支那事変
支那事変
日本合藩国の復活を世界各国は呆然と見ているしかなかった。
日本人以外には絶対通用しない300年前に呂宋へ逃れた豊臣家の末裔とその権威を利用した日本の政治的な再編成など外国人に理解しろという方が無理である。
当事者の日本人でさえ、豊臣家の武装蜂起という珍事に考えあぐねて、都合が良さそうだからその流れに乗ったというのが真相に近い。
豊臣家ではなく、天皇家が同じことをしても、似たような結果に落ち着いたのではないかという歴史研究さえあるほどである。
権威に弱いが機会主義者で、割りと現実主義的だが体面を妙に固執する日本人の習性にたまたま上手くハマった事例と言えるだろう。
アメリカ人やイギリス人が辛うじて理解できたことは、日本本国がクーデタが起きて、それを鎮圧するという口実で、植民地が蜂起して本国を征服したということだけだった。
イギリス人にしてみれば、
「ぜんぜんわからん・・・」
と言うよりほか無い話だった。
イギリス本国が植民地に征服されるなど絶対におきてはならないことだった。
殆どのイギリス人が理解不能だったが、なぜか日本の本国人は植民地からの自称解放軍を喜んで迎え入れていた。
日本語が話せるぐらいしか共通項がなさそうな雑多な集団がどうして同胞として迎え入れられたのか、まともな説明が成り立たなかった。
自分達の哲学には思いもよらぬことが起きたというほかない状況だった。
豊臣家の先祖は錬金術師ということになっているので、マジックか何かをつかったのかと疑ったほどである。
イギリスは第一次世界大戦後に植民地の再編成を行って独立国の連合体である英連邦となっていたが、本国の指導的な地位は不動のものだった。
イギリス人はどう考えてもそれが常識と思っていたが、日本人にはその常識がないようだった。
実際、日本本国は今回の騒ぎで政治的には日本勢力圏の一地方に転落した。
合藩国復活により新たに発足した「統合幕府」は江戸を首都にしたが、日本本国を統治するのは大阪を首府とする「大阪幕府」という別組織となった。
旧合藩国では幕府は本国を統治しつつ、海外藩まで統治下においていた。
新合藩国は、統合幕府を全体の統治者として規定し、本国は大阪幕府が治める形をとった。
本国の大阪幕府はもはや本州、四国、九州を統治する一地方組織に過ぎず、本国人が日本勢力圏全体への支配力は持たないことを明確にしたのである。
なお、大阪幕府の公方には当初、これまで功績から徳川家が推薦されたが、徳川家が固辞したため天皇家が永代名誉公方となり、その下に首相と内閣が組織される立憲君主制国家として再出発することになる。
本国の地位低下は統合幕府の閣僚名簿を見えても明らかであり、本国出身者はわずかに2名に過ぎなかった。
さらにイギリス人を驚かせたのは、植民地政府の代表者が民主主義的なプロセスを経て新たな大統領(政威大将軍)に選出されたことだった。
しかも、ほんの10年ほど前まで映画俳優をやっていた人物が、である。
イギリスで同じことが起きるとしたら、アメリカ出身の映画俳優がアメリカ大統領になったあとで、本国を軍事制圧した後、選挙を経て首相になるようなものだろうか。
考えるだけでは馬鹿馬鹿しい状況だった。
だが、2・26事件に連動する形で、オーストラリアでは日本復帰運動が高揚し、イギリスはその対応にも膨大な労力を傾けざる得なくなった。前年に再軍備を宣言したナチス・ドイツにも対応しなければならず、日本にかまっている余裕はなかった。
対して、アメリカ合衆国は日本合藩国の再編成に過敏に反応した。
北米大陸で国境を接するアメリカにとって、強大な日本合藩国の復活は容認できないことだった。
再編後の日本合藩国の経済力は、後の研究によるとアメリカ合衆国のGDPが1とすると本国0.3、北米諸藩0.4、呂宋0.2、シベリア0.1として、ほぼアメリカに並ぶ計算だった。人口は1億8,000万人となり、世界第3位の人口大国となる。
アメリカ人が恐怖したのも当然と言えた。
日本のワシントン条約破棄以後、アメリカが急速に海軍軍備拡張を進めていくのはこのためである。
日本も国家の統合という大事件を境にして、民族主義的な世論の高揚があった。
南天大陸や、アラスカ、太平洋の島嶼領土という失地の回復が国家的な目標となり、太平洋の軍事的な緊張を加速させていった。
先の大戦で失った領土と大量の難民発生が戦後本国の政治問題の大半を占めていたことから、失地回復運動はもはや不可避の情勢だった。
なお、失地回復運動が高揚していたのは、日本だけではなく隣の中華民国も同様であった。
満州事変では、圧倒的な軍事的劣勢から衝突回避に動いた蒋介石だったが、事変から6年を経て、ほぼ祖国統一戦争を完成させるに至る。
そうした中華民国による満州を除く中国統一の原動力となったのは、日本の陸軍士官学校で専門教育を受けた国府軍将校団と日独からの豊富な援助武器だった。
日本軍は武器支援の名の下に、各種の新兵器や新戦術の実験を行っていた。
戦術偵察機による写真偵察と急降下爆撃機の近接航空支援は雑多な旧式兵器しか持たない地方軍閥を一蹴するだけの破壊力があった。日本製の訓練用豆戦車も相手がまともな対戦車兵器を持っていないので圧倒的な活躍を見せた。
ドイツはナチス政権成立前後から中国への武器輸出を増やしており、ハンス・フォン・ゼークト上級大将の訪中など、大物軍人を送って対中兵器ビジネスにテコ入れを図っていた。
軍備拡張を進めるドイツは外貨が不足しており、中国の豊富な兵器需要を取り込むために必死だったのである。
また、ゼークト個人も、夫人の浪費癖からチャイナマネーが必要だった。
上海ではゼークト上級大将と日本陸軍の石原莞爾中将が接触するなど、2・26事件以後日独の連携強化が急速に進んでいた
物心共に強力なバックアップを受けた蒋介石はアメリカ合衆国をターゲットにした限定戦争を意図するようになる。
日独の将校団によって鍛え上げられた精鋭部隊を投入し、短期間の限定的な戦闘で勝利し、日本やドイツの仲介で有利な条件で講和するというものである。
蒋介石にそうした軍事的冒険を決意させたのは、日独の強力な支援もあったが、政治的に対外的な成功が必要だったことが大きい。
中華民国による祖国統一戦争はほぼ完成の域に達していたものの、各地の軍閥は表向きは蒋介石に従いながらも、保身のために戦力を温存していた。
これらを解体して中華民国政府に組み込むには、民衆の圧倒的な指示が必要だった。
そして、中国の民衆が求めるのは清朝以来、中華の半植民地化を推し進めてきた外国勢力の排除、特に数が多くて目につくアメリカ人の排除であった。
満州事変以後、アメリカと中国の関係は悪化の一途を辿っていた。
アメリカ企業の華中や北支への経済的な進出は現地で激しい不買運動に遭っていたが、それぐらいならまだいい方で、爆弾テロの類はもはや日常茶飯事だった。
中国軍によるアメリカ人商人への発砲事件など、通常なら軍事的な報復を招きかねない挑発行為が平然と行われた。
こうした挑発に対して、アメリカ政府は抑制的な対応に終始していた。
満州事変前後のアメリカの一方的な行動は、中華市場に関わる全ての国の反発を招き、アメリカ外交を孤立させていた。
孤立回避のために満州事変以後は協調路線に舵を切ったアメリカだったが、中国相手にそれは不味い対応だった。
相手は話せば分かる民主主義国家の政治家ではなく、後進国の独裁者であり、彼に通用するのは力の論理だけだった。
1937年7月の盧溝橋事件と呼ばれることになる中国軍の発砲事件はアメリカ軍との偶発的軍事衝突となった。
さらにアメリカ人居留民数百名が中国軍の非正規部隊によって陵辱、虐殺された通州事件が発生する。
世論はイエロー・ジャーナリズムを中心に軍事報復を訴えたが、アメリカ政府は外交ルートでの抗議や再発防止の申し入れ、事実究明の要請に留まっており、対話による解決を模索した。
これでは協調外交というより、無抵抗というのが正しいだろう。
この段階で適切な軍事的報復が行われていれば、その後の軍事衝突を回避できたと考えられている。
こうした対応は蒋介石にアメリカの弱腰という無用の誤解を与えることになる。
10倍以上の国力差があるアメリカを相手に、限定でも戦争に踏み切るのだから、知恵と勇気以外に誤解は必須要素と言えた。
一連の対応でアメリカが全面戦争に踏み切ることはないと確信した蒋介石は、決して全面戦争にならず、しかも楽に攻略できそうな上海のアメリカ租界をターゲットに限定戦争計画を実行に移す。
1937年8月、上海事変の勃発である。
上海のアメリカ租界を包囲するように国府軍が展開し、租界を守備するアメリカ軍海兵隊への攻撃が始まった。
嫌がらせの銃撃から始まった戦闘は、海兵隊の応戦を経て、国府軍によるアメリカ租界への無差別砲撃と空爆へと発展する。
アメリカ軍の増援が到着する前に租界を守る海兵隊を撃滅し、有利な条件で講和するのが蒋介石の狙いだった。
しかし、僅か3,000名足らずの海兵隊は驚異的な粘りを見せる。或いは、国府軍の精鋭部隊はいかんともしがたい程不甲斐なかった。
多数の民間人を巻き添えにした中国の攻撃にアメリカ世論は我慢の限度に達し、これまで抑制的な反応に終始してきたアメリカ政府もついに大規模な軍事的報復を決意するに至る。
ただし、この段階においても外交的解決を模索するなど、アメリカの対応は後に非難されるような軍事的侵略ではなかった。
むしろ、中国の挑発によく耐えてきたと言えるだろう。
なお、この戦いは戦争ではなく軍事的な事件であるとして、アメリカ政府から宣戦布告は行われなかった。正式な戦争になってしまうと貿易に支障が生じるためだ。
蒋介石も国際法上正式な戦争になってしまうと日本からの兵器輸入が止まってしまうため、正式な戦線布告は行わなかった。
宣戦布告なき戦争、支那事変が拡大するのは、アメリカ軍の大規模な増援が上海に到着する1937年10月からだった。
アメリカ軍の大規模増援を確認した中国軍は租界の包囲を解除し、市街地からゼークトラインと呼ばれる要塞線へアメリカ軍を誘引した。
蒋介石は上海郊外に築かれたゼークトライン要塞線に絶対の自信を持っており、塹壕前にアメリカ軍を引き込んで消耗戦を強いるつもりだった。
だが、この戦いは上海沖に展開した空母レキシントン、サラトガの艦上機によって制空権を確保したアメリカ軍の一方的な勝利に終わる。
ドイツの軍事顧問が1年は持久できると保証した要塞線は僅か2日で突破されてしまった。
第一次世界大戦において、日本軍の縦深陣地を相手に辛酸を嘗め尽くしたアメリカ軍は塹壕戦を研究し尽くしており、塹壕を頼って戦うのは無理があった。
また、軍の練度にも比較にならないほどの差があった。
なにしろこの時、国府軍が相手にしたのはアメリカ軍第1海兵師団であった。
こうした動きをつぶさに観察して戦訓の回収を務めた日本軍は、アメリカ軍の豊富な火力と物量攻勢を再確認すると同時に、上陸戦における空母の重要性を深く認識することになる。
それも小型の軽空母ではなく、レキシントンのような大型の正規空母が絶対に必要という認識だった。
2・26事件以後、ワシントン条約を破棄した日本は海軍拡張を急ピッチで進めていたが、上海事変でのレキシントンの活躍を見て、戦艦よりも空母の建造を優先する方針を固めた。
上海沖合に遊弋して艦載機を放つレキシントンに、中国空軍は手も足も出ず、日本から輸入した僅かばかりの双発爆撃機は艦隊上空に達する前に全機撃墜される有様だった。
頼りの要塞線を抜かれた国府軍は南京に向けて大敗走となる。アメリカ軍の仕事はもはや逃げる中国人の背中に機関銃を連射するだけになっていた。
完敗した蒋介石に、日独は講和を斡旋した。
戦闘が長期化してアメリカ軍が本気になったら、中国に勝ち目などあるわけがないのだ。
アメリカ合衆国も短期間で戦争にケリをつけることを望んでおり、このあたりが一つの落とし所と考えていた。
講和の仲介としては、ドイツのトラウトマン和平工作や日本の吉田和平工作がある。
多くの人々は、戦争はこれで終わりだ考えた。
しかし、蒋介石は和平工作を拒絶した。
それでは自分の権力が保たないからだ。
特にアメリカが要求した満州共和国の国家承認は絶対に呑めない内容だった。
ここで負けを認めて満州共和国を承認したら世論から総スカンを食らって失脚必至である。
蒋介石は保身のために、何らかの目に見える成果がなければ戦争をやめることができなかった。
だが、勝っているアメリカが何かを譲歩する可能性は全くなかった。
抗美全面闘争を叫ぶ蒋介石相手にだらだらとした和平交渉はそのまま数ヶ月続くが、中国軍の大規模動員を見たアメリカ合衆国は和平交渉を時間稼ぎとみなして首都南京への攻撃を開始する。
戦闘拡大はルーズベルト大統領にとっては不本意で、彼はこの決定を後々まで後悔し続けることなる。
だが、アメリカ世論は概ね
「蒋介石をぶっ殺せ!」
で、固まっていたことから戦争拡大はむしろ望むところだった。
殆どのアメリカ人は中国を黄色い猿と見下しており、一度徹底的に痛めつけて力関係を教育してやるべきだと考えていた。
南京にアメリカ軍が接近すると蒋介石は内陸の武漢に遷都して徹底抗戦を発表。
要するに首都を捨てて逃げ出した。
アメリカ軍は蒋介石に見捨てられて無法状態になった南京を占領した。
この南京占領に際して、南京事件と呼ばれることになるアメリカ軍による中国軍捕虜や民間人の大量虐殺事件が発生した。
なお、アメリカ政府は事件への関与も、事件の存在そのものも否定している。
アメリカ政府は、事件当時の南京では軍服を脱いで民間人から服を奪って逃亡を企てた中国軍兵士により民間人殺傷事件が発生しており、民間人虐殺は中国軍の仕業であると主張している。また、捕虜の虐殺は事実誤認で、民間人になりすまして戦うゲリラを戦時国際法にもとづき処分したもので合法であるとしている。
しかし、数十万の民間人を巻き込んだ市街戦に誤射や誤爆が全くなかったとも考えにくく、かなりの数の民間人の巻き添え被害があったことは間違いないだろう。
戦いの舞台は中国内陸部へ移っていくが、華北においても万里の長城を越えてアメリカ軍の進軍を開始。中国軍が一方的に撃破される戦いが続いた。
アメリカ軍が戦線に投入したM2中戦車/M3軽戦車は当時としては非常に堅牢、優秀で、まともな対戦車火器をもたない中国軍を相手にするなら無敵の存在だった。
極稀に日本製の軽戦車や対戦車砲が出現したときは危険だったが、中国軍が持っていた日本製軽戦車や対戦車砲は極少数だった。中国軍は基本、歩兵の軍隊だった。
即席の対戦車兵器、火炎瓶などもなくはなかったが、死角なく大量の機関銃を装備したM2中戦車を相手に歩兵が肉薄攻撃を行うのは恐ろしく困難だった。
華北の戦いでは、対戦車火器のない軍隊は戦車に無力であることがはっきりと示されることになる。
また、アメリカ軍は豊富なトラックで歩兵師団を自動車化して徒歩で後退する中国軍を次々と捕捉殲滅していった。
自動車化(機械化)された軍隊の進軍速度もまた、世界各国の軍事関係者を瞠目させた。
実際、支那事変におけるトラックの働きは目覚ましいものだった。
中国軍を粉砕した火力戦も、迅速な歩兵の進撃も、それを支える膨大な弾薬の消費も、トラックでの輸送体制を整えたアメリカ軍にはどうということはないものだった。
戦闘の大半は、砲兵による遠距離戦でカタがつき、中国軍が安全に行動できるのは航空偵察が止まる夜の間だけだった。
ちなみに、これでもアメリカ軍は今だに平時体制のままで、戦っている兵力はアメリカ軍の総動員力からすると10分1以下であった。
黄河に達したアメリカ軍の進撃はそこで一旦停止するが、南京攻略に併せて徐州に展開する中国軍主力を捕捉殲滅するため、徐州会戦が勃発する。
1938年4月から6月にかけて自動車化されたアメリカ軍20個師団が中国軍に対応する時間を与えない迅速な進撃で徐州を踏破し、中国軍55個師団を包囲した。
中国軍主力の包囲殲滅まであと一歩というところだった。
だが、追い詰められた中国軍はなりふり構わない手段に出る。
黄河の堤防を爆破して、道路を水浸しにして自動車の使用を不可能にすると同時に、洪水でアメリカ軍が混乱した隙をついて脱出に成功したのだ。
この大洪水と水害で多くの民間人に巻き添え被害が出たが、軍主力の壊滅は免れた。
しかし、徐州全域が制圧され、華北から南京に至る中国大陸の3分の1に達する広大な領域がアメリカ軍の占領下に置かれた。
さらにアメリカ軍は蒋介石に降伏を促すために武漢、広東攻略作戦を発動し、約30個師団を投入して、短期間に武漢、広東を制圧している。
だが、それでも、なお戦争は終わらなかった。
敗北を認めれば即座に権力の座から追われることが確定している蒋介石には徹底抗戦の道しか残されていないからだ。
蒋介石は首都を内陸の重慶に移して戦争継続を叫んだ。
その叫びに応えたのが日本だった。
アメリカが中国大陸の泥沼に嵌っていくのを見た日本は、アメリカをさらに疲弊させるために中国軍への支援を拡大したのである。
支援だけではなく、空軍から義勇兵を募って航空戦力を重慶に送り込んだ。
所謂、青兵団である。
最新型の36式戦闘機Ⅲ型「白鷺」を装備した1個戦闘航空団を基幹に、基地防空の高射砲など各種支援部隊を含んだ5,000名規模の義勇兵団だった。
青兵団の任務は重慶の防空である。
アメリカ軍の重慶爆撃阻止は緊急課題だった。
重慶には連日、アメリカ軍のB-18双発爆撃機が中国軍の士気崩壊を狙って無差別爆撃を繰り返しており、蒋介石にとって大きな政治的な失点となっていた。
無差別爆撃は中国人の士気を挫くには至らず、却って中国人の敵愾心を燃え上がらせたが、爆撃機の跳梁を許す蒋介石への批判は加速的に広がっていた。
蒋介石への批判は秘密警察の弾圧によって抑え込まれたが、蒋介石自身の戦争継続の意思をぐらつかせるには十分な打撃になっていた。
ここで中国が講和することになれば、これまで蒋介石に与えてきた支援も全て水疱に帰すため、テコ入れが必要だと判断されたのである。
1938年4月15日には、最初の36式戦闘機が重慶飛行場に着陸した。
36式戦闘機は1936年採用の固定脚、開放風防という1938年当時としてはやや古い形式に入る戦闘機だった。
開発は三菱重工で、初期型は旧式な7.7mm機銃2丁だけの複葉機並の弱武装で、これはすぐに改良が必要なことが分かった。
三度目の大改良を施したⅢ型は700馬力を絞り出す12気筒V型液冷発動機と大威力のモーターカノンを備え、一先ず満足できる性能を持っていることが確認されて大量生産がなされた。
この新型発動機はフランスのイスパノ系液冷発動機をベースに三菱重工が開発したものであり、モーターカノン対応型だった。
なお、白鷺Ⅲ型は発動機換装に際して主翼を再設計し、逆ガル翼とすることで主脚の短縮して空気抵抗を減らすことに成功している。
もともと、試作段階で白鷺は逆ガル翼を採用していたことから、逆ガル翼に戻すことは容易であった。
逆ガル翼の白鷺Ⅲ型は設計者の言によると、
「世界で一番美しい飛行機」
で、この下りは後に設計開発を巡る物語が映画化された際にも用いられる。
モーターカノンには国産の有澤重工製(隅友財閥系)の23mm機関砲を装備していた。
1938年当時に制式採用済の航空機用機関砲としては最大最強の存在だった。
なお、23mmという中途半端な口径を採用しているのは、モーターカノンを通すプロペラ軸の内径に合わせて得られる最大口径を求めた結果である。
23mm機関砲はこの口径の機関砲としてはやや珍しいショートリコイル式を採用し、1938年時点で既にベルト給弾という頭ひとつ抜けた要素を備えていた。
初速700m/sと発射速度毎分550発というスペックは対戦闘機にも、対爆撃機にも使える優秀なもので、日本の銃火器設計能力の高さを見せつけるものであった。
なお、有澤重工の社長は銃器デザイナーとして世界的に著名な人物で、自ら戦闘機を飛ばして機関砲を試射して性能を確かめるなど、現場本位の見本のような男であった。
重慶に展開した白鷺隊は当初機関砲の故障に悩まされたが、社長自らが乗り込んできて戦闘機を飛ばし適切な取扱方法や玉詰まりの回復方法、整備技術を伝授した逸話がある。
そのため、青兵団のパイロット達は23mm機関砲を有澤社長への敬意を込めて、社長砲と呼ぶようになった。
23mm機関砲以外には対戦闘機用としてドイツ製のMG17機関銃(7.92mm)を機首に2丁、プロペラ同調発射式で装備していた。MG17は毎分1,200発に達する発射速度を誇ったが頑丈な米軍機相手には早くも力不足を露呈することになる。
白鷺隊が防空戦闘に参加するようになるとアメリカ軍爆撃機部隊は大損害を出して、1ヶ月程度で爆撃作戦が中止に追い込まれた。
アメリカ軍爆撃機の主力は全金属製の近代的なB-18双発爆撃機だったが、23mm機関砲は5、6発の命中弾でB-18を撃墜することができた。
B-18は価格以外は同時期開発のB-17に勝るところが何もないという微妙な機材であり、アメリカ軍は大損害に驚いてB-17の開発と戦線投入を急ぐことになる。
アメリカ軍は航続距離の関係から爆撃機に護衛戦闘機をつけることができず、出撃のたびに10%近い損害を受けた。
これは10回出撃すれば部隊が全滅する数字であり、とても許容できる損害ではなかった。
アメリカ軍は対策として昼間爆撃に代わって夜間爆撃で一定の戦果を挙げたが、航法の未熟さから爆撃の精度は格段に低下した。
青兵団の活躍に気をよくした蒋介石は、青では勇ましさが足りないとして青兵団を剣兵団と名を改めることを提案し、受け入れられた。
青剣兵団の誕生である。
これがアメリカの報道機関に伝わって、日本の義勇航空兵団はブルーセイバーと呼ばれることになった。
後にこれが日本に逆輸入され、青セイバーと呼ばれることになるのだが、これは本筋とは関係ない話である。
なお、日本の供与した航空戦力は、戦闘隊以外に爆撃機部隊である赤兵団、輸送機部隊である白兵団、高射砲部隊である桜兵団があり、それぞれ赤剣兵団、白剣兵団、桜剣兵団となって、赤セイバー、白セイバー、桜セイバー・・・そろそろ止めておく。
日本空軍の義勇航空兵団が展開するようになるとアメリカ軍の航空作戦は思うようにいかなくなり、地上戦も航空支援が得られないので進撃が停滞した。
航空写真を撮る戦術偵察機や地上攻撃機による航空支援なしの攻勢作戦など、豊富な砲兵火力を持つアメリカ陸軍においてさえありえないものだった。
日本軍の義勇航空部隊の活躍も大きかったが、モンゴルに多数開設された日中合同の練習航空隊が本格稼働するようになり、中国空軍の再建は著しかった。
アメリカ軍が絶対に手を出せない聖域であるモンゴル領内に開設された航空基地群で、日本からの機材供給を基に再建された中国空軍はやがてアメリカ軍航空部隊と互角の戦いができるようになっていった。
パイロットの練度こそアメリカ軍には劣るものの、機材の性能では互角。物量には劣るが、アメリカ軍の爆撃が及ばないモンゴルという聖域を活用することで、地上撃破されることは殆どなかった。
アメリカ軍は航空撃滅戦で中国空軍基地を爆撃してまわったが、中国空軍は作戦が終了するとモンゴル基地へ撤収してしまうため、地上で捕捉撃滅することはできなかった。
そうなると空中戦での撃破しかなくなるが、それは著しく戦闘効率が悪い戦い方だった。
航空戦力とは地上撃破するのが最も効率的なのである。
現地のアメリカ軍はいきり立ってモンゴル領内への越境作戦を主張したが、既に広大な占領地を抱えているアメリカ軍にとってこれ以上の戦線拡大は不可能だった。
軍事的には可能でも、占領統治ができなかった。
中国軍はまともに戦っても勝てないため、まともに戦うことを放棄して後方でのゲリラ戦やアメリカ軍占領地でのテロでアメリカ軍に対抗した。
また、アメリカ軍の戦争目的は中国を征服することではなく、満州利権の防衛だった。
既に現状でさえ、当初の戦争目的を完全に逸脱している状況だった。
後方の治安維持のために必要な兵力が足りずに、満州共和国軍や朝鮮王国軍まで動員されている始末だった。
なお、朝鮮王国軍の治安維持作戦は過酷という言葉の一言しかないもので、民間人からはアメリカ軍よりも朝鮮王国軍の方が恐れられた。
中国人達は朝鮮王国軍が来たら若い娘達を納屋に隠したが、村ごと焼き払われる場合があり、その場合は泣く泣く娘達を差し出した。
1939年初頭には、アメリカ軍の中国大陸への派遣兵力は54万に達する。動員された朝鮮王国、満州共和国の兵士を含めれば100万人に達する大兵力だった。
普通の国なら国家総動員体制だろうが、アメリカ合衆国は恐るべきことに平時の体制の延長でこの戦争を戦っていた。
だが、さすがに巨額の戦費負担は議会で問題になった。一部の政治家は戦争が完全に泥沼化したことに恐怖していた。
ただし、殆どのアメリカ人はこの戦争を熱烈に支持していた。
特に、アメリカの経済界は戦争特需で沸き返っていた。
経済界の重鎮達は熱心な戦争支持者で、先の大戦における過剰投資を漸く回収できるチャンスが到来し、まだまだ戦争が続いてくれないと困ると考えていた。
戦争特需によって世界大恐慌の不景気から完全に立ち直った経済に後押しされる形で、国民の戦争支持も力強いものがあった。旺盛な軍需に支えられ、街角から失業者は一掃された。
また、戦争が泥沼化しても本土の市民達はどこか楽観的な見通しを持っていた。
ついこの間まで、中世の王朝国家だった国に世界最大最強の経済大国が負けるはずないというのが常識というものだった。
しかし、現場の士気低下は著しかった。
終わりが見えない戦いに兵士たちは疲れはじめていた。
戦争に勝っているはずなのに、中国大陸でアメリカの支配が及ぶのは軍が厳重に固めた都市部と幹線道路と鉄道沿線だけだった。
簡単に勝てると思って始まった戦争だけに、思うようにいかないときの落差は大きかった。
不意をついて襲い掛かってくるゲリラ相手の戦いは緊張の連続であり、いつどこで襲われるか分からない恐怖が阿片のようにアメリカ軍兵士を蝕んでいた。
安全地帯に指定された都市部においても、爆弾テロや銃撃テロは皆無というわけではなかった。何時どこでおきてもおかしくないことだった。
近寄ってくる民間人は全て敵だと思わなくてはいけなかった。
アメリカ兵を歓待した村が、兵士の寝静まった夜更けに一斉にゲリラに化けて襲い掛かってきた例もあった。
中国人ゲリラに掴まったアメリカ兵は残虐な方法で処刑されるのが常で、捕虜になることは死より恐ろしいことであった。
アメリカ軍もゲリラを捕虜にすることはなく、現場の判断、或いは現場の報復感情のままに”処分”を実施するのはもはや日常茶飯事だった。
ゲリラの疑いがある村を砲爆撃で焼き払って、村人を戦略村に連行することが、アメリカ軍の治安維持作戦だった。
中国軍がもっぱらゲリラ戦とテロでアメリカ軍に対抗したことから、民間人を巻き添えにした戦いはもはや中国戦線の日常だった。
兵士の合言葉は、
「捕虜になるな、捕虜をとるな」
であった。
アメリカ軍が中国大陸で培った恐怖の戦争文化は、第二次世界大戦において捕虜虐殺などの戦争犯罪の温床となって、アメリカ軍の悪夢となる。
それほどまでに中国大陸で戦ったアメリカ軍兵士は精神的に追い詰められていた。
アメリカ軍で麻薬汚染が深刻化するのは当然であり、現地で阿片が蔓延してこともあって阿片や大麻の吸引が公然と行われるようになっていった。
広大な中国大陸に散らばった50万を超える軍隊の綱紀粛正は容易なものではなく、さらに綱紀粛正を担う憲兵そのものが軍の拡大に追いついていなかった。
アメリカ軍兵士の慰めは、休暇をもらって大連の巨大な歓楽街に繰り出して阿片と女を買うことだった。
支那事変における満州はアメリカ軍の強大な後方支援基地として機能しており、満州王国時代から続く巨額の投資によってこの頃には列強国の末席に並ぶ程度の工業化を果たしていた。
特に軍需により重工業の発展は著しかった。
北米大陸からの地球を半周して軍需物資を運ぶよりも、満州で生産した方が遥かに安くつくことは子供にでも分かる話だった。
特に巨額の戦費負担が議会で問題になりつつあったから、経費削減はアメリカ軍首脳部にとって喫緊の課題なのである。
満州がアメリカ軍の兵器廠になるのは当然の成り行きだった。
満州の産業が支那事変で果たした役割は多岐に渡り、アメリカ軍兵士が朝食に食べるトウモロコシパンも、全て満州産のトウモロコシで作られていたほどだ。
なお、そうしたトウモロコシは、現地人を追い出して作られた広大なファームで、フォード製農業用トラクターを使った大規模近代企業経営式の農業によって生産されていた。
アメリカ本国にもないような近代的な軍需工場は24時間操業で絶え間なく武器弾薬を生産し、大連のフォード自動車工場製トラックに乗せられて前線に運ばれていった。
奉天のGMトラクター工場では、破損した戦車の修復のみならず、満州国製アメリカ軍戦車のライセンス生産さえ行われていた。
その兵器生産に必要な素材を供給しているのが、日本の産業界というは巨大な皮肉という他なかった。
2・26事件以前の日本経済は混乱と衰退の中にあったが、支那事変勃発後は反転して好景気に湧いていた。
日本勢力圏の政治的再編成という環境の変化もあったが、支那事変の特需がなければ日本の景気浮揚は不可能だっただろう。
中国は、日本の満州貿易の実態を掴んでいたが、日本製の武器がなければ戦争を継続することが不可能だったため口をつぐむしかなかった。
支那事変を巡る日本の血まみれの繁栄は、1939年後半まで続くが徐々に日米関係にきな臭い暗雲が漂うようになっていく。
中国軍のしぶとい抵抗の原動力はシベリア・モンゴル経由で行われる膨大な日本から援助物資によるものであることは明らかだった。
アメリカ合衆国が望むとおりにこの戦争を勝利で終わらせるためには、日本の対中援助を遮断することが絶対に必要だった。
だが、中国との戦争に勝つために日本相手に全面戦争を行うなど愚行以外何ものでもなかった。その程度のことはアメリカ政府もわきまえていた。
日本との全面戦争とは、北米大陸での大規模地上戦を意味している。既に大陸での泥沼に嵌ったアメリカ軍に、北米大陸での地上戦など悪夢以外の何ものでもなかった。
それ故に、外交圧力を、次に経済圧力、さらに圧倒的な軍備計画で日本を圧迫することで、対中支援から日本が手を引くように仕向けるしかなかった。
もちろん、最悪の事態に備えるという保険の意味もある。
中国大陸で戦いつつ、野放図なまでに巨大な海軍拡張計画がアメリカで立案されるのはこのためである。
日本もまたアメリカ海軍の大拡張に対抗する新八八艦隊構想を発表してこれに応えた。
太平洋の軍事的な緊張は徐々に煮え詰まっていったが、それ以上にヨーロッパが煮えていた。
1939年9月、ドイツがポーランドへ侵攻。
第二次世界大戦が始まった。




