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親ガチャと国ガチャと自分ガチャの話

作者: 鈴木美脳

 「親ガチャ」と「国ガチャ」と「自分ガチャ」について、ある側面から言語化します。


 「親ガチャ」は2015年頃から広く使われた多義的な言葉です。

 その本質は、「自己責任神話」への批判にあります。つまり、幸福度の低い低い社会階層にある者は一般に「努力の不足」が原因であり自業自得だという認知傾向への批判にあります。

 現実には、生まれた家の経済的な地位や地域は、人生のキャリアの形と幸福度に大いに作用するのではないでしょうか? また、身長や容姿はもちろん、学業の成績や「努力する能力」といった精神的な資質も、遺伝子の影響下にあり個々人で均等に独立ではないのではないでしょうか?

 したがって、「努力する能力も才能だから親ガチャはある」という主張は、多数者から見ればあまりに無責任でニヒリズム的ですが、ある意味では論理の中心を突いています。「いやそれはさすがに自己責任だろう……」という反論は成り立ちますが、(本人の)「努力の不足」という原因モデルは解体されてしまっており、一種の「ガチャ」の存在の承認に追い込んでいるからです。


 一方、「親ガチャは存在しない」という説もあります。

 それは、かなり強い(無理強いな)命題ですが、代表的な主張には一定のパターンがあります。

 (幼少期に親から虐待されて殺害されるなど)「例外はあるが、現実に実際に『親ガチャ』云々と語り出す者達はその例外に該当していないただの『甘え』だ」という考え方は、その代表例です。

 それは、主張の内容そのものではなく、発言者の性質に論点を移してその発言権を否定する操作ですから、アカデミア的な意味では「議論」ではありませんが、世俗的な発話の闘争的な応酬としては意味を持ちます。

 そして、「親ガチャは存在するが『親ガチャ』云々と言っている者達は『甘え』だ」という一歩だけ引いた立場もあります。実際、「幼少期に親から虐待されて殺害される児童」については犯罪として報道され処罰されている側面がありますから、すでに社会は健全であり、「さらに『親ガチャ』を議論する必要性はない」という立場は取りうるわけです。「甘え」つまり「努力の不足」という認知によって立場の弱い者からの反撃を棄却し、「自己責任神話」モデルを回復することが、その作用です。


 また、「親は子より先に存在しているのだから『子ガチャ』であって『親ガチャ』ではない」という考え方にも小さくない人気があります。

 これは論点がずれていますが、ずれた論点の上では客観的に事実であるため、論争における主張としては強さがあります。論点がずれていることを批判されても、それを理解しえないと感じて無視するなら、そもそものこの命題自体は主観的認知の内側では崩壊しないからです。主観的には自分の側が論破できていると見なしうるのです。

 また、「子ガチャ」という形は明らかに非人道的で社会的に受け入れられないため発話されないだけであって、資質に欠けた親の主観にとっては重要かつ強力な逃げ道です。

 「なぜテレビに映るタレントのように自分の子は華々しく好印象に育たなかったのだろうか?」「なぜ近所の金持ちと同じ塾に通わせてやったのにずっと低層の学校にしか進学できなかったのか?」と考えたとき、「子ガチャ」という認知モデルは、自分が与えた遺伝子や教育や環境条件の責任を無効化できるツールです。

 実際、環境条件が劣悪でも成功した例外の物語は、メディアではむしろ強調されて流通しています。環境条件が悪くても本人の質が良ければ挽回できるのが今の世の中だとするなら、社会に不満を述べる「親ガチャ」を言う者達は実際はすべて「子ガチャ」(のハズレ)だという命題は成り立ちます。しかしそれは、「子ガチャ」に無限に高い水準を課す論理であり、なおかつ現実には、子の資質がいくら良くても挽回しえない環境の悪さが実在します。

 いわゆる「毒親」の、絶対に自己正当化を堅持する精神構造を言葉にして漏らしたものだと言えるでしょう。

 際どい論点ですが、生まれつきほとんど偶然的に生じる身体の病気、あるいは人格的な障害なども現実にはありえますから、出産に関する制御できない偶然性によって親の人生の幸福もまた大きく左右されうるという意味では、「子ガチャ」は実在します。しかし、生まれつく家庭環境による人生の幸福度の理不尽な格差といったものが現実にあるとするなら、「親ガチャ」云々全体を「子ガチャ」の論理で棄却しようという態度は、まさに「毒親」的性質を強く示唆しているものだと言えます。


 したがって、「親ガチャ」は多義的だと言わざるをえません。

 しかし、その議論の背後にあるのはやはり、「自己責任神話」という社会的な空気の先鋭化です。

 改めて俯瞰するなら、「自己責任神話」は、特に、先鋭化した場合に、かなり無理なことを主張している命題です。

 結果的な人生の幸福度や社会的地位が「個人の努力」に純粋に相関する変数だという「公正世界仮説」的な認知傾向を際限なく強めるならば、他の条件の関与は均等だということになり、言わば「環境は同等」だという暗黙の条件を前提として強く課していることになります。

 そして、「個人の努力」というのは、実は極めて人間的な主観的な概念です。客観的で科学的な環境因子による因果関係の一切を排除する形で「公正世界仮説」つまり「自己責任神話」を先鋭化させた結果、独立的存在として捏造せざるをえなくなり生じた変数が、「個人の努力」なのです。

 現実の論争は個別な現象や個人を対象としたものであり、「努力と幸福の数理的で完全な比例」を主張しているものではありませんが、現実の因果関係を認知や言説のレイヤーでその方向に向かって誇張し歪曲しようという「距離」や偏差があると言えます。その意味で少なくとも現代の人間社会には自己責任神話という「空気」がただよっているのです。


 「自己責任神話」によって利益を得ている人達はいるでしょう。

 それは、実際には環境条件の格差によって利益を得ている人達であり、自分や自分達の社会的な成功を、「自分個人の才能や努力」として強調することで、権威による利益の再分配構造もまた自分達のために最適化したい者達です。

 しかし一方で、「自己責任神話」には、それ自体の心地良さもあります。なぜなら、「努力が報われる」という物語は、現実に幸福の可能性を追い求めて日常的に努力するすべての人間にとって、自らの行動を意味づけるために必要な認知的条件だからです。

 したがって、根深いことに、基本的にすべての人間存在には、「自己責任神話」への加担者としての性質があると言わざるをえません。

 そして社会において人々は、それぞれの個人や集団の立場から、自己正当化の認知を押しつけ合うという、情報戦という以上に認知戦と呼べる構造を備えています。

 したがって、「親ガチャ」云々といった議論は、人間社会におけるその認知戦の営みの一部分、そして「自己責任神話」という空気が不都合になった立場からの散発的な反撃だと見なせます。


 そのため、「親ガチャ」論の多義性はそれぞれに有効な正当性を備えており、ある「親ガチャ」論はそこにおいて必ず一定程度一面的です。

 そこで、私がここで採用する側面について、まずは少し言語化しておきましょう。


 すでに述べたように、一般的な「親ガチャ」論は、遺伝的で先天的な資質の差異による前提条件の比均質性を論理の俎上に含みますが、それはすでに相対化したのでここでは採用しません。

 また一般的には、経済的な格差を中心に「親ガチャ」論を扱う傾向があり、それは親ガチャ肯定論者からも親ガチャ否定論者からもむしろ圧倒的なメインストリームだと言えるかもしれませんが、私はそれも採用したくありません。結論から言うと、私が取り上げる「親ガチャ」の側面は、いわゆる「毒親」の論点を重視します。


 残念な現実として、精神的な異常者は実在します。

 社会的に露骨に有害ではなくても、閉じられた家庭という空間では子に対してひどく加害的に作用する性質の精神的な異常性も存在します。

 しかし、社会を俯瞰する場合、そのように精神的に顕著に異常な加害性を備えた親は、環境条件という全体的な議論から見ると優に数パーセント以下の低確率です。

 なおかつ、そのような境遇で育った者の多くは社会的に良い地位を形成しないため、倫理的に正当ではありませんが、その主張を完全に無視して社会は動作する性質があります。


 それに比べると、経済的な地位の優劣という論点は、誰しもにとって多少なり該当する共有しやすい論点です。

 また、どんな裕福な境遇に生まれた者にとっても、広い世界には自分よりはるかに裕福な人々が多くいます。学業や仕事で成功して高い世界にたどりつくほど、生まれた環境条件からして自分にはまったく手が届かない人達が多く割拠している現実を目撃させられるものです。

 実際に「甘え」の側面を強調して、経済的格差への不満を空想することもできます。例えば、極めて善良な両親や親族から深く愛されて育ち、しかも経済的にも十分に中流以上の生活をしてきていながら、例えば慶応大学に進学して友人が誕生日に親から最新のフェラーリを与えられたのを見て、「私って親ガチャ外れだよなぁ……」と感じたならば、一般社会の大多数者から見れば「いやいやあなたはむしろ恵まれているってば」(もっと謙虚に感謝したほうがよい)という反応を招く意味で、実際に「甘え」の性質はあると言えるでしょう。

 しかしそのような「甘え」が、現代における「親ガチャ」云々や同類の議論の背景の主流でしょうか?

 生まれにおける経済格差は遠く古代から人間社会の普遍であり、単にお金だけで済む話なら「親ガチャ」として「親」という結節点を表面に配置する必要性はなかったのではないでしょうか?

 「親ガチャ」論において現実に、親ガチャは決して「(先天的)環境条件ガチャ」という総称ではなく、「親ガチャ」として呼ばれたのです。


 実際に、経済的な環境格差は重要な論点です。生活保護や奨学金など多様な社会的支援が整備されつづけていますが、社会的地位を形成するにあたって、経済的な環境条件が何ら作用しないと言える現実にはほど遠いですし、それは当面の将来にわたって人間社会の自然な現実でしょう。

 例えば、偶然良い教師に幼少期に出会って学業への意欲を形成し、名門の学歴を形成することができるかもしれません。しかしそのようなことは、しばしば、そこまでです。大量の文化的資源に幼少期から満たされて育ち、富裕な親族をはじめとする強い人脈に支えられて伸びていくキャリアと比べれば、そもそもの環境条件格差が結局は響きつづけます。またそもそも現実には、様々な理由で、進学や就職などのキャリアの選択を制限されて断念したり、都市部への転居を断念する場合もあります。したがって、「自己責任神話」を批判する意味で、経済的環境格差を論点とした「親ガチャ」論が立ち上がることは自然です。

 しかしそれは、否定的に見るなら、虐待はされなかったが恵まれてはいなかったアカデミアの人間が、巷間の毒親批判から湧いた「親ガチャ」論を、自分達にとってわかりやすく自分達にとって意味のある形に、盗んでまったく書き換えてしまった「親ガチャ」論の形だと見ることもできます。


 またそもそも、「自己責任神話」という前提を採用しない立場から見るならば、貧困そのものは決して倫理的な罪ではありません。

 したがって、貧困であろうがなかろうが非常に深く愛して、子の人生の幸福のために最大限できることを尽くしてくれる親は、社会的に倫理的に賞賛すべき性質ですから、「ガチャ」の「ハズレ」だなどと侮辱することには深刻な問題があります。

 巨視的に文明を見るなら実はむしろ、共感的で全体最適的な知的資質が貧困側に追いやられるという相関傾向を仮定することも十分に可能です。経済的「親ガチャ」論によって、善良だが貧しい者達の繁殖を侮辱することは、構造的には、正義の側からの反撃の芽を摘む攻撃動作として作用すると見ることもできます。

 人類史を長期的に見るなら、キリスト教や武士道など世界中の文明において「清貧」思想は倫理の柱であり、経済的に劣位であることをもって「親」という人間の人格的価値を一面的に計測して否定するなら、それは清貧思想の対極にある資本主義的大衆消費社会の先鋭化にほかなりません。親や環境がどうこうという以前に、人間観としてすでに終末的な認知構造だと言えます。

 「親ガチャ」論はそもそも、「自己責任神話」に対する疑念であり政府といった体制秩序にとって不都合な性質を備えています。「格差解消は最も重要な社会問題の一つだが『親ガチャ』という表現には強い違和感を感じ共感しきれない」という態度が、政治家としては(括弧つきの)「百点」でしょう。その前提のもとで、主流アカデミアなどが「親ガチャ」論を経済格差論に回収しようとするならば、実は個人的人格への経済的価値尺度の適用を暗に承認している意味で、その操作は国際金融資本を中心とした利権序列構造に好都合な資本主義的ナラティブ支配に沿っています。

 メディアやアカデミアといった主流言説が、「親ガチャ」論の毒親批判を換骨奪胎して経済格差論に平板化する潜在的圧力は、そのように構造的に仮定することが十分可能なものにすぎません。


 したがって、「親ガチャ」にまつわる語りは、政治的な必然性も関与して多義的にならざるをえないのです。

 一方、経済的な環境格差に先立って子の人生の幸福に深く作用する論点として、心身に対する健康被害を挙げられます。

 肉体的な被害としては、まっとうな環境なら十分に避けられただろう要因によって脚や目の機能を失ってしまえば、明らかに大きな被害でしょう。

 しかし、偏食や異常な食事環境の強制や寒暖の厳しさ、不衛生で病原菌の多い環境などによって内臓機能に継続的な被害を受ける場合については、ずっと外観から理解しにくくなります。

 さらに、精神的な被害については、当事者以外にとっては理解する理由すらないと言えます。「自己責任神話」を乱す意味で、弱者の正当性を理解することは、むしろ自分の利益を損なう構造も確かにあります。

 PTSDなどに陥った者に対しても、「もう大人になっているのに子供の頃に親から言われたことを気に病むだなんて、それはもはやあなたが馬鹿なんじゃないの?」という加害的な心理反応は、傾向としては例外というより標準でしょう。


 しかし、優に数パーセント以下の低確率という水準で加害的な精神的異常性を備えた存在としての「毒親」において、精神的虐待は一種の標準動作です。

 それは例えば、共感性が徹底して欠落している前提のもとで、子の側の感情や価値観を一切承認せず親の側の感情や価値観を絶対的に強制するということが行われるためです。

 これが行われた場合、実際には親の主観的な精神空間における自己正当化のためでしかない「意味づけ構造」を、子は一種の奴隷として強制されることになり、それに適応しなければ精神的に生存できません。しかし、その「意味づけ構造」は決して自分の感情的心地良さのためのものでないのみならず、自分の人生の将来の幸福のための我慢としてすら合理性がないため、社会どころか現実への適応を阻害し、子を衰弱させ不幸にする傾向があります。

 その加害性は文字通り破壊的です。しかし、暴力的虐待が現代では厳しく犯罪化されている一方、家庭という密室における精神的虐待の捕捉は生得的に困難です。

 したがって、その被害は現在も世界中の社会で継続していますが、一方で資本主義的な都市化が「自己責任神話」を自己循環的に強化していくため、社会的な虐待は改善するどころか深化している側面すらあります。

 共感性が例外的なほど欠落した者が親となった場合に家庭という密室で行われる「意味づけ構造」レイヤーの致死的な破壊という論点は、被害の形式という意味では表層の真逆にあり、なおかつ社会全体が自らの「自己責任神話」を保つためには捨象したい論点です。

 このような人格破壊が低確率とはいえ実際に生じているなら、「親ガチャはない」「それは本人の甘え」といった命題が俯瞰的にはナンセンスであることは明らかでしょう。


 そのような親に幸運にも遭遇しなかった大多数の人は、自らの感情や価値観を絶対的に否定されつづけるという体験を経験したことがありません。

 したがって、自分自身の動物的な苦楽に反応して自らの心地良さを最適化するための合理性を模索して動作することが、標準動作です。

 しかし、上記のような著しい毒親環境によって「意味づけ構造」レイヤーの致死的に破壊された子供達においては、自分の苦楽に反応することは決して標準動作ではなく、むしろ自分の個人的な苦楽をいかに徹底的に抑圧して制御し、与えられた「意味づけ構造」において自分の価値を最大化するかが動作原理です。

 そして、洗脳的な精神的虐待環境を自ら経験した人々でなければ、この後者のケースが生じうることは、理解できない認知の外側です。

 例えば、「貧しくても奨学金をもらえば進学できるのだから、本人が生まれつき賢い人はそれなりに進学できているはずでしょう?」といった感情反応があります。しかし、「意味づけ構造」レイヤー大破壊が生じた人種においては、「自分個人の人生の幸福を最大化するために最も合理的な社会的地位を追求しつづけよう」という行動原理は、当たり前ではありません。むしろ、そのような「欲」を自己否定することに(真の)「美徳」を認めるほうが、破損した「意味づけ構造」と劣悪な不遇を抱えて精神的に生きていくためには合理的な選択肢でありうるのです。

 そのように、苦楽を自動的に追求できない場合、自らの健康を自動的に防衛できないことになり、また生存や繁殖の基本的な追求が(括弧つきの)「優越する価値」のもとで動作不良を起こし、精神的に生きていくために社会的には破滅していき肉体的には死んでいきます。

 そして、そのような例外的な「意味づけ構造」レイヤーの形について、社会の大多数者に、共感的な直観による理解を期待しても、明らかに不可能でしょう。

 精神的な生を確保するためには社会的な死が運命づけられているその「意味づけ構造」は、一言で言えば「地獄」と称しても構わないものでしょう。


 繰り返しになりますが、「親ガチャ」という概念は多義的です。

 その過酷な場合としては経済環境格差以前に健康被害がありますが、肉体的に最悪のケースは多数者にとっても直観的に自明である一方で、すでに例示したように、精神的に最悪のケースは多数者からすれば、認知構造的に理解も共感もしがたいものです。

 つまり、「不可視化」されています。

 しかし、「不可視化されている苦しみ」の実在こそはむしろ、「親ガチャ」の存在を強く示すものではないでしょうか?

 なぜなら、「不可視化された苦しみ」には、「不可視化される苦しみ」という地獄が相乗効果として内在的に重なっているからです。

 経済環境格差問題が地上の平原を語るものであるなら、例外的毒親による虐待問題は地表に走った亀裂の深淵を語るものだと言えるでしょう。

 苦しみの深さについて優劣を比較することは不適切ですが、「自己責任神話」が高く先鋭化するほど、その裏面にある心身の痛みの深さは想像を絶していると考えられます。


 以上の議論を一言でまとめるなら、「毒親は親ガチャ外れである」という(まあ当たり前の)ことです。

 シニカルに言ってみるなら、幸福な人生を目的とするなら、毒親を「選択」することは、最初にして最大の失敗です。

 すでに解説したように、真に劣悪な家庭環境のもとでは、子の側にいかなる点についていかなる優秀な資質があったとしても、苦しみしかない人生から逃れえない場合は明らかにあります。


 次に、「国ガチャ」についての議論に移ります。

 ここでは、特に私達が暮らす「日本」を題材としていきます。


 日本は一般的に、「国ガチャ」では結構な「当たり」だと断言できると見なされています。

 国際的にも平均寿命は高止まりしている国の一つでしょう。それは「国ガチャ」の客観的指標として最も重視しうる統計値です。

 しかし、多くの物事がそうであるように、一面だけから見て日本が「国ガチャ」当たりだと断言しきることはできません。

 シニカルに言ってみるなら、「私達の国は国ガチャ当たりである」と思っていることこそが、その国が「国ガチャ外れ」である事実を示唆しているとも言うことができます。


 なぜなら、島国として社会体制が長期的に信頼されている社会秩序においては、権威つまり価値観は共有されて画一化し、まさに「自己責任神話」が先鋭化している側面があるからです。

 集団主義には功罪があります。多数者が暗黙の了解を共有している状況には、功罪があります。

 そこにおける異物への否定と排除は、ロジカルというより、多数者の直観的な感情反応に基づくものだからです。そして、歴史的な中間層が安定しているほど、周縁に対するその否定と排除は峻厳であるという側面があります。

 そしてその、自分ではない者達に強いられた「不可視化された地獄」が視界にすら入っていないとき、「私達の国は国ガチャ当たりである」という通念が形成されているということもありえます。


 日本の主流の上層は、良い学校から学部の新卒として良い企業へ進むという形状であり、しかもそれが長年安定して太いです。

 また、治安が極めて良いということは、やや強引に反転するなら、拮抗する非主流の勢力が事実上完全に鎮圧されている秩序だと見ることもできます。

 さらに、いったんは「一億玉砕」をかかげるほど集団主義的性質を備えた社会が、戦後一転して西側の非核武装の平和主義的周縁領域として規定され、実はその歴史教育と歴史観は国際的な強烈な力学構造のもとで制御されています。メインコンピュータに依存していたシステムがメインプログラムを外部から(実は外部の利益に合理的な形に)更新されたようなものです。

 結局、一見平和に見えるし実際に平和である反面、当たり前に見える主流の価値観による支配力が強い社会です。


 虐待育ちの子供達にとってはどの国であれ基本的に人生はかなりの困難がつきまといますから、日本の短所を挙げたところで「外国も同様だろう」で論破されてしまうのですが、実際には容易に論証できないものの実態が大きく異なる論点は多岐に渡ります。

 日本では、不遇な境遇に生まれた者が早期に実家を離脱した場合に、それなりに受け入れられそれなりに成功できる回路が弱いです。

 また、特別に優れた能力や成果によって立場を認められる回路も弱いです。むしろ、「特別すごい人」など誰も求めておらず、「既存の成員が排除されないぬるま湯」を組織単位に防衛している側面があります。

 例えば外国のタトゥー文化には、主流の権威を共感的に受け入れない反骨精神の表明という側面があり、それを相互承認する一定の居場所がありますが、日本では完全に生活機能が否定される反社会的な暴力団などのより周縁的な現象に留まります。

 要するに、社会秩序が安定しているだけに、スタートや前半生がかなりの下層だと、ゴールつまり人生の最期までそのまま詰んでしまう傾向が、多くの面で多くの国より強いです。


 以上の議論を一言でまとめるなら、「親ガチャ外れ民にとって日本は実はけっこう国ガチャ外れである」ということです。

 シニカルに言ってみるなら、幸福な人生を目的とするなら、毒親を「選択」した上で日本を「選択」することは、最大級の失敗を二つ重ねた形になりえます。


 次に、「自分ガチャ」についての議論に移ります。


 「親ガチャ」や「国ガチャ」がたまには言及されるのに比べて、「自分ガチャ」は自然な概念ではないため、一定の補足説明を加えます。

 ここで「自分ガチャ」と呼ぶのは、個人としての心身の資質を指したつもりです。

 「親ガチャ」が最小規模の、「国ガチャ」が最大規模の環境条件を指すものとするなら、「自分ガチャ」はそれらに相対して自己の個人的で先天的な特性という制約条件に注目した概念だと言えます。

 したがって、「自分ガチャ」は、たいていの場合、まず環境条件に関する議論という文脈があって生じてくる概念です。


 「自己責任神話」のもとでは、共感的で利他的で社交的で善良な人格的資質は、(より個人的で閉鎖的で利己的で残忍な性質よりも、)幸福に報われる傾向があると予想されます。

 しかし、毒親を「選択」した場合については、大きく話が変わってきます。


 一般に、toxicな人格と非toxicな人格の接触は悲劇を生みやすいです。

 例えば、子が極端にtoxicで母親などが非常に非toxicな場合、「もっと愛情を注げば共感的な相互関係が築けるのではないか?」という希望にすがりつづけ、報われない利他的労力を注ぎつづけることで疲弊する場合があります。

 親が極端にtoxicで子が非常に非toxicな先天的資質を持っている場合も同様であり、toxicな親はしばしば「かわいそうな私」を演出するため、子の側は親の精神的異常性が実際には後天的な精神的被害ではなく先天的な特性である現実を諦めることが遅れ、ヤングケアラーとして献身的に虐待者の「意味づけ構造」に自分を添わせていく場合があります。言ってみれば、「素早く結婚や進学や就職で都会に行き実家から逃げて幸せな人生を送った妹と、親の介護奴隷として酷使されたまま一生をフイにした姉」といった構図がありえます。人間的な美徳だと思っていたものが報われないと理解したときには、すでに何かを取り戻すために時間的に手遅れな場合もあります。

 非toxicな子にとって、親は絶対的な家族であり容易に捨て去れる他人ではありえません。そして、共感的美徳を重視して拝金主義的利己主義に共感しない態度は、現代では主流の学歴や地位の権威を相対化する視点も招き、「意味づけ構造」の転移を起こす蓋然性を用意してしまいます。そして、toxicな「悪」は、親であれ企業であれ、子や若者のそのような「善」を最大限逆用して使い捨てます。


 したがって、善良な性格的資質が都市化する近代社会で真に幸福を助長する因子かどうかは、ただでさえ疑問符がつきます。

 なおかつ、毒親と日本を「選択」した上で善良な性格の自分を「選択」してしまうことは、もはやアウトな大失敗でありえます。


 また、「自己責任神話」のもとでは、個人としての先天的な知的優秀性は、ほとんど完全に、幸福追求のために有益な因子だと見なされます。

 これはさすがに、反論不能の自明な真実に見えます。

 しかしすでに解説したように、毒親を「選択」した場合、基盤的な「意味づけ構造」レイヤーからの崩壊が生じ、知的エネルギーは素直に利己的に方向づけられない場合があります。


 すると、どうなるのでしょうか?

 その主体は、幼少期に利己性の制御を前提化された異常構造を備えるとともに、利己的な動物的感情反応を前提として人類社会が形成している「自己責任神話」の恣意性を論証的に相対化して認識するでしょう。

 そして、その(括弧つきの)「卓越性」は、安定した社会の利権序列構造にとって、既得権益の順調な深化を糾弾する危険因子でしかありません。

 社会は真の意味で進歩してきたのか、人間は真の意味で進歩してきたのか、彼や彼女は問うかもしれませんが、そのような近代市場の「自己責任神話」へのノイズは、文明という利権序列構造にとって徹底的に周縁化すべきものではあれ、中枢に引き寄せて自ら宣伝してみせるべきものではありえません。


 したがって、毒親を「選択」した上で賢さを「選択」することは、生に対する自らの適応条件を否定的に閉じる操作でありえます。


 まとめます。


 日本、そして善良や知的といった資質を選択することは、それ自体では原則として人生の幸福度を増加する選択肢だと言えるかもしれません。

 しかし、いったん毒親を「選択」した上でそれらを選択するとなると、「人生の幸福度を増加する選択肢」かどうかは、十分反転しうるのです。

 つまり、「親ガチャ」「国ガチャ」「自分ガチャ」という3つのガチャは、相互に独立してはいません。

 毒親を「選択」するなら、日本や善良や知的といった「選択」は、むしろひどく危険でありえます。

 そしてそれは、単に「親ガチャ」が支配的因子だと言っているだけではありません。むしろ、「親ガチャ」で同じ「選択」をしても、「国ガチャ」「自分ガチャ」の結果によってはまったく異なる人生がありえたという、何とも受け取りにくい現実の複雑性を描写しているのです。


 そして、ガチャについて「選択」と申し上げてきたことはもちろん、その選択不可能性へのアイロニーにほかなりません。

 「親ガチャ外れたから国ガチャも外れになっちゃった……」「親ガチャ外れたのに自分ガチャで善良性を引き当てたから詰んじゃったw」など、一見同じ運命論の範疇にあっても、事実を俯瞰するなら語りは屈折して複雑化します。

 結局、何かを悪魔化する普遍性は成立しないということになり、「自己責任神話」の外側の「意味づけ」の不可能性を目撃することになるでしょう。

 それは単に肯定するでも否定するでもない、夢を持つでも諦めるでもない、構造としての宇宙観であり自己認識です。


 もしも人間に罪があるとするなら、「親ガチャ」「国ガチャ」「自分ガチャ」のどれかまたはすべてで大きなハズレを「選択」したことに最大の原因があるのではないでしょうか。

 そしてその「失敗」は自分が生まれる以前のどうすることもできない失敗であり、明らかに「努力」という変数の影響下にないことがすでに論証されました。


 「親ガチャ」「国ガチャ」「自分ガチャ」とはいえ、その「選択」はそれぞれ一度限りです。

 ならば苦しみや理不尽に満ちていたとしても、歩んだ道そのものは価値として承認することが健全であり、幸福の基盤となるでしょう。

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― 新着の感想 ―
 取り敢えず、神ガチャが失敗でなければある程度なんとかなるでしょう。  まあ、駄目なら駄目でそれに妥協点を見出だし、それなりに精一杯生きることが幸せというものかも知れないです。古くよりある分相応なんて…
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