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WWⅡ ソコトラ島への道


WWⅡ ソコトラ島への道

 

 第二次世界大戦勃発時点で、イギリスの船舶保有量はおよそ2,000万トンだった。

 これに対して護衛艦船は僅か200隻に過ぎない。

 海上護衛に理解があるイギリス海軍であっても、戦前の準備はこの程度だった。予算は戦艦などの正面戦力へ振り向けられ、対潜艦艇の整備は不十分だった。

 こうした潜水艦対策不備の原因の一つに、水中音波探知機アズディックの過大評価があった。

 水中の潜水艦を高精度で探知できるこの装置は、確かに画期的なものだった。

 アズディックを使えば、低速で動きの鈍い潜水艦は簡単に捕捉殲滅できると考えられ、駆逐艦の優位は圧倒的なので、対潜艦艇は少数で十分とされたのである。

 しかし、アズディックは浮上した潜水艦に無効という盲点があった。

 ドイツ海軍の潜水艦は夜間に浮上して船団襲撃を行ったので、開戦から暫くの間、水中音波探知機は役に立たずとなった。

 浮上したら簡単に見つかってしまうと思うかもしれないが、潜水艦の乾舷は小さなものであり、夜間の洋上であっては容易く波間に隠れてしまうのだ。

 夜間浮上して接近する潜水艦を捉えるには対水上レーダーが必須だったが、それが対潜艦艇にことごとく行き渡るのは1941年4月ごろのことになる。

 開戦初期は、そもそも対潜艦艇の数が全く足りなかった。

 1940年5月になるとイギリス海軍の護衛対象には、自国の船舶の他に自由フランス、オランダ、ベルギーなどドイツ軍の侵攻を受けた国々から脱出した船舶およそ780万トンが加わる。

 護衛対象が激増したにもかかわらずフランスの降伏によって、フランス海軍が護衛作戦から離脱してしまったので、これらを全てイギリス海軍単独で護衛しなければならなかった。

 護衛対象の総隻数は12,000隻を越えていた。

 これを全部、イギリス海軍単独で守るのである。どう考えても不可能だった。

 対してドイツ海軍のUボート艦隊には有利な状況が積み上がっていた。

 開戦以後に就役したUボートの数は少なかったが、フランス降伏により北フランスの海軍基地が使用可能になったことで、狩場と補給基地の往復時間が大幅に短縮された。

 バトル・オブ・ブリテンにおいて大量の航空戦力を消耗したイギリス空軍は洋上のUボートやドイツ空軍の長距離哨戒機を攻撃する余力がなかった。

 北フランスのロリアンにはUボート司令部が開設され、強力な無線通信設備によってUボート部隊を緊密に連携させる群狼作戦が実施可能になった。

 Uボートの第一期黄金時代は1940年7月から12月まで続き、1940年に年間440万tの商船が撃沈された。

 この戦果はもっぱらUボート艦隊によるものだったが、その中で日本からドイツに輸出された日本製の5隻のロ号潜水艦の果たした役割は大きなものだった。

 何しろ、ドイツ海軍が開戦時に保有するUボートの1割は日本製だったのである。

 一度海軍の伝統が途絶えたドイツ海軍は潜水艦艦隊の再建にもサンプルが必要であり、伝統的な海軍国の日本から潜水艦を輸入することは極自然な成り行きだった。

 ドイツ海軍に輸出されたロ号潜水艦は日本海軍の技術の粋を集めて作られていた。

 イギリス海軍と同様に日本海軍も他国への輸出艦で自国の最新技術(未成熟)の試験を行っており、ロ号潜水艦の輸出はその一環だったからである。

 特に実験的な装備としては、シュノーケルの存在が挙げられる。

 ロ号第500潜から506潜まで6隻の輸出潜水艦には、後に日本潜水艦の基本装備となるシュノーケルを備えていた。

 しかし、シュノーケルはドイツ海軍の注目をさほど集めなかった。量産されたⅦ型Uボートにもシュノーケルは装備されていないことからもそれが分かる。

 だが、潜水したままディーゼル機関を作動できるこの装置は、大西洋の戦いが激化する1942年以降、死活的な重要装備として再評価された。

 また、日独の技術交流で磁気信管の欠陥が判明していたことは、魚雷が主兵装であるUボート艦隊にとって重要な意味を持っていた。

 磁気信管の欠陥で、貴重なチャンスをフイにすることが回避されたのである。

 磁気信管の欠陥が修正されたのは開戦後しばらく経った後のことだったが、問題解決まで磁気信管はUボートから引き上げられ、安定性の高い接触式信管のみでUボートは戦った。

 接触式信管は磁気信管に比べて魚雷の破壊力を最大限に発揮できない欠点があったが、魚雷が確実に起爆する利点に比べれば、とるに足らないことだった。

 1939年10月13日に巡洋戦艦ネルソン(フッド級2番艦)にU-56の発射した魚雷3発が命中して沈没。翌14日にスカパ・フローへ侵入してロイヤル・オークを撃沈したU-47が使用したのも接触式信管の魚雷だった。

 もしも仮に日本との技術協力がなければネルソンやロイヤル・オークへの魚雷攻撃は欠陥のある磁気信管の魚雷で行われていた可能性が高かった。

 後年の軍事歴史研究においては、日独の技術協力によってUボートの戦果が10%拡大していると評価されている。

 イギリスの苦境は続いたが、バトル・オブ・ブリテンのダメージから立ち直った空軍は長距離哨戒機を徐々に充実させ、海軍には護衛艦艇の戦時量産型がぞくぞくと就役して、戦力の増強と立て直しが進んでいた。

 対するドイツ海軍は1940年夏に酷使したUボートの補修整備が必要になっていた。

 また、冬の北大西洋は作戦行動が困難だった。

 寒波でバルト海は凍結し、建造されたUボートは氷の中に閉じ込められ、戦力の増強が果たせなかった。

 1940年の冬はイギリス海軍の牧羊犬を肥え太らせ、ドイツ海軍の海狼をやせ細らせた。

 しかし、イギリス海軍の抱いた淡い期待を吹き飛ばす嵐が極東で吹き荒れた。

 1940年12月、日本参戦である。

 日本参戦時、日本海軍が保有していた潜水艦は115隻で、これは同時期のドイツ海軍のUボート保有隻数よりも多かった。

 もちろん、日本海はバルト海と異なり凍結しないので、全ての艦が出撃可能である。

 さらに日本海軍の場合は、強力な水上艦部隊もあった。

 1940年12月から始まった南方作戦で、日本海軍は多数のオランダ、イギリス商船を撃沈或いは拿捕している。

 1940年12月の1ヶ月間で日本海軍は53万tの商船を撃沈した。

 このような大戦果は、アジア方面の連合国船舶が独航船だったことが大きい。

 牧羊犬なしでうろつく羊がアジアの海にはひしめいていたのである。

 さらに南方作戦の進展で、港に逼塞しているところを拿捕される船も多かった。

 1940年12月からジャワ島陥落までの4ヶ月間の間に34万tの連合国商船を拿捕された。

 日本軍は商船拿捕専門部隊を編成して、船舶確保のために積極的な拿捕作戦を展開した。

 拿捕作戦に従事したのは海兵隊だった。

 海兵隊は平時の海上警察活動用に船舶臨検専門部隊を有しており、アジアの海において麻薬や武器密輸に目を光らせていた。

 モーター付きゴムボートなどで船にとりつき、これを制圧することは海兵隊にとってはお手のものだったのである。

 1941年2月にオランダ船籍の20,000t級タンカーを拿捕して、一躍有名人になった石川二十右衛門海兵隊中尉などは有名だろう。

 これは余談だが、石川海兵隊中尉の先祖は伝説的な大泥棒の石川五右衛門の傍系の子孫と言われている。

 通商破壊戦の煉獄のような損害のみならず、イギリス海軍はマレー沖海戦で大敗し、シンガポールは1941年2月に陥落した。

 これでインド洋は危険な海となった。

 1941年に入るとイギリス海軍には多数のフラワー級コルベットなど、護衛艦艇の充実と対水上レーダーの配備が始まるが、インド洋にも護衛艦船を派遣しなければならなくなり、大西洋の船団護衛は再び兵力不足に陥った。

 1941年1月から6月まで、アジア・インド洋で平均して毎月40万tの商船が撃沈された。大西洋の同時期の平均値が毎月30万tだったから、日独の海狼は毎月70万tの商船を掴み取った計算になる。

 この数値は極めて重大な意味をもっていた。

 ドイツ海軍Uボート艦隊司令長官カール・デーニッツ海軍大将が、Uボート作戦が戦略的な打撃と成りうる目安とした撃沈t数が月間70万tだったからである。月間70万tの撃沈によって初めて連合国の船舶建造量を上回ることができるのである。

 なお、Uボートの第一次黄金期であっても、月間70万tに達した月は1月もなかった。

 5月にはセイロン島が陥落し、日本空軍と潜水艦艦隊がインド洋を西へ進んだ。

 日本空軍はインドの大商港であるゴアやボンベイをターゲットに大規模な空爆を行って、航空機雷投下のあわせ技で港の稼働率は大幅に低下させた。

 イギリスは空襲圏外にあるカラチ港が残っていたが、港のキャパシティは限界に近くなっており、荷揚げ、或いは荷降ろしができない船が溢れかえる事態となる。

 ベンガル湾の航路はセイロン陥落後は完全に途絶した。

 その為、アラビア海が日英海軍の決戦場となっていった。

 日本海軍潜水艦艦隊の主力は1,200t級のロ号潜水艦だった。魚雷発射管4門で、魚雷の搭載数は10本だった。

 対するイギリス海軍の主力はフラワー級コルベットである。ロ号潜水艦と同程度の排水量の小型艦で、アスディックを標準装備し、爆雷40個を搭載していた。

 さらに大西洋での対潜作戦で威力を発揮した対水上レーダーとHF/DFハフーダフ) と呼ばれる無線方位探知機を装備していた。

 また、イギリス海軍は輸送船団を編成し、3隻から4隻の護衛艦をつけるようになっていた。そして、その船団は航空機の援護が受けられる沿岸を通過するように航路を定めていた。

 イギリス空軍は、大西洋の戦いと同様に、印度・アフリカ沿岸に対潜哨戒機を配置した。

 イギリス軍の主力哨戒機は航続距離の長い双発爆撃機(多くはビッカース・ウェリントンだった)で、対水上レーダーを装備しており、浮上航行中の潜水艦を探知することができた。

 大西洋において、対水上レーダー装備のウェリントンは夜間浮上航行中のUボートを次々と撃沈していた。Uボートはレーダー逆探知装置を持っておらず、目視するまでウェリントンの接近に気が付かなかった。

 しかし、インド洋のロ号潜水艦はレーダー逆探知装置(ESM)を装備しており、哨戒機を潜行してやり過ごすことができた。

 そのため当初、インド洋ではウェリントンの哨戒飛行は全く戦果が上がらなかった。

 日本海軍は北太平洋航路防衛のため、戦前から霧の中で戦うために対水上レーダーの研究を重ねていた。対水上レーダーは夜間水雷襲撃においても活用できることから日本海軍のほぼ全ての艦艇が標準装備していた。もちろん逆探知装置も存在しており、これも標準装備である。

 ロ号潜水艦にはそのどちらも装備されており、1941年6月時点では日英の電子戦は概ね互角で推移していた。

 また、どこかイギリス海軍は日本の電子技術を侮っているところがあり、日本潜水艦が対水上レーダーを使用して商船狩りを行っていることに1941年の半ばまで気がつかなかった。

 だが、哨戒機が現れるたびに潜行を余儀なくされるロ号潜は、活動を抑制され戦果が思うように上がらなくなった。

 高速の哨戒機からは急速潜航でも逃れることが困難で、ESMの調子が悪いと接近に気づかず奇襲を許すことになった。

 実際、不運なロ号潜水艦が何隻もESMの不調で撃沈されていた。

 潜水艦の最大の敵が、駆逐艦などの対潜艦艇ではなく航空機であるという認識を日本海軍がもつまでにさほど時間はかからなかった。

 ロ号潜水艦に対空火器を装備させるようなアイデアも現れたが、小さな潜水艦に装備できる対空火器などたかが知れていた。

 航空機には航空機をもって当たるのが一番であり、哨戒機の発進基地への爆撃が強化されることになった。

 日本空軍も船団攻撃には積極的に参加し、多数の39式重爆で偵察爆撃を行っている。航続距離を延伸するために、増槽を抱いた39式重爆は1tまでしか爆装できなかったが、250kg爆弾4発の水平爆撃は低速の商船には脅威だった。

 水平爆撃の命中率は高いものではないが、爆撃を終えても鳳は船団に張りついて位置情報を無線で味方の潜水艦に通報するので、厄介極まりなかった。

 鳳に張り付かれた船団は数時間以内に航空魚雷を抱いた陸上攻撃機に襲われるか、夜間に潜水艦の襲撃を受けた。

 日本空軍は1941年6月からさらに効果的な船団攻撃機を実戦投入した。

 40式陸攻の機首のガラス風防を撤去して、13mm機銃8丁と23mm機関砲2門を集中装備した対艦掃射機である。

 魚雷の代わりに増槽を抱いた対艦掃射機は5000km以上飛ぶことができた。

 掃射機が狙うのは、爆雷を満載した護衛艦だった。

 艦尾方向から緩急降下で接近した掃射機は、13mm機銃と23mm機関砲をシャワーのように護衛艦にぶちまけた。

 23mm機関砲には焼夷弾と曳光弾だけ装填されており、ほぼ確実に護衛艦に着火することができた。

 炎上した護衛艦は誘爆を避けるために爆雷を投棄するので対潜攻撃が不可能になる。

 これは潜水艦作戦を助ける上で多いに効果があった。

 だが、イギリス海軍が経済性を犠牲にして、船団の運行経路を沿岸航路に変更すると空爆では戦果が上がらなくなった。

 沿岸航路の船団には戦闘機の護衛がついており、重爆や陸攻、対艦掃射機は撃墜されることが多くなったのである。

 特に40式陸攻は、長距離作戦のため燃料を満載しており、主翼のインテグラルタンクに被弾すると簡単に炎上した。また、パイロットを守る防弾板もなく、スピットファイアに次々と撃墜されていた。

 空軍は陸攻の脆弱性に気がついていたが、高速性能と航続距離を優先していた。また、戦闘機の護衛さえあれば、陸攻は簡単に落とされることはなかった。

 爆撃機が戦闘機の護衛がつけられないところで戦うことが間違いなのである。

 しかし船団は多くの場合、戦闘機の護衛がつけられないほど遠い場所にいるのだった。

 そこで陸攻や対艦掃射機は夜間のみに飛ぶことになった。防御機銃を下ろして乗員を3人までに減らし、機体を黒塗りにした対水上レーダー装備の夜間攻撃機である。

 スピットファイアは昼間しか飛ばないので夜間攻撃はそれなりの戦果を挙げた。

 しかし、沿岸航路の船団は夜になると高射砲に守られた港に逃げ込むため、攻撃のチャンスに巡り会える機会は多くなかった。

 インド洋沿岸やアフリカ沿岸は長年に渡る植民地政策により貿易港が多数開かれており、逃げ込むことができる港湾には事欠かない。

 ただし、経済性は極めて劣悪であり、船団の運行効率は極端に悪くなったので商船を撃沈できなくてもイギリス経済に負担を強いるという点では効果があった。

 日本海軍と空軍はあらゆる手段をつくして商船を沈めていったが、通商破壊戦の根幹を握るのは先の大戦でも同じく情報だった。

 輸送船団の運行情報を掴み、こちらの潜水艦艦隊の展開を相手から隠すことが勝利の鍵を握っていた。

 特に暗号解読と諜報作戦には莫大な資金と労力が注ぎ込まれた。

 日本海軍は開戦前から無線傍受によりイギリスの商船暗号を解読していた。特に開戦緒戦で多数の船舶を拿捕して、その無線機や暗号機を奪取していたことが1941年前半の情報戦での日本優位を作り出していた。 

 ただし、その優位は長く続かなかった。イギリス海軍は次々に暗号を変更したので、情報戦は振り出しに戻った。

 暗号解読にはその資料となる膨大な無線通信記録が必要なため、日本海軍の忍者達は無線傍受のために様々な工夫を凝らした。

 航空機による電波情報収集は極めて効果的な方法で、39式重爆を改造した電波傍受専用機を投入して貪欲にイギリス軍の無線通信を傍受した。

 中立国のスペイン船籍の貨物船を装った無線傍受専用船をつくり、白昼堂々ボンベイ港の真ん中で無線傍受を行ったこともある。

 海軍忍者は暗号解読を試みると同時に、印度国内の諜報組織の再編成を行った。

 先の大戦中に活躍したオランダ人スパイ組織は、オランダが連合国に加入し、日本軍と戦闘状態に陥ったため、ほぼ壊滅状態となっていた。

 また、ガンジー率いるインド国民会議、その他独立勢力からも協力が得られなかった。

 その理由は、いわば身からでた錆だった。

 先の大戦中に日本軍がバラまいた武器弾薬による独立派の武装闘争はインド社会に深刻な打撃を与え、民意の離反を招いていたのである。

 ガンジーの非暴力闘争路線が支持を集めたのも、日本軍の支援した武装独立派によるテロに対する反感や反省の意味が強かった。

 しかし、インド人が非協力的というのは情報戦において大きなマイナス要素だった。

 そこで海軍忍者が接近したのはイスラム勢力だった。

 日本海軍はメッカ巡礼船の運行を通じて、イスラム勢力との関係を深めることに成功する。

 日本占領下のインドネシアはイスラム教徒が多く、インド洋はインドネシアからメッカに向かう巡礼船の行き交う海だった。

 メッカ巡礼がイスラム教徒にとっていかに重要なものかは今更述べるまでもないだろう。

 日本海軍の通商破壊戦は連合国軍の全ての艦船を攻撃対象としていたが、メッカへの巡礼船は攻撃対象から除外していた。

 さらに日本海軍は一歩踏み込み、1941年3月からイスラム勢力の支持をえるために独自の巡礼船の運行を開始する。

 日本は中立国経由でイギリスと交渉を重ねてメッカ巡礼船の運行情報を交換することでその安全を確保していた。

 1941年4月14日には、日本郵船が運行するメッカ巡礼船がジャワ島のバンドンから出港している。この船の運行情報はイギリス海軍にも中立国経由で通知されていた。

 インド国内の独立勢力は一枚岩ではなく、分離独立を求めるイスラム教勢力は巡礼船を巡る日本の対応に共感し、日本への接近を強めていった。

 日本軍は将来のインド・イスラム国家建設に対する支援として、印度国内のイスラム勢力に多数の資金と武器弾薬が潜水艦などで運び、引き換えにインド洋におけるイギリス船舶運行情報を入手するようになる。

 イラク、イラン、サウジアラビアなど、イスラム・コミュニティーも日本をイスラムの友として厚遇し、中東各地のイギリス軍の情報を日本に流した。

 戦後の日本の中東外交を決定することになるイスラムコネクションは、もっぱらこの時に築かれたものである。

 こうした日本の対応は、インドの統一独立を追求するガンジーや国民民会議派との鋭い対立を意味していた。

 しかし、インド人から得られる情報よりも、イスラム教勢力が集めてくる情報の方が日本にとっては魅力的だった。

 中東のイスラム勢力が集めてくる情報には、中東イギリスのタンカー船団運行情報さえ含まれていた。

 イギリスの支配下にあるイラクのキルクーク油田は、南米のマラカイボ油田や北米のテキサス油田にならぶイギリスの燃料供給地だった。

 イラクのバスラからペルシャ湾を通過し、インド洋を南下して希望岬経由でイギリス本土に向かうタンカー船団の運行情報を、日本海軍は喉から手が出るほど欲していた。

 このオイルロードを遮断するために、日本軍はマダガスカルへと進駐する。

 ドイツがバルバロッサ作戦を発動した6月22日、日本はヴィシーフランスと交渉をまとめマダガスカル島の軍港、航空基地使用権を確保した。

 交渉成立と同時に巡洋艦1個戦隊と各艦に分譲した海兵隊1個大隊がマダガスカル島防衛強化のために派遣された。さらに1個水雷戦隊に護衛された高速船団が、マダガスカル島に上陸したは7月1日のことである。

 日本空軍機の展開もすぐさま行われた。

 マダガスカル島からアフリカ沿岸までは片道およそ1,000kmだった。増槽付きの飛燕Ⅱや連雀なら十分往復できる距離だった。

 戦闘機の護衛付きで、陸攻や対艦掃射機が飛び始めるとアフリカ沿岸航路は、運行のたびに大打撃を受けるようになった。

 また、この方面では水上艦の顕著な活躍があった。

 1941年7月22日には、41隻の大船団が壊滅している。

 この破滅的な船団攻撃を行ったのは水上艦部隊だった。

 空軍機の上空直掩を受けた巡洋艦青葉、衣笠、古鷹、加古は日本海軍の8インチ砲装備の巡洋艦の中では最も古いものだったが、20.3サンチ砲6門と片舷4門の61サンチ酸素魚雷は今だに第一線級の火力を有していると考えられていた。

 空軍機の援護を受けながら、諜報情報と航空偵察により41隻の大船団を発見した4隻は、白昼堂々、船団攻撃を実施。護衛のコルベット5隻を全滅させ、逃げ惑う貨物船を追い散らした。

 イギリス空軍はボーフォート雷撃機を送って青葉以下4隻を攻撃したが、上空直掩の日本軍戦闘機部隊に阻まれ適切な射点につくことができなかった。

 船団を解散して逃げた商船達は、後から集まった潜水艦と陸上攻撃機によって沈められ、ジブチにたどりつくことができた船は10隻足らずだった。

 この船団には、北アフリカ戦線へ送る膨大な数の陸戦兵器が積まれており、戦車1個師団分のクルセーダー戦車が海没して失われた。


「ちょっとした取材が大変なことになってしまいました」


 と述べたのは巡洋艦青葉に同乗していた朝目新聞社の特派員だった。

 彼の激写した戦場記録写真は、その年の報道写真賞を受賞している。

 青葉から8インチ砲の水平射撃を行う僚艦の衣笠を捉えたこの写真は、第二次世界大戦の水上砲戦を写したものとして、歴史書籍に繰り返し掲載されている。

 ただし、この砲撃の目標となっていたのは、非武装の貨物船であった。

 この成功を受けて、日本海軍はさらに多数の水上艦をマダガスカル島に送り込んだ。

 鳥海型巡洋艦1隻、妙高型巡洋艦4隻、軽巡3隻、駆逐艦12隻である。

 このうち軽巡洋艦3隻は、秘密兵器だった重雷装巡洋艦だった。

 この、「だった」というのは日本海軍において、もはや重雷装巡洋艦が無意味なものと看做されているためである。

 日本海軍は、マレー沖海戦においてもセイロン島航空戦においても、多数の巡洋艦を動員したが、空母の護衛や上陸支援の艦砲射撃に終始しており、水上砲戦は発生していなかった。

 スラバヤ沖海戦のような戦いもあったが、水上艦同士の対決は例外的であった。

 

「もはや、水上艦同士の戦いで雌雄を決する時代ではない。」


 という認識が、海軍内の一般論となっていた。

 そうでなければ、秘密兵器扱いだった重雷装巡洋艦の大井、北上、木曽の3隻がマダガスカル島のようなインド洋の果てに送られるわけなかった。

 マダガスカル行きを告げられた北上の艦長は、


「まぁなんて言うの?こんなこともあるよね」


 と運命を受け入れた人間特有のサバサバとした態度だったと言われている。

 重雷装巡洋艦は水上戦に特化しすぎてて、他に使い道がないのだ。

 航路封鎖は空爆と潜水艦だけで十分ではないかという意見はあったが、海軍の一部の派閥が水上艦の派遣を繰り返し訴えて、水上艦の大規模派遣が決まった。

 艦隊を率いるのは、日本海軍水雷戦術の大家、美樹佐萱大将だった。

 なお、美樹大将は戦間期に数々の水雷戦術や装備開発を主導し、戦艦以外の方法で戦艦に勝てることを理論的に示して、


「奇跡も魔法もあるんだよ」


 と発言して物議を醸したことがある。

 しかし、美樹大将は開戦後の戦闘がほぼ航空作戦に終始し、水雷装備が過去の遺物と成り果てたことにショックを受け、このころ精神を病んでいたとも言われており、この人選は死に場所を与えるためのものだったと評するのが一般的である。

 もはや、水上艦がかつての海戦の主役として戦える場所は、インド洋の片隅にしかなかった。それも空軍機の援護を受けられるという括弧書きつきのものだった。

 そして、日本海軍がそう考えるのなら、ライバルのイギリス海軍も同じことを考えたのだった。

 1941年8月8日のモザンビーク海峡海戦は、38隻の大船団を巡る日英水上艦部隊の激突だった。

 この船団護衛にイギリス空海軍は全力を注ぎ、船団上空には双発のボーファイター戦闘機のみならず、航続距離の短いスピットファイアMkVまで動員されていた。

 中東から本国に戻るこの船団は多数のタンカーが組み込まれた原油輸送船団であり、日本海軍垂涎の獲物であった。

 海戦に先立ち、マダガスカルの日本空軍は、戦闘機の護衛つきで陸攻や対艦掃射機からなる70機の攻撃隊を放っている。

 70機のうちの3分の1が戦闘機で、残りは陸攻と掃射機という編成だった。

 船団上空の空中戦は、日本軍が概ね優勢だった。

 戦闘経験を積んだ日本空軍の戦闘機パイロット達は、スピットファイアの得意とする格闘戦にはもはや乗ってこなくなった。一撃離脱戦法と囮を利用した編隊空戦を駆使して、スピットファイアに対抗したのである。

 この時、攻撃隊は船団護衛を行う巡洋戦艦レパルス、レジスタンスと重巡洋艦4隻を発見し、艦隊に通報している。


「ワレ戦艦レ級二隻ヲ見ユ!」


 この一報でマダガスカルにいた日本海軍水上部隊は全力出撃を決意する。

 なお、戦艦レ級とは巡洋戦艦レパルス、レジスタンスのことで、どちらもレで始まることからレ級と呼ばれていた。

 対艦掃射機は駆逐艦を狙い、陸攻はレパルス、レジスタンスに殺到した。

 20機の陸攻のうち、魚雷投下に成功したのは10機でそのうちの1本が、レパルスに命中している。

 この損害で、レパルスは5ノット速力が低下したが、さすがに巡洋戦艦は航空魚雷1本で沈むものではなく船団護衛には問題ないとして作戦を続行した。レジスタンスは全弾回避した。

 対艦掃射機は圧倒的火力で駆逐艦を蹂躙した。

 装甲など皆無に等しい駆逐艦は一航過の銃撃で船体全体がチーズのように穴だらけになった。もちろん中の人間はただでは済まない。

 各駆逐艦は血のバケツというほかない惨状を呈した。

 バケツやたらいには吹き飛んだ人間だったものが集められ海中へ投棄された。甲板は血脂で滑って危険なので、事前に砂を撒くのは紳士の嗜みだった。

 魚雷と爆雷の誘爆で駆逐艦2隻が沈み、さらに3隻が人員殺傷で戦闘不能になりジブチに引き返した。

 その日の昼間の日本軍の攻撃はこれで終了し、日没後に水上艦による夜襲で船団を殲滅することになった。

 この夜襲に参加したのは、



 旗艦 鳥海

 巡洋艦 青葉、衣笠、古鷹、加古、妙高、那智、羽黒、足柄

 重雷装巡洋艦 北上、大井、木曽

 軽巡1

 駆逐艦12隻


 マダガスカル島に展開する水上艦の全力出撃であった。

 多くの船が1920年代から30年代前半にかけて就役した船で、最新鋭艦が揃っていたわけではない。

 重雷装巡洋艦などは、艦隊決戦兵器として第一次世界大戦中に建造された5,500t級軽巡洋艦を改装したものだった。

 駆逐艦も特型と呼ばれる平射砲装備の対空戦闘能力が低い船で、空母護衛にはふさわしくないとしてこの戦場に回された旧式艦ばかりだった。

 だが、そうであるがゆえに対水上戦闘に特化した船が揃っていた。

 日本艦隊の夜襲は、対水上レーダー装備の39式重爆の誘導によって巡洋艦青葉、衣笠、古鷹、加古、大井、北上、木曽、阿賀野以下駆逐艦12隻が巡戦レパルス、レジスタンスに接触し、照明弾を打ち上げることで始まった。

 空軍には夜間攻撃機もあったが、この海戦には未参加だった。同士討ちを避けるため、照明弾投下のみを行っている。

 青葉以下の各艦にも対水上レーダーがあり、電波の目によってあるていど正確にレパルス、レジスタンスを捕捉していた。

 同様にレパルス、レジスタンスも青葉以下を電波で捉えており、距離25,000mから砲撃を開始した。

 これは夜間戦闘においては革新的な遠距離射撃だった。

 光学照準が困難になる夜間において、1万m以上の長距離射撃はこれまで不可能だった。

 ただし、イギリス艦隊のレーダー射撃は完全なものではなく、光学照準との併用であり、その射撃精度は低レベルだった。

 レパルス、レジスタンスの長距離砲撃に驚きながらも、青葉、衣笠、加古、古鷹は探照灯を照射して8インチ砲で応戦した。

 青葉以下旧式重巡の役目は敵の砲撃を引き寄せる囮だった。

 鳥海、妙高、那智、羽黒、足柄はほぼ同数の英重巡部隊との砲戦に入った。

 日本艦隊の本命は、重雷装軽巡以下16隻の水雷戦隊だった。

 この戦いは、日本海軍にとってスラバヤ沖の復讐戦だった。

 水雷戦隊は激しい阻止砲撃を浴びながらも、距離3,000mまで突進を止めなかった。

 酸素魚雷の長射程は無駄になるが、激しく進路変更を繰り返す高速の巡洋戦艦に確実に魚雷を命中させるには、がむしゃらに突進して近接戦に持ち込むしかなかった。

 スラバヤ沖の過ちを二度と繰り返さないという誓いのもと、死の騎行が始まる。

 最初に、駆逐艦吹雪が機関を撃ち抜かれ落伍し、初雪が魚雷誘爆で爆沈、曙が艦橋を吹き飛ばされ落伍、磯波は弾薬庫誘爆で轟沈した。大井、北上は酸素魚雷の発射管に被弾し、破壊された魚雷から燃料が漏れ大火災が発生、残った魚雷が火炎で炙られた。

 魚雷発射時点で無傷な船は1隻もなかったが、距離3,000から発射された雷速50ノット122本の酸素魚雷は回避不能だった。

 レパルスには酸素魚雷4本が命中、レジスタンスには5本が命中した。

 これは致命傷だった。

 なお、レパルス、レジスタンスは元日本海軍金剛型巡洋戦艦朝日、春日の2艦である。

 戦時中に就役した5,500t級軽巡洋艦、大井、北上とは同じ艦隊に所属していたことがあった。

 魚雷命中直後に、大井、北上は火災で炙られた魚雷が誘爆してほぼ同時に大爆発を起こして沈没した。

 最後の重雷装巡洋艦、木曽は生き残った。

 

「大井と北上が朝日と春日を連れて行った」


 木曽艦長は、後に記した自伝において、この時の様子をこのように表現した。

 レパルスとレジスタンスは総員退艦となり、英重巡部隊は敗北を悟って撤退を開始した。

 だが、日本巡洋艦と戦っているときに全速力で一直線に逃げるというのは賢いやり方ではなかった。そうした艦隊機動は、行動が単純化するため長射程の酸素魚雷の良い的になってしまうのである。

 元々、酸素魚雷の長射程はそうした場合にこそ有効なものだった。


「それを思い出せただけで、十分だよ。もう何の後悔もない」


 それが美樹提督の最後の言葉だった。

 英重巡部隊との砲戦中、鳥海の夜戦艦橋に飛び込んだ砲弾によって瀕死の重傷を負った美樹提督は艦橋で最後まで指揮を取り、英重巡部隊に魚雷命中を確認して絶命した。

 この海戦で生き残ったのは、英重巡ノーフォーク1隻と駆逐艦3隻のみで、イギリス海軍の護衛部隊は壊滅した。 

 牧羊犬を失ったタンカー船団には大規模な殺戮劇が待っていた。

 囮役を果たして沈んだ重巡加古、古鷹を除く日本艦隊の巡洋艦部隊はタンカー船団に突入して、これを壊乱させた。

 巡洋艦の8インチ砲はタンカーや輸送船への攻撃には過剰火力であり、10,000tクラスの輸送船であっても、至近距離からの水平射撃で呆気なく沈んでいった。

 原油タンカーへの砲撃は致命的で、大規模原油火災を起こして松明のように燃え上がり沈んでいった。

 海上へ流出した原油に火が回り、昼間のように明るかったと言われている。

 日本艦隊の追撃から逃げ延びた商船は僅か2隻で、それもアフリカ東岸の港に逃げ込んだ船だけが助かり、ケープタウンにたどり着いた船は1隻もなかった。

 この結果を受けて、イギリスは希望岬まわりのインド洋航路の運行を停止した。

 船団が全滅したこともだが、戦艦レパルス、レジスタンスの喪失はイギリス海軍を震撼させた。

 2隻の喪失も衝撃的ながら、それ以上の衝撃は戦艦が抑止力として機能しなかったことが、イギリス海軍には信じられなかった。

 イギリス海軍は船団護衛に戦艦をつければ、潜水艦や航空機はともかく水上艦の襲撃は抑止されると考えていたのだった。

 戦艦にはそれだけの価値があると思われていた。

 イギリス海軍の思惑は、ドイツ海軍相手なら、通用したかもしれない。

 しかし、相手は戦艦を戦艦以外の方法で沈める方法を編み出すことに血道をあげてきた日本海軍だった。

 むしろ僅かな護衛でのこのこ戦艦が出てきたことに小躍りして襲いかかったというのが実相といえた。

 日本海軍には、戦艦が抑止力として機能しないということが示された戦いがモザンビーク海峡海戦だった。

 この戦いの後、アフリカ東岸の港も潜水艦と空爆、機雷によって封鎖されていき、いよいよ日本海軍のインド洋封鎖は最終段階に入っていた。

 インド洋最後の航路である紅海ー地中海ルートを封鎖すべく、日本海軍はソコトラ島への攻勢計画を立案するに至る。




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