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WWⅠ 世界の敵




 WWⅠ 世界の敵


 1918年、第一次世界大戦は戦争4年目を迎えた。

 ドイツ帝国は、同年3月3日にボルシェビキ政権とブレスト=リトフスク条約を結んで、ようやく東部戦線を片付けることに成功した。

 日本もそれよりも少し早く2月18日にロシア帝国と講和条約を結んでシベリアから北米大陸への兵力移送を開始している。

 なお、この時ドイツはボルシェビキ政権に過酷な条件を突きつけ、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ及び、トルコとの国境付近のアルダハン、カルス、バトゥミに対するすべての権利を得た。

 対する日本は実質的な白紙講和だった。

 日露戦争の国境線を再確認するだけでロシア帝国と講和している。これは極めて寛大な条件であったが、新生ロシア帝国が国内の支持を失わないようにする政治的な配慮だった。

 過酷なブレスト=リトフスク条約を呑まされたボルシェビキ政権は、国内の支持を失ってその後、長期間の内戦を戦う羽目になった。新生ロシア帝国が比較的早期にまとまっているのとは対照的である。

 その後の展開を考えると、日本の戦略的忍耐の勝利といえるだろう。

 決して、広すぎるシベリアの大地にウンザリしていたわけではない。

 また、ドイツはブレスト=リトフスク条約によって広大な占領地を得たことから、その防衛に多数の戦力を貼り付けることなっている。

 シベリア軍団のほぼ全力を速やかに北米へ転戦させた日本に比べると手際の悪さが目立つ結果といえるだろう。

 しかし、戦争経済が限界に達していたドイツにとって、あと1年戦うには広大な東欧の占領地が必要不可欠だったので、止む得ないとする意見も多い。

 実際、ドイツも戦略的に悪手であることは分かっていた。

 しかし、ウクライナの穀物がなければ飢餓状態の国民がいつ暴発するのか分からなかった。

 同盟国のオーストリア=ハンガリー帝国の大都市ブタペストでは食料不足から大規模な暴動が発生し、動揺した帝国政府が連合国との単独講和を画策するほどだった。

 連合国の海上封鎖による食料不足は体制そのものを崩壊させるレベルまで深刻化していた。

 それほどまでにドイツは追い詰められていたが、まだドイツ軍首脳部は戦うつもりだった。

 東部戦線を片付けた今こそ、戦争を勝利で終わらせる最後の機会だからだ。

 国民に膨大な犠牲を強いたこの戦争を、勝利で終わらせなければ、自分たちの未来がないことを彼らはよく承知していた。

 戦況は苦しいものだったが、決して悪いことばかりではなかった。

 アメリカ合衆国参戦というアクシデントもあったが、北米大陸で大打撃を受けていたこともあって、アメリカ軍のヨーロッパ派兵は沙汰止みになっている。

 イギリスはカナダ兵やインド兵が使えず、本国兵を消耗し尽くし、徴兵年齢の引き下げという禁じ手まで使って兵力を確保しているほどだった。

 フランスも事情は似たようなものだった。

 あとひと押しで、英仏の軍組織は瓦解するものと思われた。

 日本もドイツと同じく、ドイツ軍の西部戦線勝利を以ってこの戦争が終わることを願った。

 ドイツとの付き合いで始まった戦争にしては、この戦争は規模が大きすぎた。

 ロシアとの戦いは終わったものの、何故か瓦解したロシア帝国の後援をすることになり、これでは何のための戦いだったのか分からなかった。

 そもそも最初から不人気の戦争であり、成り行きでなんとなく巨大化した戦争に日本人の多くは疲れていた。

 積み上がった戦時国債の山は今のところなんとか国内で消化されているが、戦後の返済を考えると今すぐにでも戦争を終わらせるべきというのは勘定奉行達の共通意見だった。

 そして、西部戦線をドイツの勝利で終わらせるためにも、ヨーロッパへ一兵も送らせないために北米戦線で日本はアメリカ軍を引きつけておかなくてはならなかった。

 日本軍は1918年春の北米戦線において、およそ400個師団を国境に並べた。

 さらに予備兵力として後方に120個師団を用意し、総兵力は500万人に達している。

 これらはシベリアから転戦した兵力と、これまで控えてきた北米大陸諸藩の総動員によってかき集められた戦力だった。

 最大動員兵力1,500万人の日本軍にあっても、これほどの兵力を養うのは戦時経済でなければ不可能な芸当である。

 1914年から戦い続けてきた日本は、完全な総力戦体制を構築して膨大な数の兵器を前線に送り出していた。

 それを運ぶ商船団も戦時標準船の大量生産で戦前よりも遥かに拡大・強化されており、船団総数は1,800万トンに達している。

 商船保有量でいうなら、日本はアメリカと肩を並べて同率1位というところまで来ていた。 対するアメリカ軍も負けておらず、総動員を行って兵力を国境にかき集めていた。

 開戦と同時始まった総動員では、300万人が動員されていた。しかし、開戦2ヶ月で約80万人を失っていたので、差し引き420万が国境を守っている状態だった。

 アメリカ合衆国は最大800万人動員可能だったが、日本の最大動員数の半分であり、消耗戦になれば先に力尽きるのはアメリカ合衆国である。

 北米大陸諸藩が相手なら、アメリカ合衆国の優位は動かないのだが、日本合藩国の全力が向かってくると人的資源の不利は免れない。

 今次大戦における日本の人的資源は列強最大だった。

 アメリカ合衆国の不愉快な横殴りさえなければ、日本はインド洋を完全制圧し、スエズ運河を占領して、今頃はイタリアか南フランスにでも上陸しているはずだった。

 それができるだけの兵力、生産力、海軍力が日本にはあったのである。

 北米の戦いにおいて、日本軍が自信に漲っていたのは当然といえた。

 この状況はアメリカ合衆国にとっては誤算だった。

 特に、日本がシベリア戦線からほぼ全力をさっさと転戦させたことは予想外といえた。

 アメリカ政府及び軍首脳部は広大なシベリアの占領地をさっさと日本軍が手放すとは思わなかったのである。

 シベリアの占領地全域を維持するには、少なくとも70~80個師団相当の兵力が必要と見積もっていたことから、北米戦線で同程度の兵力数を確保できると思っていたのだ。

 アメリカ合衆国もヨーロッパ西部戦線の戦いが、今次大戦の帰趨を決するものと考え、なんとかして増援を派兵したいと考えていた。

 そのために、北米戦線で開戦初戦の攻勢防御で数的優位を確保し、浮いた兵力をヨーロッパに送る算段を立てていた。

 だが、実際には日本軍の罠にハマり、多数の兵力を喪失して、さらに数的不利な状況に追い込まれていた。

 兵力において劣位に陥ったアメリカ軍は三重の塹壕線を築き、塹壕戦の防御優位から国土防衛には不足を感じていなかったが、ヨーロッパ派兵は不可能となっていた。

 軍事的にはともかく、世論がそれを許さなかった。

 もしも、欧州西部戦線が英仏の敗北に終われば、アメリカは何も得ることなく、この戦争において敗者の列に並ぶことになり、それは致命的な事態となると予想されていた。

 アメリカもまた苦しい立場に追い込まれていたのである。

 しかし、空の戦いにおいては、果敢な挑戦者であった。

 1917年6月、赤土藩の首府である田場市に、アメリカ海軍所属の大型飛行船3隻が襲来し、北米大陸初の戦略爆撃を行った。

 その後も連日連夜、飛行船の爆撃は続き、北米大陸諸藩の国境に近い都市はアメリカ軍の空襲にさらされることになった。

 これらの空襲による損害は軽微なものだったが、心理的な衝撃は計り知れなかった。

 また、空襲警報が鳴るたびに工場や鉄道操車場の操業が止まるので、経済への影響は大きなものがあった。

 空襲圏外である加州藩であっても、誤報から空襲警報が鳴ってパニックが発生。数万両の経済的損失が発生したほどである。

 日本軍は高射砲と戦闘機を配備して対抗する共に、大型飛行船での報復爆撃を行った。

 しかし、両軍の戦略爆撃は心理的な効果を狙った恐怖爆撃に留まっており、戦争の行方を左右するには程遠いのが実相だった。

 アメリカ合衆国の力の源泉である五大湖周辺の工業地帯は空襲圏外であったし、日本領の西海岸も同様だった。また、飛行船に搭載できる爆弾の量では威嚇が精一杯である。

 両軍の防空体制が整うと巨大で動きの鈍い飛行船は対空砲火と戦闘機の銃撃で次々と撃墜されていったので、飛行船により都市爆撃は次第に下火になっていった。

 ただし、都市爆撃への恐怖は根強く残り、日本軍において独立空軍を建軍させる原動力になっている。

 飛行船に代わって空の戦いを主役となったのは飛行機だった。

 大戦勃発を前後して、日本各地に航空機メーカーが次々と生まれた。

 その中でも、第一次世界大戦における日本最大の航空機メーカーが呂宋航空(後の東亜重工)だった。

 その後の展開を考えると意外なことかもしれないが、呂宋は第一次世界大戦における航空技術の先端を走っていた。

 あまりにも先頭を走りすぎて、過大な設備投資によって戦後に壊滅することになるのだが、1918年時点では日本陸軍航空隊の主力機は殆どが呂宋で作られていた。

 これは豊臣財閥による強力な先行投資と航空技術を発展させる文化的な土壌があったことが大きい。

 呂宋において紙飛行機は子供の遊びとして古くから行われてきた。呂宋における最古の紙飛行機制作は一次資料によって確認できる限り1644年のことである。

 時の呂宋藩主、豊臣秀頼は自ら考案した紙飛行機製造法をマニラの子供たちに伝授し、その飛距離を競い合わせ、一番遠くまで飛ばした者に米10石を下賜した記録が残っている。

 また、秀頼は錬金術の実験としてグライダー制作を行っている。

 当時の人々の日記には、竹と和紙によって作られたグライダーによって滑空飛行した秀頼に関する記述が残っているのである。


「前豊右府様、するすると空を飛びたることにつき、古今に例なきことにて候」


 と、その様子を貿易で呂宋に立ち寄った茶屋四郎次郎が書き残している。

 秀頼が考案した竹和紙製のグライダーは、その製造方法が呂宋各地に伝えられ、滑空飛行は一種の神事、或いは伝統行事として呂宋各地で行われるようになった。

 なお、このグライダーは骨組みの竹をアルミパイプに、和紙をナイロン布に置き換えたものが現在もスポーツハンググライダーとして製造されるほど、完成度の高いものである。

 島嶼国家で、海に面した斜面に事欠かない呂宋は現在でもスポーツハンググライダーが盛んで、プロハンググライダーも存在するほどである。

 だが、17世紀当時としては人が空を飛ぶことは一種の奇跡であり、滑空飛行は神事の一種と認識された。

 グライダーで空を飛んだ者は「鳥の人」と呼ばれ、呂宋社会の中で非常に尊敬された。

 また、鳥の人を称える「鳥の詩」という歌が呂宋に伝わっている。

 この歌を作曲したのは豊臣秀頼という伝説があり、その意味深な歌詞と独特の旋律から、一種の予言詩ではないかという解釈がある。

 なお、「鳥の詩」は21世紀現在、呂宋の国歌に指定されている。

 もちろん国歌であるので、オリンピックや学校の卒業式などで全員起立して斉唱することは当然のことである。

 こうした文化的な背景に加え、呂宋の高い技術力、経済力を加味したとき、呂宋で人類初の動力飛行が成功を収めたのは当然のことと言えるだろう。

 1903年11月11日に呂宋郊外にて、日本人の山内兄弟がガソリンエンジン駆動による人類初の動力飛行に成功した。

 世界で初めて飛行に成功した航空機、星狐号スター・フォックスである。

 この僅か1ヶ月後には、アメリカ合衆国でライト兄弟が北米大陸初の動力飛行に成功しており、山内兄弟の成功はまさに鼻の差の出来事だった。

 なお、山内兄弟の本業はオモチャ会社経営で、トランプや花札をつくって研究資金を自弁している。山内兄弟はスペイン系日本人で、フルネームは山内マリオ、ルイージである。

 英語圏では発音が困難なYAMAUTIではなく、マリオブラザーズと呼ぶのが一般的だ。

 マリオブラザーズはその後、任天堂という航空機製造会社を創業した。

 風変わりな社名だが、これについて社長のマリオは、


「運命を天に任せて、さっと飛んだ」

 

 という有名な言葉が残している。

 だが、パイオニアの任天堂は航空技術の発展の中で取り残され、発動機部門のみが名脈を保って、最終的に呂宋航空(東亜重工)に買収されている。

 任天堂ブランドの航空機は潰えたが、東亜重工の開発する航空機用発動機にはその業績を称えて、任天堂の名を残している。

 21世紀現在においても、超音速戦略爆撃機に搭載された推力18t級ターボファンエンジン「NTD64」として、任天堂の名は続いている。



 話は逸れたが、呂宋には近世から続く飛行文化があり、その文化的素地の上に、豊臣家の豊富な資金投下によって世界レベルの航空技術が花開いていた。

 日本陸軍航空隊に採用された呂宋航空製17式複座戦闘機は12気筒水冷V型エンジン400馬力を備え、圧倒的な速度性能でアメリカ陸軍航空隊を一蹴する活躍を見せている。

 17式複座戦闘機は偵察、爆撃、対戦闘機戦闘にも使える万能機であり、日本陸軍航空隊の主力として1918年の春までに1,711機が生産された。

 なお、呂宋航空では自社製の飛行機に鳥の名前をつけることを好み、17式複座戦闘機には隼の名を贈っている。

 この習慣は後に、全ての日本軍機に適用された。

 アメリカ軍も、英仏から最新鋭機のライセンスを買い取って国産化に邁進していたが、その動きは途中参戦のハンデキャップを背負っていた。

 ライセンス生産が本格稼働するときには、既に旧式になってしまうというジレンマである。

 やがてアメリカ軍は、いっその事一から開発した方が早いという結論に到達するのだが、それまでに盛大な回り道を経験することになる。

 日本軍の航空優勢という認識のもと、1918年春季攻勢が計画された

 作戦骨子は敵野戦軍の撃滅だった。

 アメリカ軍のヨーロッパへの派兵を阻止するための限定的な攻勢作戦である。

 シベリア戦線が片付き、膨大な兵力がユーラシア大陸から到着今こそ、反撃の時だった。

 1918年3月25日に始まった日本軍の春季攻勢は、同時期に始まったドイツ軍の春季攻勢「皇帝攻勢カイザーシュラハト」に絡めて、大君タイクーン攻勢と後に称されることになる。

 大君攻勢は、120個師団を投入した大掛かりなものであった。

 攻勢開始地点は、北米戦線北部のワイオミング戦区が選ばれた。

 この戦区はカナダ軍とアメリカ軍の担当地域が混在しており、その重複部分を狙うことで混乱を誘う効果があると考えられたからである。

 実際、アメリカ軍とカナダ軍には統一司令部がなく、同時攻撃を受けると各個に応戦するため適切な作戦指揮が執れなかった。

 この戦いでは、アメリカ軍が入念に構築した塹壕線を突破するために挺身隊と呼ばれる戦闘工兵部隊が前線に配置された。

 同時期にドイツでも突撃隊と呼ばれる塹壕突破専門部隊を編成しているが、それと同じ機能を持つものである。短機関銃や軽機関銃を豊富に装備し、梱包爆薬や大型カッター、火炎放射器、地雷探知機など工兵装備を用いて有刺鉄線やトーチカ、地雷原を迅速に制圧、破壊することができた。

 また、砲兵戦術も第一次世界大戦型としては完成の域に達していた。

 わずか5時間の準備砲撃ながらも、航空偵察で判明した敵砲兵陣地を効果的に破壊。増援部隊の進入路を重点的に砲撃して、前線陣地を孤立させた。

 前線陣地に密かに取り付いた挺身隊が、孤立した前線陣地の各所を制圧すると移動弾幕射撃に守られた歩兵が前進し、点だった制圧地点をつなげて大きな突破口をつくった。

 その突破口を通じて、戦線後方になだれ込んだのはシベリアを踏破した騎兵集団だった。

 合計20個師団投入された騎兵師団は迅速に戦線後方のアメリカ軍砲兵陣地を蹂躙。さらに各方面の師団司令部を捜索、撃滅していった。

 師団司令部が師団長ごと全員捕虜になったケースもあり、指揮統制の崩壊で戦線全域にパニックが広がった。

 騎兵が戦線後方に侵入したことで、より後方の軍団司令部も脅威を感じて司令部を移動させることになったのだが、それがさらにパニックを助長することになる。

 軍団司令部の移動したことで、日本軍が軍団司令部のある遥か後方まで既に進出していると前線の各部隊が勘違いしてしまったのである。

 ワイオミング戦区全体が、もはや手のつけようのない大混乱に陥ったのは、攻勢開始からわずか5日後のことだった。

 こうした騎兵の迅速な進撃を助けたのは、上空を乱舞する日本陸軍航空隊だった。

 日本軍は、大君攻勢に際して1,220機の航空戦力を地上支援に投入した。

 一種の万能機である隼が小型爆弾で砲兵陣地や移動中の増援部隊を攻撃して、迎撃に上がってくるアメリカ軍機を撃墜した。

 近接航空支援は砲兵支援を受けられないほど敵地奥深くへ進軍した騎兵師団が唯一得られる火力支援だった。

 また各騎兵師団は、上空の偵察機から直接、通信筒で前方の航空偵察情報を得て、縦横無尽に大平原を疾駆した。

 歩兵の浸透戦術、強力で柔軟な砲兵運用、騎兵及び航空機を組み合わせた空陸一体攻勢。

 後の第二次世界大戦において、電撃戦と呼ばれる戦闘形態の原型がそこにはあった。

 進撃に際して問題になる補給だが、各騎兵師団は馬に軍需物資をばら積みすることでそれを解決した。補給物資を馬に過積載して長距離進撃を行うのは、シベリア戦線で編み出された手法である。

 大君攻勢は、アメリカ軍の事前の想定を遥かに上回る規模と速度で行われた。

 特に航空戦力の投入密度はアメリカ軍の想定を完全に凌駕しており、戦闘経験の少ないアメリカ軍航空隊を完膚なきまでに叩きのめした。

 なお、攻勢に際して、土地の支配は重視されなかった。

 野戦軍の撃滅とパリ攻略という二つの目標を追っていたドイツ軍のカイザー攻勢とは対照的に極めて明確な目標を持って日本軍は行動していた。

 パリのような重要都市でもあればともかく、日米国境にあるのはただの平原である。

 不必要な占領地を広げるよりも、敵野戦軍の確実な包囲殲滅が重視された。

 アメリカ軍は大君攻勢に対して、鉄道輸送を駆使して大量の増援を送ったが、指揮系統の大混乱によって増援の到着は遅れに遅れた。

 結果として、増援が到着するころにはワイオミング戦区の殆どの部隊が日本軍の重包囲下に陥り、無理な解囲を試みて損害をさらに上乗せすることになった。

 大君攻勢で、アメリカ軍の編成表から85個師団が消滅した。

 対する日本軍の損失も大きなものであり、約40個師団が壊滅している。

 だが、防御優位が常識だった塹壕戦において、攻勢側が防衛側の2分の1以下の損害で最大100kmも前進に成功したのは、それまでの常識では全く考えらないことだった。

 アメリカ軍の受けた衝撃は深刻である。前線兵力の20%が失われたのだ。

 さらなる動員で、兵力の回復は可能だったが同規模の攻勢が続けば、人的資源が枯渇して戦えなくなるのは目に見ていた。

 また、戦場上空に乱舞する日本軍機にまるで歯が立たないのは大問題だった。

 アメリカ陸軍航空隊は、主にイギリスやフランスの戦闘機、攻撃機をライセンス生産して装備していたのだが、航空機の発展が日進月歩の今次大戦においては、ライセンス生産が本格始動するころには、既に性能は旧式化していたのである。

 これでは大枚はたいて旧式機を買っているようなものだった。

 日本軍が航空機を独自開発し、大量生産して戦線に投入しているのに比べて、アメリカ軍の対応は後手に回っていた。

 経済は一流、軍隊は二流というのが戦前からの評価だったが、図らずもそれを露呈する結果となった。

 とはいえ、日本軍も楽な戦いをしているわけではない。

 攻勢が止まってしまったのも、所定の目的を達成したわけではなく、航空戦力が消耗しつくしてしまったというのが大きい。

 およそ1,200機で始まった航空攻勢は、1ヶ月後には稼働100機程度まで減っており、とても攻勢を継続できる状態ではなくなっていた。

 アメリカ軍機の反撃も地味に効いていたが、この頃の技術水準では長期間航空機を稼働状態で維持することが困難だった。

 木製フレームで布張りの機体は少し雨が降ると腐食して壊れてしまうほどである。

 また、事故で失われた機材は膨大な量に上った。対空砲火もまた損失の大きな要因だった。燃料の供給も滞っていた。特殊技能であるパイロットの損失も深刻なレベルに達している。

 アメリカ陸軍航空隊は全戦線から戦力をかき集めて反撃してきたこともあり、日本軍の航空攻勢は止まることになった。

 とはいえ、問題点は既に明確であり、対策に時間はかかるものの、解決不可能な問題ではなかった。航空戦力の消耗は機材の量産体制の確立とパイロットの大量養成体制が本格稼働すれば、解決可能である。

 加州の軍需工場には多数の航空機生産ラインが設置され、年産34,000機を目標とした生産計画が推進中だった。

 また、パイロットの大量要請のため、多数の練習航空隊が産油地帯の加州に編成された。殆ど一年中晴れている加州の内陸部はパイロットの大量養成に打ってつけの土地だった。

 消耗した航空戦力の補充され、3ヶ月後には同規模の攻勢が可能になる見込みだった。

 それまでにアメリカ軍の回復や戦術の改良もあるだろうが、そのころには本国で大量生産が進む戦車が戦線投入可能になる見込みであり、戦果の拡大が見込まれた。

 だが、その半年間の間に、世界情勢は大きく回天することになる。

 日本軍と同時期に始まったカイザーシュラハトは、パリを目前に攻勢が停止。

 その後、イギリス、フランス軍の総反撃を受けて、ドイツ軍は敗走したのである。

 攻勢失敗の原因には諸説がある。

 しかし、最終的な結論はイギリス、フランス軍の戦力がドイツ軍のそれを上回ったという身も蓋もない話になるだろう。

 なにしろ、1918年時点で、フランス陸軍航空隊は戦闘機だけで1,000機も保有す世界最大の空軍に成長していた。西部戦線に展開するイギリス・フランスの航空戦力は合計4,500機を越えており、さらに増えつつあった。

 日本軍陸軍航空隊とて、イギリス・フランスからすれば、まだ田舎の空軍であると言わざる得ない規模だった。

 対するドイツ帝国は、約3,600機を保有していたが、エンジンの開発で英仏の後塵を拝し、性能は劣位で、さらに数的な優位もなかった。

 日本軍が戦線投入前の戦車ですら、英仏は6,000両も保有していた。

 ドイツ軍は突撃戦車 A7Vを前線に配備していたが、その数は100両足らずだった。

 日本軍がシベリアで戦っている間に、西部戦線の英仏軍はそこまで軍備を高度機械化していたのである。

 カイザーシュラハトの当初こそ、航空戦力の集中でフランス軍を圧倒したものの、巻き返しが始まると均衡を保つのが精一杯となり、やがて戦力が枯渇した。

 上空援護がなければ地上戦がままならないのはもはや西部戦線の常識であり、ドイツ軍の進撃停止は必然だったのである。

 ドイツ軍の航空戦力は枯渇して二度と回復せず、フランス軍航空部隊は消耗を乗り越えて続々と戦力が増強されていった。

 フランスの航空機生産を支えていたのが、アメリカ合衆国が送り出した膨大な軍需物資だった。アメリカ産業界は大量の発動機をフォード生産システムで量産化して、ヨーロッパへ送り出していた。

 400馬力のアメリカ製リバティーエンジンは、英仏軍機の心臓として脈動し、ドイツ空軍機を葬り去っていった。

 アメリカ合衆国はヨーロッパ派兵こそできなかったものの、空の戦いのおいては巨大なプレゼンスを示していた。

 日本軍相手には大敗したアメリカ陸軍航空隊であったが、途中参戦のハンディキャップがなければ、日本陸軍航空隊に比肩するか、上回る航空戦力を1918年3月に揃えることができていただろう。

 そして、1918年のドイツの工業生産は材料の枯渇で、1913年実績の40%まで下落しており、戦力の損失を回復することは全く不可能になっていた。

 食料の欠乏はさら深刻で、厳格な配給制度を敷いて管理に努めていたが、配給は常に不足、遅配していた。食料を巡る暴動や略奪も頻発していた。

 後に公開されたドイツの公式統計は、海上封鎖を起因とする栄養不良および疾病による民間人の死亡者数を約76万人と推計している。

 連合国の反攻が始まったとき、ドイツ軍に戦う力はもう残されていなかった。

 第二次マルヌ会戦、アミアンの戦い、第2次ソンムの戦い・・・連合国軍はドイツ国境に迫り、ドイツ軍首脳部に、全滅か、休戦か、2つの出口を突きつけることになった。

 相次ぐドイツの軍事的敗北に驚いた幕府は、ベルリン大使をヴィルヘルム二世の元に送り、ドイツが単独講和しないように求めた。

 ヴィルヘルム二世は徹底抗戦を約束したものの、参謀総長のヒンデンブルクとルーデンドルフに説得され、日本に無断で連合国と休戦することに同意してしまう。

 新聞報道でそれを知り、怒り狂ったベルリン大使は兼定を片手にドイツ大本営に乗り込もうとしてドイツ軍憲兵隊に逮捕された。

 1918年11月4日にキール軍港の水兵の反乱にはじまるドイツ革命が勃発するとヴィルヘルム二世は財宝で溢れかえった特別列車でオランダへ逃げた。

 2,000機の航空戦力を用意した日本軍の秋期攻勢は準備完了していたが、もはや無意味であるとして発動されることはなかった。

 ヨーロッパの戦争は終わったのだ。

 日本合藩国は、全世界を敵に回すことになった。




 この未曾有の事態を前に、幕府は早急な対応を求められた。

 幕閣の議論は、概ね2つに割れた。

 一つは、戦争を継続して幕府の武威を示し、より有利な条件で講和する。

 もう一つは、即時講和だった。

 どちらにせよ、最終的に講和せざるえないという点では変わりがなく、いつ講和するのかが議論の焦点であった。

 もはや勝利を求められる状況ではないことは確定的である。

 ドイツ海軍封鎖の任を解かれたイギリス海軍は海軍全力をインド洋に投入することができる。対して、太平洋でアメリカ海軍主力と向き合っている日本海軍に差し向けることができる兵力は皆無だった。

 環太平洋国家である日本合藩国のアキレス腱は海上交通路である。

 イギリス艦隊がインド洋を押し渡り、スマトラ、呂宋、台湾、本土へ海上封鎖しかけたら枯死するしかない。

 とくに首都である江戸は人口過密都市で、食料の備蓄もないため海上封鎖を受けると3日で市中から食料が失われ、1週間以内に暴動が発生。2週間以内で無政府状態になり、政府転覆、革命勃発は確実視されていた。

 国内の食料流通でさえ海路に頼る海洋国家にとって制海権の喪失ほど致命的なものはない。

 朝から始まった幕閣の議論は果てしなく続き、夜が更けても終わらず、翌朝まで続いたが概ね即時講和で議論はまとまることなる。

 勝つ目がなくなった以上、戦い続けることは兵士に対する犯罪であり、文明世界を危うくする愚行だった。

 とはいえ、それは表向きの話であり、実際は戦争を続けるための金がないのだった。

 ドイツが降伏した時点で、幕府の戦時国債の起債が不可能になっていた。

 起債そのものは可能だったが、買い手がつかなかった。買い手がつかない国債など、ただの紙切れである。

 要するに、戦争の先行きに投資家や銀行家が見切りをつけたのだった。

 こうなってしまっては、血圧の高い軍人や単細胞の極右勢力がどれだけ徹底抗戦を叫んだところで、戦争継続は不可能だった。

 企業は無料では武器を作ってくれない。より正確には、企業の従業員は無料では働いてくれないのだ。

 金がなければ何もできないのは、個人だろうと、世界帝国だろうと何も変わらなかった。

 政威大将軍徳川家達は内心では戦争継続を望んでいたとされるが、現実を無視するほど愚かではなかった。

 だが、日本が連合国に求めたのは降伏ではなく、講和であると繰り返し強調された。

 このまま戦争を継続することは簡単だが、それは日本にとっても、世界にとっても不幸なことであり、日本は苦渋の決断と忍耐によって世界の平和を回復し、新しい秩序の中で名誉ある地位を占める。

 それが、幕府の公式見解だった。

 そして概ね、ほとんどの日本人が似たようなことを考えた。

 何しろ日本は戦争に勝っていたのである。

 1918年の大君攻勢は言うに及ばす、シベリアを踏破してロシア帝国を打倒。インド洋ではイギリス海軍を一度は壊滅させた。

 シベリアからは転進したものの、アジア・太平洋地域の全ての英仏植民地を占領し、インド洋ではセイロン島を占領、北米戦線では広大なアメリカの領土を占領していた。

 対して、連合国は寸土の土地さえ、日本の領土を侵すことができていない。

 アメリカの不愉快な横殴りさえなければ、日本は戦争に勝っていた。

 仕方がなく戦争を止めてやるというのが、日本人が編み出した未曾有の危機に対する自己防衛であり、自己欺瞞だった。

 このまま戦い続ければ、最終的な、壊滅的な敗北は不可避であることは明らかだったが、即時講和の名の下に可能性の一つとして脇に追いやられた。

 表向きは講話、実態としては条件付きの降伏という難しい外交交渉が、アメリカ合衆国の首都、ワシントンで開催される。


 戦後の太平洋新秩序を定めたワシントン講和会議である。




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― 新着の感想 ―
本当に国歌にした作品は類を見ないだろうなw
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