第2章ー17
レヴィンスキー将軍を中心として立てられた日米ポーランド連合軍による日本海兵隊のフルダ渓谷からの撤退作戦は、2つに分けられることになった。
米軍とポーランド連合軍による「冬の嵐」と日本海兵隊による「雷鳴」である。
基本的には「冬の嵐」によって少しでも独軍の包囲環を削った上で、「雷鳴」を発動して日本海兵隊が独軍の包囲環を突破して、一時的に撤退する。
それによって、日本海兵隊を救援してその上で再度の攻勢の展開を図ろうという作戦だった。
だが、日本海兵隊の脱出作戦「雷鳴」の内容について、どのような撤退作戦を展開するかで対立が生じた。
「全ての車両と共に脱出を図るべきだ」
石原莞爾参謀長らはそう強く主張した。
この辺りは米国にそうお世話になりたくない、というプライドの問題もあった。
第一次世界大戦時は、それこそ38式歩兵銃以外の武器弾薬等は全て英仏米から廉価で提供してもらう(中には無償で提供してもらった例まで稀ではなかった。)というのが、日本海兵隊は当たり前だった。
(その代りにおびただしい血を流し、命を失う羽目になったのだが。)
だが、それから20年余りが経ち、欧州で戦う日本海兵隊の装備の多くが日本製になっている。
確かに零式重戦車等の一部の兵器はともかくとして、それ以外の物資、例えばトラック等を失っても米国から大量に供給してもらえるだろう。
しかし、我々は大国の一角を占める存在であり、米国からそう物資を提供してもらうのはどうか、と石原参謀長らは考え、全ての車両と共に脱出すべきと主張したのである。
とはいえ、包囲環に日本海兵隊が閉じ込められて気が付けば10日余りが経っている。
包囲環の中にいる日本海兵隊には、全ての車両と共に脱出できるだけの燃料は無くなっていた。
この問題は、最終的に北白川宮成久王総司令官の決断により、手持ちの燃料で動かせるだけの車両を伴っての脱出という事で話がまとまった。
そして、第二の問題があった。
本当に最短距離で日本海兵隊が脱出を図るのが最善なのか、という問題である。
むしろ、こちらの方が重大な問題だった。
本来なら日本海兵隊は侵攻してきた南西方面への脱出(撤退)を図るのが当然、最善だった。
なぜなら、それが最短距離での脱出で、更に最も容易に脱出できる筈だからである。
だが、当然、そのことは敵の独軍も読んでおり、脱出路を厳重に固めているとの偵察情報が届いている。
更に地形の問題もある。
議論は紛糾することになった。
「いっそのこと、北東への脱出を図るか」
石原参謀長の言葉に、包囲環に閉じ込められている日本海兵隊の幹部(基本的に将官階級)は一瞬、沈黙してしまった。
北東、つまりベルリン方面への脱出を日本海兵隊は図ろうというのだ。
「それは脱出というより進撃だな」
北白川宮総司令官は言った。
「いや、独軍の虚をつくという点では最も効果的ではないか、と考えたのです」
「確かに虚をつくという点では効果的だな」
「先例もあります。関ヶ原の戦いの際の島津軍という先例が」
「確かにそうだな」
第1海兵師団長の小松宮提督が口を挟んだ。
「だが、燃料が欠乏する中、そのような脱出作戦が成功するとは思えない。島津軍は徒歩歩兵だから何とかなったし、時代が違う。北東に脱出しても武器弾薬が欠乏するだけだ。我々はやはり南西への脱出を図るべきだろう」
北白川宮総司令官が断じた。
「しかし、独軍が厳重に固めています。南西への脱出作戦は成功するでしょうか?」
石原参謀長は疑問を呈した。
「そのために米軍やポーランド軍も尽力してくれているのだ。友軍を信じて我々は南西への脱出を図るべきだろう」
小松宮提督が言い、その言葉に他の提督も肯いた。
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