた。
人種的な偏見もあったが、支那事変において捕虜になることは凄惨な拷問による死を意味していた。彼ら自身も対ゲリラ戦では捕虜をとらず、その場で処刑することがしばしばあったことから、日本軍との戦いにもそれが適用されていた。
すなわち、捕虜にならない。捕虜をとらない戦いだった。
相手にするとこれほどやっかいな軍隊はなく、市街戦は血で血を洗う様相を呈した。
山陰方面は3月13日まで抵抗が続くことになるが、悪あがきを続けるアメリカ軍を日本軍が圧倒的な火力で殲滅し、その巻き添えに一般市民が大量に死亡するという悪夢のような展開となった。
山陽方面は下関に立て籠もったアメリカ軍が降伏する3月18日にまで戦いが続いた。
アメリカ軍は撤退時に焦土作戦を行ったので呉軍港は完全破壊され、復旧には10年を要する被害を受けた。建造中の艦艇は既に日本軍によって破壊されていたが、その残骸をさらに爆破するなど徹底的な破壊工作が行われた。
広島市もまた同様に可能なかぎり焦土化が行われ、膨大な数の一般市民が住むところを奪われるか、或いは殺害された。
アメリカ軍は占領地で反抗的な市民をゲリラとして処分していた。
そうした対応は支那事変ではごく当然のように行われたことであり、アメリカ軍は支那大陸で行っていた焦土作戦を、そのまま日本本国の占領地に当てはめて行動した。
結果として、解放された占領地でアメリカ軍が行っていた一般市民の大量虐殺が証拠付きで発見されて、幕府を震撼させることになる。
占領地での一般市民への暴行、略奪は当然として、抵抗する地域のコミュニティを破壊するために地元の名士や役人、公務員、教師などがアメリカ軍に計画的に殺害された。
女性への性的暴行は数え切れないほどであり、福岡の女子学校が米軍の慰安所として使用されたことを知って、多くの日本人が血の凍るような殺意を覚えた。
証拠隠滅のために女子学校は焼かれ、監禁陵辱されていた女子生徒も殺害されていたが脱出に成功した数名の生存者の証言によってアメリカ軍の破廉恥な戦争犯罪が明らかにされた。
犯罪に関わったアメリカ軍兵士や将校は捕虜となっており、公開裁判の後、銃殺刑となったが、アメリカ政府は幕府の謀略として反発し、逆に捕虜虐殺を非難した。
だが、幕府から完全な証拠や証言を突きつけられると、兵士個人の犯罪であるとしてアメリカ政府は無関係という立場をとった。
その後さらにアメリカ軍が慰安施設開設のために組織的に関与していた証拠文書が発見されると言い逃れできなくなったアメリカ政府は、一切を幕府の軍事謀略として黙殺した。
その後も戦闘中に脱走して各地に潜伏するアメリカ軍兵士による戦場犯罪や、逆に自警団による脱走兵虐殺が1ヶ月に渡って散発的に続くことになる。
最終的に海路脱出した者や戦死した者を除いて10万のアメリカ軍兵士が日本軍に降伏して日本本国の戦いは終わることになる。
12月8日からほぼ4ヶ月に渡る戦いで、北九州や山陰、山陽では膨大な数の人命(一般市民およそ80万人が死亡)が喪われ、大規模な市街戦の部隊となった北九州や中国地方の大都市は焦土と化した。
戦時下ということで各地の復興は遅れ、その後遺症に日本本国は苦しみ続けることになる。
軍事計画においても、本国三大軍港の一つである呉が壊滅したことで、日本海軍の拡張計画は大幅な修正を余儀なくされた。
既に進水して艤装工事中の長門、陸奥を除いて長門型戦艦6隻(うち2隻は呉で爆破処分済)は建造中止となり、その資材は大鳳型空母の建造に転用された。
世界有数の工業地帯である北九州が壊滅的な打撃を受けたことで、陸空の装備供給にも混乱が生じており、戦争終結を1年遅らせたと言われるほどの戦略的なダメージとなった。
日本本国の戦いは終わったが、それは次なる戦いの始まりに過ぎなかった。
雪解けの春が近づき、5つ目の戦線であるシベリア・満州戦線が動き始めるのである。
1942年4月10日。雪解けのシベリアから日本軍シベリア軍集団が満州に向けて南下を開始した。
作戦名は、円環の理。
日本軍は防諜のため辞書から無作為抽出された単語を並べて作戦名に使用していたが、多くの兵士は作戦名の意味が分からなくて混乱したという。
ただし、満州の戦いは作戦名における混乱などなかったかのように一方的な展開となった。
雪解け共に日本軍シベリア軍集団の攻撃を予見していた在満アメリカ軍は、攻勢に備えて各地で守りを固めていた。
だが、広大な満州の全てを守りきる兵力などどこにもなかった。
北支では中国軍の逆襲が始まっており、朝鮮半島にも日本軍の上陸が迫っていた。実際、日本は兵力を分散させるために意図的に情報を漏らしていた。
北支や中支、南支など各地から兵力を引き抜いて満州の米軍は55万に達していたが、日本軍シベリア軍集団はその2倍以上の120万の総兵力であった。
満州共和国軍も在満米軍とほぼ同数の戦力が編成されており、数的には日本軍の同等を確保していたが満州共和国軍はほぼ全てが後方警備の軽歩兵師団で重装備の日本軍相手に戦える装備は持っていなかった。
また、近代戦の三種の神器である戦車と航空機、火砲については日本軍が大きく優越していた。
制空権については、日本軍がほぼ完全に掌握しており、アメリカ軍は兵力の移動もままならくなりつつあった。
夜間ならともかく、昼間は日本軍の爆撃機が飛びまわり地上を動くものがあれば片っ端から爆撃してまわった。
39式軽爆は、似たような機材であるJu-87と同様に旧式化著しかったが、制空権さえ確保されていて相手が地上目標なら無敵に近い存在だった。
また、満州の国境防衛陣地を突破した日本陸軍はこれまでの戦訓を反映させて大きく陣容を変えていた。
突破の先頭を担う日本軍戦車師団は、開戦まで前身の騎兵師団の編成どおりに3個戦車連隊で編成されていた。
要するに、戦車師団は戦車のみで編成されていたのである。
だが、この部隊編成は戦闘の実相にそぐわないことが明らかになっていた。
歩兵を含まない編成の戦車師団は歩兵の近接攻撃や対戦車砲陣地に対して脆弱だったのである。
1941年の東部戦線では、日本式編成の戦車師団はソ連軍のパックフロントに捕まると手も足も出なかった。
対戦車砲のような火力はあっても装甲を持たない目標には、歩兵による攻撃が有効で、戦車の行動には随伴歩兵が必須となった。
故に、戦車連隊には歩兵師団から抽出した自動車化歩兵が常に随伴することになったが、非装甲のトラックは砲兵の制圧射撃にもろく、歩兵と戦車が容易に分断されてしまった。
歩兵と分断された戦車は容易に撃破されてしまうので、これは大問題だった。
そこで戦車師団には、装甲ハーフトラックを装備した機械化歩兵1個連隊が編成に加わり、2個戦車連隊と1個歩兵連隊による諸兵科連合編成となった。
なお、日本製の装甲ハーフトラックは、ドイツ製の同等品に比べると低コストの割に走破性能が高かった。アメリカ製の装甲ハーフトラックに比べると高コストだが、防御性能が常に改善され、最終的に屋根付きの密閉された戦闘室を持つに至っている。
日本軍の装甲ハーフトラックは重量を増やさず防御力を改善する工夫として、薄い防弾鋼板の間に合板を挿入する中空装甲を備え、アメリカ軍からはサンドイッチ装甲車と呼ばれた。
1942年4月に満州戦線では、新編成の日本軍戦車師団が初陣を飾り、その柔軟な対応力の有効性が実証された。
ただし、新編成の戦車師団はまだ数が少なく日本軍全体でも12個師団に過ぎず、満州戦線にはその半分が投入されただけだけだった。
それ以外は、大半が装甲化されていない自動車化歩兵師団だった。
なお、それでも十分に異常なレベルで機械化された大陸軍で、同盟国のドイツ軍の陸軍将校が多くがその贅沢きわまりない日本軍の編成表を見てため息をついたという。
「せめて半分でいいからこれがほしい」
と、ドイツ軍の戦車総監のハインツ・グデーリアンが呟いたという実しやかな噂がある。
アメリカ軍は国境付近に陣地に立て籠もって抵抗したが、日本軍は満州のほぼ全ての国境で攻勢に出ており、複数個所で突破に成功している。
物量に劣るアメリカ軍は軽装備の満州共和国軍まで前線に投入したが、日本軍は威力偵察で満州共和国が守備する地点を把握すると集中攻撃して、容易に突破した。
アメリカ軍は満州共和国軍があてにならないことは理解しており、アメリカ軍部隊の間に配置することで補強したが、日本軍相手にこの対応は致命的な失敗だった。
むしろ日本軍に突破口を与えて両肩のアメリカ軍部隊が壊乱する原因を造った。
そもそも満州共和国軍は、軽装備の上に士気が低く練度もあってないようなものだった。実戦経験も支那事変での後方警備のみで、実態としては武装警察どまりだった。
これはアメリカの満州支配を覆すような軍備を傀儡政権に持たせることが政治的に不可能だったためであり、満州共和国軍には最初から国家防衛の意思も能力もなかった。
国境の野戦陣地を突破するとその後は避難民でごった返す幹線道路を日本軍の装甲部隊がひたすら奉天まで突進するだけの展開となった。
中には、一日に70kmも前進する部隊もあったほどの快進撃だった。
アメリカ軍の中でも機動力のある部隊は、幾つかが機動防御を試みたが制空権のない機動防御は爆撃の的になるだけだった。
日米開戦以来、日本軍の航空戦力の損耗率は300%に達したが、生産力が消耗を上回っており、ロシア戦線に送っていた1個航空艦隊や中国にいた義勇航空団を引き抜いて、圧倒的な航空戦力を展開していた。
満州の大平原で日本軍の戦車部隊と激突したM4中戦車はバランスのとれた設計の名戦車で、支那事変の戦訓に対応しており、特に運動性において日本軍の戦車に勝っていた。
その反面、防御力は低く設定されていた。これは碌な対戦車火器を保たない蒋介石の中国軍相手なら装甲が薄くても問題ないからだ。それよりも軽量化して走破性能を高める方が悪路の多い中国大陸には適していた。
だが、戦訓に対応した日本軍の新型戦車を相手にすると防御力の不足を露呈することになった。
日本軍は東部戦線でロシア帝国に供与した39式騎兵戦車や、38式歩兵戦車が全くT-34中戦車やKV-1重戦車に歯が立たないことにショックを受け、その抜本的な改良に取り組んでいた。
38式歩兵戦車はエンジンの換装や後継の42式歩兵戦車用に開発していた75mm43口径砲に換装することで、T-34と互角に戦える砲火力を手にしていた。
それでも機動力は劣っていたが、前面80mm、側面70mmの装甲を持つ重装甲歩兵戦車は、火力の改善によって日本軍の主力戦車に成り上がった。
長砲身37mm砲装備の39式騎兵戦車は、大口径砲への換装が不可能だったので車体を利用した突撃砲に転用された。
突撃砲はドイツ軍の発明品で、歩兵と共に前進し火力支援を行う兵器である。
回転する砲塔を持たず車体に大砲を取り付けるので生産が容易で、回転砲塔よりも大口径砲を載せやすいという利点があった。
歩兵支援は日本軍においては歩兵戦車の仕事だったが、歩兵戦車が戦車部隊の主力となると歩兵支援から外されることになり、その代替品が必要になった。
そこで主力戦車としては低火力となった39式騎兵戦車の車体に大口径砲を搭載した突撃砲が急遽開発され、量産化される運びとなった。
状況としては、ドイツ軍の3号戦車に似ているだろう。
75mm43口径砲を低姿勢の固定戦闘室にマウントした突撃砲は全ての歩兵師団に1個大隊装備するため大増産され、最終的におよそ30,000両が生産されている。主力戦車扱いとなった38式歩兵戦車がおよそ20,000両であるから、生産数という点では突撃砲は日本軍の主力AFVであった。
大量生産された突撃砲は、この種の装備が極めて有用だったことを示しているが、同時に39式騎兵戦車が既に莫大な投資が行われていたことを示している。
日本軍は39式騎兵戦車こそ本当の主力と考え、その補給、運用体制の構築に莫大な投資を行っていたから、その体制を破棄、変更することは困難だった。そのため39式騎兵戦車用の運用体制を流用できる突撃砲は事実上の主力AFVとして扱われることになった。
なお、39式騎兵戦車も、38式歩兵戦車も後継車両の開発は中止されている。
例えば、42式歩兵戦車はT-34に全く劣るものとされ、構成要素が前作の38式歩兵戦車の改良に投入された。そのため量産する意味がないとして開発中止となっている。
だが、開発で得られたデータは後に活かされた。
T-34の構成要素を引き継いだ日本版パンター戦車は1944年3月に生産開始する44式騎兵戦車からとなる。
満州戦線では攻勢開始から3週間後の1942年5月5日には奉天が陥落。
5月20日には、別働隊によって旅順・大連が陥落した。
軍港都市である旅順の在泊艦艇の中でも最大の大物は戦艦デラウェアとアラバマで、脱出を許さないために湾口には機雷が敷設され、回避もままならない港内で集中爆撃を浴びて撃沈された。
なお、2隻の戦艦をむざむざと雪隠詰めにされて失うことになったのは、満州共和国の実質的な支配者であるダグラス・マッカーサー元帥が逃亡用に手放そうとしなかったからという説が有力である。
他に軽巡洋艦3隻、旧式駆逐艦6隻が港内にいて強行脱出を試みたが、機雷に接触して3隻が沈み、待ち伏せていた潜水艦の雷撃と空爆で全滅している。
アメリカ軍は今だに国境付近の陣地に立て籠もって抵抗(或いは放置)されているものを除けば、大部分が包囲殲滅され、残余の部隊は朝鮮半島と北支に分断された。
僅か1ヶ月の電撃的な攻勢作戦であり、ドイツ軍同様に日本もまた電撃戦が可能な軍隊であることを示された。
なお、朝鮮半島も戦場になっており、1942年5月19日に群山に大規模な上陸作戦が行われた。
朝鮮王国軍は対馬対岸の釜山に日本軍が上陸すると考えており、群山上陸は完全な奇襲となった。
日本軍は釜山周辺の軍事施設を集中的に爆撃し、多数の特殊部隊を破壊工作のために展開し、艦砲射撃まで実施した。
しかし、本当の狙いは群山であり釜山上陸はフェイクだった。
北九州から発進した1個空挺師団による空挺降下で上陸地点を制圧し、安全となった海岸に6個師団が上陸した。
なお、朝鮮半島には対日戦略爆撃のために多数の航空戦力が展開していたが、半年に渡る航空撃滅戦の結果、ほぼ壊滅状態となっていた。
群山の橋頭堡に、上陸初日に姿を見せた米軍機は僅か2機のみだった。
裏をかかれた朝鮮王国軍は、戦力の再配置を急いだが日本軍の制空権下で昼間部隊移動することは極めて困難だった。
また、朝鮮半島にあった朝鮮王国軍の兵力は予備役兵が中心の後備師団が大半で、重装備の日本軍と戦える能力は殆どなかった。
朝鮮王国の主力はアメリカ軍の指揮下に組み込まれて満州や、北支で戦っており、戦力が不足するアメリカ軍は彼らの帰国を決して許さなかった。
それでも漢江のような地形を巧みに利用して防戦に努めた朝鮮王国軍の軍事能力は米式陸軍として平均的な水準を確保していたと言えるだろう。
特にソウル防衛で日本陸軍6個師団を相手に、僅か1個師団で2週間も持久した朝鮮王国陸軍”千里馬”師団の敢闘は日本軍を驚愕させ、朝鮮の軍隊は弱いという認識を一部改めさせる効果があった。
ただし、千里馬師団のような活躍は例外的であり、有効な対戦車火器を持っていない大半の朝鮮軍は日本軍の戦車が現れたたけで逃亡が相次いだ。
半島北部においては満州を制圧した日本軍の南下があり、南北から挟撃された朝鮮王国には当初から勝利の目がなかったと言える。
なお、ソウル占領は上陸から1ヶ月後の6月19日だった。
その時点でこれ以上の抵抗は無意味であることと日本側が白紙講和に近い条件を提示していたため、朝鮮王国の戦争は終わることになる。
朝鮮王国は日本と単独講和し、戦争から足抜けを図ったがこれは明確な裏切り行為であり、アメリカ合衆国を激怒させた。
朝鮮半島北部に追い詰められていたアメリカ軍は、朝鮮降伏後も戦闘を継続したため、朝鮮王国軍は昨日まで友軍だったアメリカ軍と戦うことになる。
アメリカ軍は指揮下に多数の朝鮮王国軍を組み込んでいたが、多くの朝鮮軍人は政府の停戦命令を無視して戦闘を継続した。
日本人の風下に立つことなど、彼らのプライドが許さなかった。
結果として、戦いは日本軍とアメリカ軍のそれぞれの指揮下にある朝鮮軍同士が同士討ちするという悲劇的な事態となった。
これなら日本軍を相手に戦っていた方がマシだったと言える。
その後も朝鮮半島北部の狭い地域で戦闘は続き、最後のアメリカ軍部隊が降伏するのは1942年8月15日のことだった。
その後も停戦命令を無視した朝鮮王国軍の主力部隊の戦いは、北支において続いていくことになる。
中国本土については未だに広大な土地がアメリカ軍の占領下にあったが、日本軍は満州全域を制圧するとそこで止まり、万里の長城を越えて侵攻することはなかった。
満州侵攻の時点で、アメリカ軍の支那大陸派遣軍の半数が喪われることになったが、残りは北支において未だに秩序だった軍組織を維持していた。
奉天から逃亡したアメリカ軍支那派遣軍司令部ダグラス・マッカーサー元帥は、北京において徹底抗戦する構えを見せていた。
ただし、兵站基地である満州共和国は既に喪われ、制空制海権も完全喪失している時点で既に勝敗は決しているといえた。
だが、意外なことをこの戦いは長引くことになる。
日本軍は万里の長城にそって進撃を停止し、残りは蒋介石に任せる方針を採ったからだ。
満州と朝鮮を制圧した時点で、日本にとって中華大陸での戦争は終ったも同然だった。
本土空襲や南シナ海への通商破壊戦が不可能になった時点で、この戦線の存在意義はもはや存在しなかった。
日本は満州に残った膨大な軍需産業の再編成と自国への再組み込みが最優先とし、アメリカ軍の支那派遣軍は殲滅を免れることになる。
なお、蒋介石は日本軍の大勝利に気を良くして、アメリカ軍への大規模攻勢を発動したが、これは完全に失敗し、10個師団を失う大敗となった。
これまでバラバラに分散してゲリラ戦を繰り返していた中国が、まとまって集団で攻めてきたのだから、アメリカ軍にとっては殲滅の好機であった。
日本軍には大敗したアメリカ軍だったが、中国に対しては圧倒的に優勢であり、日本軍も特に支援しなかったことから、中国軍は大敗を喫することになる。
蒋介石は損害の穴埋めためにさらなる援助物資と万里の長城を越えた日本軍の攻勢を要求したが、これは却下された。
既にアメリカ軍との直接対決が始まっている時点で、日本にとって蒋介石の利用価値は0になっていた。アメリカの足を引っ張るために蒋介石は存在するのであって、そうでないなら日本に蒋介石を支援する理由は存在しないのである。
日本は死亡した満州国王溥儀の弟である溥傑を国王に据えて、満州王国復活と再支配を画策しており、蒋介石の存在が邪魔になりはじめていた。
そのため、蒋介石の足をひっぱるためにアメリカ軍支那派遣軍には利用価値があった。
用済みになった蒋介石への支援は必要最小限となり、アメリカ軍への攻撃も停止したため終戦の日までアメリカ軍は北京と北支一帯を占領しつづけることができた。
日本の変節と裏切りに気がついた蒋介石は、ナチス・ドイツへと接近することになり、日中の戦後対立となるのだがそれはもう少し先の話である。
なお、日本にとって満州共和国は宝の山だった。
満州油田のみならず、満州にはアメリカ合衆国が建設した高度な近代産業が残されており、日本人の手によって再編成されて、日本軍に膨大な軍事物資を提供するようになる。
大連にあったフォードのトラック工場や、奉天のGM戦車工場、カーチスの航空機工場には生産中の各種兵器が残されており、資材と電源、人員さえ供給されればすぐに生産再開可能な状態だった。
フォードのトラックはそのまま日本軍に仮制式採用され、GMの戦車工場はM4中戦車の車体を利用した自走榴弾砲の生産を開始することになる。M4中戦車の車体に105mm榴弾砲を装備した自走砲は、アメリカ軍にも存在しM7として制式化されていた。
日本も同様に国産の100mm榴弾砲を装備した42式自走榴弾砲を大量配備した。終戦までに奉天のGM工場で生産された42式自走榴弾砲は3,000両に及ぶ。
カーチスの航空機工場には日本からハ140やハ240が供給され、日本製発動機を装着したP-40が生産された。
二段二速過給器のハ240装備型は、高度8,000mで時速680kmを発揮するP-40シリーズの中でも最高性能機となった。
ただし、同時期に同じエンジンを装備したより高性能の加州の北米航空の44式戦闘機が実用されたので、ハ240装備のP-40は輸出にまわされドイツやロシア帝国で使用された。
カーチス社は満州への多大な設備投資を行っており、奉天工場を失ったことで経営が完全に傾き、戦後に倒産の憂き目を見ることになる。
満州・朝鮮半島の戦いは1942年6月までに概ね決着がつき、日本軍は天候が安定を待って北米航路に刺さった棘であるアラスカに押し寄せることになる。




