WWⅡ 北の国から
WWⅡ 北の国から
1941年6月、ドイツ軍は総兵力300万でソ連国境突破した。
東部戦線、独ソ戦の始まりである。
ヒトラーは宣戦布告に際して数時間に渡る演説を行い、ソ連の侵略を予防するため防衛戦争であることを強調したが、不可侵条約の一方的な破棄と宣戦布告同時攻撃はどう解釈しても侵略以外の何者でもなかった。
しかも、ドイツとソ連は1939年に結んだ独ソ不可侵条約により実質的な同盟関係だった。ポーランドの分割や、ソ連のバルト三国の併合、フィンランド侵攻などはドイツとソ連の秘密協定によって相互承認されたものだった。
独ソ不可侵条約によってドイツ軍はその全力を西方に傾けることが可能となり、1940年春の西方戦役で劇的な勝利をおさめた。
だが、英国本土航空戦が上手くいかなくなると、ヒトラーは軍部に極秘の対ソ戦の準備を命令している。
これが1940年7月のことである。
ヒトラーにとって同盟とは自分自身の都合しか意味をもたないことをはっきりと示すものであり、ソ連への攻撃が開始されると多くの日本人は、やはりドイツはクソだという認識を深めたという。
それはともかくとして、ヒトラーには勝算があった。
一つは、ソ連軍の弱体化だった。スターリンの大粛清によりソ連軍の将校団は壊滅状態に陥っていた。その結果はフィンランド冬戦争で示されているとおりである。
二つは、同年9月に締結された日独伊三国同盟である。二正面作戦となっても、イギリスの戦力を日本が吸収してくれる見込みが立っていた。片務的な自動参戦条項などの不平等な条件を最終的にヒトラーが呑んだのも、日本を弾除けに使うつもりだったからだ。
三つは、ウラル山脈の向こうに広がるロシア・シベリア帝国の存在だった。
ロシア皇帝アレクセイ二世が率いる立憲君主国家は日本の同盟国であり、三国同盟で間接的な同盟関係となっていた。
ロシア帝国は今次大戦においては中立を保っていたが、ヨーロッパ・ロシアへの帰還と革命政権撲滅を悲願としていた。
ドイツ軍がソ連に踏み込めば、ロシア帝国軍がウラル山脈を越えて東から殺到し、ソ連はポーランドのような二正面作戦となって簡単に粉砕できるはずだった。
もちろん、ソ連が粉砕されたとき、ヨーロッパ・ロシアを制するのはドイツである。
それについては全くヒトラーは心配していなかった。
ウラル山脈の向こうに逃げ延びた時代遅れの帝政国家の軍隊を相手に、フランスを六週間で制したドイツ軍がスピード勝負で負けるはず無いからだ。
歴史が語るところによればヒトラーは、
「ロシアにはせいぜい六週間しか要らん」
と、対ソ開戦に反対するゲーリング国家元帥を諭したそうである。
そもそも根本的に、ヒトラーはスラブ人種を劣等人種として見下していた。
ヒトラーはロシア征服の暁には、ヨーロッパ・ロシアからスラブ人種を排除し、アーリア人種の植民地にするつもりだった。
ヒトラーのイデオロギーまみれの価値観で唯一己と対等のスラブ人がいるとしたら、本人は決して認めないだろうが、ヨシフ・スターリンただ一人だけだろう。
チンギス・ハーンの生まれ変わりという妖しい噂のある東洋人に助けられたアレクセイ二世など、ヒトラーは全く歯牙にも掛けていない。
せいぜい弾除けに使えたらいいな、という程度のものだった。
このように殆ど一方的にヒトラーから見下されていたアレクセイ二世だったが、独ソ戦が始まった1941年には40歳で、ヒトラーよりも10歳以上若かった。
ちなみに豊臣英頼はヒトラーと同い年である。
40歳といえば、若さと経験の調和がとれ、男としては最も脂が乗ってくるころである。
実際のところ、少年時代に皇帝となったアレクセイ二世がその治世のおいて、全盛期を迎えるのはこれからだった。
アレクセイ二世、アレクセイ・ニコラエヴィチは激動の人生を送ってきた人物である。
ロシア2月革命で、父親のニコライ二世は退位に追い込まれ、自分自身もロシア臨時政府の手によって自宅軟禁となった。
血友病を患っていたアレクセイ二世は壮健とは言い難く、自宅軟禁中に負傷した時十分な治療が受けられなかったため、その後一生を車椅子で送ることになっている。
10月革命でボルシェヴィキ政権が誕生すると皇帝一家はエカテリンブルクへ移送されたが、このときには寝たきりに近いほど病状が悪化していた。
その後、エカテリンブルク郊外の屋敷で監禁されていたのだが、東から日本軍が接近してきたため、別所に移送されることになった。
後の資料研究によってこの時モスクワから出ていた命令は移送ではなく処刑だったのだが、日本軍の進撃速度があまりにも早く指揮系統に混乱が起きていたため、どこかで命令が誤って伝わり、アレクセイ二世は九死に一生を得た。
その後、日本軍の騎兵部隊が不審者の集団として移送中の皇帝一家を発見、日本軍の手によって救出されることになる。
アレクセイ二世はこの時、病状悪化で人事不省の状態だったとされる。
エカテリンブルクは日本軍の占領下となり、漸くアレクセイ二世はまともな治療を受けることができるようになった。
このとき、病床にいたアレクセイ二世を日本軍騎兵元帥秋山好古が見舞っている。
「モンゴル軍の元帥がきたというから、どんな恐ろしい人かと思っていたら、とても優しい笑顔の紳士が現れた。けれども、何故かとても不潔な格好をしていたので、どうして元帥なのに身を綺麗にしないのかと私は尋ねた。すると元帥は風呂に入るために戦場にきたのではありませんと答えられた」
この時の会見をアレクセイ二世は後にこのように語っている。
アレクセイ二世は秋山好古を実直な人物として信頼するようになり、秋山もアレクセイ少年の身の上に同情して親身に接するようになったという。
この頃、既にアレクセイ少年は次期皇帝となることを定められていた。
健康状態と僅か13歳という年齢からして、到底皇位を継承できる状態にはなかったが、他に代わる人物がいなかった。
他に皇位継承をもつ叔父のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公はチェーカーによって処刑されており、他の皇族も次々と監禁先で処刑されていったからだ。
2年後、病状の安定を待ってアレクセイ少年はアレクセイ二世として皇帝に即位した。
皇帝即位後もロシア内戦が続いたが、1920年までに白軍の大半が敗れ、ウラル山脈を越えて、ロシア帝国に逃れた。
父親のニコライ二世は日本軍の支援を受けて簡単に復権できると考えていたのだが、日本は対米戦遂行のためロシアどころではなくなっており、現状維持と亡命者の受入だけで精一杯だった。
また、ニコライ二世は致命的なまでに国内の人気がなかった。
現在のロシアの惨状を招いた諸悪の根源と見られており、赤軍と戦った白軍もニコライ二世とだけは同盟しようとは考えなかった。また、日本軍と手を結ぶニコライ二世は売国奴と考えられていたのである。
さらにドイツ革命が勃発してドイツが降伏すると孤立した日本は屈辱的なワシントン講和条約を受け入れて第一次世界大戦は終結した。
日本は軍隊の反乱と大地震で首都が壊滅し、深刻な経済危機に突入していくことになるが、それでもロシア帝国への支援は続けた。
得体の知れない共産主義国家と国境を接するなど考えたくもない悪夢だったからだ。
日本の支援にも係わらずロシア・シベリア帝国の内政は安定しているとはいえず、南部のアラシュ自治国は、1924年にカザフスタン共和国として独立することになる。
カザフスタン共和国はその後、ウズベキスタンやキルギスタンなど細かく分離独立運動が進んでいった。
1925年には失意のうちにニコライ二世が亡くなり、ロシア帝国の全てが若きアレクセイ二世の双肩にのしかかった。
立憲君主制国家において、アレクセイ二世の権限はなきに等しいものだったが、国内の政治的な対立において皇帝の調停はなくてはならないものだった。
若き皇帝は足腰の定まらない帝国に生じる様々な課題にぶつかったが、家族の支えとチンギス・ハーンの生まれ変わりの助言を得て務めを果たした。
車椅子のアレクセイ二世に代わって国内を回ったのは、姉のアナスタシア皇女とマリア皇女で、美しく活発なアナスタシア皇女の人気は凄まじいものだった。
アナスタシア皇女は労働者に混じって石炭を堀り、川で漁をするなど、アレクセイ二世の掲げる「国民に開かれた帝室」を体現する人物だった。
姉の人気にアレクセイ二世は嫉妬し、最晩年の秋山好古に愚痴をこぼして叱られたエピソードが残っている。
ちなみに母親のニコライ2世皇后は夫のニコライ二世共々、国内から人気がなく、公的な場には殆ど姿を現していない。元より非社交的な人物だった。
オリガ皇女、タチアナ皇女は母親似で、家庭内ではよき姉だったが、公的な場には殆ど姿を現さなかった。しかし、英国王室や日本の徳川家に嫁いで、帝室外交において重大な役割を果たした。
アレクセイ二世は帝室外交を駆使して1928年に国際連盟への加盟を果たし、ロシア帝国の国際地位を向上させた。
日本とは秋山コネクションとよばれる緊密な外交関係を構築しつつも、日本の傀儡政権という印象を払拭するため、帝室外交を通じてイギリスにも接近して中央アジアにおける相互不可侵条約を結んだ。
この交渉を通じて、後にイギリスの首相となるチャーチルはアレクセイ二世と会見する機会を得ている。
チャーチルはアレクセイ二世の簡素な服装と質素な生活に驚いたという。
「身辺は単純明快でいい」
というのがアレクセイ二世の信条だった。
これを聞いてチャーチルは、若きロシア皇帝が日本の操り人形におさまる人物ではない感じたと言われている。
その後、世界大恐慌の煽りを受けてロシア帝国は深刻な経済不況を経験する。
特に日本経済の破滅は、連携が深化していた故に甚大な悪影響をロシア帝国に齎した。
ロシア帝国の経済は日本へのエネルギー資源輸出によって支えられていた。また、日本からの食料輸入と生活雑貨輸入がなければ一日も国が回らなかった。
典型的な植民地的モノカルチャー経済だったが、もともとシベリアはヨーロッパ・ロシアの植民地であったことを考えれば、そうした経済体制となるのは必然的だった。
1930年代、ソビエト連邦は5カ年計画を発表し、重工業化を推し進め世界大恐慌とは無縁の大発展を見せていた。
対してロシア帝国の重工業の進展は芳しくなかった。
アレクセイ二世は極限まで宮廷費を削り、食事を一日二食まで減らして国費を工業化に充てたが、ソ連との経済格差は広がるばかりだった。
元の自力が違いすぎた。国力の基礎となる人口は6倍の差があったのである。
1939年に独ソ不可侵条約が結ばれ、ソ連との戦争が迫った時、アレクセイ二世が国防に必要な武器弾薬を日本に求めたのは必然であった。
政威大将軍豊臣英頼とアレクセイ二世のトップ会談で、日本は3年以内に航空機5,000機と戦車3,000両の供給を確約した。
なお、アレクセイ二世はこの約束についてやや懐疑的であり、半分も供与されれば御の字だと考えていた節がある。
実際、同時期にこの時点では中立国だったアメリカに兵器購入の打診を行っており、日本以外からの兵器調達を考えていた。
だが、翌月から続々と浦塩経由で武器弾薬が届くようになるとアメリカとの交渉は沙汰止みとなった。
総力戦体制構築を進める日本経済の生産力は凄まじいもので、1941年6月時点で、戦車約1,800両及航空機3,000機を国境に並べることができていた。
これらを後方から支えるおよそ50,000両のトラックは全て日本製だった。
末端の兵士の全てではないが、そこそこ階級の高い将校なら豊田製の陸上巡洋艦というとても乗り心地がよく、走破性のたかい四輪駆動車に乗って移動することができた。
独ソ戦が始まると、さらに日本空軍の1個航空艦隊およそ1,200機が援軍として送られてきた。航空基地防衛のために1個軍と高射砲部隊も込で。
頼んでもいないのに次々と送られてくる膨大な物資と援軍を見て、
「父は尊敬しているが、やはり日本との戦争を決意したことだけは間違っていたと思う」
と、アレクセイ二世は側近に語ったという。
シベリア帝国の総兵力はおよそ120万。
人口約2,400万人の国家からすると限界に近い動員を行っていたといえる。
兵力という点では、東部戦線のドイツ軍の半分以下だった。
ヒトラーが、ヨーロッパ・ロシアの早食い競争で負けるはずがないと考えていたことも頷ける現況である。
しかし、7月1日にロシア帝国がソビエトとの内戦再開を宣言し、戦闘が始まるとヒトラーの想定が全く無根拠だったことが分かった。
ロシア帝国軍の進撃速度は局地的だがドイツ軍のそれを上回る数値を示したのである。
開戦初日から、日本・ロシア連合軍は全戦線に渡って制空権を確保した。
一応、スターリンは日本軍と帝国軍の集結状況についてはかなり詳細に把握していた。広大なウラル国境で隠し事をするのは殆ど不可能に近い。また、ロシア帝国内の情報をもたらす共産主義スパイはかなりの数に昇っていた。
しかし、東部戦線でソ連空軍は壊滅状態となっており、ソ連からの先制攻撃は全く不可能な状態だった。
スターリンにできることは、日ロ空軍の爆撃で潰される前にウラル国境から航空部隊を引き上げ、対ドイツ戦に充てることだけだった。
結果として、日ロ空軍部隊の実施した航空撃滅戦は空振りに終わったが、侵攻部隊上空の制空権は完全に確保された。
さらに日本軍はウラル国境ぎりぎりから39式重爆の大編隊を発進させ、2,000km以上離れたモスクワとバクー油田を開戦と同時に爆撃した。
爆撃隊はそのままドイツ占領地まで飛行し、現地で燃料と爆弾を搭載して、再びモスクワとバクー油田を爆撃して戻ってきた。
この攻撃はソ連空軍に戦力分散を強いるための陽動に近いものだったが、長距離戦略爆撃を予想していなかったソ連の意表をつくことになった。
39式重爆およそ120機の絨毯爆撃を受けたバクー油田は大規模油田火災を起こして稼働率が30%まで低下する大損害を受けている。
また、モスクワを白昼堂々爆撃されたスターリンは面子丸つぶれだった。
スターリンは責任者を銃殺にしたが、それで済む問題ではなかった。
これまで安全と思われた場所にも、日本軍の爆撃が及ぶことがわかったのである。
特にバクー油田が早急に防空体制を固めなければならなかったが、それは前線で使える兵力を引き抜いて遊兵化させる危険があった。
最も、遊兵化するほどの航空戦力は殆ど残っていなかったが。
制空権確保に成功するとロシア帝国軍の各戦車師団が前進を開始し、各地で薄い戦線を突破していった。
対応するソ連軍はスターリンの死守命令で撤退することが許されず、国境から200km以内で殆どが包囲殲滅された。
この時のソ連軍の崩壊速度は異常だった。
包囲されると同時に降伏しているような部隊さえあったほどだ。ドイツ軍相手に全滅するまで戦ったブレスト要塞のような例を考えると、これは異例のことであった。
ヒトラーもスターリンも見落としていたことだが、ロシア正教においてロシア皇帝は宗教的な指導者を兼ねていた。
それはロシア・シベリア帝国とて同じであり、ソ連領内において弾圧されながらも生き残っていたロシア正教会と帝室は地下でつながり、いつかやってくる帰還の日に備えていた。
そして、その日がやってくると多くの東方正教会の僧侶たちが包囲されたソビエト軍との降伏交渉に活躍したのである。
もとより同じロシア人同士の戦いで全滅するまで戦う気力があるものは少数であったし、降伏の使者を務める正教会の僧侶を射殺する勇気のあるロシア人はさらに稀だった。
政治将校が降伏を勧める僧侶を射殺することもあったが、そうした蛮行を働いた政治将校は多くの場合、味方の手によって悲惨な最後を遂げた。
また、多くのロシア人はスターリン主義のソビエトに絶望していた。
西からゲルマン人が攻めてきたのなら断固として戦うが、スターリンのためにロシア人同士で殲滅戦争などバカバカしくてやっていられなかった。
同時期のソ連の国家体制を揶揄するジョークは山ほどあるが、
「資本主義は崖っぷちに立っています。我々は資本主義の一歩前に立っている」
というのは有名だろう。
かつては熱烈に革命を支持したロシア人たちも、共産主義の経済テロル。とくに農業の集団化と東方正教会の弾圧には拒否反応しかなかった。
最近流行りのスターリンへの個人崇拝など、もはや共産主義ですらなかった。
内心、ロシア人の殆どがソビエトを見限っていた。だが、ほかに方法がないゆえに仕方がなく従っているだけだった。
お坊さんの話によると、ツァーリはスターリンよりもずっと話が分かる人間らしい、ということがわかって、書記長から皇帝に鞍替えするロシア人は多かった。
ソビエト軍には革命的なTー34中戦車やKV-1重戦車があったが、殆どが散発的に運用され、砲撃か空爆で撃破されるか故障して放棄された。
39式騎兵戦車や38式歩兵戦車はこれらの戦車に全く対抗できなかったことから、日本軍にもT-34ショックが訪れている。
ただし、日本軍は既に38式歩兵戦車の改修型を戦線に投入しており、少数だがウラル戦線にも長砲身75mm砲装備の38式歩兵戦車があった。
長砲身砲装備の38式歩兵戦車は、Tー34に対抗できる唯一の戦車としてロシア兵からコピョー(槍兵)と呼ばれ絶賛された。
なお、装甲が薄く火力もない39式騎兵戦車は棺桶扱いだった。
特に榴弾が撃てないことが致命的で、途中からシベリア帝国製の50mm対戦車砲に換装された国内改良モデルが作られたほどだった。
また、既存の戦車では、ソ連軍の76mm野砲のパックフロントに全く太刀打ちできないことが分かった。
ただし、ソ連軍の牽引野砲はあまりにも重いため、パックフロントを築いても一度位置を暴露させてしまうと空爆で容易く撃破することができたので大きな問題にはなっていない。
制空権があるからこそできる技だったが、戦車は機動力で戦うものと信奉してきた日本陸軍にとってはソビエト軍のパックフロントはTー34に並ぶ天変地異だった。
随伴歩兵や砲兵、航空支援のない戦車単独での機動戦はもはや通用しないことが理解され、日本軍の戦術思想に大きな変化がおきるきかっけとなった。
なお、日本軍の制空権は圧倒的であり、日ロ軍の39式軽爆撃機は戦場と飛行場を一日に5~6回往復して急降下爆撃でソ連軍の砲兵を叩きに叩いた。
空中において、ソ連空軍の戦闘機のプレゼンスは微弱だった。
ときおり姿を見せるヤク戦闘機も殆どが日本製の39年式単発戦闘機に撃墜されていった。
39年式単発戦闘機は、中島飛行機が設計した空冷単発戦闘機である。
性能の一部を切り捨て小型軽量化した前線向きの安価な戦闘機というコンセプトの機体で、1,000馬力級の空冷14気筒エンジンの性能を限界まで絞り出すため、異常なまでに軽量化設計を施されていた。
そのかいあって、空冷1,000馬力しかないのに高度5,000mで時速500kmを超える速度性能と高い加速、上昇性能をもっていた。
武装は13mm機銃2丁だけだったが、空戦フラップにより異常に高い格闘戦能力を示し、日本の一部のパイロットからも偏愛的な支持をされた機体だった。
だが、対爆撃機戦闘には役に立たないとして日本空軍では殆ど採用されなかった。
そこで中島飛行機は、簡素で整備に高い技術が必要ない39式単戦をロシアに売り込むことを考え、対ロシア帝国の援助物資のリストにこの機体を紛れ込ませていた。
結果としてそれは成功で、ロシアの空は39式単戦で埋め尽くされることになる。
低空を低速で飛ばざる得ない対地攻撃機の護衛には、39式単戦の高い低空格闘戦能力と上昇性能が最高の相性がよかった。
製造や整備に高い技術が必要ないことも利点だった。発動機の故障も少なかった。
より高性能の40式戦闘機「飛燕」は整備に高度な知識と経験が必要なDB601系エンジンであるため、ロシア帝国の整備能力では手に負えなかった。
39式単戦はその軽快な飛行性能から、
「ラスタチュカ」
と、呼ばれ親しまれたという。
ラスタチュカとは、ロシア語でツバメという意味である。
圧倒的な制空権のもと西へ進むロシア帝国軍だったが、その進撃速度は異常な速さで、開戦から6週間後の8月14日には、カザンを陥落させている。
カザンはエカテリンブルクとモスクワの中間地点にあった。
ロシア帝国軍の進撃速度は一日20kmになる計算であり、これはドイツ軍の倍の速度だった。
こうした迅速な進撃を支えたのは、ロシアの鉄道網であった。
ドイツ鉄道が標準軌1435mmを採用しているのに対して、ロシアは広軌1520mmである。
国家が分裂してもロシア帝国は鉄道規格にロシア広軌を使い続けていた。ソビエトも同様である。そのため、帝国軍はソビエト領内に踏み込んでも線路の修理さえ終われば、自前の機関車と貨車を使って歩兵と軍需物資を運ぶことができた。
対してドイツ軍はロシアの鉄道網を利用するためには改軌工事が必要だった。
ドイツ軍は鉄道工兵連隊やドイツ国鉄を動員してその作業にあたっていたが、その作業は驚異的なハイペースだったが、戦線の拡大には全く追いついていない。
スターリンはドイツ軍の侵攻を阻止するため軍隊には死守命令を出したが、機関車や貨車は優先的に退避させており、ドイツ軍はロシアの鉄道網を自軍に組み込むことが出来ていなかった。
もちろん、ソビエト軍は撤退するときには鉄道を徹底的に破壊している。
そうなると軍需物資の輸送は道路に頼らざる得ない。
なお、ロシアの道路は世界的にみても劣悪としか言いようがないものだった。
さらにドイツ軍のトラックは数が軍の規模に対してあまりにも少なかった。
日本製の膨大なトラックを供与されていたロシア軍は鉄道と前線を有機的に連結していたが、ドイツ軍にそんな芸当は不可能だった。
戦車を中心とする機械化軍備というイメージのあるドイツ軍だったが、歩兵の大半は歩いて移動する徒歩の軍隊だったのである。
トラックの数は全く足りていなかったし、軍需物資の輸送は馬車が頼みだった。
馬車で軍需物資を運ぶというのは、つまるところナポレオン時代となんら変わらない戦争のスタイルといえた。
しばしば高速で機動するドイツ軍の装甲師団が進撃を止めたのはこのためだった。
交通インフラの整ったフランスや進撃距離の短いユーゴスラビア、ギリシャなら問題はなかったのだが、長距離進撃する必要のあるロシア戦線では、ドイツ軍内部の機械化率の格差が大問題となった。
戦車はどんどん先にいくが、それ以外の兵科が戦車においつけないのだ。
その為、歩兵師団と戦車師団の隙間からソビエト軍は脱出してしまい完全な包囲殲滅とならなかった。脱出した兵力は後方に残ってゲリラとなり、ドイツ軍の鉄道やトラックを攻撃した。要するに完全な悪循環だった。
こうした問題は西方戦役でも既に顕在化しており、ダンケルクの奇跡を齎したヒトラーの進撃停止命令も、戦車部隊が突出していたために起きたことである。
シベリア帝国軍も部隊ごと機械化率の格差は大きなものだったが、彼れはそれを現場の創意工夫で克服した。
悪名高いタンクデサントである。
日本から輸出された戦車には歩兵用の手すりがなかったが、後から溶接して取り付けるのは簡単な工作だった。
ちなみにソ連軍も同じ要領で歩兵と戦車を一緒に動かしていた。
国家体制が違えど、同じロシアの大地に生きる者同士、やることは一緒であった。
タンクデサントでも運べない歩兵はやはり歩いて行くしかなかったが、鉄道が使える分だけで歩兵の進撃速度はドイツ軍よりも早かった。
広大な大陸戦線では鉄道こそが軍隊の根幹をなしていたのでる。
なお、これは余談だが1930年代に日本は既存の鉄道インフラの輸送力の限界から、高速弾丸鉄道構想を打立て、新規路線の建設を進めていた。
その新規路線、つまり新幹線には大容量輸送のためロシア広軌を採用している。
21世紀現在、新幹線は樺太まで延伸され、海底トンネルを通じてシベリア鉄道に連結し、東京からモスクワまで鉄道で旅することができる。
話を1941年のウラル戦線に戻すが、1ヶ月でカザンに辿りついたとき、ロシア帝国軍は、その兵力をおよそ200万まで増強していた。
なぜ兵力が増えているのかといえば、投降したソビエト軍がロシア帝国軍に編入されていったためである。
軍首脳部は寝返り兵を使うことに躊躇したが、アレクセイ二世からの厳命により正式な編成表へと加えていった。
アレクセイ二世自身も陥落したカザンに出向いて車椅子から投降した兵士たちを激励し、寝返った兵士達の人心掌握に努めた。
スターリン・ソビエトの現状があまりにもメタクソだったため、
「栄光の時代へ帰ろう」
というアレクセイ二世の”カザン演説”はロシア人の支持を集めた。
社会における一定以上の年齢の世代はロシアが帝国だった時代をまだ覚えていた。
そうした世代は若き日に革命の熱狂に翻弄された人々だった。
だが、革命の熱が過ぎ去ると後には残ったのは共産主義の理想国家ではなく、スターリン主義の収容所国家という悪夢だった。
若き日に革命に情熱も燃やした世代も歳をとり、かつての革命の闘志達も今は普通のおじさん、おばさんだった
そして、普通のおじさん、おばさんは、革命そのものは必要だったと思っていたが、スターリンの独裁はツァーリの専制政治よりも悪いと考えていた。
これなら昔の方がマシだった。
また、モスクワから死守命令を連発するスターリンよりも、危険を顧みず前線近くまで激励や慰問のために姿を見せるアレクセイ二世やアナスタシア皇女、マリア皇女の方がずっと人間的だった。
アナスタシア皇女には往年の美貌はもうなかったけれど、恰幅のいいエネルギッシュな中年女性で、前線で爆撃機や戦車を乗り回して、兵士たちと一緒にマシンガンを乱射していた。
兵達からの人気はアレクセイ二世を凌ぐもので、脅威を覚えたスターリンはその首にアレクセイ二世よりも高額の懸賞金をかけたほどだった。
ロシアにおける帝室の人気は日増しに高まり、投降して帝国軍に加わった兵士は膨大な数に昇った。
そうなると敵味方の識別が問題なる。
そこでソビエト軍の軍服の袖に白い布を巻いたり、ペンキで白く塗るという単純な方法が解決が図られた。
所謂、袖付き、である。
後にロシア帝国軍の礼服にまで採用される白の袖付きはこうした生まれた。
袖付きになったのは戦闘機や爆撃機も同じで、1個連隊のヤク戦闘機隊が投降してきたときも、翼端を白く塗って対応している。
ソビエト軍から寝返って帝国軍についた将兵は数多いが、その中でも有名なのは、空軍元帥まで登り詰めたフルチェンコフ・フロンタルスキー大佐だろう。
ヤク戦闘機一個連隊と共に投降してきたフルチェンコフ大佐は終戦までにソビエト空軍機を100機以上撃墜して伝説的なエースパイロットになった。
なお、フルチェンコ大佐はエンジン火災で顔面を火傷しており、醜い火傷を隠すためとしてマスクを着用していたのでその素顔を見たものは一人もいないことで知られている。
話が逸れたが、6週間でエカテリンブルクからカザンまで、およそ600kmを踏破した帝国軍はモスクワまで残りの600kmを踏破することに自信を深めた。
帝国軍の進撃は続き、9月1日にはカザンとモスクワの中間地点にあるニジニ・ノヴゴロドが陥落する。
モスクワ、レーニングラードに次ぐロシアの大都市があっけなく陥落したことにスターリンは恐怖し、モスクワ放棄とスターリングラードへの首都移転を決意したと言われている。
ニジニ・ノヴゴロドは大規模包囲戦となり、80万人近いソビエト軍兵士が投降することになった。
その半数が装備ごと帝国軍に加わったため、帝国軍の兵力は約240万に達した。
これは開戦時の2倍の兵力であり、進撃すれば進撃するほど雪だるま式に兵力が膨れ上がっていった。
もはや群集心理というほかない状況だった。
帝国軍が移動すると農村から自発的に志願兵が参加してくるほどだった。一度も戦わず投降したソ連軍も数多かった。
進撃すれば進撃するほど兵力を損耗していったドイツ軍とは好対照だった。
ドイツ軍の損害はすでに投入兵力の35%、およそ100万人に及んでいた。
1941年6月以降の戦死者は20万人に達している。この損失は、1939年9月から1941年6月までにドイツ軍が受けた損失よりも大きなものだった。
なお、ヒトラーはこの報告をインチキと決めつけ無視したという。
帝国軍の進撃は続き、9月13日にはモスクワまであと20km距離まで迫った。
同日、ドイツ軍はタイフーン作戦を発動させたが、もはや完全に手遅れだった。
ヒトラーは自身の得意とした早食い競争に、完敗したのである。
モスクワを巡るソビエト軍の抵抗なお1ヶ月に渡って続いたが、10月革命の記念日である11月7日までにモスクワの全市街地が制圧された。
スターリンはロシア南部のスターリングラードへ遷都を宣言し、モスクワ防衛をゲオルギー・ジューコフ将軍に委ねた。
モスクワに残るジューコフ将軍に死守命令を出した上での敵前逃亡だった。
ジューコフ将軍は歴戦の名将だったが、士気低下で軍隊が崩壊していく中で出来ることは極めて限られていた。そもそも大将が逃げた後の戦いなど無意味だった。スターリンの逃亡は厳重に秘匿されたはずだったが、何故かその日のうちにモスクワ防衛部隊の全兵士がそれを知っていた。
このような状況でよく3週間も保った方である。
スターリンはナポレオン戦争の故事に習いモスクワ爆破命令をだしたが、ジューコフ将軍は徹底抗戦すると回答し、この焦土作戦を先送りにした。
結局、焦土作戦は最後まで先送りにされ、ジューコフ将軍が東からやってきた皇帝の軍隊に降伏してモスクワ攻防戦は終った。
降伏したジューコフ将軍はほっとした顔をしていたという。
モスクワで最後まで抵抗したのは共産党員と政治将校、秘密警察(NKVD)の要員、あとは革命後に生まれソビエト時代しか知らない若いコムソモールの少年兵達だけだった。
遅れてやってきたドイツ軍のグデーリアン上級大将やボック元帥は、クレムリンに翻るロシア帝国旗を見上げて呆然としたいう。
ヒトラーは怒り狂ったが、タイフーン作戦時にはドイツ軍は限界に達していた。
補給は滞っており、前線の部隊は食料も衣料品も不足した。
マイナス20度という厳寒の中で、ドイツ軍の将兵は夏服を着ていたのである。
モスクワでドイツ軍将兵と会見したアレクセイ二世は寒々しい格好で震えているドイツ軍兵士を不憫に思って、冬服とコートを1万人分贈るほどだった。
東部戦線の戦いは、モスクワ陥落によって一つの峠を越した。
スターリンは自身の名を冠したスターリングラードに逃れて、徹底抗戦を叫んだがもはやスターリンの命運は尽きていた。
ソビエトの領土はモスクワを起点に、南北に分断されていた。経済流通も分断され、もはや国家組織がどこまで維持されているのかも分からない状況だった。
北部のレーニングラードはまだ赤旗が翻っていたが、それは単に攻略の優先順位が低いからであって、ソビエト軍の抵抗が激しいからではなかった。
殆ど全ての戦線でソビエト軍は崩壊寸前で、秘密警察による監視と政治将校の督戦隊でなんとか軍紀が維持されている状態だった。
スターリンは逃げ道を探していたが、講和して保身を図る道はなかった。
ロシア帝国からスターリンは反乱罪や超法規的な殺人等で指名手配されており、降伏することは死を意味していた。
ヒトラーに頭を下げることは論外である。
スターリンはイギリス・アメリカに接近して支援を求めたが、どちらからも拒否された。
もはや物理的にソビエトに支援を送る方法が尽きていたからだ。
1941年10月、モスクワ攻防戦が激化する中で、日本海軍のインド洋第二次攻勢作戦が迫っていた。
日英艦隊決戦となる、ソコトラ島攻略作戦である。




