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WWⅡ A君50歳の戦争



WWⅡ A君50歳の戦争




 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻。

 第二次世界大戦が始まった。

 だが、未曾有の大戦争を引き起こしたナチス・ドイツの指導者アドルフ・ヒトラーはなぜ世界大戦になったのか理解できていなかった。

 イギリスとフランスがポーランドを助けるためにドイツと全面戦争に突入するとは考えていなかったからだ。

 これは前年のミュンヘン会談の折に、チェコ・スロバキアを英仏が実質的に見捨てたことを考えれば当然の発想だったろう。

 また、極東においては友好国の日本が義勇軍名目で実質的に支那事変に参戦しながらもアメリカとの全面戦争を回避している。

 ならばポーランドごときのために英仏がドイツに全面戦争を挑むなどありないはずである。

 故にドイツはダンチヒ回廊の回収と悪化していた国家財政の延命のため、ポーランド侵攻に踏み切ったのである。

 だが、その時不思議なことを起きたのだった。ヒトラーにとっては。

 イギリスとフランスの宣戦布告を受けて、ヒトラーは裏切られたと感じたという。

 それほどに両国の宣戦布告は予想外の事態だった。

 しかし、軍事的恫喝と領土拡張を繰り返すドイツが遅かれ早かれイギリス、フランスと激突していたことは想像に難くない。

 だが、ヒトラーにとってそれはもう少し先の話のはずだった。

 ポーランドに侵攻したとき、ドイツの軍事力は今だに再建途上だったのである。

 空軍だけは世界水準に達していたが、陸軍の装甲部隊は大半が練習用戦車で、主力の3号、4号戦車は僅かな数しかなかった。海軍は全く絶望的な状態である。

 ドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダー提督の


「忠誠を示すため勇者のごとく倒れるしかない」


 という発言は有名だろう。

 だが、ヒトラーは独ソ不可侵条約という綱渡りを成功させ、ポーランドを短期間で粉砕することに成功した。

 その後、ヨーロッパにはファニーウォー(まやかし戦争)と呼ばれる奇妙な平穏が訪れる。

 もしもこの時、フランス軍が全力でドイツへ進撃していれば、兵力の大半がポーランドにあったドイツ軍は呆気なく打倒され、第二次世界大戦は1939年に終わっていたかもしれない。

 しかし、フランスは宣戦布告までしておきながら、実質的に何もしなかった。

 ポーランドもまた、チェコ・スロバキア同様に見捨てられたのである。

 また、フランスは動きたくでも動けない状態だったと言える。

 ポーランドで示されたドイツ軍の空陸一体の機動攻勢に対する術が、フランスにはなかったのである。

 フランスはマジノ線と呼ばれる長大な国境要塞を築いて防御を固めていたが、ドイツ軍の新しい戦術に対抗できるかどうか微妙なところだった。

 戦間期にフランスの軍備は縮小されており、先の大戦でも死活的な存在であった航空戦力は経済と指導体制の混乱から壊滅状態だったのである。

 その為、フランス空軍は慌ててアメリカから戦闘機の輸入を図っている最中だった。

 砲兵火力も著しく縮小されており、ドイツ軍の機動攻勢を阻止する火力がなかった。

 それでもフランスが動けば、ドイツ軍は大打撃を受けていたはずだが、フランス政府、軍首脳部はドイツ軍の能力を過大評価して、防御体制を固めることに終始することになる。

 また、英仏はポーランド崩壊後も政治的な解決が可能と考えていた節があった。

 ミュンヘン会談のようなことがもう一度おきて、政治的解決が図られるのではないかという淡い期待があったのである。世論のみならず政府にもそうした空気があった。

 フランスは第一次世界大戦で国土が戦場になるという悲惨を経験しており、戦争を忌避する世論は宣戦布告後も根強いものがあったのだ。

 だが、ヒトラーはイギリス・フランスへの不信感をつのらせており、交渉の余地はないと考えていた。両国の消極姿勢を利用して、冬の間に軍備を整え、翌年の春季攻勢に全てを賭ける覚悟を固めていたのである。

 それが1939年冬の奇妙な平穏の正体であった。

 ある種の現実逃避的な平穏の中で、激しく厳しい現実と戦っているのは、ソビエト連邦の侵略から祖国防衛戦争を戦うフィンランドだけだった。

 後に雪中の奇跡と呼ばれるフィンランドの奮戦は、世界中から熱い視線を集めた。

 特に熱い視線を送っているのが、ロシア・シベリア帝国だった。

 いつの日か、サンクトペテルブルクに帰還し、全ロシアを統一することを夢見るロシア・シベリア帝国だったが、その実相はソビエトの侵略に怯え震えているのが本当のところだった。 領土の広さこそ勝っているものの、有力な穀倉地帯がなく人口も少なければ、経済力もソビエトに圧倒的に劣っていた。

 ウラル山脈以東の土地はロシア帝国時代のおいてさえ辺境の地であったから、ある意味当然の話であった。

 革命を主導したレーニンがいなくなり、後に独裁権を固めたスターリンは5カ年計画をもってソ連経済の重工業化を進めたことで、さらに差は広がっている。

 ロシア帝国も対抗して工業化を進めていたが、根本的な経済力が劣っていることから、できることには限度があった。

 そこで日本との同盟関係強化やドイツとの連携が模索された。

 日本は共産主義をウラル山脈の向こうへ封印するためにロシア帝国が必要だったので、利害が一致する日本との協力関係強化はトントン拍子で進んだ。

 ロシア帝国と日本には秋山好古元帥が遺したアキヤマ・コネクションという人脈があり、両国の関係は日ロ関係史の上で最良と呼べる状態を保っていた。

 対してドイツとの連携は、ヴァイマル共和政時代は上手く行かなかった。

 ヴァイマル共和国はベルサイユ体制の抜け穴としてソビエト連邦を利用するラッパロ条約を結び、ソ連との連携を強めていた。

 ベルサイユ体制において、ソ連とドイツは除け者だったから、この連携は極めて有効に機能することになる。

 ラッパロ条約での独ソの軍事交流は極めて多岐に渡っており、ソビエト軍の機械化部隊は著しく強化され、ドイツもまた秘密裏に条約違反の兵器開発を続けることができた。

 だが、1933年にドイツでヒトラーが政権を獲得すると流れが変わる。

 ドイツ国家社会主義労働党は、国内の共産主義勢力を徹底的に弾圧して、ソ連との対決姿勢を打ち出してきた。

 1936年11月には独伊露防共協定(日本は不参加)が締結される。


「これで共産主義者に勝てる」


 ロシア帝国の首脳達は狂喜乱舞したという。

 東西からソ連を挟撃し、ヨーロッパ・ロシアへ帰還する準備が整ったと考えられたのである。嘗ての栄光を知る人々は、シベリアの田舎暮らしから一日も早く解放されることを熱望していた。

 ドイツとロシア帝国の関係強化は深いもので、様々な軍事技術の交流や経済協力が約束された。ヒトラーも恭しくアレクサンドル四世に親書を送って、帝室の弥栄を称えている。

 その後の展開を考えると、ヒトラーの親書は修辞以外の何者でもなかった。

 1939年8月にヒトラーはロシアに断りなく独ソ不可侵条約を締結。

 ロシア帝国は一転して窮地に陥る。

 これでソ連は全戦力をシベリア帝国に向けることができるようになったからだ。

 だが、スターリンは多くの共産主義者の期待と予想を裏切って、シベリアには攻め込まなかった。長期戦確実のシベリア侵攻よりも近場で己の野心を満たす行動に出たのである。

 スターリン・ソビエトの侵略は、ポーランドの分割に始まり、バルト三国の併合、そしてフィンランド冬戦争で極まった。

 だが、フィンランド軍の奮戦で大きく躓くことになる。

 ヨーロッパ最大の陸軍と恐れられたソビエト軍は、スターリンの大粛清によって将校団が壊滅しており、すっかり骨抜になってた。

 ソビエト軍の体たらくを見て、ロシア帝国は少しだけ安心したが、何れは赤軍も立て直してくると考えられた。

 この世界のどの国よりもソビエトという国家とスターリンという人物に詳しいロシア帝国の首脳部は、決してスターリンが問題を放置したりしないことを知っていたのである。

 ドイツがあてにならない以上、ロシア帝国が頼れるのは日本だけだったが、日本はロシア帝国の支援要請によく応えていた。

 日本は戦後の混乱から完全に立ち直り、嘗てロシア帝国を打ち倒した時の勢いを取り戻しつつあった。

 ワシントン条約から離脱した後の日本軍の拡張は著しいものであり、第二次世界大戦勃発後の1940年度予算は完全な戦時予算が組まれていた。

 日本合藩国は、アメリカ合衆国の両洋艦隊に対抗する新八八艦隊構想により航空母艦16隻、戦艦8隻を基幹とし、航空機2万機を装備する計画を立てた。

 航空機2万機というのは装備機であり、この頃の飛行機の耐用時間は200~300飛行時間程度だったから、実際の生産数は予備機を含めると年産8万機に達する。

 江戸時代の旗本八万騎とひっかけて、旗本八万機の航空機を製造する大計画だった。

 陸軍軍備に最大動員1500万人を掲げて、それに対応する武器弾薬の生産設備の拡張が始まっていた。

 後に枢軸の武器庫アーセナルオブアクシズと呼ばれるのに値するだけの軍備計画であった。

 フィンランド冬戦争の最中、帝都エカテリンブルグではロシア皇帝アレクサンドル四世と政威大将軍豊臣英頼の会談が持たれ、英頼はその場で最新兵器の大量譲渡を約束している。

 日ロ皇帝・大君会談において、日本は戦車3,000両、航空機5,000機の供与を確約すると共にロシア帝国での各種兵器生産に全面的に協力することになった。 

 なお、この時供与された戦車は2種類あった。

 一つは39式騎兵戦車である。

 日本陸軍は騎兵を全て戦車で置き換える方針を掲げ、そのために騎兵用戦車を開発した。

 先の大戦における1918年の春季攻勢は、歩兵が空けた戦線の突破口から、航空支援を受けた騎兵師団が戦線後方へ長駆進出して砲兵及び敵師団/軍団司令部を急襲。これを壊滅させアメリカ軍に大打撃を与えた。

 日本陸軍はこの経験から、高速で長距離進出可能なディープバトル用の機動戦用戦車を着想するに至った。

 もちろん日本軍の長距離侵攻阻止に現れるだろう敵戦車との遭遇戦に備え、装甲貫通力の高い主砲を装備して対戦車戦闘に配慮したものとなっている。

 39式騎兵戦車は、長距離高速走行に適したクリスティー式サスペンションと長砲身(60口径)37mm砲を備えた20t級戦車である。後にドイツにも輸出されたが、ドイツ軍内では3号戦車に相当すると判定されている。

 避弾経始を稼ぐために斜めに傾けられた前面装甲を持っていたが、一番分厚い正面や砲塔前面でさえ30mmしか装甲がなかった。

 ドイツとの技術交流の結果も一部取り入れられており、砲塔設計及び照準システムはドイツ式と称される。光学照準器は日本光学製特殊コーティングが施されたガラスレンズを基礎としており、遠距離でも正確な射撃が可能だった。

 パワープラントは12気筒V型水冷ガソリンエンジンで400馬力を発揮し、高速走行に適したクリスティー式サスペンションと相まって39式騎兵戦車は状態が良ければ路上を時速70kmで走ることができた。

 まさに電撃戦用戦車だった。

 日本の最新技術を惜しみなく投入し、理想的な騎兵戦車を追い求めた結果たどり着いた一つの回答だったが、欠点がないわけでもなかった。

 主砲の37mm砲は極端な高初速を狙った砲で、砲身寿命が短い上に、軟目標を攻撃するための榴弾がなかったので対戦車砲が相手だと苦戦は必至だった。

 同時期のドイツの3号戦車は5人乗りであるのに対して、39式は砲手と車長が兼務する4人乗りで、車長が指揮に専念できない欠点もある。

 だが、ドイツ以外の他国の戦車も概ね4人が多く、ソ連軍のT-34も初期は4人乗りだったことから欠点というほどの欠点とも言えなかった。

 39年式騎兵戦車は日本陸軍にもまだ殆ど装備していない最新兵器であり、これをロシア帝国に大量供与するのは大きな決断だったと言えるだろう。

 もう一種の供与戦車は、38年式歩兵戦車だった。

 歩兵の空けた戦線の突破口から戦線後方へ突入し、長距離進出する騎兵戦車に対して、歩兵戦車はまさにその突破口を開くための戦車だった。

 歩兵戦車は歩兵の楯として歩兵が走る程度の速度で前進し、トーチカや機関銃陣地を潰す一種の自走式歩兵砲である。

 そのため、一般的に機甲科から人気がない戦車だった。

 39年式騎兵戦車が惜しみなく最新技術を投入したのに対して、38年式歩兵戦車の設計は極めて保守的だった。結果として、同時期開発にも係わらず、39年式騎兵戦車よりも1年も早く完成している。

 シャーシはバルジを持たない直線箱型車体と保守的なシーソーバネ方式サスペンションを組み合わせで、避弾経始を全く考えない垂直装甲だった。

 ただし、対戦車砲に撃たれることを前提として車体正面は80mmと39年式騎兵戦車の倍以上の装甲があった。側面でさえ70mmも装甲があった。

 これは歩兵の楯として全周囲からの攻撃を受けることを前提としたためであり、列強各国の37mmクラスの対戦車砲に対しては万全の防御力があった。

 主砲は榴弾威力の高い短砲身(24口径)の75mm砲を装備してる。

 この砲は初速が低いため、動かない対戦車砲や機関銃陣地、トーチカを攻撃するなら問題ないのだが、動く戦車を撃つには全く不向きだった。照準器も単純なもので、対戦車戦闘は考えられていなかった。戦車と戦うのは騎兵戦車や対戦車砲の仕事だから、これでよしとされたのだ。

 エンジンは、39年式騎兵戦車と同系統だったが過給器をオミットされた簡易生産型で、200馬力しか発揮できず30tに達する車体を動かすには全く非力だった。

 下手をしなくても歩兵を運ぶトラックよりも低速で、行軍で落伍することは必至だったがトランスポーターを使うことで解決された。

 なお、ロシア帝国へ供与された戦車の7割が38年式歩兵戦車だった。

 その強力な装甲は歓迎されたものの対戦車戦闘能力が不足しており、ロシア帝国製の50mm戦車砲に換装したシベリア型なる改造品が作られている。

 なお、38式歩兵戦車は後にドイツにも供与されている。ドイツ軍においては4号戦車に相当し、装甲は4号戦車を上回るが、機動性が低すぎると指摘を受けた。また、マチルダ歩兵戦車Ⅱとの類似性も指摘された。

 ただし、マチルダが大口径砲への換装が不可能で途中退場を余儀なくされたのに対して、38式歩兵戦車は75mm長砲身砲に換装して、大戦後半まで前線で戦うことができた。

 話は逸れたが、第二次世界大戦初期の日本の動きは、ロシア帝国への支援と自国の軍備拡大に終始していた。

 同時期、日本は中国軍への支援も行っており、自国向けの装備と支援用装備の取り合いになることがしばしばだった。

 先の大戦でも機材の奪い合いは起きており、その時の経験から軍需奉行が統制を図っているが、それでも収まりがつかない場合は政治的解決で対応した。

 こうした政治的解決において議会の果たす役割は大きいものだった。

 与野党幹部、軍出身者や軍需メーカーの後援を受けた軍需族議員が構成する総力戦遂行委員会は、議会における最大の戦争協力組織だった。

 他にも戦時中、各種の軍事上の問題解決や調整のために多くの委員会が開設されたが、1939年当初から終戦の日まで存続したのは総力戦遂行委員会のみである。

 総力戦遂行委員会のボスは岡田啓介元海軍大将で、彼は強力な政治調整能力で議会から日本の戦争遂行を支えた。

 なお、この総力戦遂行委員会の前身は、海軍力整備委員会であり1937年予算案策定時から日本の軍備計画に深く関与していた。

 2・26事件直後の1937年予算では、ワシントン条約の破棄によって海軍軍備は無条約時代に突入して、巨大な建艦計画が動き始める。

 1937年予算で航空母艦2隻、戦艦4隻の建造が認められた。

 日本海軍初の空母は、秘匿名称「H」として1937年1月に起工した。

 進水時に飛龍と名付けられたことから、計画策定の段階で艦名は決まっていたと考えられている。

 ちなみに2番艦の秘匿名称は「S」だった。こちらは後に蒼龍として就役する。

 飛龍型航空母艦は、22,000tで70機を搭載する中型空母として計画された。

 日本海軍初の航空母艦ではあるが、非合法で入手したアメリカ海軍のヨークタウンやイギリス海軍のアークロイヤルの設計図面が大きく活用されたという。

 また、以前より日本海軍は空母建造のための試作図面設計を繰り返しており、実験艦として1934年にあきつ丸を建造してデータの収集に努めていた。

 空母型輸送艦あきつ丸は空母のような全通甲板を持つと同時に艦内後部のウェルドッグに多数の上陸用舟艇をおさめた今日的な強襲揚陸艦の基礎をなすものだった。

 あきつ丸は、上陸支援のために15サンチ単装砲をケースメート式に片舷4門、全8門を備え、その弾着観測のためにオートジャイロを搭載するということで、条約違反すれすれの空母型であることの体裁を保った。

 格納庫は単層式で、オートジャイロを20機も搭載できることになっていたが、定数が搭載されたことは一度もなかったという。

 格納庫の設計と配置、航空燃料タンクの配置、搭載機用エレベーターの開発、機関や煙路の配置、煙突と一体化した島型艦橋、航空機運用に必要な艤装品の開発など、あきつ丸から得られたデータは数多い。

 あきつ丸をして日本の航空母艦の母となぞらえるのはこのためである。

 ならば、飛龍は長女ということになるだろうか。

 飛龍は、1938年6月には進水、就役は1940年5月となった。

 同じ月に同型艦の蒼龍も就役して、第一航空戦隊が編成された。

 これが日本初の空母機動部隊となる。

 艦載機は、36式戦闘機Ⅲ型「白鷺」と39式軽爆撃機「歌鶇」の改造型が用意された。

 パイロットは空軍からの移籍者で編成され、海軍が北米大陸に建設した二都岡訓練センターで空母着艦の訓練を積んだ。

 二都岡訓練センターには、飛龍に搭載された圧縮空気式カタパルトや、着艦制動装置が設置され、仮想着艦訓練が陸上でも可能となっていた。

 こうして万全・・・と思われる準備を整え、日本海軍空母部隊の長女、飛龍は誕生した。

 普通、一家の長女たるものはしっかり者の淑女たることを求められる。

 だが、飛龍は淑女からは程遠い船だった。16万馬力の高温高圧缶を履いて、35ノットで洋上を疾駆する途方もないじゃじゃ馬だった。

 35ノットといえば、駆逐艦なみの高速性能だった。

 高速の秘密は最新鋭の高温高圧缶の採用にあった。日本海軍の造船官は新型機関の採用によって、機関容積を圧縮し、単層格納庫でありながら大量の艦載機を搭載すると同時に高速性能発揮を目論んだのである。

 しかし、高温高圧缶は技術的に未成熟な部分があり、頻繁に機関が故障する恐ろしいまでの気分屋に飛龍は仕上がっていた。

 突然の機関停止など日常茶飯事であり、わがままを言って駄々をこねる子供のように動こうとしなかった。機嫌がいいのは港にいる間だけで、訓練を始まると途端に機嫌が悪くなり、不調を訴えて家に帰ろうとする困ったちゃんだった。

 また、これが日本初の空母ということもあって、航空機の運用は完全に手探りだった。

 想定外のミスや不良が続出し、僅か3ヶ月間で航空隊の半分が事故で失われ、殉職者多数という散々な始まりだった。

 飛龍は貞淑な長女たることができず、その評価は地におちた。

 しかし、多くの乗員、特に姉を持つ次男坊、三男坊からは、


 「長女なんてあんなものだ。大きい姉が淑女とかしっかりものなんて嘘だ」


 という意見もあり、ウザがられながらもそれなりに愛されていたという。

 また、他に方法がないことから万難を排して、飛龍と蒼龍の戦力化が進められた。

 1937年計画では、空母2隻(飛龍、蒼龍)の他に、戦艦4隻の建造も進められ、1940年半ばから次々と艦隊に加わった。

 戦後初の戦艦、その一番艦は秘匿名称「K」として起工。進水時の命名は金剛であった。

 金剛とその4姉妹、比叡、霧島、榛名は海軍の期待と不安を一身に背負って立つことになる。

 何しろ金剛型は海軍奉行の山本五十六が議会答弁において、


「あれは戦艦のようなものです」


 と述べたとおり、戦艦とは言い難いもので、期待と不安が交錯するのも当然だった。

 ワシントン条約で13インチ以上の大口径砲の製造、保有が禁止された日本海軍は、いざ戦艦を建造するとなると12インチ(28サンチ砲)しか、手持ちの大口径火砲がなかった。

 そこで日本海軍は新型砲(16インチ砲)の開発計画を策定すると同時に、既存の28サンチ砲を搭載する暫定的な新型戦艦の建造を開始する。

 ただし、28サンチ砲の採用は本当に暫定であり、日本海軍にとって著しく不本意なものだったのは間違いない。

 なんとか大口径砲が入手できないか考えあぐねた挙句、イタリアから15インチ砲の輸入交渉まで真剣に行うほど28サンチ砲は用兵側から拒否感が強い代物だった。

 なにしろ他の列強海軍もつ全ての戦艦に対して無力な主砲なのだ。この砲で沈められるのは巡洋艦以下の船しかない。

 ただし、日本海軍は水雷戦隊突入のため、アメリカ海軍の巡洋艦狩りをかなり重視しており、戦艦としてはともかくスーパー巡洋艦としては使えるかもしれないと思われた。

 金剛は長距離通信可能な強力な無線通信設備と艦隊司令部スタッフがまるごと収用出来るだけの居住区と旗艦設備を持つことから、遠目には大型化した高雄型巡洋艦に見えた。

 実際、金剛は巡洋艦の設計手法を用いている。

 32,000tに船体に28サンチ3連装4基を備えていたが、装甲は8インチ砲までしか耐えられず、アメリカの超弩級戦艦と撃ち合ったらいかなる距離からでもバイタルパートを貫通されてしまうのだった。

 なお、最大33ノット発揮可能(燃料2/3時)とするため飛龍型と同じ高温高圧缶が採用したが、飛龍ほど建造を急がなかったためか、特に問題を起こしていない。

 それどころか殆ど故障せず、どんな厳しい提督達の要求にも応え、馬車馬のように働いてもへこたれなかった。


「提督のハートを掴むのは私でーす!」


 と言わんばかりに懸命に戦ったのである。

 しかし、日本海軍にとって金剛型は本当の戦艦を建造するまでのつなぎの船で、編成や運用はでかい巡洋艦扱いだった。

 だが、嘗ての巡洋戦艦に準じる存在として、栄光の記憶が残る金剛の名を戴くことになった。

 1938年予算では金剛型5番艦から8番艦まで建造が認められた。

 金剛型はこの8隻で建造打ち切りとなり、日本海軍は本物の戦艦建造へ移行した。

 なお、同じ予算で飛龍型の改良として2,000t排水量を増やした24,000トン級の雲龍型1番艦から4番艦が予算成立している。 

 日本海軍が望む本当の戦艦の建造は大口径火砲の開発が難航(結局、失敗して輸入に切り替えた)したことから、1939年予算において漸く叶えられることになる。

 だが、支那事変の米空母レキシントンの活躍から海軍戦備は空母重視に切り替わっており、2隻の建造が認められただけだった。

 秘匿名称は「N」及び「M」。後の戦艦長門、陸奥だった。

 先の大戦の結果、流産になった幻の16インチ砲搭載戦艦から名前を受け継いだ長門型は15インチ(38.1サンチ)砲連装4基8門、基準排水量40,000t、30ノットの高速戦艦だった。

 両艦ともに1943年11月に就役し、交互に艦隊旗艦を務めた。

 だが、同じ予算で建造開始となった35,000トン級装甲空母”大鳳”型4隻に比べれば、日本海軍の空母重視は明らかだった。

 完全な戦時計画となった1940年度予算では、長門型6隻の建造が認められるが、全艦が途中で空母建造に資材が転用され建造中止になっている。

 なお、40年度予算で認められた残りの2隻は、秘匿名称「Y」という呼称のみが残り、どのような船が作られる予定だったのかは確かなことが分かっていない。

 一説によると18インチ砲搭載艦という噂があるが、実態としてはこの予算は核物理学を利用した新型爆弾開発計画に利用されたことが判明している。

 1940年予算による戦艦や空母が大量就役するのは1943年半ば以降であり、1940年時点の日本海軍はようやく空母2隻と戦艦のようなもの4隻が練成を開始したばかりだった。

 ドイツからの度重なる同盟参加要請を固辞したのも当然と言えるだろう。

 また、日本のドイツに対する不信感はかなりものがあった。

 何しろ先の大戦が敗戦となったのは、ドイツが勝手に単独降伏したためである。

 ヴァイマル共和国時代のドイツは、ラパッロ条約を結んでソ連との関係修復に動いたことからロシア帝国を支持する日本とは完全に決裂していた。

 日独の関係修復が始まったのは1933年以後、ヒトラーの政権獲得からで、それ以前はずっと最悪のままだった。

 ロシア帝国が参加した防共協定にも日本は参加しなかったほどである。

 日本人のドイツ人観は一言でいえば不審であった。

 なお、イギリス人観は嫌味、アメリカ人観は無教養である。

 唯一、外国人でまともな評価を得ているのはフランスだけだった。

 近代日本のフランス贔屓は未だに根強いものがあった。

 日本の近代法は概ねナポレオン民法典をベースにしており、日本陸軍の基礎となったのはナポレオン・フランスの大陸軍である。外食で大枚はたいて食べるなら、フランス料理のフルコースと相場が決まっていた。日本の輸入酒の最大手は常にフランスワインである。間違ってもイギリス料理を好んだりしないし、ドイツワインやビールはマニア向けだった。

 日本のフランス贔屓はナポレオンという悲劇の英雄に対する判官贔屓も過分にあった。

 日本合藩国の国父というべき徳川慶喜が政治のモデルとしたのがナポレオン3世というのもある。徳川慶喜の治世は、ナポレオン三世の第二帝政を参考にしている点が多かった。

 ナチス・ドイツとの関係強化も、他に適当な相手がいないという理由だけであり、手を組めるのならフランスと組みたいと考えると日本人は1930年代にも大勢いたのである。

 そうした状況での独ソ不可侵条約は、やはりドイツはクソだという認識を殆どの日本人に深めさせることになる。

 裏切られたロシアには同情的で、日ロの同盟強化のため大量の武器支援が行われた。

 やはりドイツはクソだということがわかったが、日本の失地回復運動において英仏米との敵対は決定的だったことから、反英勢力のドイツにもまだ利用価値はあった。

 先の大戦と同じく、イギリスをヨーロッパに釘付けにするにはドイツの力が必要だった。

 また、ヒトラーとスターリンの蜜月が長く続くなど、どう考えてもあり得なかった。

 なお、1933年以降の日独の接近は中国大陸で一定の成果を挙げたが、それ以外は今ひとつの結果に終わっている。

 とくに日本の一部の軍事関係者が熱望した軍事技術の交流については当初は散々なものだった。

 ドイツが提案した軍事技術の共同開発プランは、端的に言ってしまえば日本の金でドイツの都合がいいように新技術を開発するという虫の良いものだった。

 軍備拡張でとにかく外貨が不足していたドイツの窮余の策といえなくもないが、日本が金だけだして技術的成果はドイツの特許とするなど著しく不公平な提案ばかりだった。

 どうもドイツは自国の先端技術に絶対的な自信を持っているらしかったが、日本側からするとドイツの軍事技術はさほど魅力のあるものではなかった。

 なにしろ前提とする戦略環境が違いすぎた。

 特に石油資源に関係においてはその差異が際立っていた。

 石油資源に乏しいドイツは人造石油の開発に邁進していたが、人造石油で精製できるガソリンは低品位だった。加州油田のような高品位のガソリンが使い放題である日本にとって、低品位の燃料を前提としたドイツの内燃機関技術は魅力に乏しかった。

 ガソリンの性能を表すオクタン価において、1939年のドイツ空軍の標準燃料は87オクタンだったが、同時期の日本空軍は既に92オクタンに切り替わっていた。さらに1941年までに100オクタンガソリンへの切り替えを目指して生産と備蓄が進んでいる状況である。

 加州油田を有する日本のガソリン精製技術は世界最高水準に達しており、むしろドイツが日本のパテントを大枚はたいて買わなければならなかった。

 なお、日本は100オクタンガソリンの製造プラント輸出をドイツに提案しているのだが、ドイツは外貨が致命的に不足していたことや、独自技術で製造可能として輸入を断っている。

 この選択は致命的な誤りで、独自技術の100オクタンガソリン製造は完全な失敗に終わり、ドイツの発動機開発は大混乱に陥ることになる。

 ドイツの宣伝機関が喧伝する人工ゴム技術についても同様であり、呂宋でいくらでも天然ものが手に入る日本にとっては無意味な技術だった。

 一部の代用資源を使用した製鋼技術に見るべきものはあったが、ニッケルやタングステンの鉱山をいくつも抱え、在来手法で良質の鋼板が作れる日本にとっては、あまり意味がなかった。

 ヒトラーの政治的介入でドイツ側の態度軟化がなければ、日独の技術交流は失敗に終わっていただろうと言われている。

 日独の技術交流については、36式戦闘機に搭載されたドイツのMG17と日本の23mm機関砲の生産ライセンス交換やDB600、601エンジン、88mm高射砲(FALK18)、MG34の生産ライセンス取得が目立つ成果だろう。

 こうした技術交換において、日本側からもっとも高い評価を得たのはMG34だった。

 先の大戦において、軽機関銃と重機関銃の統合を着想した日本陸軍はベルト給弾式の機関銃の開発を進めていたが、MG34は国産品に対して優位点が認められた。そのため、使用弾薬は7mmスミトモ弾に変更した上で制式採用されている。

 なお、MG34は生産性があまりにも悪いので、日本独自に部品のプレス加工化などの改良が行われており、国産化の際には実質的には別物となっている。

 国産化の際の改変は88mm高射砲も同じで、ドイツが射撃管制装置の提供を拒んだので、日本独自に同等品を開発して運用している。

 ドイツはUボート開発に日本企業を参加させており、通信システムや艦内インターコムに日本電気の提案したものが採用されている。電気式魚雷の電池も日本製のものが採用され、ドイツで後に国産化された。

 他にUボートの潜望鏡には日本光学の開発したものが採用されている。

 潜水艦の潜望鏡製造には高度な光学技術が必要で、日本製の潜望鏡が採用されたことは世界最強の光学企業を自認してきたカールツァイス財団にとってショックなことだった。

 潜水艦そのものも日本に発注されており、ロ号第500潜水艦が輸出された。

 ロ号第500潜水艦はドイツ海軍で就役後はU-511となった。ロ号潜は通商破壊戦用の中型潜水艦であり、ドイツ海軍の要求に完全にマッチングした船だった。他に5隻の同型艦がドイツに輸出されている。代金としてDB600、601の生産ライセンスが提供された。

 潜水艦の代金としてライセンス生産の権利が提供されたダイムラー・ベンツのDB601Aはルフトヴァッフェの主力戦闘機Bf109Eにも採用されたドイツ航空機関技術の粋を集めた液冷倒立V型発動機だった。

 日本でも40式戦闘機「飛燕」に採用されている。

 DB601は本家ドイツではボアアップしたDB605に発展するが、日本では100オクタンガソリンの使用を前提に、国産の機械式過給器を搭載した高ブースト改良型に発展した。

 日本の独自改良型DB601(ハ140)は離昇1,450馬力に発展し、ハ140に二段二速機械式過給器を搭載したハ240は離昇1750馬力まで強化される。これに水メタノール噴射装置を追加したハ340は離昇2,050馬力に至る。

 だが、ドイツのDB605の改良は進まず1,500馬力クラスのままで、2,000馬力級のDB603は大量生産には至っていない。

 こうした格差は高品位のガソリンを使える日本の恵まれた環境によるもので、ドイツの技術が劣るわけではなかった。

 ドイツは高オクタン価ガソリンの自作を諦めて、次世代航空機用内燃機関としてジェットエンジンの開発に注力することになり、世界初の実用ジェット戦闘機を実戦投入することになるのだから、ドイツの技術が世界最高水準にあったことは間違いないだろう。

 それが戦争に間に合うかどうかはまた別の話だが。

 なお、日本海軍の秘密兵器だった酸素魚雷もドイツに公開されている。しかし、電池式魚雷の方が潜水艦用としては適しているので採用されなかった。

 日本海軍でも潜水艦用の魚雷は電池式と空気式が大半だった(一応、運用可能だった)。

 返戻にドイツは最高機密の磁気信管の技術を公開しているが、日本で試験したところ作動不良が続出し致命的な欠陥が判明。ドイツに送り返されている。

 なお、高速の酸素魚雷では磁気信管は運用不能なため、日本海軍は磁気信管を潜水艦用魚雷にのみに使用した。

 他に幕府はフォッケウルフ社の株式購入を通じて、Fw190の開発資金提供を行っており、後の技術フィードバックを受け、大戦後半に戦闘爆撃機としてライセンス生産した。

 同時期に、イタリアとも同種の技術交換が行われたが、イタリアから得るものは少なく、日本の方からの持ち出しが多かった。

 イタリアの産業は大量生産技術がなく、特に陸戦兵器においては旧式かつ信頼性に乏しいとして良い評価はなかった。

 しかし、職人芸が必要な一品物の大口径火砲の製造については、その伝統を断たれた日本にとっては有用なものがあった。

 長門型戦艦に採用された15インチ砲は、イタリア海軍のヴィットリオ・ヴェネト級戦艦に採用されたOTO1934年型 38.1サンチ(50口径)砲をライセンス生産したものである。

 戦艦2隻分の主砲と生産設備一式及び指導員を含めてイタリアと日本の間で巨額の売買契約が結ばれている。

 イタリアは戦艦の大砲とプラント輸出で莫大な外貨を稼いで大いに潤った。

 ドーチェ・ムッソリーニからは、


「イタリア経済はもっぱら戦艦によって保たれている」


 という謎の迷言が飛び出したほどだ。

 所謂、「戦艦経済」発言である。

 この発言は軍事ケインズ主義を代表する言葉とされているが、ムッソリーニにそれほど深い考えはなくただ単に事実を述べただけなのではないかという意見も多い。

 第二次世界大戦勃発により日独伊の技術交流は中立国経由に切り替えられたが継続された。

 当初はイタリア経由、イタリア参戦後は中立国のフランコ・スペインが日本とドイツの連絡拠点となった。




 1940年5月10日、ドイツは乾坤一擲の大攻勢計画”黄色の場合”を発動し、低地諸国を通過してフランス国境へ突進した。

 シュリーフェン・プランの再来と考えた英仏連合軍は、北フランスへ全軍を集結させたがドイツ軍の狙いはより南のアンデルヌの森だった。

 大軍が通行不能と考えられた森林地帯を通過したドイツ軍装甲部隊は、分厚い航空支援の下でパリと連合国軍主力部隊を結ぶ後方連絡線を遮断した。

 ドイツ軍の進撃速度は、ガソリンを現地調達するという破天荒な、あるいは臨機応変な対応と前線部隊将兵の才覚によるもので、ドイツ軍首脳部さえ把握できないほどの速さだった。

 後方を遮断されたことで英仏軍はパニックを起こして軍組織が崩壊していった。

 ドイツ軍が前進するだけで勝手に相手が崩れていく状況だった。

 戦わずして勝つという、理想の状況が現出したのである。

 パニックと麻痺が広がり、英仏軍にとって戦況は絶望的となる。

 英仏軍のパニックを鎮めたのは皮肉なことにドイツの総統アドルフ・ヒトラーその人だった。

 1940年5月22日、アラスにおける英仏連合軍の小規模な反撃に驚いたヒトラーはあまりにも装甲部隊が前進しすぎていると考え、進撃停止を命令した。

 実際はロンメル将軍の的確な指揮によって、イギリス軍の反撃は阻止されており、さらなる戦果拡大を図るべき状況だった。

 だが、ヒトラーは自分の制御できる範囲を超えて戦場が広がることにパニックを起こしていた。皮肉なことに、ドイツ軍装甲部隊の進撃速度は、味方にさえパニックを起こさせるほど素早いものだったのである。

 ヒトラーには状況を整理し、掌握しなおす時間が必要だった。

 だが、より時間が必要としていたのは負けている英仏軍の方であり、ヒトラーの停止命令は戦場において黄金より貴重な時間を無駄に浪費しただけだった。

 ドイツ軍装甲部隊は進撃を再開したときには、英仏軍は麻痺と混乱から立ち直っており、頑強な抵抗を見せることになる。

 なにしろ、戦車の数や質はドイツ軍の方が劣っていたのだ。フランス軍の重戦車シャールB1を正面から撃破できる戦車などドイツは一両も持っていなかった。

 航空戦力だけが唯一互角の状況だったが、アメリカ製の戦闘機を多数輸入していたフランス空軍はルフトヴァッフェのエースパイロット、ヴェルナー・メルダースを撃墜して捕虜にする程度に強力だった。

 英仏連合軍の頑強な抵抗によって、北フランスのダンケルクで孤立した34万の将兵が脱出に成功する。

 脱出したのはイギリスとフランスの最良の訓練を受けた熟練兵の集団であり、これが失われていたら戦争継続は絶望的だった。

 特にイギリスは先の大戦で人的資源を大量に消耗していたから、なおさらだった。

 ヒトラーは自らの無能さにより戦争を1940年に終わらせるチャンスを逸したのである。

 だが、主力を失ったフランス軍にこれ以上、抵抗を続ける力は残っていなかった。

 ダンケルクから奇跡の脱出が6月5日だった。

 その僅か2週間後の6月21日にフランスはドイツに休戦を申し込み、降伏した。

 ヒトラーは幸運にも、或いは不運にも賭けに勝ったのである。

 




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