沈む太陽、昇る太陽
沈む太陽、昇る太陽
第一次世界大戦後が終わった時、日本国内は混乱の極みにあった。
勝っているはずの戦争で負けたことになったからだ。
混乱は幕府への不満として爆発することになっった。
だが、その後の軍部過激派の暴走や江戸市街戦、そして政威大将軍徳川家達の死により、不満は一気に鎮静化することになる。
人々が求めたのは自分たちが考える”正当な状態”への復帰であり、軍部が謀反を起こしたり、江戸の町を火の海にすることではなかった。
ましてや、政威大将軍を自害に追い詰めるつもりなど全くなかった。
だが、個々人の善意と常識的な判断が集合し、社会の大きな潮流になったとき、それは甚大な被害を齎した。
江戸市街戦により、市街地の3割が焼け、被災者は170万人に及んだ。
市街戦に巻き込まれて死亡した一般市民は15万人と言われているが、正確な記録が喪われており詳細は不明である。
日本国内の戦いといえば、300年前の関ヶ原の戦い以来の出来事であり、江戸市街戦における混乱は凄まじいものだった。
この大混乱の中で、暴動や略奪が江戸市中の各所で発生、さらに朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだというデマが広がり、朝鮮人虐殺事件が起きている。
江戸の混乱とデマの流布は凄まじいものがあり、当時の記録を精査すると「空に黒い太陽が昇った」、「巨大な楯をもった少女が化物と戦っていた」、「でっかい旗をもった西洋甲冑姿の女を見た」など、荒唐無稽なデマが広まっていたことが分かる。
誰もこんなことをしてくれと頼んだ覚えはなかったが、結果として人々の願いは破壊のみを齎した。
人々は自らの行いに恐怖した。
自分達の求めた些細な修正が、これほどまでに甚大な結果を齎すとは思いもよらず、戦争終結直後の日本本国には、消沈と失意の気配が漂った。
だが、終戦に伴い戦地から復員が進むと多少、日本本国にも明るい兆しが現れた。
戦地から家庭に戻った兵士たちの表情は複雑ながらも、それを出迎える人々の顔には笑顔があった。
ただし、笑顔が失意に変わるのは早かった。
家庭に戻った人々は、すぐに自分の職がないことに気がつく。
軍需工場は戦争終結と同時に閉鎖され、生産ラインは民需生産に切り替えられたが需要からすれば、設備投資と生産力は明らかに過大だった。
供給過多の市場に対して、幕府は積み上がった膨大な戦時債務を返済するために、緊縮財政を以って政府需要を減らすことで応え、さらに供給過多を進行させた。
供給過多の市場は急速なリバランスが進行した。
結果として、敗戦後の街角には失業者が溢れかえらせることになった。
そこへイギリスやアメリカに割譲された領土からの難民が加わって、さらに失業者が増えることになった。
難民と失業者は増え続け、20年台の日本は失業率が平均15%に達している。
若年者の失業率はさらに高く25%近くにもなった。
これは社会レベルで危機的な水準である。
難民問題は、戦後日本の主要政治課題だった。
幕府は難民に手厚い福祉サービスを提供し、優先的に雇用を保障したが、本国においてはそれが強い世論の不満を生むことになる。
本国人たる自分たちが明日の食事にも苦しんでいるのに、あとからやってきた難民がなぜここまで厚遇されるのか、という話である。
だが、難民にも言い分はあり、国から見捨てられ、外国の領土にされた土地から逃れてきた自分たちが優遇されるのは当然で、本国でぬくぬくと暮らしてきた連中こそ、この戦争の責任をとるべきであると反論した。
幕府は長年に渡って移民政策を採り、本国から余剰人口を海外へ移転してきたが、移民政策には棄民の側面があり、本国に対する海外藩の目は厳しいものがあった。
海外藩から本国に移住することには厳しい制限があり、本国に移住できるのは実質的に高額納税者に限られていた。
だが、国策で故郷を捨てざるえなくなった人々まで締め出すことはできず、戦後は本国に海外藩からの移住を認めることになった。
そうなったとき、現れたのは意識のズレと差別意識、そして対立構造だった。
敗戦で故郷を捨てざるえなかった人々は全財産を失って本国を頼って落ち延びてきたのであり、そこに温かい支援の手が差し伸べられていたら、もう少し違った展開があっただろう。
だが、現実に起きたのは融和ではなく、対立と緊張だった。
そこに追い打ちをかけたのが、1923年9月1日に発生した関東大震災である。
相模湾海底を震源とするマグニチュード7.9の地震により、江戸、神奈川は壊滅的な打撃を受けた。
被災者200万人、死者20万人に及ぶ。建物全壊は20万棟、火災による消失はその2倍に達した。交通機関は壊滅し、物流は崩壊して大パニックが発生した。
先の江戸市街戦と併せて、首都としての江戸は完全に崩壊する。
江戸の証券取引所の再開は見通しがたたず、大阪の堂島が代替して証券取引は震災発生から3日後には再開となったが、凄まじい大暴落となったので取引停止となった。
銀行業務の再開もまた困難であり、金融機能の麻痺するということは経済が完全にストップすることを意味していた。
いわゆる、震災恐慌の始まりである。
環太平洋国家の首都として発展してきた江戸は、肥大化につぐ肥大化の極みにあり、この種のカタストロフには極めて脆弱な状態にあった。
江戸市街戦でもそれが既に露見していたが、抜本的な対策をとるまえに次の破局が訪れた形である。
「神は日ノ本を見放されたか」
政威大将軍、原敬は政治家としては同時期における超一流の存在だったが、その原をしてこのような発言を至らしめるほど、被害は壊滅的な惨状を呈していた。
ただちに復興計画が建てられたが、膨大な戦時債務により既に財政破綻寸前であった幕府は、復興財源として紙幣増発を行ったので、大規模なインフレーションが発生する。
1両の価値が、わずか1年で100分の1になるという凄まじい狂乱物価であった。
これによって政府の債務は100分の1になったが、同時に国民の資産も100分の1となった。
資産運用として戦時国債を買っていた高齢者は先の地震と併せて無一文になった者も多く、老人の自殺が相次いだ。
「老人が自殺する国に未来はない」
と語ったのは、ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーだったが、まさに日本のこの時の状況はそれに近いものがあった。
展望なき未来に対して誰もが絶望的な面持ちで俯いていた。
銀行は取り付け騒ぎで業務再開できず、幾つかの銀行は持ちこたえられず倒産した。
融資を絶たれた企業もまた、体力がない順に連鎖的に倒産していき、街角に失業者を溢れさせた。
国民の資産が100分の1になるということは、可処分所得も100分の1になるわけで、消費意欲の減退により、震災復興による需要を差し引いても大幅なマイナスだった。
震災から3年間、日本経済がマイナス成長となり、日本はこれまでに経験したことがない深刻な経済危機の時代に突入することになった。
焼け野原になった江戸の物流網復興は遅れ、僅かな食料を巡って本国民と難民の間で衝突が発生し、銃撃戦になるほど治安は極度に悪化する。
それでも戒厳令など、極限の対応をとらなくて済んだのは、先の江戸市街戦において無力さを露呈した警察組織の抜本的な改革が間に合ったからだった。
講和条約に反対して謀反を起こした軍部を幕府は信用できなくなり、首都防衛のために警察力の大幅な強化を図って、新組織を発足させていた。
首都圏警察予備隊、通称”首都警”である。
首都警は重武装の治安維持組織で、戦車まで装備する実質的な軍隊であった。
警察戦車隊はその後編成されたことがないので、将来にわたって首都警は日本の警察史上空前絶後の存在であると思われる。
しかし、半軍事組織で尚且つ警察権が行使可能というのは、常識で考えるまでもなく危険な組織であり、後に数々の問題を引き起し、最終的に武装蜂起に突き進むことになるのだが、それはずっとあとの話である。
ともかく、震災直後の治安維持に首都警が役立ったことは確かだった。
その後も首都警は幕府の手厚い保護のもと、圧倒的な火力で退役軍人のデモ鎮圧や暴動鎮圧、暴力団の制圧作戦や共産主義活動の封じ込めを行うことになる。
これはIFの話であるが、関東大震災後に戒厳令が発令され、軍が治安維持を行っていたとしたら、何が起きただろうか?
おそらく軍部は江戸市街戦で被った汚名を返上し、国民の信頼を回復出来ていただろう。
もしも軍部が早期に国民の信頼を回復していたら、ひょっとするとその後、軍部の権威は肥大化し、軍部の専制政治と軍国主義化を招いていたかもしれない。
なお、関東大震災では軍も震災復興に動員されたが、幕府は軍部を信用していなかったので、その活動は著しく制限されており、国民の目には止まることなく終わっている。
幕府は大規模な震災復興計画を策定し、これを実施したが、上記のとおりインフレによって材料費の高騰から計画は遅々として進まず、幕府への不満は募るばかりだった。
比較的順調に進んだのは復興道路や復興団地建設用の土地収用ぐらいだったが、これはこれで多いに問題があった。
所謂、土地収用法度問題である。
土地収用法度とは、幕府が土地の公定価格を定めた上で一定期間凍結し、その価格で強制的に土地を買い上げるという私有財産制の否定一歩手前の法度であった。
土地の所有権についてナーバスな日本において、この種の法度は議論そのものが困難なものであったが、敗戦と難民の大量発生という非常事態を前にして急遽、制定されたものである。
元は難民収用のための施設建設や農地確保が目的の特別法度であったが、関東大震災の復興計画に際しても特別法度から普通法度への修正を経て大々的に運用されることになった。
なお、土地の公定価格は狂乱物価前のものであり、この法度の指定を受けるということは二束三文で土地を買い叩かれることを意味している。
土地収用に対する反対運動には首都警による容赦ない弾圧が行われた。
この法度で土地を買い叩かれた大地主の恨みは凄まじいものであり、特に大土地所有が多かった士族から目の敵にされた。
1925年11月8日に、政威大将軍原敬は士族青年に千代田駅で暗殺されるのだが、その直接の原因になったとされる。
さらに危険な法度として財産収用法度というものがあり、本国に帰還を望む難民から財産を強制的に収用し、平等に分配するという私有財産制をほぼ完全に否定する法度もあった。
この法度で財産を没収され、わずかばかりの「平等」な分配を受けた富裕層は幕府を恨んで、過激派に参加するなど、甚大な悪影響を残した。
ただし、何事にも二面性というものがあり、震災後の大規模の復興計画は土地収用法度の存在なくしては不可能であったと言える。
江戸に集中していた首都機能を関東全域に分散配置することを基本骨子とする復興計画では、移転先の地方都市を有機的に連結する大規模な道路交通網の整備が大前提であった。
そうした道路、鉄道などのインフラ整備を行うためには迅速で大規模な土地収用が必要であり、価格闘争を防ぐ意味でも強制的な土地収用法度にはプラスの効果があった。
なお、首都機能の分散移転で、国務奉行所と殖産奉行所は横浜に移り、陸軍奉行所は習志野、海軍奉行所は横須賀に移った。勘定奉行所は春日部、法務奉行所は所沢、町方奉行所は川越、文科奉行所は船橋に移っている。
江戸に残ったのは、議事堂と将軍府、総務奉行所のみとなった。
悪名高い財産収用法度も膨大な数の難民を救済するための財源としてはなくてはならないものであり、難民収用施設の建設や、授産事業のために没収された財産が活用されている。
狂乱のインフレによって、戦時国債は大幅に圧縮され、ようやくまともな財政運営が可能になった点は無視することができない。
悪性インフレであったことは間違いないが、ドイツの1兆倍やロシアの600億倍のハイパーインフレーションに比べたらまだマシな規模である。
なお、震災発生直後から、呂宋、台湾、蝦夷、北米からは直ちに支援表明がなされた。
新規独立国の経済は本国同様に厳しい状態であったが、環太平洋の各地から膨大な支援物資が集まった。
広大な日本人の環太平洋帝国は解体された。
だが、日本人同士の同胞意識が健在であった。
苦しく、暗い日々であったが、後につながる希望がないわけではなかったのである。
だが、停電の暗闇の只中にいる人々は、明日さえみえない苦境の中で理不尽な状況に対する憎悪をつのらせていくことになる。
なお、イギリスやアメリカ、フランスなどの戦勝各国も復興支援を表明した。
幕府は支援物資受け入れを表明し、それらは江戸復興計画に使われた。
元敵国から支援受け入れなど言語道断であるという意見もないわけではなかったが、政威大将軍原敬はプライドよりも実利を優先した。
戦勝国からの物資受け入れも、原が暗殺されることになった原因の一つとして挙げられる。
英米との融和を唱える政治家や言論が、生命の危険を感じる空気が日本国内にはびこり、日本の言論から自由は大きく後退していった。
とはいえ、元敵国からの支援受け入れは、国内に複雑な感情を呼び起こしたが、まるで無意味というわけではなかった。
誰でも、苦しいときに手を差し伸べてくれる相手には好意を持つものである。
また、世論の軟化という点においては、日本の国際連盟加盟と常任理事国就任も大きい。
日本の常任理事国就任は、アメリカ合衆国が議会の承認が得られなかったために国際連盟未加入となった玉突きの結果ではあった。
しかし、世界初の常設国際組織とその常任理事国就任の意義はとてつもなく大きい。
常任理事国は戦勝国の独占席であり、敗戦で傷ついた日本人の自尊心を大きく回復させた。
戦争終結の際に唱えられた新秩序における名誉ある地位の追求が、ようやく果たされたわけである。
ただし、常任理事国は少なくない額の分担金を支払う必要があり、財政上の負担は小さなものではなかった。
国際連盟は崇高な理念の割には実効性に乏しい組織であったが、小規模な紛争調停には効果があり、戦間期の日本外交は国際連盟を中心としたものとなる。
ここで、日本合藩国から分離独立した北米諸藩に目を向けることにしたい。
1921年に正式独立した北米大陸諸藩は、同時に北米列藩同盟という新たな合藩制(連邦制)を発足させた。
北米列藩同盟の盟主となったのは北米諸藩最強の加州藩であった。
加州藩は議長として列藩会議を取り仕切り、列藩同盟の中心として活動した。
なお、藩祖の毛利家は21世紀現在も健在であり、権威君主として今でも様々な国家式典にその姿を見せている。
なお、幕府から列藩同盟の移行は大きな混乱もなく終った。元々、北米諸藩はそれぞれに独自の分国法(憲法)を持つ独立国であり、その運営は各藩の裁量であった。
故に合藩国でなくなったとしても、即座に行き詰まるようなことはなかった。
封建制の藩という極めて自立性の高い単位を元としており、上にいただくのが列藩会議であろうが幕府であろうが、各藩の内情にはさしたる違いはないのである。
困ったのは外交と軍事、新通貨の発行である。
いずれも幕府の専権事項であったためである。
なお、北米列藩同盟では新通貨発行に際して、「円」という全く新しい通貨単位を採用することになる。
これまでの日本の通貨単位は、両と文という二重構造であり、複雑で計算が面倒という指摘があり、この機会に通貨制度改革が行われた。
列藩同盟軍の編成も各藩の藩兵や旧合藩国軍の武器の譲渡などで迅速に行われた。
しかし、国境を接するアメリカ合衆国を相手に同盟軍だけで立ち向かっても全く勝ち目がないことを考えれば、軍備については最低限の自衛の範囲をでることはなかった。
彼我の国力差はおよそ3倍に達すると見積もられており、北米大陸におけるアメリカ合衆国の優位は決定的である。
やはり、本国の後ろ盾がないとあるとでは大きな違いだった
そこで列藩会議は将来の本国との再統合を指向しつつ、当面は列藩同盟各藩の基礎的な国力回復を推進することになった。
なお、北米大陸は大規模な地上戦が起きた土地であり、戦災復興は急務だった。
とはいえ、フランスのように国土の主要地帯が戦場になったわけではないし、それどころか、国土の中でも最も辺鄙な土地が戦場になったので被害は小さなものだった。
何しろ、戦場になったのは大平原だ。
農地以外には殆ど何もない場所だった。
それでも埋設した地雷や不発弾の処理には数百年かかると見積もられている。
飛行船による都市爆撃もあったが、爆弾搭載量が少ないことから被害は小さなものだった。
なお、北米諸藩では江戸で起きた市民の暴動や軍部の暴走は起きなかった。
勝っていたはずの戦争を敗者で終えなければならない悔しさはあったが、国土が戦場になっている北米諸藩は、安全な本土に比べて戦争に対する切迫感がまるで違った。
むしろ安全な本国から戦争継続を叫ぶ強硬派は唾棄すべき連中だと考えるものが大半だった。本土は一度も空襲を受けていないが、北米諸藩東部の大都市は飛行船の爆撃に怯える日々を送っていたのだ。
前線でも銃後にも緊張が漲っていたのが本国と大きな違いだった。
そして、数百万の兵力を動員した戦争に北米諸藩は疲れていたのである。
殆どのものが、本音では戦争が終わってくれてほっとした。
戦争終結直後に、首都が市街戦と地震で壊滅した本国と異なり、北米の戦後は苦しいながらも、病理的な騒乱とは無縁であった。
また、本国では大問題となった難民問題は、北米諸藩では全く問題となっていない。
なにしろ、北米諸藩は移民によって建てられた国である。
同じ日本語が話せる難民は即戦力として使えるのでむしろ歓迎された。
移民を送り出すことしかしてこなった本国に比べて、新しい住民を迎え入れるための諸制度も整っており、経験の差が出た形である。
日本人難民以外にも大量のドイツ人難民も北米諸藩は受け入れているほどだった。
この場合、難民という言葉は正しくないかもしれないが、敗戦後のドイツ国内の状況を考えると難民というほかない状態で北米大陸に移民する人々は多かった。
ドイツ移民の最大の受入国は、以前はアメリカ合衆国だった。
同じ白人の国ということもあり、言語体系も近いアメリカを目指すドイツ人移民は多かった。北米諸藩もドイツ人移民を受けれ入れていたが、黄禍論を背景にその数は少なかった。
しかし第一次世界大戦勃発により状況は一変する。
戦争中、アメリカ合衆国国内ではドイツ系移民への風当たりが強まり、名前をドイツ語読みから英語読みに変更するなど、多くのドイツ系移民が差別的な待遇を経験することになる。集団で私刑に遭うものや合衆国に対する忠誠を示すために、戦時国債を強制的に購入させられた者もいた。ドイツ語の使用を禁じる法があり、ドイツ語を公共の場で話すこと、ラジオで用いること、10歳以下の子どもに教えることは犯罪だった。
そして、そうした差別は戦後も継続してアメリカ合衆国に残った。
対して北米諸藩では、戦時中にドイツ系移民のみで編成された東方ドイツ人連隊が前線で大活躍していたことから、ドイツ人移民は北米諸藩で極めて高い地位を保っていた。
その為、戦後はアメリカ合衆国に代わる新たな移民先として嘗ての同盟国である北米諸藩を目指すものが多くなった。
言語体系が全く違うというハンディキャップはあるものの、新しい農地や宅地が得られる場所で、なおかつドイツ系移民への風当たりがないというのは大きかった。
もちろん、ドイツ語を話しても犯罪者として逮捕されたりはしない。
北米諸藩へのドイツ系移民の数は年々増大し、1930年台末にはノイエ・ドイッチュラント自治領が成立するに至る。
ノイエ・ドイッチュラント自治領はドイツ系移民が建設した植民都市の連合体で、北米列藩同盟に代表を送り出すほどまでに勢力を拡大した。
この80年後に、ドイツ系移民から不動産王に成り上がり、政威大将軍選挙に挑戦する男が現れるのだが、それは遠い未来の話である。
ドイツ人に次いで、北米諸藩に大勢やってきた白人移民は、ロシア人である。
ロシアも共産主義革命で国を脱出した人々が多く、北米諸藩の中にコミュニティを築いていた。しかし、ロシア系はウラル山脈以東にあるロシア=シベリア帝国に逃げるものも多く、自治領を獲得するほどの勢力にはなっていない。
なお、戦後に加州へ移ったロシア系移民の中の一人に、イゴール・シコルスキーという風変わりな航空技術者がいた。
シコルスキーは加州で飛行艇を製造する航空機メーカーを立ち上げたが、並行してヘリコプターという全く新しい飛行機の研究を行うことになる。
彼の研究が、ワシントン講和条約で航空機の艦艇搭載を禁止された日本海軍の目に止まり、条約の抜け穴になることに気づくのにはさほど時間はかからなかった。
北米諸藩における白人勢力の第3位はユダヤ系で、加州のあちこちにシナゴーグが作られたがこちらも数という点では、ドイツ系ほどの勢力はなかった。
やはり、白人の国であるアメリカ合衆国の方が、ヨーロッパからの移民は敷居が低くなる傾向があったのは確かだろう。
逆に、白人以外の移民は北米諸藩に集まった。
黒人やラテン系、アジア全般から移民である。
最大勢力となったのは中国系で、北米諸藩の大抵の大都市には中国人街が作られた。
殆どの中国人は都市の下層労働者であったが、中には富裕な留学生もいた。
その留学生の一人に歴史研究家志望で、ごくありきたりなハンサムに見えなくもない青年が加州大学に入学したのは1921年のことだったとされる。
後に実家の商売が傾いてしまい、学費が払えなくなった彼が同盟軍士官学校の門を叩くのはそれから2年後のことである。
次点は黒人だが、彼らはアフリカから来たのではなく、アメリカ合衆国からやって来た。アメリカでの差別的な待遇に苦しんだ末に北米諸藩に流入したのである。
黒人人口の流出は、アメリカ社会に大きな変化を齎した。
都市中心部のダウンタウン、ハーレム、スラムに密集して生活していた彼らがいなくなったことにより、荒廃していた都市中心部に富裕層が戻ってきたのだ。
富裕層が都市郊外に逃れる空洞化現象に歯止めがかかったが、都市の郊外は荒れ地のままで住宅需要や自家用車需要は黒人人口流出前に比べて1割は低下したという研究もある。
何よりも最大の問題は、安くこき使える下層労働者に大穴が空いたことだった。
ラテン系はメキシコ経由で北米諸藩に集まったが、アメリカ合衆国にも多く移民していったのでどちらかといえば中立に近い。
そうした豊富な人口流入に支えられて経済の再建が順調に進んだのが北米列藩同盟であり、市街戦と地震で首都が壊滅した本国とは明暗をわけることになった。
また、戦後のアメリカ合衆国との関係改善もあり、アメリカの好景気に連動してアメリカ資本の進出と好景気が西海岸にも訪れることになる。
これまでアメリカ大陸横断鉄道は2本しかなかったが、第一次世界大戦後は3倍の6本まで増強され、西海岸と東海岸を鉄路で繋いだ。
さらに鉄路だけではなく、高規格幹線道路でも北米大陸は連結されていった。
1920年台は北米大陸をモータリゼーションが席巻した時代である。
そうしたモータリゼーションを主導したのは、日米の自動車産業界だった。
とくに、アメリカの自動車産業の北米諸藩への進出は著しかった。
アメリカ合衆国からの資本投下が増えた背景には、北米諸藩の人件費の低さがあった。
北米諸藩は本国と異なり、工業地帯としての発展はこれからという地域であった。
その上で大量の中国人移民や黒人移民の流入、日独難民の激増で、人件費のディスカウントが進んだことから、好景気で人件費が高騰するアメリカ合衆国から工場の移転が相次いだ。
大量生産による低価格が競争力の全てであったフォード自動車は、賃金高騰に苦しんだ挙句、加州へのコア技術移転を含む大規模な工場建設へ動く。
フォードが動けばGMもクライスラーも動かざるえなかった。
安い人件費という点においては、日本産業界も北米諸藩を使いたかったので、豊田自動車や本田自動二輪といった日系自動車メーカーも加州へと進出した。
北米諸藩に根を張る坂本財閥もアメリカの高級自動車メーカーのパッカードと合弁会社を作り自動車戦争に打って出た。
本国のような寡占市場よりも、これから伸びゆく新興市場を巡って、日本とアメリカの自動車産業が激突したのが1920年台の北米諸藩であった。
当初は、アメリカ系企業が圧倒的に優位な自動車戦争だったが、豊田自動車はカンバンシステムという革新的な生産技術を発明し、質、量ともにアメリカ企業に真正面から対抗できるようになった。
そして、人件費の安さから日系メーカーは高い価格競争力を武器として、徐々に自動車戦争は日系有利に傾いていくのである。
安い人件費というのは大きなポイントで、日本やアメリカ、その他列強国では人件費が高騰して、採算の上で立ち行かなくなった産業も北米諸藩に脱出した。
そのため、北米諸藩は世界の工場となっていった。
特に繊維産業は北米諸藩の独壇場だった。テキサス共和国の綿花を輸入して、綿製品に仕立て直して輸出する加州紡績である。
紡績、繊維産業は雇用吸収力が高い産業で、1920年台の終わりには北米列藩同盟はほぼ完全雇用が達成することになる。
本国の失業率が1920年代を通じて常に15%程度だったことを考えると如何に北米諸藩の経済的成功が大きかったかが分かる。
北米列藩同盟の20年代の平均経済成長率10.2%だった。
僅か10年で、日本本国と列藩同盟は経済力が逆転。人口においても、戦後のベビーブームと難民、移民によって8,000万人に達し、本国を上回ることになる。
「もはや戦後ではない」
という経済白書の言葉が北米諸藩の勢いを現していた。
そうした輝かしい発展の時代に、人々の人気を集めた娯楽が映画であった。
映画もまた、自動車と並んで日本とアメリカが激しく覇権を争った分野である。
日本映画界の総力を結集して加州郊外に建設された聖林映画スタジオは質、量ともに世界最大規模となった。
全世界で作られた映画の半分が聖林での制作となるほど、聖林は全世界の映像クリエーターの聖地と呼べる場所となる。
その理由はいくつかあるが、まずは聖林の立地条件が挙げられる。
当時の映画用ロールフィルムは低感度で、日差しが強い日中でなければ撮影が困難だった。
アメリカ合衆国の映画産業の中心はシカゴやニューヨークだったが、どちらも冬は厳しい寒さの土地であり、曇りの日も多いことから、一年中映画を撮影するには向いていなかった。
それは日本本国でも同じだった。
気候が温暖で、年中晴れが続く聖林は映画撮影に打ってつけの土地だったのである。
なお、聖林映画がアメリカ合衆国などの英語圏に輸出される場合は、ハリウッドムービーと翻訳される。
これはHoly- (聖[ホウリ])をHolly- (ひいらぎ[ハリ])をと誤読したものがそのまま定着してしまったのが起源である。
やがて聖林はシカゴやニューヨークを圧倒する質と量を備えるようになるが、これは全世界に向けてその存在を解放していたことが大きかった。
黒人やアジア系、ユダヤ系やイタリア系、ドイツ系など、東海岸を牛耳るホワイト・アングロサクソン・プロテスタントから民族差別を受ける人々が、役者として成功したければ聖林を目指すしかなかった。
ニューヨーク映画では、黒人が主人公のアクション映画など撮影することすら不可能だった時代である。
聖林はそうした被差別民族、人種に広く制作の場を解放したことが驚異的な発展の原動力となったと言える。
そうした活動がなぜ可能だったのかといえば、聖林映画最大の庇護者である坂本財閥の創始者、坂本龍馬がそういう男だったからとしか言いようがない。
聖林映画の歴史において、加州で晩年を送っていた坂本龍馬が果たした役割は老人の道楽としては極限のものであった。
彼は膨大な資産を湯水のように使って映画製作を支援したのである。
少しでも映画製作に不自由があれば、地形改造すら厭わなかった。法律で禁止されていることであれば、法律が間違っているとして議会に圧力をかけて法律を変更させた。
常識では考えられないようにことを映画を撮るためだけに平気で実行した。
坂本によれば、映画撮影はともかく自由で、極限にまで好き勝手でなければならなかった。
それは彼の性分に根ざした信条であり、とにかく、坂本は国家だとか民族だとか、常識だとか、型に囚われることを嫌った。
あまりにも自由すぎる彼はラディカル・リベラリストと称されることがあるが、本人はリベラリズムさえも、一つの考えに過ぎないと語っていることからリベラリズムの枠でさえ、彼を捉えることはできていない。
「わしゃーフリーダムじゃ」
という彼の言葉は自分自身の本質を言い表していたが、大抵の人間はフリーダムすぎる彼についていけなかった。
岩崎弥太郎のような財閥の創始者さえも坂本と袂を分かった。
では、財閥創始者レベルでさえついていけない坂本は一体何なのかと考えると一種の怪物としか言いようがなかった。
半死半生の状態で野盗さえでる有砂や新墨の砂漠をさまよい、油田を見つけて帰るなど常人にできることではない。
坂本はこれまでに4回は暗殺未遂に遭い、3回は航空機で墜落しているがいずれも生還している。
何かが憑いているとしか言いようがない人物であったと言えるだろう。
そんな坂本だったが、尊敬する人物を尋ねられると、
「豊臣の秀頼公かねぇ」
と、少し変わった人物を挙げている。
後に坂本が北米経済の近代化に果たした巨大な役割が評価された時、連動して豊臣秀頼の評価もあがることになる。
秀頼は道楽に生きて、天下をとり損ねた遊び人という評価が一般的で、なぜ坂本が秀頼を尊敬していたのか謎である。
最後の最後まで自由奔放に生きた坂本だったが、最期は己の肉体に囚われることすら嫌ったかのようにあっさりと1925年にあの世に旅立った。
それでも、死の前日まで孫と新作の映画を見るの楽しみにしていたのだから、ある種の映画狂だったのは間違いだろう。
あるいは、自分が道半ばとした理想とする何かをせめて映画という仮想の世界だけにでも実現しかったのかもしれない。
そうして聖林は世界最大の映画産業の集積地に発展していった。
話は逸れるが、1920年台の聖林映画で最も人気があったのは、忍者映画であった。
英語圏では、スパイムービーと呼ばれるジャンルである。
様々な特殊技術や最新科学を駆使して敵国に潜入して活躍する忍者は、正体を知られれば死を免れないスリルとヒロインとのラブロマンス、高度な駆け引きを要する知的要素と派手な銃撃アクションを同時に兼ね備える娯楽映画の王道ともいうべき地位を獲得した。
そうした忍者映画で一際、人気を集めた映画俳優の一人に、木下英頼という呂宋出身の俳優がいた。
浅黒い肌と甘いマスクの英頼は女性人気抜群で、アクションシーンもノースタントマンで撮れる肉体派という映画俳優としては出来星の男だった。
やがて映画が音声になっても、涼やかな声で観客を魅了した。
トーキー映画で沈んだ映画俳優が多い中で、英頼は続けて活躍できる貴重な人材であった。
そのため英頼は、映画だけではなくラジオ演劇にも多く出演している。
そうしたラジオ番組の出演が、彼の人生に大きな転機を齎すことになるのだが、それはもう少し先の話である。
映画業界の中では、英頼は確固たる地位を築いた大スターであった。
そうした映画スターの私生活や素性というのはゴシップのネタにされることが常であったが、不思議と彼の素性は不明のままであった。
まことしやかな噂話によると彼の正体はどこかの財閥の御曹司という話だったが、英頼が自ら語る前半生は苦労の連続であった。
青春を戦場で過ごした多くの若者の一人であり、戦後は故郷の呂宋に戻らず北米に残って舞台俳優を志したことが、英頼の口から語られる人生の全てだった。
謎の多い人間というのは、普通は警戒されるものだが、不思議と英頼の場合は人間的な魅力が増す方向へ働いていた。
結局、そういうカリスマであったという他ないだろう。
やがて英頼が日本の歴史において果たす役割は巨大なものとなるが、1920年台の彼はまだ一人の映画スターであった。




