WWⅡ 日本参戦
WWⅡ 日本参戦
フランスの降伏で、第二次世界大戦は一つの節目を迎えた。
先の大戦で、頑強にドイツ帝国と戦って最後に勝利をおさめたフランス軍が、僅か6週間で敗れたことは天変地異に等しいことだった。
日本にとってもそれは同じでフランス贔屓の多い日本人は、絶望感や無常観に囚われるものさえ現れるほどだった。
フランスを降伏させたヒトラーは得意の絶頂にあった。
この時がナチス・ドイツの全盛期であったとも言われる。
本当に近い意味で、ナチス・ドイツが国民にパンを配ることができるようになったのは、フランス戦役後だったと言われている。
では、それ以前はどうだったのかと言えば、綱渡り(サーカス)の連続であった。
国内においてはほぼ完全に粉飾決裁としか言いようがないメフォ手形の乱発やユダヤ人の財産没収国外追放でやりくりし、それが破綻寸前となればオーストリア併合やズデーテンラント、チェコ占領で財布の帳尻をあわせる始末だった。
それでも破綻が避けられないと分かったので、ポーランドの軍事占領と収奪を目論んだ。
ポーランド侵攻がイギリス・フランスの宣戦布告を呼び込み第二次世界大戦が勃発すると乾坤一擲でフランスに侵攻し、奇跡的な勝利を収める。
何か悪魔的なものがついているとしか思えない虚栄と博打と綱渡りの連続であった。
だが、1940年春の西方戦役の結果、漸くドイツは一つの安定を得た。
この時占領したオランダ・ベルギー、北フランスの膨大な産業や資源、資産を得て漸くドイツ政府は国民にパン、軍に鉄を供給できるようになった。
これらの国々から得たストックがどれだけ膨大なものだったかを示す一例としては、1940~41年の間のドイツ全軍の40%(約90個師団)がフランスや低地諸国で鹵獲した装備で編成されていたことから分かる。
先進的な機械化装備というイメージの強いドイツ軍だったが、その機械化の実態はドイツ国外での徴発や鹵獲で集めた雑多な民間、軍用車両で、全軍の一部が自動車化されているに過ぎなかった。
こうした雑多なドイツ軍の装備は、後世でミリタリーマニアの興味関心をそそる要素となるのだが、自動車1両あたり数万個の部品の集合体であることを考えたとき、外国の徴発した民間用車両まで編成に組み込んだことは、ドイツ軍の補給体制を破滅的なまでに複雑化させたことは想像に難くない。
だが、とりあえず、ヒトラーは1940年の春に勝利を得た。
ヒトラーは圧倒的な軍事力と戦況優勢を根拠に、イギリスに対して和平を提案した。
孤立したイギリスは戦わずして屈服させられるとヒトラーは考えたのである。
だが、この見込みはかなり間違っていた。
確かにイギリスは孤立していたが、その軍事力についてはさほど大きなダメージを受けていなかった。
海軍力は当初よりイギリスが圧倒的に優勢だった。さらにドイツ海軍は西方戦役以前の、ノルウェイの戦いでイギリス海軍相手に壊滅的とも言える打撃を受けており、イギリス本土近海の制海権を確保できる見込みはなかった。
空軍力についても、イギリス空軍は大陸での戦いでは大きな打撃を受けていない。
それは既にダンケルクの奇跡(ダイナモの作戦)においても示されていた。撤退船団を援護するために出動したスピットファイアは、ドイツ空軍から船団上空を守りきった。
さらにドイツ空軍が絶対に手出しできないアメリカやカナダの工場でのイギリス空軍機のライセンス生産の準備が進んでおり、消耗戦になっても勝てるだけの体制が組み上げられつつあった。
陸軍力についても、ヨーロッパからの撤退の際に重装備を失ったが、本土防衛に必要なストックは残っていて再武装化は可能だった。
なお、この時、イギリス本国では民間防衛隊が組織され、兵器不足から水道管を掘り出して鉄製の槍がつくられたことは事実である。
だが、それを以って兵器が不足していたというのは誤りで、民間防衛隊への志願者が軍の予想を遥かに超える規模で集まったため兵器が不足したことから、そうした非常の措置が採られたに過ぎない。
正規兵に水道管からつくった槍が配布されるようなことはなく、兵器不足といっても意味が全く異なることを留意する必要がある。
挙国一致内閣を率いるウィンストン・チャーチル首相の有名な演説、
「いかなる犠牲を払っても、 我々のイギリスを守るであろう。海岸で、上陸地点で、平原と街路で、そして高地で戦う。我々は、決して降伏しない」
という下りは、相当の自信と確信をもって語られたものであった。
それでも人々の不安を払拭し、国民の士気、団結心を高めることにチャーチルは腐心している。数々の名演説も、それが現実に必要なものだからこそ生まれたものだった。
フランスが恐怖とパニックに敗れたからなおさらだった。
実際、人心が崩れた瞬間負けが決まるのが1940年のヨーロッパ戦線だった。総力戦体制への移行は未だ完了しておらず、平時の延長線での戦いだった。
大戦後半の情け容赦ない物量の激突と消耗戦に比べれば、1940年夏のバトル・オブ・ブリテンは(語弊があるだろうが)まだ可愛げのある戦争だった。
バトル・オブ・ブリテンは、イギリス南部へ侵攻するドイツ空軍機とイギリス空軍の戦いだった。
この戦いは、当初よりイギリス有利で進んだ。
先の大戦でドイツ軍の飛行船や重爆撃機で本土空襲を受けていたイギリスはドーバー海峡一帯にレーダーによる早期警戒網を建設していた。
1940年における世界で最も進んだ防空体制がそこにあったのに対して、ドイツ空軍は全く準備不足だった。主力戦闘機のBf109は爆撃機を護衛するにはあまりにも航続距離が短すぎた。逆に十分な航続距離をもつBf110はとても単発戦闘機に対抗できる戦闘機とはいえなかった。
Bf109E-3に日本製の23mmモータカノンが万全な状態で装備されていたとしても、機関砲一つで戦況が覆ることはなかった。
また、個々の機材の優越以前に、海峡に早期警戒のレーダーを並べていたイギリス空軍は、フランス沿岸の空軍基地からドイツ空軍機が離陸すると同時に探知することができていた。
警報を発して待ち伏せる、或いは空中退避して爆撃をやり過ごすことができるイギリス空軍は地上にいる間に撃破されることはありえなかった。
奇襲が成立せず、正面から殴り合うしかない戦いは、消耗戦の様相を呈するがそれが航空戦の真実の姿でもあった。
実際、こうした状況は既に過去の実演済みだった。1918年の西部戦線である。
そして、皇帝の空軍と同じく、ヒトラーの空軍も消耗戦となると息切れし始める。
1940年のドイツの航空機生産数は、10,247機だったが、イギリスは15,049機も生産しており、消耗戦になれば地力のないドイツ空軍に勝ち目はなかった。
国家元帥ヘルマン・ゲーリングの強気とは裏腹に見通しのない航空戦は、8月に入ると完全に膠着状態になった。
その頃から、ヒトラーはイギリス本土への上陸作戦に見切りをつけ始め、矛先を変える動きを見せていた。
要するに、チャーチルよりも先にヒトラーの心が折れてしまったと言えるだろう。
ドイツにとって、イギリスの徹底抗戦と戦争長期化は想定外の事態であり、戦争長期化となればイギリスの海上封鎖によってドイツが干上がることは先の大戦において証明済だった。
イギリスを降伏に追い込むためには、イギリスの海上交通路を破壊して、ドイツよりも先にイギリスを干上がらせるしかなかった。
それには相当の長期戦を覚悟しなければならないが、イギリス本土及び周辺海域の制空権奪取の見込みがつかない以上、他に方法はなかった。
Uボートによる通商破壊戦が拡大し、同時にイギリスの資源供給地を攻撃するため日本の参戦が求められたのは、泥縄式だがドイツなりの長期戦戦略の一環だった。
対して、日本は参戦の対価をドイツに請求した。
当然の要求だった。
先の大戦と同じくドイツの戦争に付き合ってやるのだから、相応の代価がなければ日本は動けなかった。
イギリスが追い詰められている今が失地回復のチャンスであったが、なおも日本は慎重だった。特に単独不講和が同盟の絶対条件だった。
日本は先の大戦の失敗を繰り返すつもりはなかった。
ドイツは単独不講和(これはかなりヒトラーが難色を示した)の条件を受け入れ、これまで日本にも公開してこなかったロケット技術やジェットエンジン技術の無償提供を確約した。
さらに、ヴィシー・フランスに圧力をかけて、フランスがワシントン講和条約で得た大南島及び南太平洋の島嶼領土の返還、仏印インドシアへの進駐を認めさせた。
失地回復を悲願とする日本にとって、太平洋のフランス領返還はとてつもなく魅力的な提案だった。
また、大南島の返還は太平洋の戦略環境を激変させることになる。
大南島は南天大陸解放の橋頭堡だったからだ。木漏日港は大南島最大の泊地であり、珊瑚海を管制する戦略上の要所だった。
花吹諸島のラバウルは太平洋におけるアメリカ海軍最大泊地トラック環礁の南にあって、長距離爆撃機ならば泊地への空爆が可能である。
南シナ海に突き出した仏印インドシナに爆撃機を展開させれば、旧日本領北ボルネオ、英領マレー半島が射程圏内に入る。
さらにドイツは北米・アジア・太平洋における日本の政治的、経済的優先権を確約した。
要するに、
「同盟して参戦するなら世界の半分をやろう」
と言っていた。
ドイツの提案を受けた政威大将軍の豊臣英頼は、
「よし、もうひと押ししてみよう」
として、アジア・太平洋地域以外のイギリスや連合国がもつ全ての海外植民地に対する優先権を要求した。また、ドイツに片務的な自動参戦条項を求めた。これはドイツが第3国から攻撃された場合、日本は参戦する義務はないが、日本が攻撃された場合はドイツは自動的に参戦して日本を助けなくてならないという不平等な条件だった。
ヒトラーはこの返書を読んで、しばらく沈黙して髭を震わせたという実しやかな噂がある。
なお、同時期、日本はイギリスとも交渉をもっている。ドイツには秘密で。
イギリスは旧領のスマトラ島と北ボルネオの返還を約束していた。
だが、日本は南天大陸の返還を要求していたので折り合いがつかなかった。
日本にとってスマトラ島や北ボルネオは経済植民地であり、手放しても惜しくはなかったが(それでも激痛である)、南天は多くの日本人が暮らす母国の一部と認識されていた。
実際、イギリス連邦オーストラリアの人口2,000万人のうち9割が日本人で、白人人口は7%程度である。
それにも係わらずオーストラリア政府組織の構成員の90%が白人という歪な国家だった。
所謂、白豪主義である。
逆にいえば、そうでもしなければ白人が優位を保てないとも言える。
オーストラリアにおける白人とそれ以外の人種の確執と憎悪は凄まじいものがあった。
先の大戦直後からしぶとく反英闘争を続ける南天の名族である真田家は、一族のことごとくを失ってもなお戦いを止めず、大陸中央の砂漠地帯でレジスタンス活動を続けていた。
鍋島家はそれよりも穏当な合法路線を採用していたが、法治国家であるイギリスにとっては真田一族よりも質が悪い相手だった。
オーストラリア軍は、その兵力を反英武装勢力との戦いと都市治安対策に費やしており、正直にいってまともな軍隊とはいえなかった。
外敵との戦いよりも自国民を弾圧することが生業の軍隊など、もはや殺し屋の徒党か何かだろう。
日常的なテロと武力弾圧の応酬が20年も続けば、国が荒廃して難民があふれることは目に見えており、それが本国の難民問題を生み、2・26事件に繋がったと言える。
ゆえに幕府にとって南天返還は絶対条件であり、日英交渉の根本だった。
オーストラリア政府の立場は、当然のことながら返還絶対拒否であった。
もし、そうなれば今まで国家の権力と暴力を独占して好き放題にやってきた白人層に凄惨な報復が待っているのは確定的だったからだ。
イギリス本国も日本との関係を悪化させるだけのオーストラリアの白豪主義を苦々しく思っていたが、抜本的な対策はとってこなかった。
そのツケが回ってきた形だった。
追い詰められたイギリス政府は、お得意の二枚舌外交で時間稼ぎを図った。
日本には南天返還を約束し、オーストラリア政府には返還拒否とオーストラリア防衛を約束したのである。
これがパレスチナのウブなアラブ人相手なら通用しただろう。
だが、この時イギリスの相手をしていたのは日本の百戦錬磨を誇る国務奉行衆であり、ナポレオン時代からイギリスと争ってきた日本人にそんな姑息な手段が通用するわけなかった。
イギリスの二枚舌が乾き果てるのに時間はさほどかからなかった。
南天返還を約束した日英交渉の記録が何故かオーストラリア政府に流出する事案が発生したのである。
国家存亡の危機に瀕したオーストラリア政府は、英連邦からの離脱を宣言し、アメリカ合衆国に安全保障条約の締結を求めるに至る。
これで南天返還を餌にしたイギリスの対日外交は完全に破綻に追い込まれた。
イギリスとの交渉に見切りをつけた幕府はヴィシー・フランスとの領土返還協定成立と同時に日本は日独伊三国同盟に調印する。
1940年9月27日のことだった。
これで日本参戦は時間の問題となった。
イギリスはオーストラリアに罵詈雑言を(心の中で)ぶちまけて、対日経済封鎖を開始。在英資産の凍結や大使館の閉鎖など明確な戦争準備を開始する。
その中で、特に急がれたのは海軍の極東回航だった。それも主力艦隊の回航である。
何しろ相手はあの日本海軍だった。
例え、戦艦もどきのような巡洋艦や僅か2隻ばかりの航空母艦しか持っていなくても、絶対に油断したりはしなかった。
本気の本気で日本軍の侵攻を海の上で阻止するつもりなら、それは海軍主力が全力で当たらならければならないと考えたのである。
帆船時代から常にイギリス海軍の前に立ちふさがってきた日本海軍は、弱体のドイツ海軍や港から動かないイタリア海軍よりもよほど危険な敵だと認識された。
イギリス海軍は10月にタラント港への野心的な奇襲作戦を予定していたのだが、それも中止して主力艦の極東回航を急いだ。東地中海の制海権維持を考えれば、この決定は不安要素が強いものだったが、イタリア海軍など構っていられなかった。
相手は、あの日本海軍なのだ。
シンガポール回航が決まった兵力は以下のとおりである。
戦艦 ウォースパイト ヴァリアント バーラム マレーヤ
巡洋戦艦 レパルス、レジスタンス
空母 イラストリアス、アークロイヤル
重巡洋艦 エクセター、コーンウォール、ドーセットシャー
他、軽巡洋艦5、駆逐艦18
相手がイタリア或いはドイツ海軍なら、まとめて正面から撃滅できる兵力だった。
長く本国艦隊主力を務めてきたクイーン・エリザベス級全艦同時展開とR級巡洋戦艦(元日本海軍の金剛型)2隻というのは、地中海と大西洋での戦いを抱えるイギリス海軍にとっては伸るか反るかの博打に近い。
これ以上の戦力投入となれば、イギリス海軍自慢のフッド級巡洋戦艦投入しかなかった。
この時、フッド級は本国艦隊にあってブレストに逃げ込んだグナイゼナウ、シャルンホルストへの対抗戦力として警戒待機中だった。
指揮官は地中海艦隊から転出したアンドリュー・カニンガム中将である。
イギリス海軍のシンガポール集結は、当然のことながら日本海軍にも伝わっており、日本海軍は主力艦隊の全力投入を以って応えた。
仏印に展開した日本海軍南遣艦隊の戦力は以下のとおりである。
戦艦 金剛 比叡 榛名 霧島
空母 飛龍 蒼龍
巡洋艦 最上 三隈 熊野 鈴谷 利根 筑摩 吉野 揖斐 鳥海 高雄 妙高 羽黒
駆逐艦 48隻
指揮官は日本海軍において武闘派としてその名を知られる後藤基次中将だった。
後藤提督は呂宋出身で、南方の海路、地理にも詳しく、この作戦には打ってつけの人材といえた。なお、後藤提督は江戸時代初期に豊臣秀頼と共に呂宋に逃れた後藤又兵衛の子孫とも言われている。
イギリス海軍が戦艦もどきと揶揄した金剛型全艦投入に、戦力化まもない飛龍、蒼龍。さらに大型巡洋艦12隻投入だった。そのうち8隻は最新鋭の最上型である。
最上型巡洋艦は、条約型巡洋艦として完成した最後のグループで、前級の高雄型から旗艦設備を除き、8インチ3連装砲3基9門及び3連装魚雷発射管4基を備えつつ、高い居住性と長大な航続能力を備えるバランスのよい船に仕上がっていた。
なお、巡洋艦はこれまで1等巡洋艦(重巡)が山岳名、2等巡洋艦(軽巡)が河川名となっていたが、最上型以後はそうした区分は消滅した。
日本海軍は30年後半に入ると既存の軽巡洋艦は全て10,000トン級巡洋艦で置き換え、5,500トン級のような軽巡洋艦は建造しない方針を固めている。
将来的に艦隊戦力を3,000tクラスの大型駆逐艦(秋月型)と10,000トン級巡洋艦(最上型)で統一してしまう構想だった。
消耗戦に備えて最低限の機能と量産性を追求した小型駆逐艦は1,200トン級の松型駆逐艦として1939年度予算から大量建造が始まっている。
なお、最上型巡洋艦は改良を続けながら最終的に52隻が建造された。
日本海軍の真の主力ともいうべき水雷戦隊は4個水雷戦隊、駆逐艦48隻が参加していた。しかも最精鋭の第1、第2、第3水雷戦隊だった。この3個水雷戦隊は艦齢8年以下の最新型ばかりを集めた最強部隊だった。他に船団護衛に第8水雷戦隊が参加していた。
マレー半島への上陸を目指すのは、海兵隊第1師団及び日本陸軍第5師団、第1戦車師団、第24師団、呂宋第3師団、第4師団だった。
このうち呂宋第3、第4師団は島嶼国家である呂宋の国情にあわせて編成された海上機動師団と呼ばれる特異な存在で、トラックの代わりに小型、大型上陸舟艇で水上機動する水陸両用師団だった。水陸両用トラクターや装甲車、さらに浮航可能な軽戦車まで持っていた。
第1戦車師団は馬を戦車で置き換えた存在で、元は第1騎兵師団だった。戦車三個連隊を基幹とする日本陸軍の最初の戦車師団である。
これらの艦隊と上陸部隊を空から援護する日本空軍もまた大兵力を集中させていた。
マレー作戦に用意された空軍機は1個航空艦隊およそ1,600機だった。
洋上での長距離作戦となることや、対艦攻撃作戦が予想されたため、戦闘機部隊の主力は滞空時間の長い39式双発戦闘機「連雀」だった。
他に最新型の40式戦闘機「飛燕」も200機が参加することになった。
対艦攻撃の主力は旧式化が進む双発中型の36式陸上攻撃機「白鷺」で、魚雷1本か爆弾なら1tまで機外搭載して、4,000km近く飛ぶことができた。
陸上攻撃機は洋上奥深くまで進出して敵艦隊へ航空雷撃を行うための専用機材で、空軍においては制海権確保のための切り札だった。白鷺は新型の40式陸上攻撃機「黒鷺」への改変が進んでいた。どちらも開発設計は三菱重工だった。
ちなみに陸上攻撃機と敢えて表記しているのは水上攻撃機があるためである。
他に4発の39式重爆撃機「鳳」も3個航空団約210機が用意された。
39式重爆は最大4tまで爆弾を搭載して4,000km飛べる重爆撃機で、水平爆撃で対艦攻撃を行う予定だった。開発元は中島飛行機で、空冷4発機のタフな機体で、空軍の主力戦略爆撃機となるべく大量生産が進んでいた。
洋上攻撃のためには、他に39式双発軽爆撃機「虎鶫」が用意されており、500kg爆弾を搭載して急降下爆撃が可能だった。
艦上機型が開発された39式軽爆撃機「歌鶫」もまた急降下爆撃が可能だが、こちらは複座単発機であり、引き込み脚と爆弾倉を備えた高速機(当時としては)である。
虎鶫も歌鶫も開発は川崎重工業であり、液冷エンジンの高速機だった。
なお、歌鶫は洋上に進出して対艦攻撃を行う訓練は行っていなかった。
日本空軍は、洋上作戦において単発機を投入することを忌避していた。
単発機でエンジンが止まったら墜落するしかないからだ。双発機なら片肺でも生還できる可能性があった。
日本空軍は先の大戦の経験からパイロットの消耗を特に恐れており、洋上航空戦を行う場合はパイロット救助のために専門の飛行艇部隊を必ず用意していた。
4発の37式大型飛行艇「白鳥」や双発の38年式中型飛行艇「朱鷺」は大艇や中艇とよばれ、多数がインドシナ半島に展開して、洋上での航空救難任務についていた。
航続距離の長く扱いやすい38式中艇は大量生産され、太平洋戦線における主力飛行艇となった。
大艇は川西飛行機、中艇はシコルスキー・エアクラフトでの開発だった。
なお、アメリカ海軍もパイロット救助のため、朱鷺と同規模のPBYカタリナ飛行艇を多用している。
空軍は海軍の潜水艦部隊にも航空救難を依頼しており、この時も1,000tクラスのロ号潜水艦が哨戒を兼ねて12隻展開していた。
イギリス東洋艦隊を捕捉したのもそのうちの1隻である。
1940年11月10日、日本はイギリス連邦及び連合国各国へ宣戦を布告。
宣戦布告の理由は、ドイツに対する同盟の履行と失地回復だった。
イギリスの支配下にあって圧政に苦しむ同胞を助け、失われた日本人の土地を回復するための闘争であることが高らかに歌い上げられた。
この宣戦布告にあたって、政威大将軍豊臣英頼は衆民議制院において2時間に渡って熱弁を振るい、世界各国のマスコミを前に日本の正義を強調した。
「日本人は断固として、最後まで戦い続ける。暁の水平線に勝利を刻むために!」
という下りは歴史の教科書にも載っているので有名であろう。
暁の水平線という言葉は第二次世界大戦における日本のキーワードとなる。
これは余談だが、21世紀現在、日本で配信中のソーシャルゲームのタイトルコールにもこのセリフが使われている。
話は逸れたが、俳優あがりでラジオ番組でもレギュラー経験のある英頼はラジオ演説の名手で、ドイツの総統アドルフ・ヒトラーからも一目置かれるほどだった。
例えどれだけ多忙であっても、疲労していても、死の前日であっても、毎日15分はラジオのマイクに立って、英頼は国民を鼓舞する談話を発表した。
談話の中から多くの名スピーチが生まれ、多くの人々を奮い立たせた。
100万語よりも一つの行動と言われるが、100万の言葉を本当に費やしたものは殆どいないことに留意する必要がある。
本当に100万語を費やせるとしたら、それは稀有な才覚だと言える。
なお、日本軍の攻撃開始は国際慣例にのっとり、宣戦布告から48時間後となった。
このため全ての攻撃は強襲となったが、正義の戦いであることを強調する日本軍は卑怯な宣戦布告同時攻撃を採用することは政治的にできなかった。
軍部はこの決定に難色を示したが、英頼が押し切った。
「人を殺すときは、できるだけ礼儀正しくあるべきだ」
と述べて、軍人たちを説得したという。
宣戦布告からきっかり48時間後、マレー半島各地のイギリス空軍基地へ日本軍の戦爆連合が殺到して航空撃滅戦が始まった。
運動性の高い39式双軽爆が、レーダーの探知を逃れるために超低空飛行で侵入し、対空砲火を浴びながらも収束爆弾を投下して列線に並んでいたイギリス空軍機を次々に破壊した。
時間差で高高度侵入した39式重爆が絨毯爆撃で滑走路を月面のように耕して使用不能にしていった。
日本空軍の航空撃滅戦に対して、イギリス空軍は有効な手立てを講じることが出来ていなかった。
本土周辺の陸上航空戦と違って、海辺の戦いであるマレー半島は縦深のある防空体制がとれなかった。
レーダーの前方配置ができないので、レーダーで探知してから迎撃機を上げても爆撃を阻止することは殆ど不可能に近かった。
それなら戦闘機の滞空哨戒を増加させるべきだったが、マレー半島に展開したイギリス空軍機は600機足らずで、その大半が旧式機だった。一線級の戦闘機は100機足らずである。
バトル・オブ・ブリテンの峠は越していたが、ドイツ空軍は夜間爆撃でイギリス本国を脅かしていたし、北アフリカではイタリア軍との戦いが続いていた。
遠い極東に送ることができる戦力は限られていたし、海軍力の優勢で補うことができると考えられていた。
他にカナダ防衛のために航空戦力は必要で、東南アジアに回せる兵力は限られていた。
マレー半島への空爆と同時に北米でのカナダ軍と日本軍の戦闘が始まり、先の大戦と同じく北米戦線が開かれている。
そのため、マレー半島のイギリス空軍が持っていた高性能のスピットファイアは少数で、戦闘機部隊は旧世代機のハリケーンとアメリカから輸入したF2AとPー40が大半だった。
ブレニム軽爆撃機が在空哨戒をしていたが、レーダーを搭載しておらず目視監視が限度で、日本軍の航空撃滅戦部隊を全て捕捉することはできなかった。
そもそも戦力差が2倍以上もあってはできることに限りがあった。
ただし、少数のスピットファイアは迎撃戦で目覚ましい戦果を挙げたことは付記しておくべきだろう。日本空軍が投入した最新鋭の40式戦闘機「飛燕」はバトル・オブ・ブリテンで活躍したBf109Eー3型と同じDB601A装備機(ハ40)だったが、本家と異なり長時間の在空哨戒を行うため大量の燃料を満載していた。増槽なしで2,000kmに及ぶ航続性能は爆撃機護衛にも利用可能だったが、代償に上昇、加速、速度性能において圧倒的にスピットファイアに劣っていた。P-40が相手でもやや不利だった。
飛燕Ⅰ型がスピットファイアに勝るのは機体の頑丈さと急降下性能ぐらいである。
特に加速性能の劣勢は致命的で、
「この機で敵機と遭遇したら相手を撃墜しなければ生きて帰れない」
とまで酷評される羽目になる。
一応、日本空軍も、飛燕の性能についてはある程度、無茶な部分があることは把握していたが開戦に間に合わせるために、生産配備を強行していた。
飛燕以前の単発戦闘機となると36式戦闘機Ⅲ型しかなく、後続能力の不足からマレー半島侵攻には使えなかった。
結局、飛燕は性能に劣るものの数に勝ることで、イギリス空軍を圧倒することができた。
日本軍の空爆を免れている基地は、タイ国境のコタバル空軍基地だけとなる。
もちろん、それは意図的なものであり、日本軍が上陸してすぐ使えるところにある基地をできるだけ傷つけたくないというだけの話だった。
11月15日にはコタバルに第1海兵師団が上陸を開始。水際で待ち受けいたイギリス軍を相手に敵前上陸となり激戦となった。
上陸部隊を狙ったイギリス空軍の空爆も激しいものだったが、多数の戦闘機を送り込んだ日本空軍が制空権を維持しつつづけた。
この報告を受けて、イギリス東洋艦隊のカニンガム提督は上陸船団への攻撃を決意。
艦隊全力でコタバル沖に向かって突進を開始した。
なお、このとき日本海軍はイギリス東洋艦隊の動向を掴みかねていた。
東洋艦隊は日本の宣戦布告と同時にシンガポールを出港して洋上退避していた。この判断は正解で、日本空軍の偵察機が飛来したときには泊地は空っぽだった。
イギリス東洋艦隊の所在が不明というのは、マレー半島上陸作戦において最悪の事態であり日本空軍は30機に及ぶ偵察機を飛ばして偵察に努めていた。
しかし、偵察機よりも先に東洋艦隊を発見したのは海軍の潜水艦だった。
哨戒中のロ号潜水艦の1隻が、東洋艦隊を発見して位置を知らせた。
これがマレー沖海戦の号砲となる。
この時、東洋艦隊には2隻の空母があった。
アークロイヤルとイラストリアスである。どちらも造形に違和感があるイギリス海軍の空母としてはハンサムとして名高い。2隻合わせて100機近い艦載機を持っていた。
対して日本海軍は、日本海軍初の空母、飛龍と蒼龍(各75機搭載)を投入していたが、うち飛龍は持病の腹痛(機関故障)で退避中だった。
いきなり戦力半減である。
後藤提督は激怒したが、機関故障ではどうしようもなかった。
まともに戦えるのは蒼龍1隻だけだが、蒼龍は戦力化間もない船で、しかも艦載機の構成にはかなり問題を抱えていた。
蒼龍の艦載機は36式戦闘機Ⅲ型「白鷺」と39式軽爆撃機「歌鶫」の改造機だった。
白鷺Ⅲ型は相手が爆撃機ならともかく、スピットファイアと戦える機材ではなかった。
また、歌鶫は近接航空支援用に設計された機材で、海軍機として使うには航続能力が不足していた。着艦に耐えるように機体を補強したため重量が増加しており、250kg爆弾1発搭載して発艦するのが限界だった。
魚雷装備も可能といえば可能だったが、燃料を限界近くまで抜かないと無理で、実際に発艦させると失速して墜落、死亡事故が発生している。
さすがに、これは問題があるとして空母部隊は魚雷を搭載せず、爆装機のみで航空隊を編成していたが、相手が戦艦の場合は致命的に打撃力が不足していた。
蒼龍1隻では東洋艦隊の阻止どころか、自分の身を守ることさえ危ぶまれる状態だったのである。
そこで後藤提督は砲雷撃戦で東洋艦隊を阻止すべく南下を開始する。
蒼龍は上陸支援と制空権確保のために後方待機となった。
海軍は2隻しかない虎の子空母を今、失うわけにはいかなかった。また、船団上空の防空も重要だった。
結果として、日本の母艦航空戦力は戦局の焦点から外されることになる。
マレー作戦の成否は空軍の対艦攻撃部隊の双肩にかかった。
空軍は潜水艦からの通報を受けるとほぼ同時に、概略海域に向けて戦爆連合198機を発進させた。
攻撃隊は索敵攻撃のため3群に分かれて侵攻したが、悪天候により引き返した。
また、南下中の後藤艦隊を東洋艦隊と誤認して、もう少しで爆撃しかけるなど、散々な結果に終わった。
東洋艦隊も上陸船団をターゲットにアーク・ロイヤルとイラストリアスの艦載機による攻撃を行っていたが、悪天候のため引き返している。
決戦は翌日の11月16日に持ち越しとなった。
この間に燃料不足となったロ号潜水艦は接触を保つことが困難になり、再び東洋艦隊の所在が分からなくなっていた。
空軍は、前日の規模を上回る211機を3群に分けて索敵攻撃に投入した。
さらに同規模の第二次攻撃隊を1時間半後にマレー半島の基地から発進させている。
爆装した4発の39式重爆「鳳」30機が偵察爆撃のために飛び立ち、そのあとを3群に別れた攻撃隊が続いた。
偵察爆撃部隊のうちの1機が、東洋艦隊と接触し、マレー沖航空戦が始まった。
東洋艦隊の各艦には既に対空レーダーが搭載されており、高度6,000mから接近する4発の鳳を捉えていた。
アークロイヤルとイラストリアスのフルマー戦闘機がただちに発進して迎撃に向かったが、鳳の相手するには力不足だった。
鳳はアメリカ軍航空部隊が多用する50口径機関銃に対して十分な防御力を持つことを目的に装甲板でコクピットや機体の主要部分を固めており、フルマーの30口径機銃でどうにかできる相手ではなかった。
戦闘機の迎撃も対空砲も物ともせず投弾した鳳の水平爆撃は1発も当たらなかったが、攻撃の本命はあとに続く70機規模の戦爆雷連合部隊だった。
さらに、同規模の攻撃隊が別方向から2群接近しつつあり、多方向同時襲撃の形となりつつあった。
こうした多方向同時襲撃は、日本空軍の対艦攻撃ドクトリンの基本だった。
艦隊防空戦力を分散させる効果があり、英東洋艦隊が迎撃に発進させた30機程度のフルマーはただでさえ少ない戦力を3分割させられた。
さらに護衛の長距離戦闘機、39式双発戦闘機「連雀」がフルマーを一蹴した。
連雀は空軍自慢の長距離戦闘機で、設計開発は北米のフォッカー・アエロプラーンバウだった。
フォッカー・アエロプラーンバウは本拠地を北米諸藩の大森林地帯に築かれたノイエ・ドイチェランド自治領におく航空機製造会社である。
元はドイツ帝国にフォッカー戦闘機を供給したあのフォッカーだ。
ドイツ敗戦後に航空機の開発・製造が禁止されるとアントニー・フォッカーはドイツで仕事を続けられなくなり、オランダの東洋植民地生まれのアントニーはオランダに拠点を移したが、ヨーロッパの航空需要の低迷から、さらに拠点をアメリカに移すことになる。
アメリカでもフォッカーは成功を収めたが、フォッカーの名前はドイツの戦闘機の代名詞となっており、アメリカ国内での活動は風当たりが強いものだった。
公共の場でドイツを話したら逮捕される場合もあり、嫌気がさしたアントニーはアメリカからノイエ・ドイチェランド自治領に拠点を移して仕事を再開することになる。
だが、脳に生じた腫瘍が彼の体と精神を蝕み、フォッカーは斜陽の時代を迎える。
アントニーに代わってフォッカー社を率いたのは、ロイ・フォッカーというテストパイロットあがりの風変わりな社長代理だった。
アントニーの再従兄弟の従兄弟という、もはや血縁でも何でもないロイ・フォッカーだったが、同じフォッカーであるという理由でアントニーの目に止まったことがロイ・フォッカーの人生の転機となった。
なお、その日暮らしを絵に描いたような生活を送る曲芸飛行のパイロットだったロイ・フォッカーが給料取り(サラリマン)になったのは、大学時代に片思いだった女に偶然再開したのち、いろいろと再燃焼して激しく前後した結果、やればできるという言葉の大切さを理解したという実にしまらない理由があった。
だが、ロイには金が必要であり、再従兄弟の従兄弟が社長をやっている会社に縋る思いで身を寄せたことが、フォッカー・アエロプラーンバウの発展の礎となるとは1931年の入社当時には誰にも予想できないことだった。
ロイは、酒と女と危険を愛するエネルギーの塊のような男で、病に冒されたアントニーに代わって会社組織の中心となっていったのである。
彼の社長代理の就任から、沈みゆく名門フォッカーの逆襲が始まるのだが、話が逸れ過ぎるので時間軸を1940年のマレー沖海戦に戻す。
39式双発戦闘機(社内名称:フォッカーD23)は有村V型12気筒液冷エンジン1,100馬力2基を少し変わった方法で装備する双発の長距離戦闘機だった。
機首の牽引式配置は通常の液冷エンジン戦闘機と同じだが、胴体後部にも推進式にした同じ有村エンジンを装備していた。
これでは尾翼が装備できないので、主翼からテイルブームを伸ばしてその間に尾翼を渡していた。
通常、双発機は主翼にエンジンナセルを配置するものだが、そうすると機体中心から飛行機の最も重い部品であるエンジンが離れてしまうため、運動性において不利になる。
フォッカーD23は、胴体の前後にエンジンがあるため横転は単発機並の速さだった。ただし、機首上げ下げのピッチは単発機に劣る。
双発ということでパワーに余裕があり、単発機よりも一回り大きな機体に大量の燃料を満載することで増槽なしで2,400km飛行可能、落下増槽を装着すれば3,200km飛ぶことができた。
最高速力は601km/hに達し、フルマーよりも100km/h近く高速だった。
39年式双戦は空軍が考える理想的な長距離戦闘機として、大量生産されて爆撃機護衛や船団の上空直掩に出動した。
長時間の飛行に対応するため無線方向探知機や自動操縦装置を備えるのは当然として、座席にリクライニング機能やマッサージ機能、トイレまで完備していた。
このあたりはテストパイロットあがりのロイ・フォッカーの意見が幅広く取り入れられており、操縦は練習機なみに容易となっていた。
火力は左右テイルブームに23mm機関砲を仕込んであり十分だった。
なお胴体後部に推進式プロペラがあるため、降着装置は前輪式を採用し、空中脱出にはバネ式の射出座席を採用していた。
フォッカー製の射出座席は連雀のみならず、後に全ての戦闘機で採用された。
フルマーとの戦闘はほぼ同数だったが、速度と火力で勝る連雀の圧勝に終わり、がら空きになった艦隊上空に日本空軍の攻撃機が次々と侵入した。
この時、イギリス東洋艦隊は艦隊を2つに分けていた。
先行する巡洋戦艦レパルス、レジスタンスと空母アークロイヤル、イラストリアスの高速機動部隊とその後を続くQE級戦艦の本隊だった。
もちろん、日本軍の戦爆連合が狙ったのは前者である。
まっさきに被弾したのは空母アークロイヤルだった。39式双軽爆が500kg爆弾を抱えて急降下爆撃を行って3発が命中し、艦全体が火だるまになった。
装甲空母のイラストリアスは、36式雷撃機が航空魚雷2本を命中させて、艦隊から脱落させた。
東洋艦隊は対空砲火で日本空軍攻撃隊に対抗したが、自慢のポンポン砲は故障が続発し、高射砲は設計レベルの不適切さから動きが鈍く有効な射撃が行えていない。
イギリスは複葉のソードフィッシュのような低速機を標的に対空射撃の訓練を行っており、高速の日本軍機には対抗できなかった。
空母を葬りさった日本軍機の攻撃は、巡洋戦艦レパルス、レジスタンスに向かった。
レパルスは、元日本海軍巡洋戦艦の朝日、レジスタンスは春日だった。
この2隻は予算不足で大規模な改装を受けておらず、20年前にイギリスに引き渡された時の姿をかなり止めていた。
陸上攻撃機のパイロット達に動揺がないといえば、嘘になるだろう。
手加減をしたわけではなかったが、レパルスとレジスタンスは雷撃と爆撃を全弾回避に成功する。旧式艦といえども、足の早い巡洋戦艦に攻撃を命中させるのは困難だった。
だが、足の遅いQE級戦艦は逃げ切れなかった。
カニンガム中将が座乗する旗艦ウォースパイトには20機の雷撃機が殺到した。
ウォースパイトは1940年4月のノルウェイの戦いでドイツ海軍の駆逐艦を多数撃沈してその名を轟かせていた。新聞報道にも出るほどだったから、攻撃機のパイロット達は誰でもウォースパイトを知っていた。
しかも遠目にも目立つ大将旗を掲げていたら、集中攻撃を食らうのは当然だった。
対空砲火で3機が撃墜されるものの残り17機が射点にたどり着き、17本の魚雷が左右から包み込むようにウォースパイトに迫った。
ウォースパイトはそのうちの14本を回避したが、最後の3本は絶対に避けられないコースに乗っていた。
ウォースパイトは水面下を食い破られ、速力が10ノットまで低下した。
他の戦艦3隻についても状況は似たようなものだった。
無傷な戦艦は1隻も残っていなかった。
特にウォースパイトは重傷で、機関停止に追い込まれている。カニンガム提督はウォースパイトから乗艦を駆逐艦ヴァンパイアに移した。
イギリス東洋艦隊は撤退を開始したが、彼らには第2次攻撃隊が追撃が迫っていた。
第二次攻撃隊はマレー半島の航空基地から到着した12機のバッファロー戦闘機の妨害を受けたが、これは数が少なすぎた。護衛の連雀が阻止して、攻撃隊は損害なく切り抜けて再び艦隊上空に到達した。
39式重爆の編隊は250kg爆弾を16発搭載し、投網を投げるように戦艦マラヤを絡めとった。水平爆撃の命中率は低いものだったが、そこは数で補う形で命中弾2発を得ている。
さらに陸攻が多方向同時攻撃を行って、次々に魚雷を命中させた。
戦艦には有効弾に成りにくい急降下爆撃機は巡洋艦以下の観点をまんべんなく攻撃した。この攻撃で3隻の巡洋艦が失われた。
2度に渡る空襲でイギリス東洋艦隊は空母1,戦艦3、巡洋艦3、駆逐艦5隻を失って壊滅状態となる。
生き残った主力艦は、戦艦ウォースパイトとレパルス、レジスタンス、イラストリアスだけだった。
レパルス、レジスタンス、イラストリアスが生き残ったのは、足が速く、スコールの下に逃れることができたからだった。
ウォースパイトの場合は、幸運の要素が強く、機関が停止して洋上で傾いて沈みかけているため無視されただけだった。
だが、ウォースパイトは決死的な修理と排水作業の継続により、機関が息を吹き替えして沈没は免れた。
マレー沖航空戦は史上初の航空機単独による洋上航行中の戦艦撃沈として、戦史に刻まれることになった。
なお、マレー半島における戦いはこの海戦以後も続いたが、殆どは消化試合の様相を呈することとなった。
イギリス軍は先の大戦の反省から、マレー半島に縦深のある要塞線を築いて日本軍を待ち受けていたが、制海権も制空権もない要塞線は簡単に海側から迂回されて孤立化していった。
特に、海上機動師団である呂宋第2、3師団の活躍はめざましく上陸舟艇で沿岸沿いに進軍して、要塞線があれば一旦海に出て迂回して後方に回り込んだ。
どうしても迂回できない陣地には急降下爆撃機と歩兵戦車で潰された。
イギリス軍が多用した2ポンド対戦車砲は至近距離以外では38式歩兵戦車には無効だった。
38式歩兵戦車が現れただけで降伏するイギリス軍も出たほどだ。
だが、戦車に怯むことなく、頑強の戦い抜いたイギリス軍もいた。
一つはグルカ人傭兵部隊である。彼らは伝統的な大英帝国の傭兵だった。
もう一つは南アフリカの黒人傭兵で、最後の一弾まで抵抗して日本軍を手こずらせた。
先の大戦において大量の人的資源は失ったイギリスは戦後に、フランスの例に倣って外国人傭兵部隊を編成していた。
その一部がマレー半島にも投入されていたが、特に屈強で闘志に溢れていたのがグルカ兵と南アの黒人兵だった。
グルカ兵はその戦いぶりからエベレストの壁として恐れられ、南アの黒人兵は決して砕けない黒いダイヤモンドとして称賛を集めた。
だが、大勢を覆すには至らなかった。
シンガポールの陥落は1月8日に降伏開城に至る。
日本軍はマレー作戦に並行し、香港、北ボルネオにも上陸しており、いずれも短期間で占領に成功している。
先の大戦においては中立となったオランダだったが、今回は連合国陣営に参加しており、北ボルネオ作戦の後、日本軍は空軍基地を次々と前進させて航空戦力の傘のもと、東南アジア各地を制圧していった。
だが、全てが上手く行っていた訳ではない。
例えば1940年2月1日のスラバヤ沖海戦である。
ジャワ島上陸を目指す陸軍の上陸船団を守る日本海軍と上陸阻止を図った英蘭艦隊が激突したスラバヤ沖夜戦が今次大戦における日英初の水上戦闘となった。しかも夜戦であった。
日本海軍にとって夜戦は望むところであったし、水上レーダー装備の巡洋艦もあった。
日英蘭の艦隊はそれぞれレーダーによってお互いをほぼ同距離で発見し砲撃戦に突入。日本海軍は大量の酸素魚雷を遠距離から発射して勝負を決めにかかった。
だが、これは命中しなかった。
相手が高速で変進を繰り返したこともあって、全弾が回避されてしまっている。
また、酸素魚雷の信管は調定が現場の判断で勝手に鋭敏な設定に変更されており、魚雷が敵艦の生み出す水圧の壁にぶつかって自爆してしまった。さらに悪い事に34ノット以上の高速航行時に魚雷を発射したことがなかったため、高速で海面に叩きつけられた魚雷の姿勢制御装置が破損し、魚雷が迷走する事故を起こしている。
結果として全魚雷を撃ち尽くしても戦いが終わらず、しかも日本海軍は指揮官の戦意不足から延々と遠距離で砲戦を続ける消極的な戦いに終始した。
日本艦隊の主力だった第7戦隊の熊野、鈴谷、最上、三隈は遠距離砲戦のために、弾着観測のオートジャイロを発進させたが、これは敵の対空砲火により速攻で撃墜され、何の役に立たなかった。
考えてみれば当たり前の話で、低速で低空を飛ぶオートジャイロが10km近い射程距離をもつ高角砲の有効射程内に入って着弾観測を行えるはずなどなかった。
いっこうに当たらない砲撃にしびれを切らして英蘭艦隊に接近した熊野、鈴谷、最上、三隈の4隻だったが、別方向から大口径火砲の射撃を受けて、海戦の風向きが変わる。
この砲撃を行ったのは、巡洋戦艦レパルス・レジスタンスの2隻だった。
情報伝達ミスで海戦当初から参戦できなかった2隻だが、だらだらと戦いが長引いたことで海戦に間に合ったのだ。
「こちらレパルス、遅れて済まない」
というカニンガム提督の電文が日本艦隊にも傍受されている。
巡戦2隻の迫力は凄まじいもので、一転して日本艦隊は浮足立った。
日本軍はマレー沖でレパルス・レジスタンスを損傷させていたと考えていたが、それは戦果誤認で2隻は一発も被弾していなかった。
レパルスとレジスタンスは爆撃が激しくなったシンガポールを脱出し、密かにオランダ海軍と合流して反撃の機会を窺っていたのである。
そして、彼女たちは来たのだった。
レパルスとレジスタンスはマレー沖航空戦の復讐に燃えていた。
或いは、20年前に自分たちをイギリス人に売り渡した薄情な祖国への復讐だったのかもしれない。
格上の巡洋戦艦と撃ち合いになると巡洋艦では手も足もでなかった。
最上、三隈、鈴谷、熊野は20.3サンチ砲弾を10発以上レパルスに命中させたが、バイタルパートを抜いた弾は一発もなかった。
逆にレパルスの14インチ砲弾はたった一発で巡洋艦三隈の弾薬庫を撃ち抜き、これを轟沈させた。
上陸船団を放り出して逃げるわけにもいかず巡洋艦鈴谷、熊野はレパルスに砲戦を挑んだが、砲塔を吹き飛ばされて撤退に追い込まれた。
最後まで踏ん張ったのは最上だったが、艦橋を吹き飛ばされて、戦隊司令部が全滅。生き残った者がなんとか船を動かして逃げ出すしかなかった。
上陸船団を守っていた第8水雷戦隊が遠距離から牽制の雷撃を繰り返してなんとか船団を逃がそうとしたが、脱落した5隻の輸送船が撃沈され、駆逐艦3隻が失われた。
スラバヤ沖海戦は日本の敗北に終ったのである。
夜が明けると魚雷を抱いた陸攻が出動してジャワ海をくまなく索敵したが、英蘭艦隊は日本艦隊が一時後退した隙に脱出しており、影も形もなかった。
結局、ジャワ島攻略は1週間の遅延で再開され、上陸後の2月25日にはジャワ島の連合国軍は降伏している。
つまるところスラバヤ沖の勝利は僅かな延命にしかならなかった。いくらかのオランダ海軍艦船を救ったが、それだけだった。
逆に手痛い敗北が日本に残したものは多かった。
欠陥が判明した酸素魚雷の信管は残らず修正され、姿勢制御用のジャイロスコープは衝撃に強い新型のものに換装された。
オートジャイロは弾着観測という無為な仕事から解放され対潜哨戒に専念するようになる。
弾着観測射撃が使い物にならないと分かったので、夜間遠距離砲戦のためにレーダー管制射撃装置の開発が全力で推進されることになる。
大破した巡洋艦最上、熊野は鈴谷から艤装品を移植され3ヶ月ほどで戦線復帰を果たした。
損傷が一番激しかった鈴谷は、船体を利用した軽空母への改装が決定し、1年後に軽空母鈴谷として再就役することになる。
鈴谷型空母は設計段階で大いに見込みがありそうなことが分かったため、建造中の最上型巡洋艦7隻が空母改装を受け、1942年半ばから続々と就役することになる。
なお、日本軍は一連の南方侵攻作戦の所要日数を120日と見積もっていたので、スラバヤ沖の敗戦を含めても1ヶ月以上はスケジュールを繰り上げていた計算となる。
これほどまでに素早い進撃は、専ら空軍の設営部隊の活躍に依る所が大きい。
南方作戦の進捗は、空軍基地の前進速度に依存しており、トラクターやブルドーザー、ダンプトラックを装備した空軍工兵隊は不眠不休で滑走路を作り、或いは占領した連合国軍の基地を修復して空軍機の前進を支えた。
日本軍はワシントン条約破棄以後、失地回復のために準備を積み上げており、そのために機械化設営部隊を編成したことが、迅速な航空戦力の前方展開を支えていた。
結果、開戦から僅か3ヶ月で東南アジアから連合軍は駆逐され、各地に日の丸が翻った。
フランスを下したドイツ軍の電撃戦が陸の電撃戦なら、日本軍の南方作戦は海の電撃戦であった。
あまりにも進撃速度が早かったため、シンガポールのドッグに擱座した戦艦ウォースパイトが退避させる暇もなく鹵獲されたほどである。
イギリス軍はウォースパイトを渡さないために爆破処分を施していたが、低威力な爆薬しか調達できずウォースパイトは僅かなに損傷するだけで生き残った。
幸運といえば先のマレー沖海戦でもウォースパイトは奇妙な幸運に恵まれたが、この日の幸運がウォースパイトにとって幸福なものと言えるかどうかは謎である。
ウォースパイトを得たことは戦艦戦力が不足する日本軍にとって望外の幸運であり、建造中止の憂き目を見た長門型戦艦用の機関や主砲に換装され、1943年に再就役することになる。
なお、ここで余談ながら日本軍の東南アジア支配について述べたい。
日本軍はオランダ領インドネシアに対して、軍政を実施しなかった。
では、戦時中どうやって統治したのかといえば、オランダ植民地政府にその支配を任せた。これをヴァダビア政権と呼ぶ。
枢軸以外からの国際承認は得られなかったものの、ヴァダビア政権は戦争期間中、オランダ領インドネシアを日本軍の後押しを得て円滑に統治した。
日本は、自らの民族自決を熱心に主張したが、インドネシア人の民族自決については全く無頓着だったと言われるのはこのためである。
日本は占領地は戦争が終わればオランダに返還されるものと考えており、支配の恒久化は全く考えていなかった。
日本に必要なのは戦争遂行に必要な資源と軍事基地だけだった。
そして、その両方を円滑に、効率的に、できるだけ安く手に入れるには植民地政府と交渉するのが一番安定しているのは子供にでも分かる道理だった。
各地のインドネシア人独立勢力はこの決定に激怒したが、では彼らに広大なインドネシアについて国家レベルの統治能力があるのかといえば答えは果てしなくNOだった。
一部の独立運動指導者の能力はともかくとして、総体としてはとても国家の統治を任せられる能力のある行政官僚はいなかった。
この場合に必要なのは個人の能力ではなく、平均的な質を伴う行政官の数だった。
インドネシアが独立するのは戦後のことである。
オランダの植民地政府を倒したインドネシア独立戦争において、その主要な役割を果たしたのは、戦争中に行われたインドネシア青年団への軍事教練が大きい。
彼らは日本軍から最新の陸戦理論と兵器の使用法を叩き込まれており、オランダ軍を密林の中で散々に打ち破った。
こうした軍事教育をインドネシア各地で施したのはインドネシア方面軍総司令官の今村均大将の定めた方針に依るところが大きい。
そのためインドネシア独立の基礎を築いたのは今村大将とされ、政威大将軍豊臣秀頼に対する評価は極めて低かった。
しかし、近年の研究でそうした見方は否定されつつある。
如何に方面軍司令官といえども、明確にヴァダビア政権への敵対行為となるインドネシア青年団への軍事教練を行うことは、幕府の許可がなければ不可能だった。
今村方針は幕府の公式許可を得たものではないが、ヴァダビア政権との微妙な関係を考えると公式許可を与えることは不可能で、黙認という形で許可を与えていたと言える。
当事者が死亡しているため真相はもはや推測するしかないが、英頼が考えていたのは戦中のインドネシアの安定と、戦後の独立構想だったのではないかと考えられている。
戦中は、資源確保と軍事基地使用のためヴァダビア政権を支援し、用が済んだからインドネシア青年団を使ってインドネシア独立をしかけるつもりだったとされる。
英頼の時限爆弾と呼ばれる仮説だが、本人が何も語らず死んでいるため真相は不明である。
この時限爆弾の恐ろしいところは、それが日本の完全な利益となっているところである。
利益とは、インドネシア独立ではない。
独立戦争でインドネシアは物理的にも経済的にも荒れ果てた。軍事技術のみを仕込まれた独立運動家たちは戦争は得意だったが、国家運営能力を持っていないために、独立後のインドネシア経済を大混乱させたのである。
その結果、日領スマトラ島や北ボルネオは安定の中で経済発展が進み、自らの高い生活水準を犠牲にしかねない発展途上国インドネシアへの復帰を拒むようになった。
21世紀現在でも、日本合藩国にアチェ・スマトラ藩と北ボルネオ特別自治領が残留しているのはこのためである。




