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ワシントン講和会議



ワシントン講和会議


 1919年2月28日、アメリカ合衆国の首都ワシントンで第一次世界大戦の対日講和条件を討議する国際会議が始まった。

 所謂、ワシントン講和会議である。

 当初、対日講和会議はイギリスの首都ロンドンで開催される予定だった。

 しかし、アメリカ合衆国の強引な申し立てよって予定変更となり、ロンドンからワシントンに開催場所が移っている。

 イギリスはこの提案に難色を示したが最終的に同意した。

 第一次世界大戦における日本合藩国の最大の交戦国は、言うまでもなくイギリスであり、次点はアメリカ合衆国である。

 よって、ロンドン以上にふさわしい場所はないはずなのだが、ヨーロッパで会議を行うよりは、フランスの影響を排除しやすいという理由でワシントンでの開催となった。

 同時期、フランスのパリでは対ドイツ講和条件を検討するパリ講和会議が開催されていた。 この会議を主導したのはフランスだった。

 フランスはドイツ帝国最大の交戦国であり、同時に国土を戦場にされた最大の戦争被災国でもあった。

 会議を主導するのは、ある意味当然と言える。

 戦争被災国というなら、ロシアも酷いものだったが革命政権のソビエト連邦は内戦の真っ最中で、それどころか、ヨーロッパ各国は軍隊を送って革命に干渉しているところである。

 さらに共産主義国という異質の政体を持つゆえにパリ講和会議から排除されていた。

 ロシア帝国は、エカテリンブルクを新帝都として存続したが、新生ロシア帝国は日本の傀儡と看做され、やはりパリ講和会議から排除されている。

 どのみち、戦争途中で同盟国陣営と単独講和したロシアに、パリ講和会議に参加する資格はなく、代表を送る余地など最初からなかった。

 対日講和会議も、パリで行うべきだとフランスは主張したが、イギリスはこれを丁重に謝絶して、ロンドンで別立ての会議を行うつもりだった。

 理由は言うまでもなく、イギリスがこの講和会議を独占したいからである。

 そもそもフランスの対日戦における存在感のなさは異常だった。

 仏印インドシナ半島で戦いでは、フランス軍は全く日本軍相手に粘れず、まともに戦ったのは正味1週間程度だった。

 南太平洋仏領ニューカレドニアの戦いなど、40時間で降伏している。

 その後は、イギリスの度重なる要請にも係わらず、フランス海軍主力艦隊のインド洋展開を拒絶し、イギリス海軍はインド洋で血反吐を吐く羽目になった。

 一応、フランスにも言い分はある。

 対ドイツ戦という差し迫った危機に集中することがフランスの大戦略であり、地上戦におけるフランスの犠牲があったからイギリスはインド洋で戦う余力が生まれたという理屈である。

 一面の真実はあったものの、対日戦をほぼ単独で支えることになったイギリスの苦境は凄まじいものであった。

 多くのイギリス政府、軍関係者は、フランスには対日講和会議の参加資格さえないと考える者が圧倒的多数だったほどである。

 とはいえ、フランスも連合国の一角であるから、ワシントン講和会議に代表団を送り込んでいる。

 しかし、ワシントンでの会議はイギリスとアメリカ合衆国主導で進むことになった。

 なお、イタリアも戦勝国として、代表団を送ってるが、フランス以上に対日戦には無関係だったので、事実上何の発言権もなかった。

 英仏米伊以外のその他の国は、概ねオブザーバーレベルの参加だった。

 フランスやその他大勢のヨーロッパ各国の影響をシャットアウトするのに、遠い北米大陸のワシントンでの開催は都合が良かったといえる。

 しかし、フランスやその他大勢を外野に追いやることに成功したイギリスも、アメリカ合衆国の声が、外交節度を外れたレベルで高まったことは予想外だった。

 アメリカは、講和会議を破壊しかねない危険な提案を連発してイギリスに何度も冷や汗をかかせることになるのだがそれは後述する。

 ワシントン講和会議において、日本は代表として徳川一門衆から徳川慶久、国務奉行牧野伸顕、さらに軍部を代表して印度洋艦隊司令長官から海軍奉行に転進していた島村速雄海軍大将を会議に送った。代表団は他に70名を超える選り抜きの精鋭が選ばれている。

 ドイツ軍を代表するヒンデンブルクやルーデンドルフがパリ講和会議に参加しなかったことを考えると日本の対応は異例だった。

 しかし、未だに戦場で優勢である、或いは優勢と信じている軍部を講和に納得させるには、軍部の代表者が講和会議に出席することがどうしても必要だった。

 日本にとって最悪の事態は講和に軍部が同意せずに暴発することである。

 島村は、インド洋でイギリス艦隊を一方的に殲滅した第二次セイロン沖海戦の指揮官であり、軍部の押さえ役としては打ってつけだった。

 島村ほどの英雄が講和に賛成すれば、誰もその決定に逆らえないと思われた。

 しかし、島村も軍人であり、実質的な敗戦の条件交渉に参加することは耐えられないほどの恥辱だったはずである。

 それにも係わらず二つ返事で、参加を承諾した島村は、武士の鑑として政威大将軍徳川家達から直々に太刀を賜る名誉に浴した。

 さて、講和会議にあたって、最大の焦点となったのは賠償である。

 これまでの戦争では、戦勝国は敗戦国から戦争に要した経費を賠償金として請求することが一般に行われてきた。

 だが、第一次世界大戦は国家総力戦という新しい形態の戦争であり、その軍費は天文学的な数字に達している。

 ドイツ帝国はベルサイユ講和条約にて、980億マルクという支払い不可能な賠償金を押し付けられ、著しい経済の混乱へと突入していくことになる。

 では、日本はどうだったのかといえば、賠償金の支払いは断固として拒否した。

 日本は降伏したわけではないので、賠償金の支払い義務はないというのが日本の主張であった。

 日本の0回答を受けて、アメリカ代表団はいきり立って戦争再開も辞さないと恫喝した。

 それに対して、


「金目当てか」


 などと代表の徳川慶久が罵倒して返したので、アメリカ代表のロバート・ランシング国務長官は激怒して席を立ち、会議場を出ていった。

 アメリカが退場したので、用は済んだとばかりに慶久も会議場から出ていった。

 慌てたのはイギリス代表のアーサー・バルフォア外相で、イギリス代表団は手分けして日本・アメリカ両国代表団の宿営するホテルまで出向いて説得する羽目になった。

 この講和会議において、日本は実質的な敗戦国とは思えない強気姿勢で臨んでいた。

 武人の島村はもとより、文官で国務奉行の牧野でさえ、一切悪びれることなく堂々と英米の代表団に相対し、幕府の武威を示していた。

 日本側の強気は、戦費の都合さえつけばあと2年、最大3年は戦争が継続できるという計算によるものだった。

 もちろん、中央銀行の国債引受という禁じ手を使うことを視野に入れればという但し書きつくが。

 人的資源が枯渇し、工業生産も半減して、全く継戦能力を残していないドイツと今だに軍事的抵抗力を大きく残している日本は全く交渉の前提条件が違っていた。

 少なくとも、アメリカ合衆国相手なら、1918年春季攻勢並の100個師団程度を動員した大規模攻勢があと3,4回実施できるだけの余力があった。

 それでも最終的な敗北は避けられないものの、それまで浪費される血と戦費は到底、死に体のイギリスやフランスに耐えられるものではなかった。

 だが、途中参戦したアメリカ合衆国は今だに意気軒昂だった。

 彼らにとって戦争とはこれからが本番だった。

 やっと戦時生産が軌道に乗って、兵器の大量生産体制が確立したアメリカは復讐に燃えていたのである。開戦以来の死傷者数は200万人を越えていたが、動員を繰り返すことで総兵力は400万人体制を維持していた。

 対して、イギリスは死に体だった。

 生産人口は壊滅状態で、戦後も暫く配給制を継続しなければならないほど疲弊していた。

 理由は日本との戦いにある。

 カナダやインドの植民地兵を日本の通商破壊戦によって殆ど戦線投入できなかったイギリスは、西部戦線に本国兵を投入しつづけた。

 本国兵は植民地兵に比べて士気が高く優秀だったのだが、イギリス本国の人口が約4,500万人程度であることを考えると最大動員は10%として450万が限界である。

 しかし、イギリス陸軍は、その2倍近い約800万人を動員していた。

 イギリス陸軍は兵力を維持するために徴兵年齢の上限の引き下げ、下限を引き上げという禁じ手を使って根こそぎ動員を進め、漸く戦線を維持していた。

 その証拠に、1918年11月の停戦を祝う兵士たちを写した写真は、写る人物の大半が子供と老人ばかりとなっている。また、公にはなっていなかったが一部には女性兵士でさえ前線にいたことが確認されている。

 今日の勝利のため、次世代を担う人材が壊滅するという、全く薄ら寒い状況が1918年の大英帝国の内情だったのである。

 なお、生産人口が壊滅状態になったため、戦後にイギリスは世界中の植民地から大幅な移民受け入れを行っている。

 1920年台にイギリスの多民族国家が進行し、まずいイギリス料理が多少なりともマシになるのはこのためである。

 そうした瀕死に近いイギリスの窮状をアメリカ合衆国はあまり理解していなかった。

 また、イギリスも自国の窮状を隠すために力を尽くしていた。

 そんなことを知られたら、講和交渉で足元を見られるにきまっているからだ。

 そして、実際に足元を見られるに及んで、イギリスのフラストレーションは頂点に達した。

 情報戦において、日本は世界屈指のプレイヤーであり、ロンドンの中枢近くまで日本の忍者は浸透していた。

 その為、日本代表団は苦しいイギリスの国情をかなり正確に掴んでいたのである。

 もちろん、逆もまた然りだったが。

 イギリス外交は追い詰められたが、これ以上戦えない以上は何が何でも講和を成立させなくてはならなかった。

 だから、日本はどんな強気な交渉も出来たし、アメリカを散々に挑発して会議をぶち壊しにするように仕向けて、イギリスから譲歩を引き出すことができた。

 イギリス代表団のウィンストン・チャーチルは、ストレスのあまり夜中に20階のホテルの部屋から長椅子を外に放り出したという。

 チャーチルの疲労は凄まじく、頭皮の毛髪の占める割合が45%から5%までに低下した。

 だが、日本も楽な交渉をしているわけではなかった。

 もし戦争再開となれば、確実な破滅が待っていた。

 ぎりぎり戦争再開にならない範囲で自国の利益を最大化するための瀬戸際外交を、世界最大の工業国と大英帝国を相手に行うのは並の神経では務まることではなかった。

 日本外交団の代表、徳川慶久はこの講和会議のストレスで精神を病み、副作用の強い薬を常用することになった結果、薬の誤用で講和会議の3年後に世を去ることになる。

 慶久はその才覚から徳川宗家期待の星で、未来の政威大将軍と目されていたことから、その死は痛恨であった。

 日本外交団は、アメリカとイギリスの温度差と瀬戸際外交を駆使して、少しずつ元より苦しい立場のイギリスを追い詰めていった。

 最終的にイギリスは金銭賠償要求を取り下げることになる。

 アメリカは猛反発して、講和会議中止と戦争再開を叫んだが、イギリスは万難を排してこれを押さえ込んだ。

 最悪、アメリカが買い付けたイギリスの戦時国債がデフォルトになる可能性さえあると脅されるとアメリカとしてもこれ以上は強くでることはできなかった。

 アメリカはイギリスに金を貸しすぎていた。

 大量のイギリス戦時国債を買い込んだアメリカの銀行はこれが焦げ付いたら倒産するしかないほどイギリスに金を貸しすぎていた。

 借金というものは、一般には債権者が強いものだが、一定の額を超えると債務者の方が強くなる場合がある。

 この時のアメリカがまさにそれだった。

 アメリカが参戦したのも、根本的にはイギリスが敗戦して債務の回収ができなくなると困るからであって、アメリカはイギリスに微妙な弱みを握られた状況と言える。

 また、イギリスは日本との単独講和さえ匂わせて、アメリカを脅しにかかった。

 アメリカ単独で戦争再開となった場合、日本に勝てる保障はない。

 最終的な日本の敗北とは、アメリカと共にイギリスも戦争を継続し、インド洋方面での日本海軍を攻撃することが大前提だった。

 アメリカの海軍力単独では日本を圧倒する力はなく、陸の戦いは彼我の生産力の差と人的資源の差を考えれば、最悪消耗戦の果てにアメリカ敗戦もありえる状況だった。

 イギリスは日米の共倒を視野に入れて、日本との単独講和を本気で考えていた節がある。

 慌てたアメリカはフランスに声をかけてイギリス抜きの戦争継続の可能性まで探ったが、とても実現可能性がある話にはならなかった。

 ちなみに、フランス海軍は1918年時点で超弩級戦艦4隻、弩級戦艦4隻しか保有しておらず、対日戦でインドまで行く能力などどこにもなかった。

 アメリカはイタリアにさえ声をかけてたが、イタリアのヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相から正気を疑われる結果に終わっている。

 なお、日本はアメリカの外交暗号をほぼ解読しており、アメリカのこうした必死(笑)の努力は全て筒抜けだった。

 イギリス諜報部は日本がアメリカの外交暗号を解読していることを掴んでいたが、植民地人にそれを伝えてやる気はさらさらなかった。


「彼らの自覚を待ちましょう」


 などとチャーチルも冷たく突き放している。

 日本からの挑発にあまりにも簡単にひっかかるアメリカに、イギリスはいい加減にウンザリしていた。

 チャーチルなどは独立から200年ちょっとではこの程度かと同盟国のアメリカを蔑視し、長年の仇敵である日本人の方に親しみを覚えるほどであった。

 だが、個人感情と現実政治の切り分けは厳格になされた。

 日本に何らかの代償を支払わせなければならない。

 それはイギリスもアメリカも共通した認識である。

 日本合藩国は解体されるべきだった。

 人口1億五千万人、最大動員可能数1500万の軍隊と世界第二位の経済力をもつ大国をそのまま存続させることは絶対に容認できなかった。

 広大な日本人の国家が分割されなければ、イギリス、アメリカ主導の戦後新秩序はなりたたないからだ。

 特に戦後の衰退が確定しているイギリスは、戦後世界の優位を確保するために日本の分断が絶対に必要だった。

 状況としては、オーストリア・ハンガリー二重帝国に近い。

 彼の国も領域を細かく分離独立させられ、広大な帝国は解体されて、オーストリアはヨーロッパの小国に転落した。

 日本人が築いた環太平洋帝国も同様であるべきだった。

 そして、日本代表団も賠償金取り下げで一先ず満足し、他の条件については細かく注文をつけるとしてもある程度は呑まざる得ないと覚悟をしていた。

 特に領土要求については織り込み済だった。

 この講和会議が条件付きの降伏交渉であることは誰もが承知していた。

 また、失った領土は戦って取り戻すこともできるという楽観もある。

 失地回復など、今次大戦と同規模の戦争がまた覚悟しなければならないし、全く実現可能性などないと思われたが、国内向けのエクスキューズとしては十分成り立つものだった。

 ワシントン講和会議は、賠償金要求取り下げから領土賠償に舵を切り、寸土の土地を巡って再び神経をささくれだたせる会議が再開した。

 結局、アメリカは日本の瀬戸際外交に最後まで翻弄された。

 講和会議の主要な結果は以下のとおりとなる。


 イギリス

 領土賠償として、スマトラ島、ボルネオ北部を得た。また、南天大陸諸藩はオーストラリアと名を変えてイギリスの保護国になった。

 スマトラ島、ボルネオ北部には世界有数の油田があり、日本の植民地としては最優等の物件であった。また、オーストラリアは日本とイギリスが双方に長く雑居していた場所であり、ぎりぎりイギリスの領有権が主張が可能な土地だった。

 

 アメリカ合衆国

 領土賠償として飛び地ながらアラスカを、他に太平洋中部の島嶼も得た。

 他に満州王国の鉄道敷設権や鉱山などの経済利権を全て獲得した。

 日本が保有していたパナマ運河の株式も賠償として譲渡され、パナマ運河のアメリカ単独支配が達成された。


 フランス

 南太平洋の島嶼及び大南島を得た。

 結果、約200年ぶりにパプアニューギニア(大南島)の名称が復活することになった。


 日本合藩国の解体

 有力な海外藩は全て独立した。

 呂宋藩は独立して呂宋共和国となった。

 北米大陸諸藩も各個に独立したが、独立藩同士の連合体である北米列藩同盟に改変された。

 蝦夷・シベリアは蝦夷共和国として独立した。

 他に台湾民国、琉球王国が独立した。

 

 日本の保護国の独立

 ハワイ王国は日本の保護国から脱し、日本、アメリカ、イギリス、フランスの独立保障を受けた非軍事永世中立国となった。

 朝鮮王国、満州王国も日本の保護国から脱し、正式に独立することになった。

 しかし、満州王国の実態はアメリカの植民地であり、日本から譲渡された鉄道警備のためにアメリカ軍12,000人まで軽武装の兵力を駐留することになる。

 

 講和条約後の日本領土

 本州、四国、九州、本土付属の島嶼、小笠原諸島、硫黄島は日本に残留となった。

 

 以上により、環太平洋統一国家としての日本は終焉を迎えることになった。

 日本本国単体の経済力はイギリス本国と同程度であり、GDP換算するならばアメリカ合衆国の33%だった。

 戦災で荒廃した英仏独の旧大陸勢力は没落し、日本の国家解体によって、戦後世界のアメリカ合衆国による経済一強時代が到来する。

 特に中部太平洋とアラスカの失陥により北米大陸と本国が分断されたことは決定的だった。

 割譲された日本の領土の大半が、スマトラ島のような経済植民地かアラスカのような人口希薄地帯だったが、難民の発生は避けられなかった。

 特にイギリスの保護国となった南天諸藩オーストラリアから多数の難民が発生した。

 以後、失地からの溢れ出た難民問題は戦後最大の政治課題として幕府を多いに悩ませることになる。

 また、連合国に割譲され本国から見捨てられた形になった各地では、以後、本国への複雑な感情を募らせることになった。

 合藩国の解体という結果に終った第一次世界大戦は、その後の日本の歴史において、国家解体戦争と呼ばれることになる。

 また、国家解体戦争は、合藩国の分割のみならず多数の保護国の独立を齎した。

 ハワイの永世中立化は、その立地条件から太平洋の拠点としてアメリカが興味を示したため交渉は難航したが、イギリスが賛成したため実現した。

 日本としてはハワイがアメリカの拠点にならなければ何でもよかった。ハワイはその立地から戦略的な要地であり、自国の拠点でなければ、誰の手にも渡してはいけない場所だった。

 アメリカは他にシベリアの領土に興味を示したが、流石に手に余るとして満州王国の膨大な利権で満足した。

 結局、この戦争でアメリカは西海岸を得ることはできず、北米大陸の国境線は戦前のままだった。飛び地でも西海岸に領土を得たかったが、日本は断固として拒絶した。

 しかし、パナマ経由で中部太平洋やアラスカ、満州に繋がる太平洋航路を手に入れた。

 北米大陸に成立した北米列藩同盟だったが、単体での経済力はアメリカ合衆国の30%程度であり、北米大陸におけるアメリカの優位は決定的となった。

 これにより100年近く続いた北米大陸の日米の確執は、一応、アメリカの優越ということでおさまる形となる。

 北米大陸の覇権を確率し、パナマを単独支配して、さらに満州王国という新しい植民地を得たアメリカはまさに得意の絶頂であった。

 アメリカ合衆国大統領のウィルソンは、フロンティア復活を宣言して、連邦議会の万雷の拍手で迎えられた。

 以後、アメリカは満州王国経営に傾斜し、さらに支那中原への進出を図るようになる。

 それは遅れてやってきた帝国主義であり、支那中原に利権をもつイギリスとの鋭い対立を意味しているのだが、そうなるのは少し先の話である。

 

  

 

 以上により、太平洋の新秩序が定められた。

 次の議題はそれをいかに維持していくか議論がかわされた。

 つまるところ、日本の復讐戦争を如何にして防ぐか、である。

 日本の復讐を阻止するため、軍備に何らかの制限を加える必要があった。

 また、戦前の日英独の建艦競争が国家間の緊張を増幅させた反省もあって、戦勝国も参加した軍備制限条約が模索された。

 戦勝国が率先して軍備を制限するとなれば、日本も受け入れざるえなかった。

 パリ講和会議ではドイツの一方的な軍備制限が盛り込まれ、ドイツ軍は徹底的に解体させられたが、同じことを日本に要求するのは困難だった。

 ドイツと同レベルの制限、特に数的規制を要求すれば最悪、軍部が暴発して講和会議そのものが吹き飛ぶ懸念があった。

 すっかり弱体化したドイツ軍と異なり日本軍はまだまだ戦える力を残しているのだ。

 よって、軍備規制は数的なものではなく質的なものとなった。

 まず陸軍は当初から規制の対象外となった。

 日本が復讐戦争を企図したとして、海を越えて侵攻するには海軍が必要不可欠であり、海軍軍備に質的規制を行って、イギリスとアメリカの海軍力の優位が確保されれば、太平洋の現状固定は可能であると考えられた。

 陸軍軍備が規制されなかったのは、そうすることで日本陸海軍を対立させるという意味もある。

 イギリス、アメリカは共同歩調をとって、日本軍に戦艦の全廃と保有禁止、賠償艦として引き渡しを要求した。

 この時、日本海軍が保有していた弩級以上の戦艦は20隻に達していた。

 36サンチ砲を装備した超弩級戦艦8隻とそれと対になる超弩級巡洋戦艦6隻はおそらく戦術単位としては世界最強の戦艦部隊であった。特に金剛型巡洋戦艦はアメリカ海軍を恐怖のどん底に突き落とした太平洋の疫病神だった。

 アメリカ海軍の金剛恐怖症は病的なものがあり、対抗艦としてレキシントン級巡洋戦艦を大慌てで建造中だったほどである。

 太平洋のビッチとして、金剛を忌嫌ったアメリカ海軍だったが、日本海軍にとっては最も頼りになる太平洋のウィッチであった。

 金剛が頼りになるウィッチなら、対になる伊勢型戦艦は大海を支配する女王だろうか。

 36サンチ砲12門の強大な火力とバルジを追加されたふくよかな船体は味方に安心感を与え、敵を恐怖のどん底に突き落とす日本海軍の最強存在である。

 伊勢型から連装砲1基を下ろした加州型戦艦は第一次世界大戦中に完成した高速戦艦の完成形であり、均整のとれた艦影はまるで異国の女騎士だった。

 改金剛型の春日、朝日は機関出力の向上で最大戦速30ノットに達しており、そびえ立つ塔型艦橋は日本戦艦の完成形として、美意識の塊のような韋駄天系美少女と形容された。

 20隻の戦艦群は、まさに太平洋のアイドル達であった。

 それを引き渡せと、俺たちに陵辱させろとアメリカとイギリスは要求した。

 要求が受け入れられない場合、一度取り下げた賠償金の再要求も辞さないという超強硬姿勢だった。イギリスでさえ、戦争再開を口にするほどの徹底したものである。

 特にイギリスはインド洋の戦いで、日本海軍に徹底的に痛めつけられた恨みがあり、ヴューティー提督の仇を討つため日本の戦艦を絶滅させることに執念を燃やしていた。

 イギリス代表団のチャーチルは、海軍大臣を務め、政界においてイギリス海軍の新型戦艦建造を強力に支援するなど軍艦好きで知られており、賠償金は取り下げても日本戦艦の全滅は絶対に譲れないとして強硬に申し立てた。

 イギリスとアメリカの提案説明が終わった時、呆然として徳川慶久は虚空を仰ぎ、恐る恐る島村速雄海軍大将の顔色を伺った。

 日本海軍に死ねというに等しい要求であり、これでは絶対に講和会議が破談となり、戦争再開は必至だったと考えたからである。

 それは破滅を意味していた。

 しかし、この提案を認めることは、日本海軍に自殺を強要するようなものであった。

 なお、日本軍の軍事作戦に自殺強要は含まれない。

 決死の戦いは幾度かあったが、必死の作戦というのはなかった。

 将校は武士だったが、兵隊は平民であり、武士でない平民に必死の戦いを強いることは武士の恥と考えられたからである。

 必死の戦いは武士だけがするもので、武士のみ名誉ある戦いだった。

 特に海賊のような犯罪者と長く戦ってきた海軍は護民意識が強く、第一次世界大戦でも潜水艦の魚雷から商船を守るために楯となって多数の駆逐艦が沈んだ。

 だが、海軍が腹を切らねば、戦争は終わりそうになった。

 顔面蒼白になった慶久に対してセイロン沖の英雄は、穏やかに微笑んでうなずきかえしたという。

 主君に忠を尽くす真の武士であった。

 海軍を人身御供にするに等しい軍備制限は、最終的に受け入れられたものの、日本海軍は元帥から一兵卒まで暗い怨念を宿し、固く復讐を誓うことになる。

 戦艦引き渡しに抗議して、戦艦の艦長7人名が切腹して果てた。

 この時、艦長達が身につけていた純白の第一種軍装は血染めのまま神戸の海軍博物館に現在も収蔵され、定期的に展示されている。

 いかに、日本海軍の怨念が深かったか分かるというものである。

 なお、ドイツも同様に賠償艦を要求されたが、抑留中に自沈する事件を起こしており、同じ失敗を繰り返さないために日本戦艦は連合国の厳重な監視のもとで引き渡しが行われた。引き渡し前の自沈等もなく、全て無事?に連合国に引き渡された。

 弩級戦艦の生き残りである播磨型戦艦や高千穂型巡戦はさほど魅力がなく短期間でスクラップになったり南米各国へ売却されている。

 しかし、36サンチ砲装備の超弩級戦艦群は、戦勝国海軍の主力として第二の人生を送ることになった。

 特に熾烈な獲得交渉が行われたのは、金剛型巡洋戦艦だった。

 イギリスは改金剛型巡洋戦艦、朝日、春日を得た。この2隻は主砲換装を含む大規模改装を行って、レパルスとレジスタンスとして再就役することになる。

 アメリカは金剛、榛名、比叡、霧島を得た。なお、建造中だったレキシントン級巡洋戦艦は軍縮条約により建造中止、航空母艦への転用となったので金剛型4隻はアメリカ海軍唯一の巡洋戦艦部隊として海軍の中核と位置づけられた。

 それぞれ、コンステレーション、レンジャー、コンスティチューション、ユナイテッド・ステーツと改名されている。

 これは未完成に終ったレキシントン級巡洋戦艦から艦名を流用したものであるが、アメリカ合衆国そのものとも言えるナイテッド・ステーツの名が賠償艦の金剛に与えられたことは、驚きを以って迎えられることになる。

 改伊勢型4隻、加州、有砂、台湾、南天はフランス海軍に引き渡された。

 それぞれがノルマンディ、フランドル、ガスコーニュ、ラングドックに改名されている。

 この4戦艦だけでフランスは軍縮条約で認められた保有枠を使い尽くすことになり、自国製の戦艦よりも日本製の戦艦の方が多いという奇妙なことになった。

 だが、誇り高いフランス人をしても、自国製の戦艦を保持するために、この4隻を破棄しようと考えない程度に改伊勢型は優れた船だった。

 伊勢型4隻、伊勢、日向、出雲、呂宋はイタリア海軍に引き渡されたが、フランスと事情は同じで軍縮条約の保有枠のうち、自国製よりも明らかに優れたこの4隻を海軍中核として残している。

 それぞれが、フランチェスコ・カラッチョロ、クリストーフォロ・コロンボ、マルカントニオ・コロンナ、フランチェスコ・モロシーニに名を改めている。

 いずれも建造中止になった超弩級戦艦から艦名を流用したものだが、この4隻は大改装を繰り返して、地中海最強の戦艦として後にイギリス海軍と砲火を交すことになった。

 また、戦艦以外にも多数整備された装甲巡洋艦も賠償艦として引き渡された。

 日本海軍の手元には、軽巡洋艦と駆逐艦、潜水艦しか残らなかった。

 とりあえず、平時の海軍としての体裁はなんとか整うには足りうる陣容であったが、戦争になれば戦艦のない艦隊ではイギリス、アメリカ艦隊に太刀打ちできないと考えられた。

 さらに日本海軍は航空母艦の保有も禁じられた。

 第一次世界大戦を経て発展著しい航空戦力を洋上に展開する空母は、戦艦に準じる主力艦として認識され、戦艦共々、日本海軍は保有が禁止された。

 多数の水上機を搭載する水上機母艦も保有は禁止され、海軍艦艇に航空機を搭載することは一切禁じられた。

 この制限により、日本海軍航空隊はほぼ壊滅するに至る。

 だが、それでも航空軍備そのものを禁止されるよりは随分とマシだったと言える。

 ドイツと同様に航空機の保有、研究そのものを禁止すべきという意見もあったほどだった。

 しかし、地上戦における航空機の役割は死活的なものであり、これを禁止することは実質的に陸軍軍備も規制することとなるため、航空機の保有、研究は認められることになる。

 ドイツ陸軍が機関銃の保有数や、軍馬の数まで事細かく規制されたことを考えると、まだ随分とマシな扱いだったと言えるだろう。

 ドイツ軍は機関銃の数どころか、ベルト給弾式機関銃を持つことさえ規制され、イギリス、フランスよりも劣る機関銃しか持つことを許されなかった。

 最終的に日本海軍は、質的な軍備規制として基準排水量10,000トン以上の軍艦の保有は禁止されることになった。主砲口径12インチ(≒30サンチ)以上の砲(陸軍砲も含む)も保有禁止となる。

 ただし、それ以下の艦船については自由であった。

 そのため日本海軍は条約制限ぎりぎり限界の10,000t級巡洋艦の建造に血道をあげることになる。

 所謂、条約型巡洋艦の誕生であった。

 アメリカ、イギリス海軍は合計50万トンを上限に、個艦は基準排水量35,000トンまでの戦艦の保有することになった。主砲口径は最大15インチ(38サンチ)まで認められた。

 イギリスの巡洋戦艦フッド級4隻フッド、ネルソン、ロドネー、アンソンは基準排水量35,000トンを超える軍艦であったが、特例で保有が認められ、世界最大の戦艦にして世界最強の戦艦部隊として君臨することになる。

 フッド級4隻は大提督級として海軍休日の時代に君臨し、フォーシスターズと称され、イギリス海軍の栄光を体現する存在となった。

 なお、アメリカ海軍は建造中のメリーランド級戦艦を、日本の次世代型戦艦に対応するため16インチ砲への換装する計画を立てていたが、軍縮条約成立を受けて14インチ砲戦艦のまま就役させている。

 戦勝国のフランスとイタリアは175,000トンまで保有することになったが、両国にとってはこの保有枠でも過大なものだった。

 なお、日本は大幅な軍備制限を受け入れる代わりに、日本から割譲を受けた土地に要塞や軍事施設の建設禁止という譲歩を得た。これは将来に失地回復を図る上で重要な条件だった。

 さらに新たに独立する朝鮮王国、満州王国の非同盟中立も確認された。

 日本の至近に位置する両国がアメリカ、イギリスと軍事同盟を結んで、その軍隊が駐留することになれば、本国直撃もありえるためである。

 ただし、満州王国の治安状態から、アメリカが得た利権を防衛するために軽武装の警備兵力を置くことは認めるしかなかった。しかし、機関銃以上の武装持ち込みを禁止することは成功している。




 講和会議の総決算として。国家再編と経済植民地と辺境領土割譲、賠償艦の引き渡しだけで、講和成し遂げたことは高く評価されるべきだろう。

 天文学的な賠償金要求を飲むしかなかったドイツは経済が壊滅し、社会の病理的な混乱に突入していったことを考えれば、遥かにマシだった。

 しかし、講和条約受け入れには、多くの血が流されたことを忘れてはいけないだろう。

 講和会議の内容が発表されると日本本国には激震が走った。

 講和会議そのものがまとまっても、講和条約批准は議会の賛成がなければならず、議会は上院も下院もほぼ反対一色に染め抜かれた。

 戦争に勝っているはずの日本が、なぜ国家解体に等しい屈辱的な講和を受け入れなければならないのか、理屈では理解していても納得できる話ではなかった。

 野党は元より、与党さえ、造反者が続出して、最終的に講和反対に回った。

 戦場から遠く離れた江戸では、高い生活水準が維持されていたこともあって、戦争の実感が薄く、戦争継続論が幅を利かせる土壌があった。

 新聞各社は政府を攻撃して、国民の不満を煽った。

 銃後の国民の殆どが、膨大な犠牲と屍を築いた戦争が敗北で終わることに同意しなかった。

 戦争に疲れ切っていたドイツと異なり、日本はまだまだ戦える余力を残した上での講和だった。

 余力をあとに残すために今、講和しなければならなかったが、余力があることが皮肉にも講和の障害になっていた。

 国民の不満は爆発し、議事堂は暴徒と化した群衆に包囲された。

 これに対して武器を帯びることを禁じられた将軍直轄の旗本衆が多数の死傷者を出しながら肉の壁を築いて議事堂を守り通した。

 だが、議会は反対多数で講和条約を否決するに至る。

 最終的な敗北は必至であったものの、それまでに暴れるだけ暴れてアメリカ、イギリスを道連れにするハルマゲドン理論まで叫ばれる中、政威大将軍徳川家達は将軍の大権を以って議会を閉鎖、幕閣と共に講和条約にサインした。

 講和条約は1ヶ月で自然成立し、日本と連合国の戦争状態は停止した。

 この1ヶ月の間に、江戸において戦争継続と講和条約破棄を叫ぶ軍部過激派と将軍直轄の旗本衆及び海兵隊による大規模市街戦が勃発する。

 戦いは、江戸湾に謀反をおこした未完成戦艦の薩摩が居座ったことから始まった。

 戦艦薩摩は主砲の照準を議事堂と江戸城に合わせ、近づく船を威嚇攻撃して江戸湾の海上交通を麻痺させた。

 食料の輸送を海運に頼る江戸は、食糧不足からの略奪が起きて大混乱が発生。暴徒と化した一般市民と共に軍部の過激派が決起して幕府転覆を図った。

 これに対して幕府は旗本衆と海兵隊による武力鎮圧を以って応えた。

 軍部過激派の本拠地となった海軍奉行所(海軍は特に賠償艦引き渡しに猛反発した)の攻略が、皮肉なことに戦車の日本初実戦投入となった。

 戦車の破壊力と威圧は凄まじいものであり、速やかに海軍奉行所は攻略された。

 また暴徒の鎮圧にも戦車は有効で、短期間で治安回復に成功する。

 しかし、海軍奉行所陥落で逆上した戦艦薩摩の砲撃で旗本衆も壊滅的な打撃を受け、議事堂は崩壊、江戸の町は3割が焼ける甚大な被害を出した。

 この戦いで巻き添えになった一般市民の死傷者は15万人を超えるとされる。

 人口700万人の大都市で市街戦が起きて、戦艦の艦砲射撃が降り注いだらどうなるか、誰も本気で考えたことがなかったとしか言いようがない結末だった。

 江戸湾に居座る戦艦薩摩は、旗本衆の特攻隊が弾薬庫に放火して爆沈させた。

 薩摩の沈没により、軍部過激派の謀反は終焉を迎えることになる。

 だが、この戦い後も、講和に反対する軍の一部は幕府のコントロールを脱し、海外に逃れて反連合国闘争を継続した。

 太平洋中部や南太平洋においては、脱走した装甲巡洋艦桑田を中心とした日本海軍残党が占領軍のアメリカやフランスを相手にゲリラ活動を行った。

 特に有名なのは、ソロモン海で活動した駆逐艦夕立であろう。

 天才的な海軍戦術指揮官の賀東艦長に率いられた駆逐艦夕立は単艦で、フランス海軍駆逐隊8隻を全滅させて、ソロモンの悪夢として其の名を轟かせた。

 こうしたゲリラ活動は、日本国内のシンパによって支えられていたが、場合によっては活動資金を得るために海賊行為も厭わなかった。

 海賊行為は寄付を募るという名目だったことから、何時しか日本海軍残党は乞食艦隊ベガーズ・フリートと呼ばれるようになった。

 後にベガーズ紛争と呼ばれる戦いは、その戦力が完全に壊滅するまで、4年に渡って続くことになる。

 また、海軍航空部隊も飛行機に乗ったまま逃亡した者が多く、南太平洋を拠点に海賊行為を働く空賊とよばれる集団が現れることになる。

 当初は空賊と呼ばれた犯罪者集団だったが、やがて飛行技能という特殊なスキルを活かした傭兵業を請け負うようになり、戦場鴉レイブンと呼ばれる傭兵集団となった。

 国家解体戦争後のレイブンの活動で有名なのは、トルコ祖国解放戦争だろう。

 この戦いで特別な活躍があったレイブンはトルコの国父ムスタファ・ケマル・アタテュルクに認められ、トルコ共和国軍の一翼を担い、アナトリアの傭兵と呼ばれることになった。

 これ以上はやめておこう。それはこの場で語るべき物語ではない。

 戦争終結の確認と市街戦の後始末を済ませた徳川家達は、江戸城内の将軍の間を血で汚さないように白布で覆って、古式作法に則り腹を十文字に切って果てた。

 介錯人は、海軍大将島村速雄だった。

 島村も、家達を介錯した後、軍部を抑えることができなかった己の不明を詫びる遺書を残して、切腹して果てた。

 家達の死を以って、徳川幕府の終焉とする歴史研究家は多い。

 なお、家達は一門衆であったが、宗家ではないので徳川宗家そのものは家達の死後も続いていくことになる。しかし、政治の一線から徳川家は完全に撤退することになった。

 将軍の自刃は、徳川歴代将軍において例がなく、戦国時代に遡っても足利将軍家の足利義輝ぐらいしか例がないことであったから世間の受けた衝撃は大きなものがあった。

 家達の死を受けて、政威大将軍選挙が開催され、新たな将軍として原敬が選出された。

 平民大君、原敬の元で、日本は新たな船出となったが、その先行きは険しいものだった。





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