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WWⅡ ヤマザクラ


WWⅡ ヤマザクラ


 1941年12月、アメリカ合衆国の去就が問われていた。

 1939年9月に勃発した第二次世界大戦は、1940年11月の日本参戦により枢軸優勢が拡大し、徹底抗戦を選択したイギリスを追い詰めていった。

 日本海軍は、マレー沖海戦でイギリス東洋艦隊を壊滅させ、1941年3月までにアジア全域から連合国勢力を駆逐した。

 同年5月にはセイロン島へ上陸、翌月にはマダガスカル島へ進駐した。

 1941年10月にはソコトラ島へ上陸し、インド洋航路は完全に閉鎖されることになる。

 日本軍によるインド航路閉鎖は、イギリスの戦争経済を根本から破壊していた。

 燃料や資源の不足から工場の稼働率が低下が見られ、食料品の不足から配給制度が一層強化されている。

 イギリスには北大西洋航路が残されていたから、ただちに戦争遂行が不可能になるわけではなかったが、長期的に見て戦争遂行能力低下は避けられなかった。


「この戦争には勝てないのではないか?」

 

 として戦争の先行きを不安視する声はイギリス国内に自然と増えていった。

 ソコトラ島が陥落した1941年10月には、インド洋失陥の責任を問う声が高まり、内閣不信任案が提出されている。

 この内閣不信任案は与党の圧倒的な反対により否決されたが、戦時下においてチャーチル首相の指導力に真正面から疑問符が投げかけられたのである。

 徹底抗戦を掲げるチャーチル内閣が倒れれば、イギリスの次期政権は枢軸との政治的な妥協を図るのと観測されていた。

 枢軸との講和となればイギリスは多額の賠償金の支払い又は領土割譲を強いられることになるだろう。これは1919年のドイツや日本に突きつけられた過酷な講和条件を考えれば当然のことだと考えられた。

 そうなれば、アメリカがイギリスに貸し付けた膨大な戦時債権はほぼ確実に回収不能になることが予想された。

 これは由々しき事態だった。

 アメリカはイギリスに金を貸しすぎていたのである。

 各銀行が保有するイギリスの戦時国債は、それが焦げ付いたとき確実に貸し手を吹き飛ばす額に達しており、イギリスの債務不履行はアメリカ金融システムの破綻を意味していた。

 もちろん、そうした莫大な貸付を奨励し、承認してきたのはアメリカ合衆国政府であり、ルーズベルト大統領の責任追及は不可避である。

 アメリカ政府が徐々にイギリスへの直接的な軍事支援を増やしていったのは、民主主義の守護というイデオロギー的側面もあったが、根本的な部分には経済問題があった。

 1940年7月には、イギリス領のニューファンドランドとアンティル諸島のイギリス海軍基地と空軍基地を100年間使用できる権利と引き換えではあったが、アメリカ海軍が保有する旧式駆逐艦50隻をイギリスに譲渡した。

 これは明確に戦時国際法が定める中立国の義務を逸脱するものだった。

 さらにアメリカ合衆国政府は1940年12月末にレンドリース法を制定した。この法律は、アメリカの国防にとって、特定の国の防衛が必要不可欠と判断されれば、その国に対して軍需物資の販売、譲渡、交換、貸与が可能とするものだった。

 この法案の制定は審議時間を大幅に短縮して強行採決が行われたので、議会軽視という批判を浴びることになったが、ルーズベルト大統領の拒否権発動を厭わない強い意向で制定が強行された。

 前月に日本合藩国が参戦し、マレー沖海戦でイギリス東洋艦隊が壊滅的打撃を受けたことで、イギリスのアジア、インド洋防衛が怪しくなっていた時期であるから、レンドリース法の制定は特に急がれたと言える。

 1941年3月には、アメリカ海軍は大西洋における防衛海域を西経26度線まで拡大し、米大西洋艦隊は大西洋の5分の4という広大な海域で対潜哨戒を開始した。

 この海域に侵入したUボートには警告爆雷が投下されるようになり、Uボートの活動範囲は縮小を余儀なくされた。

 1941年5月には駆逐艦主体の艦隊がアイスランドへ進出し、アイスランド以西の海域でアメリカやカナダに向かう船団の護衛を行うようになる。

 この船団に接近する国籍不明の潜水艦は容赦なく撃沈された。

 もちろん、国籍不明の正体はドイツ海軍のUボートしかありえず、実質的にアメリカ海軍大西洋艦はドイツ海軍との戦闘状態に突入していたと言える。

 だが、対ソ戦を戦うドイツ軍は、アメリカ参戦を極度に警戒しており、Uボートをアイスランド海域から引き上げることで対応した。

 太平洋においても、安全保障条約を締結したオーストラリアにアメリカ海軍太平洋艦隊が展開し、南太平洋で船団護衛を行っている。

 日本もまたドイツと同様にアメリカ海軍の展開した海域から潜水艦を引き揚げて、注意深く衝突を避けていた。

 このようにアメリカ合衆国の本心がどこにあるかはもはや明らかだった。

 だが、彼の国が枢軸との全面戦争に突入するか否かは、世界中のアナリストが分析していたものの確たるところは定かではなかった。

 アメリカ軍は支那事変の泥沼に嵌っており、軍の主力を中国大陸においていたからだ。

 1937年に始まった宣戦布告なき戦争は1941年末に至っても未だに終わる気配さえ見えなかった。

 アメリカ軍は終わらない戦争を終わらせるために悪戦苦闘を続けていたのである。

 1940年3月以後は交渉による解決を完全に放棄して、軍事力を前面に押し出した対応を見せていた。

 所謂、隔離演説事件である。

 アメリカ政府は重慶を脱出した汪兆銘を首班とする新政府を南京に樹立し、汪兆銘政権を唯一の中国正統政権として位置づけ、蒋介石を反動勢力として討伐する旨を発表していた。

 この際に、


「彼(蒋介石)は平和を愛好する国民の共同行動によって隔離されるべきである」


 と演説しており、これは交渉による解決を完全に放棄したものと看做されていた。

 交戦国の政治指導者を名指しで病原菌扱いして隔離防疫しようというのだから、完全に失言の類であった。

 アメリカ軍の支那派遣部隊は増派に次ぐ増派を繰り返し、1940年9月には総兵力120万にまで拡大した。

 地球の反対側にこれほどの大兵力を送り込むのは、いかにアメリカの経済力をもってしても相当な無茶を重ねなければ不可能だった。

 1940年のアメリカ政府の軍事予算の半数は、この大兵力を派遣、維持するために使われており、アメリカ海軍が要求していたエセックス級正規空母の建造は半分がキャンセルに追い込まれ、モンタナ級戦艦は全艦が建造中止となっている。

 中国との戦争に必要なのは海軍ではなく陸軍であったからこの判断は間違いではないが、日本海軍の膨大な建艦計画からすると1942年の終わりには日米の海軍力が拮抗し、1944年には逆転されかねなかった。

 だが、ともかく中国との戦争を終わらせなければ、一歩も前に進めないのが1940年当時のアメリカであり、その占領地は1940年末には中華民国政府の定める領土の60%に達した。

 だが、それでも支那事変は終わらなかった。

 モンゴル経由で日本の膨大な軍需物資が蒋介石に流れ込んでいたからだ。

 徹底抗戦を掲げる蒋介石率いる中国軍を背後から支援する日本との関係は、1940年末になると修復不能なまでに対立が深まっていた。

 1940年11月の日本参戦と同時に日米通商条約は破棄され、アメリカ政府は在米資産の凍結など、日本に対する経済的な圧迫を強めていた。

 しかし、通商条約の破棄はマイナスの結果しか生み出さなかった。

 報復に日本は朝鮮王国や満州共和国との貿易を停止したのである。

 結果として、満州の軍需生産は大打撃を受け、支那派遣軍の激増に兵站の確保が追いつかなくなり、その分をアメリカ本土から送る羽目になり駐留経費が激増した。

 日本経済への依存度が高い満州や朝鮮では深刻な景気後退に見舞われ、ますますアメリカの極東外交は困難極まる状態に追い込まれた。

 支那事変を終わらせるためには、シベリア・モンゴル経由の援蒋ルートを遮断して、膨大な支援物資の流入を止めなければならなかった。

 だが、それは日本との全面戦争を誘発する恐れがあった。

 戦争を終わらせるために別の戦争を始めるなど、完全な本末転倒である。

 だが、支那事変の解決に焦るアメリカは、1941年3月に入るとモンゴルへの越境作戦に手を染めた。

 モンゴルは中国軍の聖域として機能しており、多数の空軍基地が建設され、日本からの支援物資の受け渡し場所にもなっていた。

 国籍マークを消したアメリカ軍のB-17重爆撃機がモンゴル各地を爆撃し、援蒋ルートに大打撃を与えた。

 もちろん、その巻き添えに多数の日本軍関係者が死亡したことはいうまでもない。だが、対英戦争を遂行中の日本にはアメリカを相手に武力で対抗する余裕はなかった。

 さらにアメリカ軍は蒋介石が交渉のテーブルにつくまで焦土爆撃を継続すると宣言。

 蒋介石の戦意喪失を狙って、蒋勢力下にある中国の都市を無差別爆撃していった。

 新型のB-17を大量投入したこの無差別爆撃作戦により、中国奥地の都市は次々に灰燼に帰していった。

 数百機単位で飛来するB-17の爆撃により重慶は完全破壊され、損害にたまりかねた蒋介石は、首都をさらに奥地の成都へ移転している。

 支那事変の戦訓が反映されたB-17は極めて重防御重武装の機体に仕上がっており、日本軍の新鋭戦闘機である40式戦闘機といえども迎撃は困難を極めた。

 B-17による焦土化作戦に悲鳴をあげる蒋介石は、幕府に強くアメリカ軍基地攻撃を要請するようになる。

 アメリカ軍の焦土爆撃作戦は軍事的には殆ど無意味な攻撃だったが、蒋介石には国民から非難が殺到しており、政治的基盤が危うくなっていた。

 だが、B-17の展開基地への攻撃は日米全面戦争を招く恐れがあり、日本側は蒋介石の要求を断ってきた。

 また、同時期に支那事変に係る日米交渉が永世中立国のハワイ王国で始まっていたことも事態をややこしくした。

 アメリカはモンゴルへの越境作戦を行いながら、日本に支那事変から手を引くように要求し、外交交渉による解決を目指していた。

 日本はインド洋作戦が進めるためにまだ時間が必要であり、交渉に応じる姿勢を見せたが、時間稼ぎという面が強かった。

 太平洋のアメリカ領は全てが旧日本領であり、失地回復を図る上で対米戦争は回避不能と幕府は考えており、対米戦争は既定路線であった。

 日本軍はインド洋作戦の傍らで、対米戦争の準備を進めており、薄々アメリカ政府もそれに気がついていた。

 日米両国がオフレコで戦争準備を進め、ハワイの日米交渉が交渉のための交渉に堕ちていく中、大陸派遣の義勇航空軍が、ついに一線を越えることになる。

 日本人義勇航空兵団「黒剣兵団」(ブラックセイバー)は、運動性の高い39式双軽爆や、戦闘爆撃機仕様の飛燕Ⅱで上海郊外のアメリカ空軍基地を襲撃した。

 100機以上のB-17が地上で撃破され、攻撃は完全な成功をおさめたものの、撃墜された攻撃機のパイロットが捕虜となってしまう。

 パイロットたちは、自分たちを謎の飛行団Xオルタのメンバーであると言いはったが、アメリカ軍憲兵の過酷な尋問により自白に追い込まれた。

 日本軍の戦争介入はもはや公然の事実であったものの、改めて日本の秘密戦争がはっきりとした形で示されることとなり、アメリカ国内世論は沸騰した。

 



 この事件を受け、1941年12月4日、アメリカ政府は日本との国交断絶を宣言する。

 対する日本も、ソコトラ島攻略などインド洋作戦がほぼ最終段階に至っていたことから、本国周辺に戦力を戻すことを決定。アメリカ合衆国との対決に備えていた。

 日本の失地回復には当然、太平洋の旧領回復も含まれており、対決は不可避の情勢だった。

 日本陸軍は動員を既に終えており、北米大陸の日米国境線には200個師団が展開し、国境の守りを固めていた。

 シベリアには満州国境にそって120個師団が展開しており、いつでも満州に踏み込むことができる状態となっている。

 二つの大陸で、同時に100個師団規模の大軍を編成して向き合う日米は巨大な火薬庫のような状態となっていた。

 日本陸海空軍は雪解けを待ち、1942年春に対米戦を決行する予定を立ていていた。 

 冬のシベリアや北満州で戦争をするのは現実的ではないし、北米大陸においてもそれは同様であった。

 日本海軍においては雲龍型4番艦蟠龍が就役したばかりで、完全な戦力化を果たすにはもう少し時間が欲しかったという事情もあった。

 中国の泥沼に足をとれているアメリカと違って、時間は日本の味方であった。

 甘かったといえばそれまでである。

 1941年の戦いを終始、優勢に進めていたことも、気を緩ませる要因であったといえる。

 僅か1年足らずでイギリス海軍をインド洋から駆逐した日本軍は自分自身の軍事力をかなり過信しているところがあった。

 同時に、1937年から戦争を続けているにも係わらず、中国を打倒できていないアメリカ軍を弱い軍隊として侮る傾向もあった。

 さらに正確な情報収集が行われていたことも、一種の裏目に出た。

 アメリカ軍が朝鮮半島南部や中国沿岸部に航空戦力を集中させていることは分かっていたし、釜山や上海、済州島にアメリカ軍の輸送船団が集まっていることも知っていた。

 国籍マークを消した秘密偵察機によって、アメリカ軍の動向は逐一把握されていたのである。

 日本軍の諜報活動は非常に多岐に渡り、幕府の中枢に正確な情報を齎し続けたが、あまりにも多くを知っているが故に、幕府首脳部に一種の全能感を蔓延させた。

 要するに何かも知っている気分になってしまったのである。

 だが、歴史が語るところによれば、人は人の心の中まで決して知ることができないのだ。


「サクラチル」


 満州首都奉天の米支那派遣軍司令部から発信された短い電文が全ての始まりだった。

 1941年12月8日、アメリカ合衆国による宣戦布告同時攻撃は完全な奇襲となった。

 開戦から3時間で北九州、西日本各地の航空基地は壊滅し、航空戦力は地上撃破された。

 日本海軍の呉、佐世保軍港への攻撃により、戦艦霧島、比叡、高千穂が大破着底し、その他在泊艦艇が多数損傷する大損害が発生した。

 対馬要塞には対岸の釜山から飛来した空挺部隊が降下して大混乱に陥ったところで、アメリカ軍海兵隊の強襲上陸を受け、絶望的な状況に陥った。

 江戸上空にはB-17重爆撃機が現れ、幕府開幕以来、初めて江戸の町が戦火に包まれた。

 日本軍の混乱は凄まじいもので、


「これは演習ではない!」


 と叫ぶ無線通信や、


「見りゃわかるぞ、馬鹿野郎!」


 という滅茶苦茶な交信記録が残っている。

 横須賀に停泊中だった飛龍、蒼龍、雲龍もB-17の爆撃を受けたが、空軍のインターセプトが間に合って、間一髪洋上へ逃れることに成功している。

 横須賀を襲ったB-17を迎撃したのは、厚木基地の空軍首都防空部隊で試験中だった42式戦闘機「斑鳩」の増加試作機だった。

 斑鳩は妙な飛行機をつくることに定評がある呂宋の東亜重工の作った戦闘機であり、世界的にも珍しいエンテ型の機体だった。

 エンテ型とは、ピッチ(機首)の上下方向のバランスをとる方法として、主翼を重心より後方に配置し、それより前方に水平尾翼カナードを配置して、上向きの揚力を生んでバランスを取る形式である。

 通常の主翼配置よりもやや安定性に欠ける設計となるが、戦闘機として用いるにはむしろ不安定である方が素早く次の動作に移ることができる点で有利であった。

 また、エンテ式なら機首の中心線上に火器を集中配置できる利点がある。通常形式の機体では尾部はバランスをとるためにがらんどうで、重いエンジンとバランスをとるためにカウンターマスを置かなければならないが、エンテ式なら武装を載せることで重いエンジンとバランスをとることができる。

 その分、機内スペースを圧縮できるので、小型化には有利だった。

 エンテ型の戦闘機を作りたいから作ったというわけではない。

 エンジンは東亜重工製NTD-FC8BIT二段二速過給器装備のV型12気筒液冷エンジン1800馬力を装備し、高度8,000mで400ノットを目指すものだった。

 武装は23mm機関砲4丁装備で日本空軍最強の火力を発揮した。

 欠点は足が短いことで、増槽を吊っても航続距離は1,400km程度にしかならなかった。これは機体を限界まで小型化したためだが、北米や欧州のような大陸航空戦で使うなら平均的な数値だった。

 小型軽量の機体に1,800馬力エンジン、後期型は2,200馬力エンジンを搭載した斑鳩は大火力の高機動戦闘機として第二次世界大戦における最強の一つに数えられる。

 1941年12月8日の横須賀上空で、それは既に示されていた。

 地上のレーダー基地からの無線誘導でB-17の前方上空に展開した斑鳩戦闘機隊4機はパワーダイブにより時速899kmまで加速してB-17の密集編隊に突入し、一撃で4機を撃墜した。

 斑鳩隊は、そのまま爆撃機編隊を抜けて、編隊後方で再上昇して後方上空から攻撃を行ってさらに3機を撃墜し、1機の損失もなく最終的に10機のB-17を葬り去った。

 この迎撃戦闘でB-17の爆撃照準は妨害され、飛龍、蒼龍、雲龍は間一髪で難を逃れた。

 他の空母、剣龍、祥龍、蟠龍は呂宋とシンガポールにいたので無事だった。

 アメリカ軍の奇襲攻撃は全ての空母を撃ち漏らすという大きな失敗を犯したが、日本本国は大混乱に陥った。

 開戦から4時間後にはアメリカ軍の上陸第一波が北九州や山陰地方の広い範囲に上陸した。

 日本本国が外国軍の侵入を受けるのは1281年の元寇以来のことである。

 このような奇襲攻撃を許すことになった原因は、情報分析の誤りがあった。

 日本の情報組織は、極めて正確にアメリカ軍の戦力集中を捉えていたが、同時に物資の集積が伴っていないことに注目した。

 通常、攻勢作戦に際しては膨大な弾薬や食料、衛生材料のような軍需物資の事前集積が行われるものであり、物資の集積なき攻勢作戦など全く考えられなかった。

 物資の集積状況から、日本の情報機関はアメリカ軍の対日戦争準備が整うのは1942年の春頃と予想した。

 幕府の中枢も常識的に考え、その報告を鵜呑みにしていた。

 だが、アメリカ軍は1941年12月8日に攻めてきたのだった。

 世界的に見ても優れている部類に入る日本の情報機関をまんまと出し抜いたアメリカ軍の奇襲作戦を立案したのは、満州共和国元帥ダグラス・マッカーサーだった。

 マッカーサー元帥は満州国に赴任後、深く孫子の兵法を研究しており、対日戦争においてもそれを応用して、奇襲的な戦争戦略をデザインした。

 敢えて戦争を準備を整えないうちに戦端を開くことで、最大の奇襲効果を得るのである。

 実際、日本本国に上陸した20万の兵力は、手元の弾薬を使い尽くしたら、次に補給が得られる目処は全く立っていなかった。

 各上陸部隊は各々が携行する弾薬+αしか弾薬やその他の軍需物資を持ってもっておらず、それを使い切ったらそれまでだった。その後は追送される補給を待つか、現地調達又は敵から鹵獲することで賄う計画だった。銃弾を撃ち尽くしたあとに戦えるように、刀剣の類まで持ち込む有様だったのである。

 まさに、


「善用兵者、役不再籍、糧不三載、取用於國、因糧於敵、故軍食可足」

(意:用兵の巧みな者は、民衆に二度も兵役を課さず、三度も食糧を前線に運ばせない。戦費は自国で賄うが、食糧は敵から奪う。だから兵士たちが飢えることはない)


 という孫子の兵法を地でいく戦争計画だった。

 地上戦力がこのような状態だったから精密な後方支援が必要な航空戦力はさらにひどく、朝鮮半島南部の基地にある燃料の備蓄は48時間しか保たなかった。

 このような状況で攻勢作戦を発起するなど、全く軍事的な常識を無視した無謀と言わざるえない。

 もしも、日本が万全の準備を整えて待ち伏せていたら、侵攻部隊は弾薬不足で容易く殲滅されてしまう投機的な作戦であった。

 そんな馬鹿なことをするはずがないという思い込みが、奇襲を許した根本原因だったと言える。

 けれども、アメリカ合衆国が日本を打倒するなら今しかなかった。

 春になれば日本のシベリア軍団が万全の準備を整えて攻めてくることは分かりきっており、先手を打たなければ兵站基地である満州共和国は蹂躙され、アメリカ支那派遣軍は立ち枯れになる運命だった。

 絶望の春が来る前に、

 

「日本本国へ侵攻し、江戸を占領すれば1ヶ月で戦争は終わる」


 というのがマッカーサープランの要諦であった。

 満州事変をプロデュースしたマッカーサー元帥は、国民的な英雄であり、アメリカ軍内では神のごとき権威を持ち、その言葉にはホワイトハウスでさえ耳を傾けざるえなかった。

 ルーズベルト大統領は日本本国への侵攻は投機的すぎるとして難色を示したが、マッカーサーが暗に辞職を仄めかすと難色を示していたルーズベルトもマッカーサープランを認めざるえなくなった。

 アメリカ国内のマッカーサー人気は非常に高く、次期大統領候補という声もあったからなおさらだった。

 支那事変を終わらせるために大国日本と戦争を始めるなど、冷静に考えてもはや戦略的に完全に破綻しているが、そうした常識的な思考は殆ど省みられなかった。

 日本は明確に対米戦争の準備を進めており、アメリカは差し迫った戦争から身を守る必要があった。

 何よりも、日本に勝てば全てが丸く収まるという短絡的な思考がアメリカ政府の中枢を支配しつつあった。

 それほどまでに泥沼の支那事変はアメリカ政府を追い詰めていた。

 マッカーサー元帥が立案した侵攻作戦ヤマザクラは12月8日決行とされた。

 そして、幸運の女神はアメリカに微笑んだのである。

 戦争は予想されていたが、4ヶ月先と考えていた日本は、完璧な奇襲攻撃を受けた。

 アメリカ軍航空部隊1,200機の先制攻撃を受け、西日本の航空戦力が壊滅したことで、制空権はアメリカ軍の手に渡り、北九州と山陰の戦況は絶望的となった。

 水際での戦闘は殆どなく、アメリカ軍を出迎えたのは呆然とする一般市民や釣り客達だけだったという。

 日本軍は各地の駐屯地に集結し、戦闘団を編成すると上陸海岸に差し向けたが、その頃には膨大な数の避難民によって道路が大渋滞し、部隊移動もままならなくなっていた。

 北九州は日本本国有数の産業地帯であり、人口密集地であったから、一度パニックがおきてしまうとその収拾は容易なことではなかった。

 地震や津波から身を守る避難訓練は実施していたが、外国軍が上陸して本国が戦場になるという訓練は誰もしていなかったのだ。

 各地の日本軍は、パニックをおこした避難民の誘導と退避に忙殺され、本来なら容易く撃退できるはずのアメリカ軍の攻勢を遅滞するのが精一杯となってしまう。

 アメリカ軍は手元の弾薬を撃ち尽くしたら丸腰だったのだが、日本軍はそんなことを知るはずもなかった。自らの常識から豊富な予備弾薬があると思い込んで、避難民の誘導と退避を優先し、アメリカ軍への積極的な反撃は行わなかったのである。

 空軍は作戦機がほとんど地上撃破され、アメリカ軍の爆撃から逃れるのが精一杯の状態であり、航空支援など望むべくもなかった。

 もちろん、上陸船団への攻撃や洋上阻止など全く不可能だった。

 それでも一部の残存部隊は果敢な反撃を行った。

 北九州市上空では一般市民の見守る中、北九州最後の飛燕Ⅱ12機がアメリカ軍の戦闘機部隊およそ80機と交戦している。

 この12機は、地上撃破されて乗機を失ったエースパイロットを集めて編成された臨時部隊で、部隊マークを描く時間がなかったので、尾翼と翼端を黄色に塗るだけで済まされていた。

 後に黄色中隊と呼ばれることになる伝説的な精鋭部隊の隊長は、 


「挨拶も無しに人の家に上がりこむとは、ヤンキーに礼儀作法を教えてやらんとな」


 と嘯き、圧倒的な戦力差があるにも係わらず北九州の防空のために離陸していった。

 黄色中隊は北九州市上空の戦いで、被撃墜なしで多数の敵機を撃墜してアメリカ軍を震撼させたものの撤退命令を受けて、戦闘を放棄して離脱した。

 日本空軍の戦闘機撤退は多く一般市民の目撃され、日本軍の劣勢と敗北を理解させた。

 この直後に北九州市は無防備都市宣言を出して、アメリカ軍の占領下におかれる。

 空軍の状況は最悪だったが、日本海軍もまた大打撃を受けていた。

 戦艦3隻を一度に失った日本海軍はお通夜状態で、空母こそ全て無事だったが、洋上阻止に直ちに投入できる状態ではなかった。

 福岡市、北九州市、下関市が無防備都市宣言を出して占領されると各地の港湾にいくらかの補給物資を伴ったアメリカ軍の第2派が上陸し、戦線を補強した。

 アメリカ軍は北九州の大港湾を占領し、釜山と海上連絡線を確保したのである。

 また、下関海峡は使用不能になり、日本本国の国内航路は大混乱に陥った。

 産業物資の輸送を国内航路に頼る日本にとって下関海峡の閉鎖は致命的であり、各地の工業地帯がサプライチェーンの切断から操業不能に陥っていった。

 アメリカ軍の攻勢は続き、北米戦線でもアメリカ軍の先制攻撃で日本空軍は地上で撃破され、大打撃を受けていた。

 琉球にもアメリカ軍が上陸。琉球王国軍は水際防衛に失敗し、首府の首里を守るために決死的な後退戦闘を行っていた。

 大陸に近い台湾の航空戦力は最初に全滅させられ、呂宋にさえB-17は姿は見せていた。

 南太平洋ではフランスから返還された島嶼領土に対してアメリカ軍の小規模な上陸作戦が行われた。

 米太平洋艦隊の根拠地があるトラック環礁を空爆可能な花吹諸島のラバウルは米空母機動部隊の空襲と上陸作戦で占領され、日本軍は大南島の木漏日へ後退している。

 富士(英名:フィジー)諸島や、佐茂(英名:サモア)諸島にもアメリカ軍が襲来し、小規模な守備隊しかいない各地で一定の抵抗と日本軍の降伏が相次いだ。

 こうした状況を受けて、オーストラリア政府はアメリカ合衆国勝利の観測が高まったことから、日本に宣戦布告した。

 オーストラリア参戦の報告に接したチャーチルは乾いた笑みを浮かべただけで、多弁な彼らしくないことに沈黙したという。

 後々のことを考えると実に意味深なエピソードである。





 日本軍は各地で敗北、後退が相次いだ。

 絶望感や敗北感に囚われる者も多く、日本敗戦という観測が最も強まった時期でもあった。

 ドイツのヒトラー総統やロシア皇帝のアレクセイ二世が慌てて援軍派遣を日本の打診するほどだったから、どれだけ危機的な状況だったのか分かるものである。

 だが、外部からの見立てほど日本人社会全体は動揺していなかった。

 江戸初空襲の日であっても、通勤電車は満員で、空襲で電車が止まると彼らは歩いて出勤するほどであった。

 戦場になっている北九州や山陰ではそういうわけにはいかなかったが、戦線の後方では日常生活が保たれていた。

 むしろ、元寇以来の外国軍の侵入を受け、全ての人々に猛烈な怒りと報復感情を巻き起こした。


「ルーズベルト大統領はこの攻撃を日本の侵略から平和を守るために予防措置であると言うが、しかし、現実はどうか、むしろ侵略的なのは彼らの方ではないか!」


 政威大将軍の豊臣英頼は舌鋒鋭くアメリカ軍の奇襲攻撃を非難して、消沈しかけた日本の国家世論を立て直した。

 

「アメリカ合衆国の宣戦布告は攻撃開始の僅か30分前に手交されたものに過ぎない。このような言い訳じみた詭弁を我々は決して許してはならない」


 さらに英頼は宣戦布告文書が攻撃開始の僅か30分前に手交されたものであることを痛烈に批判した。

 日本が対英戦に突入する際は国際法の慣習に則り48時間の猶予を与えていた。

 正々堂々と宣戦を布告した日本に対して、対処時間のほとんどない攻撃開始30分前に宣戦を布告したアメリカのやり方はアンフェアで卑怯であると論陣を張ったのである。

 この問題は、ヤマザクラ計画の検討時にもホワイトハウスが懸念を述べていたが、作戦成功が奇襲という一点にかかっていたので等閑視されていた部分である。

 

「私はアメリカ人の開拓者魂を深く尊敬してきた。しかし、その精神は最早死んだものと言わざるえない。アンフェアで卑劣な攻撃を行った彼らを、歴史は悪と断罪するであろう」


 アンフェアかつ卑怯というのは、アメリカ人の道徳上もっとも忌み嫌われるものであり、英頼の口撃はアメリカ国内において猛烈な反発を呼んだ。

 その大半は日本の蒋介石支援を批判し、アメリカ政府の立場を擁護するものであった。また国際法上は問題ないと強弁する意見が圧倒的多数だった。

 要するに日本の指摘はアメリカの痛いところを突いたのだった。


「卑怯なアメリカ軍」


 というのは日本の戦争プロパガンダの常套句となるが、情報分析の誤り奇襲攻撃を食らったことを糊塗し、幕府への批判をアメリカ軍への憎悪に転化するという現実の政治的要請があったことは付け加えておくべきだろう。

 実際、奇襲攻撃を許した幕府への批判が殺到し、政威大将軍の支持率がこの時期急落していることから、責任転換は必須要素であった。

 太平洋を挟んだ言葉による戦争はこの後さらに激化していったが、それに比例するように日米の戦闘も激しさを増していった。

 1941年12月26日には、日米空母機動部隊がついに激突することになった。

 この戦闘は、アメリカ軍の拠点があるマリアナ諸島に最も近い日本空軍の硫黄島基地を巡る戦いだった。

 硫黄島を占領し、江戸へB-17を使った空爆を企図したアメリカ軍は空母レキシントン、サラトガを中心とする空母機動部隊(第17任務部隊)を送り込んだ。

 硫黄島基地の日本軍航空部隊は開戦緒戦の奇襲攻撃を免れており、戦闘機を中心に100機近い戦力を保持していた。

 3分の1が40式陸上攻撃機のような哨戒機だったが、飛燕Ⅱのような戦闘機が多かった。

 アメリカ海軍空母機動部隊の空襲は早期警戒レーダーによって察知されており、多数の戦闘機が空爆前に離陸し、上空で待ち構えていた。

 また、硫黄島基地は一種の要塞であり、空爆の効果は限定的なものだった。

 ワシントン条約で中部太平洋の島嶼を失った日本にとって、硫黄島や小笠原諸島は首府である江戸を守るための南の出城だった。

 基地建設の途中で硫黄島の土壌がセメントと混ぜると良質なコンクリートになることが分かり、大量の鉄筋コンクリートを利用して島全体を永久堡塁とし、地下要塞化してあった。

 航空基地の主要設備は地下にあり、表に出ている施設は極一部だけだった。

 アメリカ軍の写真偵察では地下施設を把握することは不可能であり、空爆の大半はバルーンのダミーに吸収された。

 アメリカ軍は多数の機体を地上撃破したと誤解して航空戦を継続したが、一行に迎撃に上がってくる敵戦闘機の数は減らず、艦載機の損害が増える一方だった。

 さすがにこれは何かがおかしいと作戦中断もやむ無しとなったところで、全速力で駆けつけてきた日本海軍空母機動部隊の放った偵察機に見つかってしまった。

 この時、日本の空母機動部隊の戦力は以下のとおりである。


 旗艦 愛宕

 空母 飛龍、蒼龍、雲龍

 重巡 阿賀野、酒匂、能代、矢矧 

 駆逐艦 12隻

 

 指揮官は病が快癒した後藤基次提督である。

 後藤提督は偵察機が発見した米空母機動部隊へ全力攻撃を指示し、二波に分けて合計186機の攻撃隊を放った。

 米空母部隊は、後藤艦隊の接近に気付いておらず、一方的な先制攻撃を浴びることになった。

 アメリカ軍のSBD艦爆が後藤艦隊を発見したときには、既に艦隊上空に日本軍の第一次攻撃隊が乱舞していた。

 米空母機動部隊上空でのF4Fと海燕Ⅱの激突は、概ね海燕Ⅱの優勢で終った。

 エンジン出力は40%近く海燕Ⅱが勝っており、速力も加速性能も海燕Ⅱが上だった。急降下してもF4Fは海燕Ⅱから逃れることができず、F4F は格闘戦のみ互角だった。

 だが、スピットファイア相手に散々格闘戦で翻弄されてきた日本海軍のパイロット達は安易に格闘戦に乗るものは少なく、編隊空戦に徹してF4Fを圧倒した。

 39式艦爆と41式艦攻はレキシントンとサラトガに突進し、250kg爆弾と800kg航空魚雷を叩きつけた。

 250kg爆弾2発と航空魚雷を2本が命中したレキシントンは大破炎上し、サラトガにも250kg爆弾3発が命中して中破した。

 さらに第二次攻撃隊が飛来して炎上中のレキシントンに止めを刺し、サラトガに航空魚雷2本を命中させている。

 サラトガはこの攻撃で機関停止に追い込まれ、排水ポンプが停止して浸水が止まらなくなり、消火も不可能になったことから雷撃処分された。

 米空母を全滅させた後藤艦隊は、さらに第3次、第4次、第5次と日暮れまで空爆を継続して、残存する米艦艇を徹底的に捜索、撃滅した。

 後方にいた上陸船団は攻撃を免れていたものの、第17任務部隊は巡洋艦4隻と駆逐艦7隻を空爆で失い、巡洋艦3隻が大破してなんとかグアム島まで後退した。

 なお、後藤艦隊のような連続攻撃は、パイロットや整備員にとって非常に負担がかかる攻撃であり、特にパイロット達の疲労は凄まじいものであった。

 休養や疲労を訴える航空参謀に、


「死んでから休めばいい」


 と、後藤提督が言い放ち、艦橋の空気が凍りついたという逸話がある。

 なお、後藤艦隊は日没後も上陸船団の捜索を続けたが発見には至らなかった。駆逐艦の残燃料が危険なまでに減少したことから撤退・・・することはなく、空母と駆逐艦を後退させ巡洋艦のみで捜索攻撃を続行している。

 捜索攻撃を行った巡洋艦愛宕、阿賀野、酒匂、矢矧、能代は結局、上陸船団を発見することは叶わなかった。

 だが、夜明けの海に彼らはとてつもない戦利品を見つけることになる。

 大破炎上して放棄されたサラトガが何故か沈没せず波間の間を彷徨っていたのだ。

 さすがにこれには後藤提督も驚き、しばし判断を求める幕僚の声にも反応できなかったと言われている。

 サラトガが生き残った理由については幸運の要素が大きいものだった。

 大火災と浸水が同時にサラトガを襲ったが、浸水の拡大によって火災が鎮火したのである。艦が傾斜したことで可燃物、とくにガソリンが艦外に流れ出したことも大きかった。

 米艦隊はサラトガを雷撃処分したが、艦が傾斜していたことから魚雷の命中した場所は艦の浮力とは関係ない場所となり、破損させただけでサラトガは沈まなかったのである。

 いい手土産ができた、として後藤艦隊は捜索を打ち切り、サラトガを曳航して持ち帰った。

 ちなみにサラトガの漂流位置から巡洋艦の足で30分ほどの距離の地点に退避中の米上陸船団がいたことが判明するのは戦後のことである。

 これが空母サラトガ最期の勝利と言われている。




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