表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/44

WWⅡ セイロン島沖航空戦


WWⅡ セイロン島沖航空戦


 1941年2月25日に、ジャワ島のオランダ軍が降伏して南方作戦は終了した。

 日本軍の次なる目標は、インド洋だった。

 インド洋においては、先の大戦と同じく通商破壊戦とセイロン島への上陸作戦が企図された。先の大戦で果たせなかったインド洋の完全制圧を目指し、紅海入り口のソコトラ島上陸作戦、マダガスカル島への上陸も視野に入れた計画立案が進んでいた。

 北アフリカでは、戦史に名高いエルヴィン・ロンメル率いるDAK(ドイツ・アフリカ軍団)がリビアに到着して、イタリア軍を追い詰めたイギリス軍へ反撃を開始していた。

 インド洋作戦は北アフリカのドイツ軍への側面支援を兼ねており、北アフリカの戦況如何によってスエズまで侵攻し、ドイツとの海上連絡路を切り開くことが求められた。

 ヒトラーにとっては想定外の早期開戦によって、ドイツ国内のゴムや石油製品のストックは減少する一方であり、ドイツは一日も早い資源輸入再開を臨んでいた。

 石油製品の不足という点ではイタリアも同様であり、艦艇用の燃料が不足しているため、満足な訓練もできない有様だった。

 インド洋の他に日本軍はカナダ軍との間に北米戦線を抱えていたが、この方面の戦いは低調に推移した。

 先の大戦と同じく、カナダ兵をイギリスに送らないための戦力誘引を第一とした守勢戦略が採用されたためである。

 遠いインド洋で戦いつつ、本国周辺にアメリカ軍の支那派遣軍を睨む日本にとって北米戦線は防衛以外の選択肢がない場所だった。幕閣と軍首脳部は北米戦線が激化することでアメリカ合衆国を刺激することを極度に恐れていた。

  現状の戦力、特に海軍力ではアメリカが参戦した場合、致命的な事態に陥ることは明らかであり、幕府はアメリカ合衆国の参戦はできるだけ先送りにしたかったのである。

 南天大陸解放も、オーストラリア政府が英連邦から離脱して局外中立を宣言し、アメリカ合衆国との安全保障条約を結んだことで、一先ず先送りにするしかなかった。

 アメリカ海軍は、無条約時代突入後、日本海軍の戦艦と空母の大量建造を受けて、1937年計画で戦艦2隻(ノースカロライナ級)、1938年計画で空母2隻(ヨークタウン級)、戦艦4隻(サウスダコタ級)、1939年度計画では空母4隻(改ヨークタウン級)、戦艦4隻(アイオワ級)の建造を開始しており、1941年以降これらの艦船が続々と就役してくる予定だった。

 1940年度の両用艦隊計画については後述するが、日米の主力艦戦力については日本側の努力にも係わらず、当分隔絶した状況が続く見込みだった。

 フランクリン・ルーズベルト大統領は繰り返しアメリカ参戦を否定していたが、先の大戦同様に彼らにとって都合の良い瞬間を狙って参戦してくるだろうことは、幕府にとっては自明のことであり戦争の足取りを早めることに腐心した。




 インド洋の戦いは通商破壊戦に始まり、通商破壊戦に終った戦いである。

 日本海軍はインド洋の通商破壊のため、手持ちの潜水艦の70%をインド洋に振り向けた。

 2月28日には、最初のロ号潜水艦がペナンに入港している。

 これに対してイギリス海軍の対応は後手に回る。

 大西洋と違って潜水艦に対する備えができておらず、インド洋では殆どの商船は船団を組まずに独行していた。

 そのため、初期のインド洋の戦いは日本海軍潜水艦艦隊の一方的な勝利で進んだ。

 また、日本空軍の長距離爆撃機が潜水艦艦隊を支援した。

 ドイツ海軍の作戦に非協力的だったドイツ空軍と異なり、日本空軍と海軍は緊密な連携のもとで行動した。

 日本海軍は1931年の黄海海戦で多くを学んでおり、航空支援を活用について多くの研究と訓練を重ねてきたことも大きかった。

 哨戒機と潜水艦艦隊との連携などお手の物で、空海一致の協同作戦で次々にイギリス商船を撃沈していった。

 39式重爆「鳳」は哨戒爆撃機としては最高の存在だった。ドイツ空軍のFw200が大西洋の疫病神なら、鳳はインド洋の悪夢だった。

 また、空軍独自の通商破壊戦も行われた。36式陸攻は旧式で防御力が不足していたが、独行の商船を雷撃するなら十分だった。

 日本空軍機の活動範囲を商船が護衛なし航行することは自殺行為と認識され、ベンガル湾の航路は沿岸沿いの制空権が保たれている海域のみ運行可能だった。

 インド亜大陸の向こう側に広がるアラビア海の通商遮断はペナンから出撃する潜水艦の役割だった。しかし、インド洋を横断してアラビア海に進出するのは非効率的である。

 さらに効果的な通商破壊には、先の大戦と同じくセイロン島の制圧が不可欠と言えた。

 そこで日本海軍は、雲龍型空母2隻の就役と戦力化が完成する5月を待って、セイロン島攻略作戦を発動する。

 作戦名は、孤独の美食

 日本軍は防諜上の必要性から作戦名を辞書から無作為抽出した単語を組み合わせて作成しており、意味不明な作戦名が多かった。

 1941年5月はイギリスにとって最悪のタイミングだった。

 前月の4月6日にナチス・ドイツはユーゴスラビア王国へ侵攻。フランスに続くドイツ電撃戦第2幕開演だった。ドイツ軍は僅か10日あまりでユーゴスラビア王国全土を制圧する。

 さらに同月、ドイツ軍はギリシャへの侵攻を開始。ギリシャ軍とイギリス軍は総崩れとなって重器材を放棄してクレタ島へ撤退した。

 追撃するドイツ軍は、クレタ島への大規模な空挺降下作戦を行って、大損害を受けながらもこれを占領した。

 ドイツ軍の空挺降下要撃に参加したイギリス海軍の地中海艦隊はドイツ空軍の急降下爆撃機の空襲圏内に長時間留まったことから、大損害を受けてしまった。

 この損害で地中海艦隊は半身不随となってしまう。

 無傷な戦艦はリヴェンジ1隻のみで、稼働空母は0となった。

 北アフリカでは、ドイツ・アフリカ軍団が僅かな兵力でリビア全域を占領し、トブルクを包囲していた。

 ギリシャとクレタ島の戦いでイギリス軍は兵力を大量に引き抜かれており、その隙を突かれた形だった。辛うじて、リビアの要所トブルクの陥落は免れたが状況は極めて困難だった。

 さらに、イギリス海軍はドイツ海軍の戦艦ビスマルクが稼動状態となり、ドイツ海軍が大胆な通商破壊戦を画策していることを察知していた。

 高速戦艦のビスマルクを捕捉するためには、高速戦艦で当たるしかなく、フッド級と最新型のキング・オブ・ジョージ5世、プリンス・オブ・ウェールズは本国艦隊に止め置かれた。

 マレー沖から生還した空母イラストリアスやスラバヤ沖の英雄レパルス、レジスタンスは危険な状態になった地中海に回航され、インド洋から姿を消した。

 地中海海軍力のバランスはイタリア有利に傾いており、トブルクやマルタ島がイタリア海軍の戦艦に艦砲射撃される有様だった。

 タラント奇襲作戦を中止して、日本海軍の相手をしたことが裏目に出たのである。

 これで日本海軍のセイロン島侵攻を阻止する海上兵力は0となった。

 イギリス軍の頼みの綱は航空戦力のみとなるが、では航空戦力の実態はどうだったのかといえば、こちらもギリギリの状況だった。

 ビルマ戦線での航空撃滅戦により、イギリス軍の航空戦力は送る端から消耗していた。

 日本は開戦後にタイ王国と交渉を持ち、兵器供与や通行料の支払いを条件に軍の無害通行権を認めさせ、英領ビルマへ地上侵攻していた。

 この方面で活躍したのは台湾師団だった。

 国土が熱帯性の山岳地帯である台湾はビルマの地形に類似しており、熱帯山岳地帯での作戦に長けた台湾師団のビルマ戦線への投入が決定された。

 第1、第2台湾師団は山岳師団編成となっており、ジャングルの中の道なき道をイギリス軍と戦いながら西へ進んだ。

 比較的道が整っている沿岸部の侵攻作戦は本国師団に割り当てられたが、高温多湿の環境で体調を崩す兵士が続出した。

 本国兵がへたばる環境でも台湾兵は悠々としており、不甲斐ない本国兵を物笑いの種したという。

 ビルマ各地で日英は激戦となったが、制空権を確保した日本軍が勝利し、3月初旬には英領ビルマの首都ラングーンが占領された。

 ラングーンは海沿いの町で港湾が発達しており、大規模な航空基地を建設、維持するための物資輸送に適した場所だった。

 そこで日本空軍はラングーンに航空基地群を建設し、カルカッタへの渡洋爆撃を開始する。

 カルカッタはイギリスの印度支配の中心であり、カルカッタ爆撃のもつ政治的な意味はとてつもなく大きかった。

 イギリス軍への嫌がらせとして、フォッカー長距離戦闘機4機が白昼堂々カルカッタ上空で3連続宙返りなどの曲芸飛行を披露してカルカッタ市民をあっと言わせたりもした。

 市民の犠牲をできるだけ少なくするため市街地への爆撃はビラ配布に止められ、比較的コラテラル・ダメージの少ない都市郊外の港湾や鉄道操車場が狙われた。

 面子を潰されたイギリス軍は、カルカッタ防衛に多数の航空戦力を注ぎ込んだが、それは印度南部やセイロン島防衛のために兵力を減少させる結果となった。

 そして、それこそが日本軍の狙いだったのである。

 5月5日のセイロン島沖に日本海軍の空母機動部隊が現れたとき、セイロン島には100機足らずのハリケーンしかなく、攻撃機はその半分もなかった。

 インド南部の航空基地には約200機の攻撃機、爆撃機が展開して日本軍の侵攻を待ち構えていたが、それを足してもようやく日本の空母機動部隊と同数しかなかった。

 高性能のスピットファイアはカルカッタ防空にかかりきりだったし、増援のスピットファイアを乗せた輸送船は日本海軍の潜水艦に沈められて、セイロン島には届かなかった。

 この時、日本海軍空母機動部隊を率いていたのは、南遣艦隊から横滑りしてインド洋艦隊司令長官に収まった後藤基次提督だった。

 空母は飛龍、蒼龍に加えて、改飛龍型の雲龍型1番艦雲龍、同2番艦剣龍を基幹に、金剛型巡洋戦艦4隻、巡洋艦8隻、駆逐艦36隻という大艦隊だった。

 だが、この艦隊は空軍機の支援を得られない遠く深い大洋の只中にあった。

 状況としては、マレー沖海戦の真逆の形だった。

 日本艦隊がイギリス空軍の空襲圏内に侵攻することになり、日本海軍があてにできる航空戦力は一部の長距離爆撃機を除けば、自前の空母のみだった。

 故に、セイロン島への侵攻は時期尚早ではないかという意見は海軍内に多かった。

 空母と異なり、決して沈むことがない航空基地を相手に、空母航空戦力のみで航空戦を挑むのはよほどの戦力差がないかぎり危険なことだった。

 これは幾多の演習でも確認されており、同数の戦力で航空基地と戦った場合、先に力尽きるの常に空母機動部隊の方だった。

 艦に蓄えられている爆弾や燃料には限りがあり、空母艦内での航空機整備能力は限定的とならざる得ないからだ。

 だが、アメリカがいつ参戦するか分からない状況で作戦遅延は認められなかった。インド洋封鎖が遅れれば遅れるほど後の戦いが苦しく、長引くのである。

 ある意味、海軍空母部隊の真価が問われる戦いと言えた。

 日本海軍は次善の策として、艦隊防空力を強化するため各空母の戦闘機の定数を現状の30%から50%に引き上げるともに、各空母10機ずつ戦闘機を露天係止(過積載)した。

 さらに戦闘機を全て40式艦上戦闘機Ⅱ型「海燕Ⅱ」に更新している。

 40式艦上戦闘機Ⅱ型は、40式戦闘機Ⅱ型の改造型だった。

 Ⅰ型とⅡ型の違いはエンジンで、Ⅰ型がDB601Aエンジンのライセンス生産型であるハ40であるのに対して、Ⅱ型は100オクタンガソリン使用前提として、国産のインタークーラー付き一段二速機械式過給器を搭載したハ140を搭載した。

 ハ140は離昇1450馬力を発揮し、オリジナルのDB601Aからおよそ5割増しとなっていたが、寸法も重量もほぼ同値という日本の航空エンジン開発技術の精華だった。

 海燕Ⅱは艦上運用のために主脚などの強化によって増加しているにも係わらず高度5000mで時速600kmを発揮した。

 武装は原型の飛燕Ⅱから変更がなく23mmモータカノンと13mm機銃4丁だったから、火力は必要にして十分と言えた。

 火力と並んで艦隊防空に重要な滞空時間/航続距離は増槽を追加した場合は、巡航なら2800kmは飛べる計算だった。

 これは双発の39式双発戦闘機に匹敵する数値だったが、大量の燃料を主翼に搭載しているので運動性が低く燃えやすかった。

 一応、防弾タンクになっていたが限度というものがあり、同程度のエンジン馬力のスピットファイアMkⅤやメッサーシュミットF型に比べると上昇、加速性で劣る結果となる。

 だが、滞空時間の延伸はセイロン沖航空戦おいて、極めて有効だった。

 多数の戦闘機が長時間空中戦闘哨戒することができるため、迎撃効率が著しく高まったのである。

 上陸作戦に先立って、39式重爆が100機単位でセイロン島の各飛行場を空爆したが、その空爆をかいくぐってイギリス空軍の攻撃隊はおよそ80機が後藤艦隊に殺到した。

 なお、攻撃隊の接近は対空レーダーにより200km手前から察知されており、奇襲の要素はなかった。

 後藤基次提督は直ちに空中待機中の戦闘機隊に迎撃を下令し、各空母の甲板で待機中の戦闘機隊も圧縮空気式カタパルトで緊急発艦している。

 ハリケーンと海燕Ⅱの対戦は海燕Ⅱが圧倒的に優勢で、ハリケーンは一方的に撃墜され、ブレニム軽爆やボーフォート雷撃機に海燕Ⅱが殺到した。

 だが、全ての攻撃機を阻止できるほど、日本海軍の戦闘機も多くない。

 イギリス空軍攻撃隊約16機が、海燕Ⅱを振り切って艦隊上空に現れた。

 半分が魚雷を搭載したボーフォート雷撃機で、残りは水平爆撃を行うブレニム軽爆だった。

 上手く行けば、空母を1,2隻食える可能性があったが、この場合は相手が悪かった。

 日本海軍は猛烈な対空砲火で彼らを出迎えたのである。

 そもそも、日本海軍は2年前まで空母をもっていない海軍だった。

 故に洋上防空は空軍の戦闘機頼みだったが、同時に対空砲火による自己防衛にも長年に渡る研究があった。

 駆逐艦の主砲は全て12.7サンチ(5インチ)高角砲であり、対空射撃可能な射撃管制装置を備えていた。日本海軍の艦隊型駆逐艦は大型化していったが、これは重い高角砲と射撃管制装置を搭載するために船体が大型化したためである。

 高角砲は艦隊(広域防空)の要で、実用上の最大射高は8,000m、有効射程距離は10kmだった。

 さらに、内側に食い込まれた時には、8サンチ(3インチ)自動砲がこれを出迎える。

 8サンチ自動砲とは日本海軍独特の装備で、76mm(3インチ)40口径高角砲に自動装填装置を具備したものである。

 砲そのものは平均的な3インチ高角砲で特に見るべきものはないが、リヴォルヴァー式自動装填装置を備えていた。

 他国は概ねこの種の高角砲を中途半端なものと見なして、同じポジションに40mm機関砲を充てていた。アメリカ海軍が採用したボフォース40mm機関砲が有名だろう。

 だが、40mm高射砲の射程距離は日本海軍の基準からすると短いものだった。

 対空砲の射撃は根本的に命中率の悪いものであるが、結局のところは一定条件の射撃精度さえ確保できれば投射した火力に比例して有効弾発生確率が上昇する。

 そして、投射火力を上昇させるには、射撃回数を増やすことが有効で、射撃回数を増やすには装填速度を向上させ、射程距離を延伸することが有効だった。

 40mm機関砲クラスの射程距離よりも、8サンチ砲の射程距離は長く、その上で自動装填装置によって猛烈な速度(毎分30発:実用20発)で射撃すれば、40mm機関砲よりも最終的な火力は高いものとなる。

 また、砲弾も特殊な専用弾が用意されていた。

 通常の対空榴弾ではなく、焼夷弾子を詰めた3号弾である。

 1発の8サンチ砲弾に、およそ25個の25mm✕90mmの黄燐を充填した焼夷弾子が装填されていた。

 3号弾は一種の榴散弾である。

 弾子の破壊力は1個あたり20mm機関砲弾に相当すると判定されており、8サンチ砲は1回の射撃で20mm機関砲25丁分の火力を発揮する計算になる。

 1分間8サンチ自動砲が射撃すると20mm機関砲525丁分の火力となる。

 そして、20mm機関砲のような射程距離の短い対空砲と異なり、8サンチ砲は40mm機関砲よりも射程が長く、長時間目標を射撃可能だった。

 また、榴散弾は榴弾に比べて射撃管制が容易という利点がある。目標の手前で爆発すれば、円状に前方拡散する弾子のどれかが当たるからだ。

 要するにでかいフルオートショットガンで対空射撃をするようなものだった。

 空飛ぶ鳥を落とすのには、ライフル銃よりもショットガンの方が容易い。

 8サンチ自動砲は駆逐艦なら2門、巡洋艦なら4門ないし6門備えており、艦隊防空の内側にある僚艦防空に使用されるものだった。

 そして、それを掻い潜っても、まだ23mm高射機銃の弾幕が待ち構えている。

 23mm高射機銃は、40式戦闘機用のモーターカノンを艦載転用したもので、水冷化した上に電動ベルト給弾機構を組み込んで、長時間連続射撃が可能になっていた。

 この23mm機関砲はゴールキーパーと呼ばれ、最後の阻止線を形成しており、ここを突破した攻撃機だけが日本海軍の空母に謁見することを許された。

 だが、対空射撃と同じくらい爆弾や魚雷回避について詳細な研究を積み重ねてきた日本海軍の空母は華麗なステップで魚雷を回避した。

 命中率が悪い水平爆撃などかすりもしなかったほどである。

 飛龍以外は。

 

「またあいつか!」


 後藤提督は激怒したが、機関不調はどうにもならなかった。

 飛龍は対空戦闘の最中に機関不調で速力が低下したところに魚雷2発が直撃。

 沈没は免れたが飛龍は駆逐艦初雪に付き添われてシンガポールに帰った。

 その後姿は、


「明日から本気だす」


 と言いたげだったという。

 航空戦力が4分の1吹き飛んだ後藤艦隊だったが、幸いなことにイギリス空軍に同じ規模の攻撃隊を繰り出す力は残っていなかった。

 強烈な対空砲と優勢な日本軍戦闘機部隊に追い回された雷撃隊は壊滅状態になっていた。

 ブレニム軽爆はそれよりもマシだったが、出撃機の半数が損傷して修理を要するなど、稼働率が大幅に低下していた。

 白煙をあげて飛来する3号弾の焼夷弾子の弾幕を見たパイロット達の士気は著しく低下していた。

 黄燐を充填した3号弾は見た目にも派手な武器で、実際の火力よりも心理的な効果の方が大きかったと言われている。

 航空戦開始から3日目には、セイロンのイギリス空軍の戦力は壊滅状態となった。

 上陸作戦は滞りなく成功して、日本軍3個師団がセイロン島に上陸した。

 上陸したのはマレー半島で活躍した第1海兵師団、呂宋第2、3師団である。

 空母部隊はこの間に、艦載機をすり減らしながら絶え間なく航空支援を提供し続けた。

 対艦攻撃には難のある39式艦上爆撃機だったが、相手が陸上部隊なら滅法強く、急降下爆撃で次々とイギリス軍の抵抗拠点を破壊していった。

 なお、セイロン島の地上戦で初めて日本軍はマチルダⅡ歩兵戦車と対戦することになった。 独立戦車大隊の39式騎兵戦車の長砲身37mm砲でマチルダを撃破することは叶わず、38式歩兵戦車も短砲身75mmではマチルダを撃破できなかった。

 最終的にコンクリートバンカー以外に使用を禁止されていた特殊榴弾(HEAT弾)を38式歩兵戦車が至近距離で撃ち込んで漸く撃破できた。

 マチルダの重装甲に驚いた日本陸軍は、急遽北米へ移送予定の38式歩兵戦車改をセイロン島に送り込んでいる。

 38年式歩兵戦車改は、1型では簡易生産型だったエンジンを39年式騎兵戦車と同じ過給器付きのエンジンに換装し、主砲を次期主力歩兵戦車用に開発していた75mm43口径砲戦車砲に載せ替えたものだった。

 エンジンの馬力が2倍近く向上したが、走行装置が高速走行に適しておらず路上で30km/hが限界で、高速で走り続ける機動戦には向いていなかった。

 だが、長砲身75mm砲は全ての戦車兵から絶賛され、セイロン島攻略戦末期にはマチルダ戦車を一方的に撃破している。

 なお、イギリス軍も2ポンド砲で撃破できない38年式歩兵戦車に驚いて、急遽6ポンド対戦車砲をセイロン島に送ろうとしたが、ロ号潜水艦により輸送船ごと沈めらて増援を果たせなかった。

 セイロン島の攻防はおよそ2週間で大勢が決したが、日本海軍にとってこれは苦しい戦いだった。

 3隻の空母は無傷だったものの航空戦力は2週間の戦いで消耗しつくしていた。

 損傷後退した飛龍の艦載機を移乗させてなんとか乗り切ったが、それでも作戦終了時には母艦航空戦力は作戦開始時の20%を下回っていた。

 あともう少し、イギリス空軍が多くの戦力を集中していたら、航空戦力の枯渇で敗退していたのは日本軍の方だっただろう。

 同時期に、地中海ではクレタ島降下作戦や、北アフリカでのドイツ・アフリカ軍団の躍進。さらにビスマルク追撃戦で、イギリス軍が戦力を分散させていたことが日本軍の勝因だったと言えるだろう。

 なお、ビスマルク追撃戦は、フッド級巡洋戦艦1番艦フッド及び3番艦ロドネイがビスマルクを捕捉し、呆気なく撃破して終った。

 ビスマルクは反撃したものの近代化改装されたフッド級2隻が相手では分が悪く、全ての砲塔を吹き飛ばされドイツの母港に逃げ帰っている。

 幸いなことにイギリス海軍は空母戦力が払底しており、航空雷撃などでビスマルクの足を止めることはできず、逃げるだけならなんとかなかった。

 なお、砲戦中にビスマルクの15インチ砲弾がフッドの主砲塔に直撃したが、近代化改装されたフッドは難なくこれを弾き返している。

 もしも先の大戦で日本海軍に大量の戦艦を沈められず、フッド級2~4番艦が補充のため建造推進されていなかったら、フッドは海軍の象徴として近代化改装もままならず、旧式艦として戦うことになっていたかもしれない。だが、フッド級は4隻もあるので順番に近代化改装を受けることができていた。

 近代化改装されたフッド級はイギリス海軍最強の戦艦部隊であり、ビスマルク1隻でどうにかなる相手ではなかった。

 だが、潜水艦には弱く1939年10月に2番艦ネルソンがUボートの魚雷攻撃で撃沈されている。

 同時期、セイロン島やクレタ島の陥落など凶事が相次いだイギリスにとって、ビスマルク撃退は小さくない朗報であったが、セイロン陥落でインド洋西部が日本空軍の空襲圏内に入ったことは致命的だった。

 日本海軍はセイロン作戦終了後、再編成のため空母を本国艦隊に戻したが、代わりに潜水艦と陸攻を多数セイロンに送り込んだ。

 1941年も半ばを過ぎると日本海軍の潜水艦戦力は戦時量産型の第一陣を編成表に加えて、潜水艦保有数は140隻を超えていた。

 さらにロ号潜水艦が毎周1隻就役するようになっていく。

 所謂、週刊ロ号潜水艦である。

 別冊に週刊伊号潜水艦もあった。

 ブロック工法と流れ作業の徹底化で、ロ号潜、伊号潜は大量建造された。

 日本本国の12個所の工場や鉄工所で作られた6つのパーツは艤装済みの状態で造船所へ送られた。全自動溶接を駆使して船体は僅か2週間で組み立てられて進水し、各種点検を終えると燃料と魚雷を積んだ状態で日本海軍へ引き渡された。

 問題は人の確保で日本海軍は戦時昇進を連発して船を動かす将校の確保にやっきになっていた。予備役は残らず全て招集され、それでも足りないので学徒動員が1941年6月から始まる。

 こうした「人」の確保に関する様々な問題は、先の大戦でも似たような問題で苦労した経験があり、日本軍は対処法も心得てたものだった。

 男性人口の大量徴兵によって不足する生産の現場は、女性労働力や農村労働力及び膨大な数の中国人労働者で賄われた。

 週刊ロ号潜水艦の組み立ても、家庭からかき集められた主婦達とど田舎から来た牛飼いと日本語が分からない中国人によって行われていた。

 そんなことをすれば問題続出は必死だったが、似たような問題は既に先の大戦において経験済みだったので対策はできていた。

 バカでも、日本語が分からない中国人でも分かるマンガ形式マニュアルの大量配布と作業工程の徹底的な細分化と簡略化、単能工作機械の大量配備によって素人でも潜水艦が作れる体制が構築されていた。

 この場合、熟練工は全く必要なかった。

 むしろマニュアルを無視したり、独自の基準で作業工程を選定する職人は有害な存在として徴兵という形で各地の軍需工場から排除されていった。

 大量生産の現場に必要なのはマニュアルを盲目的に守り、ひたすら同じ作業を繰り返すロボットのような人材だった。

 こうした方針が徹底しているのは自動車メーカーだった。

 豊田自動車や本田自動二輪では、航空機メーカーからライセンス生産を請け負った。

 戦時中には売れない乗用車やバイクを作る生産ラインを転用し、乗車車やバイクをつくる速度で戦闘機や爆撃機を量産してみせた。

 ベルトコンベアに乗った4発重爆が1時間に1機のペースで完成して、女性パイロット達の手により前線までフェリー輸送された。

 生産性を向上させ、高品質の大量生産を実現した豊田自動車の大量生産技術は、ジャスト・イン・タイムやかんばん方式という言葉として有名だろう。

 三菱や川崎、川西といった航空機メーカーは生産設備への投資は殆ど行っておらず、大量生産は専ら自動車メーカーに委ねる方針だった。

 戦争が終われば過大な生産設備は会社を滅ぼすだけなので賢明な選択だった。

 実際、先の大戦において日本の航空機を殆ど全てを生産した呂宋の航空機産業は過大な設備投資により破滅しているのでこの選択は間違ってない。

 壊滅した呂宋の航空機メーカーは東亜重工(豊臣財閥系)に統合されて、今次大戦においては生産をトヨトミ自動車にゆだねている。

 例外は中島飛行機で、膨大な投資を行って工場を拡大して、航空機の開発のみならず生産数でも自動車メーカーと張り合おうとしたが、全く勝負にならなかった。

 それどころか、不良品を大量生産することになり、豊田自動車から品質改善のため指導を仰ぐ羽目になっている。

 社長の中島知久平は臍を噛んだが、製造に高度な技術を要する空冷2000馬力の誉発動機を量産化するには、豊田の生産技術がなければ不可能だっただろう。

 ちなみに北米航空も中島飛行機と同じく生産設備への膨大な投資を行って、大量生産体制を構築したが、設備投資過剰で倒産した中島飛行機とは異なり、戦後も順調な発展が続いた。

 これは生産ラインを構築したのが自動車メーカーの日本パッカード社(坂本財閥系)だったからである。北米航空は坂本財閥の資本が入っていたので実現した例外と言えるだろう。

 戦後、北米航空の生産ラインは乗用車の生産に変更され、パッカードの高級車が生産されている。

 話が逸れたが、セイロン島に展開した潜水艦艦隊の活躍はめざましく1941年5月から7月はインド洋で毎月40万tの連合国商船が撃沈された。

 ペナンよりも遥かに基地が近くなったことから、潜水艦の運用効率が上がったためである。

 また、インドの港には封鎖のため航空機雷が投下された。投下されているのは比較的掃海が簡単な接触式機雷だったが、磁気機雷が少数混ぜてあるため迂闊に近寄ることができなかった。

 西インド最大の商港であるボンベイは連日連夜39式重爆の爆撃に晒され操業効率が著しく低下していた。

 イギリス軍は高射砲とスピットファイアでこれに対抗して、港の操業を続けることになる。

 より南にある商港ゴアは戦闘機の護衛つきで爆撃機が飛来するので、1ヶ月足らずで廃港へ追い込まれているので、ボンベイはイギリスにとって死守しなければならない港だった。

 ベンガル湾の航路はセイロン陥落で沿岸航路も使用不能になり、カルカッタは孤立した。

 このままイギリス商船を沈めていけば、いずれイギリス経済は枯死して降伏を余儀なくされるとはずだった。

 だが、ドイツのヒトラー総統はそう考えなかった。

 イギリスを助けることができるヨーロッパの最後の勢力であるソビエト連邦を打倒すれば、イギリスの希望は潰え、講和が可能になると考えていたのである。

 単純に自分のイデオロギー上の宿敵を滅ぼしたいと言い切るのに躊躇いがあったのかもしれないが、要するにそういうことだった。

 1941年6月22日、ドイツ軍は300kmに及ぶ独ソ国境を突破してソ連領に流れ込んだ。

 ヨーロッパ東部戦線、独ソ戦の始まりである。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ