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2・26事件



2・26事件


 1920年台を通じて、日本合藩国は経済不況にあった。

 戦後不況、震災不況から脱出が見えた20年代末には、悪夢の世界大恐慌がおきて再び不況というよりは経済危機に陥る。

 20年台の日本をロスト・ジェネレーション。失われた10年と称することもあるが、その終わりが見えたかと思った瞬間に、世界大恐慌が起きたのだ。


「希望の底が割れ、地獄が溢れ出た」


 などという歴史家の言葉も、当時の政治混乱と深刻な経済停滞を知る人々からするとまだ生ぬるいという声が聞こえて来るほどだ。

 世界大恐慌の原因についてはここでは述べないが、恐慌の本質は実態のない経済の過大評価が一気に現実レベルに縮小された時に生じた落差、巨大な信用不安と言える。

 要するに先行きが何も信じられないので、経済が萎縮して経済的な連鎖に全てが止まってしまった状況である。

 世界大恐慌当初において、本国と北米諸藩の間に対応の差は殆どなかった。

 どちらも経済の古典的な自由主義経済を採用しており、市場は神の見えざる手で回復すると考えられていた。

 行われたのは失業者への救済事業といった対処療法的なもので、信用不安の解消にはならず、消費刺激策も僅かな減税に止められた。

 震源地であるアメリカ合衆国に近い北米諸藩が大打撃を受けたのは当然としても、本国も等しく大打撃を受けたのは、本国経済が満州貿易という外需頼みだったからだろう。

 1920年代、満州王国はアメリカ合衆国の資本投下地だった。

 ワシントン講和条約で日本から満州王国に関する一切の利権を得たアメリカ合衆国は、有頂天になって膨大な投資を行った。

 遠い海の向こうにある未開拓の土地と市場、最期のフロンティアとして満州はこの上なく魅力的な投資先と思われたのだ。

 そうした莫大な投資を受けて満州王国は大発展を遂げることになる。

 経済発展にはヒト・カネ・モノが必要だが、残りの二つの要素を東海岸からパナマ経由で送るよりも近場で調達するほうがずっと安上がりなのは子供でも分かる道理だった。

 モノ(産業設備)は日本本国に発注された。20年代末の本国経済の回復は外需に依存することになったのはこのためである。

 嘗ての敵国からの膨大な発注により漸く日本経済は浮揚した。

 アメリカは満州を市場のみならずアジアにおける生産拠点と見なしており、満州に建設されたフォードのトラクター工場やGMのトラック工場は中国本土やロシアへの輸出も考えた大陸サイズの巨大工場だった。

 そうした工場に据え付ける工作機械は日本で生産されたものだった。

 建設用の建材調達だけで数十億両の発注であり、工場が稼働すればそのために必要なマテリアルを供給するのもやはり日本の産業界だった。

 満州経済を動かすモノを供給したのは日本経済であり、満州経済の発展に連動して日本経済の成長も達成されたのである。

 なお、ヒトは国家崩壊で絶賛群雄割拠中の中国から膨大な漢民族の難民が満州王国にあふれてきていたので、遠慮なく彼らを使い捨てにすることで賄われた。

 こうした状況は当時の東アジアではよく見られたことで、シベリア開発なども膨大な中国人の犠牲の上になりたっていた。

 日本や満州、シベリアの橋やトンネル、鉱山などの片隅にもれなく中国語の慰霊碑が建っているのはその為である。

 だが、これらの満州投資ブームは明らかに過大な需要見積もりに基いて行われていた。

 要するにバブルだった。

 過大な需要の見積もりというよりも、そもそも最初から正確な見積もりがなかった。

 満州王国は正確な経済統計など全くない国だったのである。

 信用できるのは人脈だけであり、満州王国政府の公式発表などは参考資料以下の意味しかなかった。

 だが、アメリカ人はそんなことを全く知らなかったし、信じなかった。

 それでどうしてまともな国家運営ができるのか、全くありえないことのように思われたからである。何かの間違いだろうと思われ、誰も本気にしなかった。

 たしかに、普通に考えたら何かの間違いとしか思えない話である。

 典型的な正常バイアスと言えた。

 そもそも満州王国は日本の傀儡であり、まとも国家運営など行われていなかったことをアメリカ人は気付いていなかった。

 国家運営に準ずることは、日本が経営する満州鉄道株式会社によって行われていたのだ。

 所謂、満鉄である。

 満鉄も講和条約でアメリカに譲渡されることになったが、満鉄調査部に秘蔵された正確な国家統計資料は日本に持ち去られ、業務の引き継ぎは極めて杜撰なものだった。

 だが、満州王国をアメリカ色に塗りなおすつもりだったアメリカにとってはどうでもいいことだったのかもしれない。

 アメリカ人は一から新しい国家なり、市場なりを満州の地に打ち立てるつもりだったし、そこに必要なのは白紙のキャンバスであって、現地の正確な状況など興味がなかったといえるだろう。

 それでも、膨大な額の金が動いたことから、全ては上手い方向へ転がった。

 金の力は偉大である。

 金さえあれば、大抵のことはなんとかなった。拝金主義ということなかれ、人が生きるにはお金が必要なのである。

 問題は金がなくなったときどうするかだった。

 1929年の世界大恐慌は、虚像の上に成り立っていた満州経済を木っ端微塵に粉砕し、膨大な不良債権の山が築かれたのだった。

 こうした不良債権の一つに、鬼城というものがある。

 最初から人が住むためではなく、不動産投機のためだけに作られた巨大なアパトーメントのことである。居住環境を全く無視した荒野に作られることが多く、住む人が一人もいないことから幽霊の住むの場所として、鬼城とあだ名された。

 21世紀現在でも、奉天郊外には一度も人が住むことなく破棄された巨大な鬼城の群れが残っていて、当時の不動産投機の狂乱ぶりを現在に伝えている。

 アメリカは大慌てで満州からの資金引き上げと正確な経済調査を始めたが、全ては後手に回った。

 彼らの回収できた金はほんの僅かで、殆どの債権は回収不能だった。

 満州へ投資していた銀行や証券会社は死ぬしかなった。

 爆発した満州経済に連動して、満州輸出で経済を回していた日本も引火誘爆した。

 失業率は、政界大恐慌が起きた1929年には25%に達している。

 若年労働者の失業率に限れば32%である。

 これほどまでに失業率が高まった背景としては、幕府の無策もあるが根本的なところでは難民の大量受入がある。

 先の大戦の結果、連合国に割譲された領土から大量の難民が発生し、政治的な理由からそれを拒むことができない本国が受け入れたため、本国人口が急増していた。

 人口急増に対して雇用の伸びは常に下回っており、慢性的な高失業率状態だったところに、世界大恐慌が押し寄せたのだった。

 高止まりする若年失業率は、過激な政治運動を呼び込むことになる。

 金はないが暇だけは腐るほどある若者が、鬱屈した感情のはけ口に選んだのは過激な排外主義を唱える極右運動だった。

 極右勢力の伸長に反応して、極左勢力も拡大の一途を辿る。

 左翼勢力の伸長は世界的なものであり、その震源地はロシアの大地を二分するソビエト連邦だった。

 重工業化を柱とする計画経済を進めるソビエト連邦は、世界大恐慌による経済混乱と無縁の著しい発展を見せており、それを見た人々に資本主義社会の限界を予想させた。

 実際にはソビエトの計画経済は錯誤の連続で順調に見えた発展の殆どは虚像やプロパガンダに過ぎなかったのだが、多くの知識人やインテリは無邪気に共産主義の明るい未来を信じた。

 共産主義者が叫ぶ労働者の団結や平等という価値観はこの時期の日本社会に強い求心力を持っていた。特に難民達には覿面な効果があった。

 日本本国は発展の極みに達しており、逆にいえば決まりきった秩序の定まった社会であり、富や社会階層の流動性に乏しかった。

 今だに士族や華族といった身分制度が残っており、社会階層は見えない壁によって区分されていて、難民達は固定化された社会階層の一番下に押し込まれていた。

 そして、不況の波が押し寄せれば真っ先に解雇されたのである。

 本国民も不況が深化すると解雇されたが、それは難民たちより常に後のことだった。

 抑圧された二流の社会生活を強要された難民たちが左翼思想に共鳴したのは必然といえる。

 そして、難民の左翼運動が先鋭化すればするほど、難民排斥を唱える極右運動が高揚するのもまた必然だったのである。

 富裕層と本国民の若年失業者を取り込んだ極右勢力と難民や下層労働者が支持する極左勢力の対立は世界大恐慌後の経済危機を餌に拡大し、激化した。

 平日の日中からデモ行進が起きて、対抗デモと市街地で衝突する程度ならかわいいもので、お互いの政治指導者へのテロや暗殺が横行し、報復の連鎖を呼び込んだ。

 左右のテロ攻撃は幕府も標的となり、1925年11月に大君原敬が狙撃されて死去する。

 敗戦の混乱と震災から立て直しを指揮してきた平民大君の死は極度の社会不安を齎した。

 同じ年に、ドイツでは敗戦後の国家再建を指揮してきたフリードリヒ・エーベルトが心労から死去しており、ドイツと日本の戦後社会は同時に曲がり角を迎えることになった。

 また、政威大将軍が2代続けて不慮の死を遂げたことは将軍の権威失墜に拍車をかけた。

 その後も短命将軍が続いた。

 1926年の選挙では、加藤高明が選出されたが僅か1年で肺炎により死去。翌年、1927年の選挙では若槻禮次郎が選出されたが、僅か2年で世界大恐慌の対応に失敗し、予算案通過と引き換えに職を辞すことになった。1931年の選挙では田中義一が選出されたが、直後に勃発した満州事変の対応で後手に回り、国民からの批判が殺到してやはり1年足らずで職を辞すことになった。

 短命将軍が続いたことで、政威大将軍の権威崩壊に歯止めがかからない状況となる。

 40年も政威大将軍として日本に君臨した徳川慶喜の時代なら考えられないことだった。

 本来、政威大将軍は議会に対して拒否権をもつなど、実質的に独裁者として振る舞うことができる力があった。

 しかし、議会制民主主義の発展により実際の政治的重心は議会に移っており、将軍の強権発動は戦時や国家の非常事態に限ることが暗黙の了解となっていたのである。

 とくに予算案については、議会の専権事項という意識が強く、将軍といえども予算の通過は議会の承認がなければ不可能だった。

 だが、その議会も徐々に機能不全に陥っていった。

 極右勢力はイタリアのファシズム運動に感化され大同団結を図って日本国家社会主義労働党を結成し、議会に大きな議席を確保すると、極左勢力も日本共産党が議席を伸ばして、左右の対立は議会にも及んだ。

 法案の審議はおざなりとなり、右派と左派の罵り合いとスキャンダルの暴露合戦が優先され、政治の停滞をますます不況を深化させたのだが、戦いは終わらなかった。

 左派も右派も政治混乱こそお互いの勢力拡大の養分だったからである。

 どちらも社会を極限まで追い込むことで革命が起きることを確信しており、その革命を制するものがその後の日本を制すると考えていた。

 要するに国民そっちのけで政争に明け暮れたのだ。

 左派はドイツ革命やロシア革命のような日本革命が起きることを望み、右派は1922年のイタリアのローマ進軍をお手本に考えて行動していた。

 後々のムッソリーニの凋落を知っていると意外なことかもしれないが、世界中の極右勢力にとってムッソリーニは一時期、輝ける黄金の鉄の塊のような男だった。

 ムッソリーニにあやかって、ムッソリーニ鉛筆やムッソリーニペン、ムッソリーニ万年筆、ムッソリーニ貯金箱、ムッソリーニ石鹸、ムッソリーニラジオなど、もはやムッソリーニと何の関係ないものまでムッソリーニ化するほどムッソリーニの人気は凄まじいものだった。

 1931年の満州事変によって、日本社会の病理的騒乱は頂点に達する。

 アメリカの一方的な現状は変更は本国社会を激昂させ、現状変更を求める声は社会の大勢を占めるに至る。

 先鋭化した左翼は火炎瓶闘争を開始し、右翼の狙撃闘争でこれに応えた。

 街角はもはや戦場であり、江戸では爆弾テロが日常茶飯事だった。

 著しい治安の悪化に対して革命を恐れる幕府は首都圏警察予備隊の増強で対応した。

 幕府にとって、既存の秩序を破壊するものは全て敵だった。

 これは社会的既得権益階層の共通の思考であり、ファシズムも共産主義も、どちらも危険思想に変わりはなかった。

 ドイツにおいては、こうした既得権益者は左翼運動から身を守るために極右勢力に接近し、結果としてナチスの台頭を招いた。

 イタリアにおいても共産主義革命による王政転覆を恐れた国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がムッソリーニに組閣を命じている。

 対して、幕府は左右のどちらの過激思想にも傾倒しなかった。

 ドイツやイタリアでは、極右勢力は既存の政治勢力や保守派に接近して権力を奪取したが、日本の極右勢力は既存の政治勢力から距離を置かれていた。

 何しろ、日本の極右勢力の思想的背景は水戸学に基づく尊王主義であったから、佐幕派を掲げる保守派との相性は最悪であった。

 王政復古と天皇の名の下に国家社会主義的な新秩序を叫ぶ日本の極右翼勢力は海外のファシズム勢力からもかなり特異な存在と見られていた。

 特異性といえば、天皇制の名の下に共産主義的な平等社会建設を唱える日本の極左勢力も恐ろしく奇妙な存在だったと言えるだろう。

 リアリズムの塊のようなスターリンからも、解決不能な思想的なパラドックスを指摘され、日本共産党はインターナショナルへの参加を認められなかったほどだ。

 近代日本において、いつの時代でも過激思想の根本に天皇の存在があることは、日本の思想史における重要な研究テーマである。

 話が逸れたが、治安騒擾を企む組織に対して、首都警は実力行使でこれを鎮圧していった。

 首都警の実力行使は凄まじいもので、戦車隊を含む火力戦で過激派組織を根絶やしにしていった。

 一般市民を巻き添えすることを厭わず市街地に重火器を持ち込んだ彼らは誤射や誤認逮捕も日常茶飯事で、冤罪事件が大量に発生した。

 過剰警備という非難が世論に巻き起こるのは当然と言えるだろう。

 首都警の攻撃により大打撃を受けた左右の過激派は議会から首都警の過剰警備を攻撃し、その解散を目論んだ。

 この点については、左右の思惑は完全に一致しており、首都警の強権弾圧の巻き添えになった多数の一般市民も加わって、世論の大勢は決する。

 首都警解散が決定されたのは、1936年1月24日のことだった。



 


 こうした一連の本国の病理的な騒乱を不安な面持ちで眺めていたのが北米諸藩だった。

 北米諸藩も、世界大恐慌の爆心地に近いこともあり深刻な不況を経験したが、本国に見られたような左右の政治対立とは無縁でいられた。

 本国と異なり、1920年台を概ね好景気の中で送ることができた北米は、世界大恐慌の中にあっても、幾ばくかの余裕があったからである。

 難民問題も、もともと移民の国である北米諸藩にとっては新たな労働力獲得のチャンスであり、むしろ日本語が話せる難民は歓迎された。

 また、世界大恐慌からいち早く立ち直ることにも成功している。

 所謂、加州の奇跡である。

 経済恐慌からのV字回復となる奇跡の立役者となった加州藩主の名は木下英頼といった。

 映画のヒーローは政治の世界でもヒーローになったのである。

 木下英頼の政界進出のきっかけは、度々出演していたラジオ演劇がきかっけだった。

 雄弁な弁舌の持ち主だった英頼は、演劇以外のラジオ番組にも度々出演するようになり、ラジオニュースの主要なコメンテーターも務めるようになった。

 コメンテーターとしての英頼は、公平中立な立場から鋭い評論を行って、その評論は政界にも影響を及ぼすほどになる。

 やがて加州政界重鎮へのインタビューを通じて政界とのつながりを得た英頼は1931年の加州藩主選挙に立候補することになる。

 折しも世界大恐慌によって加州経済は最悪の状況にあった。

 知名度は抜群だったが、政治経験のない英頼の立候補は、当初から猛烈な逆風に遭う。


「映画と現実の政治を混同しているドンキホーテ」


 などと揶揄された。

 対立候補はいずれも政治経験豊富なベテランの議員出身者だった。

 確かに英頼の政治経験の履歴書は真っ白である。

 しかし、空前の大不況下において、政治経験がないことは逆に有利に作用した。

 ベテラン政治家達が有効な経済対策を打ち出せない状況に苛立っていた多くの有権者は変革を求めて、ズブの素人である英頼を支持したのである。

 むしろ経験のなさを攻撃すれば攻撃するほど英頼の支持は増えていった。

 また、他の候補者は全くラジオを有効活用できなかったのに対して、英頼はラジオという新しいメディアを最大限に活用した。

 映画やラジオ演劇で鍛えあげられた英頼の弁舌力は、ラジオを通じて人々の心を掴んだのである。

 遅まきながらもラジオの威力に気がついた他の候補がラジオに向かって濁声を張り上げたが、これは全く相手にされなかった。

 議会やビアホールの演説界で聴衆に向かって話すのと、ラジオのマイクに向かって話すのとでは全く異なるスキルが必要だった。

 結果、1931年の加州藩主選挙は英頼の圧勝で終わったのである。

 加州藩は列藩同盟の議長となる慣例があり、加州藩主になるということは、すなわち列藩同盟の盟主となることだった。

 しかし、英頼が全くの政治の素人であることは明らかであり、不況対策は英頼にスカウトされた高橋是清という老政治家の手に委ねられた。

 高橋は本国から北米に渡った移民で、少年時代に悪質な移民業者の手で奴隷農場に送られたという凄まじい経歴の持ち主である。

 奴隷労働をしながら苦労して金と学識を蓄えて出世し、経済的に成功すると坂本財閥の後援を得て政界に進出した。

 経済感覚に富み、数時に強い政治家として、これまでも何度も勘定奉行職を引き受けてきた大物政治家だった。

 実際のところ、経済不況脱出の実務を担ったのは高橋是清であり、英頼の功績ではないという意見は根強い。

 加州藩勘定奉行職に就いた高橋是清の名を取って高橋財政を呼ばれる積極財政策によって、加州は世界のどの国よりも早く経済恐慌から脱出に成功した。

 高橋の経済対策は現在ではケインズ政策と呼ばれるものである。

 膨大な赤字建設藩債を発行してインフラ建設を通じて有効需要を喚起するともに、


「一隻の船(銀行)も沈めさせない」


 と議会で演説し、信用不安に陥った銀行への公的資金の貸付を行って救済している。

 公的資金貸付の対象は銀行のみならず民間企業に及び、新興財閥の鈴木商店も公的資金で救済された。

 民間企業や銀行への公的資金注入など前代未聞であり、古典的な自由経済主義者からは狂気の沙汰だと非難が殺到した。

 しかし、銀行の連鎖倒産がおきた日本本国やアメリカ合衆国が深刻なダメージを負ったのに対して列藩同盟は速やかにつなぎ融資を受けて多くの企業が救済されている。

 どちらが正しかったのかは明らかであろう。

 インフラ投資の中心は、モータリゼーションに対応した10万km高速道路建設計画で、1年に1万kmずつ無料の高速規格道路をつくった。

 この建設に関わる関連企業の雇用だけで全国の失業率を3%低下させたという巨大プロジェクトだった。

 道路以外にも電気ガス水道などの都市生活インフラの全面的な刷新や全国的な電話通信網の整備、鉄道の電化推進など多くの公共事業に予算がついた。

 1934年には失業率が恐慌前の水準に戻り、3%のプラス成長となった。

 こうして加州の奇跡を演出した高橋だったが、1935年には罷免され、政権を去ることになる。

 経済が最悪の状況を脱して回復基調となったことから、高橋は出口戦略を模索し、赤字国債圧縮のために緊縮財政を主張したためである。

 財政再建は時期尚早として歳出の現状維持を求める英頼と高橋は激論となった。

 北米諸藩は膨大な公共事業により巨額の赤字藩債を積み上げており、財政規律の観点から猛烈な批判を集まっていた。

 藩債返済のための歳出削減、さらに増税を主張する高橋に対して、英頼は未だ経済は回復には程遠いとして歳出維持を求めた。

 老練な高橋は、英頼をなんとか説得しようとしたが、英頼の強硬な態度に説得を諦め、1935年予算の編成を最後の奉公として政界を去ることになる。

 この場合は、英頼の判断が正しかったと言える。

 この2年後、アメリカ合衆国は高橋と同じ判断で景気回復は完了したとして政府債務返済のために緊縮財政に切り替えた途端、猛烈なデフレ不況を招いている。

 所謂、ルーズベルト恐慌である。

 大恐慌により膨大な債務が降り積もっている民間支出は債務返済に可処分所得を充てており、消費マインドは冷え切ったままだったのである。

 この状況で、政府支出を絞ると消費が止まってしまい、不況に逆戻りとなる。

 焦ったフランクリン・ルーズベルト大統領は、政府支出の増大(軍拡)でこれを切り抜けようとするのだが、それは別の機会の述べる。

 本国が政情不安と経済危機の中で、革命前夜のごとき惨状を呈していたとき、北米列藩同盟の国内情勢は全く安定していた。

 むしろ、


故国ホームはどうしてしまったのか?」


 と心配する声が多数だった。

 つまり、人様を心配していられるほどの余裕があったのである。

 そして、その余裕こそが2・26事件が起きたとき、北米列藩同盟の去就を決めることになる。




 2.26事件は、概ね2段階に分かれて論じられる。

 一つは解散命令に反発した首都圏警察予備軍の武装蜂起である。

 この武装蜂起が起きた日が、1936年2月26日であったことから、それに続く日本の政治的な再編成は2.26事件として記録されることになる。

 首都警の武装蜂起そのものは、軍事クーデタとしてはほぼ完璧なものだった。

 なにしろ、軍部のクーデタに対抗して作られた武装警察組織がクーデタを起こしたしたのである。

 完璧でないはずがなかった。

 先の大戦末期のクーデタで、その鎮圧に活躍した旗本衆と海兵隊司令部は真っ先に制圧されるか、先制攻撃によって壊滅させられた。

 クーデタで一度に制圧されないように関東全域に分散した官庁街だったが、その守備を担当する首都警の力は関東全域に及んでおり、こちらも呆気なく占領されている。

 横須賀の海軍奉行所、習志野の陸軍奉行所、厚木の空軍奉行所は完全包囲され、厚木の空軍奉行所は防御が間に合わず首都警に制圧された。

 主要な上院・下院議員は逮捕され、政威大将軍の犬飼毅も軟禁された。

 首都警を解散に追い込んだ日本国家社会主義労働党や日本共産党は党本部への重火器を投入した殲滅戦の対象となり、主要な幹部は即決裁判で粛清された。

 

「最初からこうしておけばよかったんだ」


 クーデタの首謀者北原一輝はそう嘯いたとされる。

 軟禁状態の犬飼の名で戒厳令が布告され、憲法が停止された。

 実際、この時点では犬飼は一切の書類にサインすることを拒み、抵抗を続けていたので戒厳令は首都警の偽の命令によるものだった。


「話せば分かる」

 

 というのは犬飼の有名な文句だが、犬飼は軟禁中もずっと首都警の与力達に語りかけ続け、寝ている時と食事をしている時以外はずっと話していたという逸話がある。

 この男を黙らせるには殺すしかないのではないかと思われたが、将軍殺しは首都警と言えども忌避感が強く最後の手段とされた。 

 将軍の大権を騙って臨時救国政府の設置を宣言した首都警幹部達は、包囲下にあって抵抗を続ける日本陸海軍との和解交渉を開始する。

 あとは陸海軍の支持をとりつければ、クーデタは完了だった。

 この時点で既に首都警は次期政権の人選を終えており、新政権の発足まで秒読み段階までこぎつけていた。

 実際のところクーデタはほぼ99%達成されていたと言える。

 しかし、軍部との交渉は思い通りには進まなかった。

 ワシントン条約の破棄や軍備拡張などを飴玉に新政権への協力を取り付けようとした臨時救国政府の提案を陸海軍は断固として拒否したのである。

 特に海軍は絶対拒否を貫き、交渉することさえ拒んだ。


「海軍軍人は二度と謀反を起こさぬ!」


 と叫んで交渉に来た首都警の上級与力を切り捨てた米内光政海軍大将が有名だろう。

 しかし、政威大将軍が軟禁状態であることから、陸海軍は身動きがとれなかった。

 統帥権が明確に政威大将軍に属すると規定する憲法に従うかぎり、陸海軍はその命令がないかぎり、出動することは不可能だった。

 将軍の身柄を抑えたのはその為であったし、むしろ首都警は陸海軍の超法規的行動を期待してた節がある。

 武力衝突となれば、崩し的に幕府と憲法を無力化できるからだ。

 市街戦となったとしても、これまで市街地で過激派相手に戦闘経験を詰んできた首都警には勝利する自信があった。

 首都警は勝ったあとで改めて交渉すればいいと考えていた節がある。

 市街戦で多数の市民を巻き込むことも、彼らは勝てば許容されると考えていたほどだ。

 首都警単独での政権奪取では権力掌握後のカウンタークーデタの恐れがあったことから、首都警は何としてでも陸海軍を抱き込むか、挑発して武力衝突を引き出したかった。

 しかし、交渉は最初から決裂し、陸海軍は挑発に乗らなかった。

 業を煮やした首都警は奉行所への電気ガス水道の供給を止め、包囲網を強化して兵糧攻めを開始する。

 季節外れの雪が降る中で、飢えと寒さに震えながら陸海軍奉行所は抵抗を続けた。

 だが、対陣の長期化は別の問題を孕んでいた。

 首都としての江戸は機能を停止させており、交通封鎖によって流通が死んでいるため、クーデタ勃発から1週間程度で江戸市中から食料がなくなったのだ。

 即座に暴動とならなかったのは先の市街戦と関東大震災で懲りた幕府が膨大な量の食料を備蓄し、民間レベルでも食料備蓄を奨励していたためである。

 だが、このまま対陣が長引けば、いずれは食料を巡る暴動は避けられなかった。

 それは民衆革命を意味しており、幕府の完全瓦解となるだろう。

 抵抗を続けて幕府と共に心中するべきか、それとも別の道を選ぶべきなのか、陸海軍首脳は苦悩することになる。

 だが、意外なところから事態は動き出す。

 北米列藩同盟が、首都警を謀反を起こした逆徒と認定し、討伐の兵を挙げたのである。


「私は豊臣の遺志を継ぐ者である」


 という出だしで始まる加州藩主、豊臣英頼の一連のラジオ演説は電波に乗って、環太平洋の日本人国家群に爆発的に広まった。

 ここからが、2・26事件の第二幕となる。

 天下泰平を乱す明確な悪と首都警を非難した木下英頼改め、豊臣英頼は正しい秩序回復の名の下に軍事介入を宣言する。

 さらに自らの出自を隠していたことを告白し、自身が豊臣宗家の正統後継者であることを明らかにして絶縁した宗家と豊臣恩顧の大名家に支援を呼びかけた。

 この演説の中で、英頼は300年前に呂宋へ逃れた豊臣秀頼が残した遺言状を公開した。

 その内容はいつの日か徳川家が力を失って天下が麻のごとく乱れることがあれば、豊臣は人々のために決起すべしと記されていた。

 この遺言状はなぜか現代語で書かれていたのだが、おそらく英頼が公開するために書き直したものと思われる。

 この演説を聞いた北原は乾いた笑みを浮かべたという。

 それはクーデタ失敗を悟った故か、300年前に呂宋に逃れた豊臣の復活という時代錯誤を笑ったのかは不明である。

 だが、演説の効果は劇的なものだった。

 まず呂宋の豊臣宗家が反応した。豊臣宗家は英頼がかつて豊臣家を出奔した豊臣家の長男であることを認め、既に宗家の継承権は喪失している旨を発表した。

 その上で、勘当処分となっていた英頼と復縁し、豊臣宗家は北米列藩同盟の武力介入を支持した。

 豊臣宗家は、呂宋にあって世襲藩主の地位にあり、現実の統治は選挙で選ばれた議会と内閣によって行われていたが、その権威は絶対的なものだった。

 また、豊臣宗家は権威君主であると同時に、呂宋経済を支配し、南方経済において広大なネットワークをもつ豊臣財閥を構成しており、その支持表明は呂宋藩の決定と同義であった。

 呂宋が支持表明をするとその後はドミノ倒しだった。

 台湾民国の加藤家、蝦夷共和国の上杉家が北米列藩同盟の軍事介入を支持。さらに国内藩の生き残りである薩摩藩の島津家も英頼を支持した。

 尾張徳川家は親藩であったが速攻で英頼を支持して、幕府を見限った。

 理由は言うまでもないだろう。宗春公の恨みはとても根深いだ。

 北米の毛利家、蜂須賀家も英頼を支持した。

 あまり知られていないことだが、琉球王国も支持を表明している。

 今やイギリスの統治下にある南天大陸オーストラリアの真田家や鍋島家さえ、英頼を支持して義勇兵を送った。

 いずれの大名家ももはや豊臣宗家以外は長い歴史の中で力を失っていたが、それぞれの根付いた土地において、絶大な権威をもつ藩王の家だった。

 豊臣の恩顧など歴史の彼方であり、徳川も豊臣もあったものではなかったが、老いた本国がただ崩れゆくのを座視することはできないという点で、彼らは一致していた。

 クーデタ政府打倒のため、連合軍が急いで編成された。

 連合軍総司令官に就任した豊臣英頼は、自ら先頭に立って列藩同盟海軍旗艦「桜女」に乗り込み、太平洋を押し渡って江戸湾に入った。

 かつて徳川幕府が恐れ、巧妙に阻止してきた豊臣恩顧の大名家による一斉蜂起だった。

 それを海の上で防ぐはずだった幕府水軍改め日本海軍は、連合軍を迎撃するどころか最後の希望として積極的に支援する有様だった。

 日本陸軍もまた自軍の兵站組織を用いて連合軍の後方支援を行っている。

 江戸湾には、日本海軍、呂宋海軍、台湾海軍、蝦夷海軍、北米同盟海軍の艦隊が集い、流通機能が停止して飢餓状態だった江戸市民に様々な生活支援物資を提供した。

 なお、連合軍の意思疎通に関しては全く問題なかった。

 なにしろ全員が同じ日本語を話す日本人だったからだ。ただし、呂宋と蝦夷の日本語は恐ろしく訛りが強いでの慣れが必要だったが。

 連合軍6個師団は何の妨害もなく上陸に成功し、関東の各地に展開して、幕府の諸機関を占領するクーデタ軍を逆包囲していった。

 クーデタ政府は連合軍の上陸を侵略であるとして民衆に抵抗を呼びかけたがこれは全く不発に終わる。誰もクーデタ政府の言うことには従わなかった。

 それどころか、本国世論は連合軍の上陸を圧倒的に支持したのである。

 そもそも、元よりクーデタを支持するものは少数であった。クーデタを画策した首都警は過剰警備と冤罪事件を連発しており、世論から総スカンを食らっていた組織である。

 社会の病的な混乱に疲れ果てていた人々はこれ以上の混乱を臨んでおらず、英頼が掲げる正当な秩序の回復を支持すること選んだ。

 また、関東各地に散らばった連合軍は、各国各藩の選り抜きの精鋭で編成されており、特に礼儀作法については上陸前に時間が許す限りの教育が行われていた。

 礼儀正しく、秩序ある行動を心がける連合軍兵士は、民衆の目からして非の打ち所のない正義の味方であった。


「礼儀正しい人々」


 として連合軍が関東各地で大歓迎されるようになるに時間はさしてかからなかった。

 そして、礼儀正しい人々が少し訛りがきついが自分たちと同じ日本語を話すことを知って、多くの人々が、忘れかけていた日本人の共同体を思い出すことになる。

 それは小さな小さな海練だったが、やがて大きなシンパシティの津波となって環太平洋全域へと広がっていった。

 という感動的なストーリーが歴史の教科書には載っているが、江戸市民を手懐けるのに最も効果があったのは、連合軍が持ち込んだ膨大な生活支援物資だったという。

 流通が停止して食料不足が深刻化していた江戸市中で、連合軍が持ち込んだチョコレートに子供のみならず大人たちでさえ群がった。

 気前よく米と水とトイレットペーパーをタダで配る連合軍を江戸市民は両手を挙げて歓迎したというのが真実だろう。

 クーデタ勃発から1ヶ月後の3月26日、部下の生命保障を条件に首謀者の北原が投降してクーデタは鎮圧された。

 解放された政威大将軍、犬飼毅は全責任を負って辞職すると同時に、非常時における将軍の大権を行使して次期将軍選出まで期間、連合軍総司令部(GHQ)に日本合藩国の全権を委任することを発表した。

 豊臣英頼は政威大将軍選挙に立候補し、圧倒的な得票数で選挙戦を制して、第15代政威大将軍に就任した。

 英頼の最初の仕事はワシントン条約の破棄と北米諸藩、呂宋、台湾、蝦夷地、シベリア、琉球を含む全ての海外藩を統合した日本合藩国の復活宣言であった。

 




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