第24話 Escape
昼休み、過酷な学校生活の中にやってくる待ちに待ったオアシス。特にこのテスト返し期間中はその意味もいつもより大きくなる。
「おあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」
昼休み開始と同時に、そんな叫び声を発しながら私は自分の席に突っ伏した。アリッサばりのデスボイスに左隣の女子が身体をビクッと震わせたが、んなことは知ったことじゃない。
「あはは近藤さん、相変わらず女の子が出しちゃいけない声だね」
黙れ佐藤、お前みたいな裏切り者なんかとはもう口を聞いてやらないからな。
「そんな声出したくなる気持ちも分かるけどな……」
「そだね~、坂本も近藤さんと一緒でテスト結果は散々だったもんね~」
「そりゃあ夏彦、お前と比べりゃな」
そう、非常に腹が立つことにこの佐藤と言う男、全ての科目で軒並み高得点をたたき出しているのだった。こいつ、いつもの授業は私と同じように居眠りばかりしているのに、この成績は一体どういうことなんだろうか。これが地頭の差という奴だろうか、ファック。
「ん~、僕なんて大したことないけどねえ~」
佐藤はまたヘラヘラ笑った。死んでしまえ。
「はあ、そうっすか……んじゃ、俺行くわ」
誠二は弁当箱を持って立ち上がった。
「ん? 誠二、今日も当番?」
誠二は週に二回ほど、所属する放送部の連絡放送当番に行く。美人の先輩に釣られて入部した割には続いているようで、全くご苦労なことだと思う。
「ああ、行ってくるわ」
「ご苦労さん、行ってらっしゃい」
「おう、また後でな」
「ばいばい坂本~」
さて私も弁当でも食うか。ちなみにいつもお昼は誠二や佐藤と食べたり、たまに透子と一緒に食べたりしている。でも今日は佐藤と一緒に食べたくはない、こいつと口を聞きたくない。
教室の中を見回すが透子は居なかった。仕方がないので部室にでも行くことにしよう。昼休みの軽音部室は音出しが禁止されているのできっといつも通り無人だろう。
昼休みの賑わう廊下を一人で歩いて部室棟へと向かう。今日の空は晴れ渡り、気持ちのいい青空が広がっている。中庭にはベンチに座ってお弁当を食べているグループも幾つかあった。
そういえば飲み物がない、ということに気が付き中庭を突っ切って自販機コーナーへと進路変更。
「はい遼さん、あ~ん」
突如中庭の真ん中辺りで、こんな甘ったるい声が耳に届いた。
「な、なあ楓。ここはやっぱり人目があるしさ、そういうことは……」
「遼さん、あ~ん。ですよ?」
中庭のど真ん中、特等席でランチを食べているカップル。
女の方は小柄でツインテールのよく似合うまるでお人形さんみたいな容姿で、そしてその顔立ちも恐ろしく整っていた。まさに美少女という言葉がピッタリに合う可憐な見た目だ。
対する男の方は、何というかコメントに困る。冴えないというわけではないが、特別格好良いというわけでもない。中肉中背、普通の男子高校生としか言い様がない。釣り合いが取れているとはぱっと見言えない組み合わせだった。
いやいや、見た目で人を判断するのは良くない。あの男も実はものすごく男らしい性格で硬派なやつなのかも――
「あ、あ~ん」
――なんてことは果たしてなかったわけだな、うん。一応ポーズで一回は遠慮したけど、結局頬を緩ませてあーんに応えてしまうという軟弱っぷり。死ね。
「ふふふ、美味しいですか?」
「ああ、うん。今日も美味しいよ」
「はい! そう言ってくれると作った甲斐があります。さ、まだまだありますからどんどん食べて下さいね」
目も耳も腐って、そして脳まで溶けて頭蓋骨から流れだして行ってしまうような光景だった。糞が、死ね、こんな人の目が多いところでイチャついてんじゃねえ。ファック、ファックだ。いや、ファックはすんなゴミカップル。
「もう、遼さんったら……ここ、ソースが付いてますよ?」
「え、ここ?」
「そこじゃないです……はい、取れました。ふふふっ」
こんな場所からはとっとと立ち去るに限る。早く自販機のところまで行って、静かな部室に逃げ込もう。足早に中庭を抜けて行こうと歩みを早めて、そしてもう少しでゴールといったところでとてつもない負のオーラを感じた。
「……ね……にやがれ……けるな……えろ」
発生源はどこだろうか、ものすごく嫌な感じがするぞ。
周りを見渡すと、
「あんの泥棒猫が……遼君にあんなにくっつきやがって。確かに今日はあんたの日だけど、だけどだけどこんなに見せつけるような真似しなくたっていいだろうが、死ね。死ね死ね死ね、滅びろ」
木の影には、修羅がいた。
スラっとしたでも出るところはしっかりと出ているモデルのような体型、茶色がかったセミロングのストレートは触らなくたってその手触りの良さが分かるほど手入れが行き届いている。美人だ。文句なしに美人だと思う。
「おかしいと思ったのよ、放送室にいないから。探してみたらご覧の有り様、ぐぎぎぎぎ……」
そんな美人が悔しさに顔を歪めて、歯ぎしりをし、呪詛をまき散らしている。
「我慢、我慢だ。我慢するのよ由美。明日は私の番なんだから。明日は私ももちろんお弁当作って、遼君にあーんってしてあげてしてもらって……で、でへへ……あっ、ダメっ、だめだよ遼君まだ昼間なんだから。やっ……だめぇ、耳っ、みみは弱いからぁ……はぁんっ!」
かと思うと今度は妄想に浸って身体をくねらせ始める。あれだ、この人は完全にやばい人だ。関わり合いになりたくない。さようなら、あなたとは出来ればもう一生会いたくないです。
「ふう……」
危険人物地帯を抜けてやっとのことで目的地である自販機コーナーに辿り着いた。
もちろん買うのはブラックコーヒー。ブラックっていうのが重要だ。砂糖やミルクなど余計なものを含まないというのが格好良い。あとブラックという言葉にも惹かれるものがある。苦いけれど、母さんの作った弁当には絶望的に合わないけれど、ご飯とコーヒーの親和性は皆無だけれど、しかし私はブラックコーヒーを貫き通す。だってそのほうが格好良いから。我慢するのはその理由だけで十分だ。うん、私格好良いと思う。
「へー、ブラックコーヒーかー。奈緒ちゃん渋いねえ~」
自販機のボタンを押したところで、後ろから唐突に話しかけられた。
「へ?」
完全な不意打ちに若干気の抜けた声を出してしまう。うん、これはちょっと私格好悪い。
「やっほー奈緒ちゃん、元気?」
「ええ、まあ、はい……ええっと、清田先輩、でしたよね?」
私に気安く話しかけてきたのはLeno Weaveのギタリストである清田先輩だった。下の名前は知らない。ちんまりという表現がぴったりな体型、茶色に染められたショートボブ、そして猫みたいにくりくりとした瞳が特徴的な人だった。
「おっ、ちゃんと覚えててくれたんだ! 偉いぞ~」
「ちょ、止めてくださいよ」
清田先輩はニコニコとしながら私の頭をなでた。先輩のほうが私より低身長なのに。変な図だと思う。というかこの前のライブでも一切会話なんかしてないのに、いきなり馴れ馴れしくし過ぎじゃないだろうか。
「あっ、髪型変えたんだ! 似合ってるねえ、ポニーテール」
「ど、どうも……」
何というか、人懐っこいというか、この人からは邪気が感じられない。
「奈緒ちゃんそれお弁当だよね? どこで食べるの?」
「部室で、食べようかと」
「誰かと一緒?」
何だこの人、随分グイグイ来るな。何だよぼっち飯の私を笑うつもりか。
「……いえ、一人ですけど」
一人で昼休みを過ごして何が悪いって言うんだ。私は天才ヘヴィメタラーだからそんなものは全く気にしないのだ。天才とは得てして孤独なものなのだ。
「ふむふむ……」
清田先輩は私の答えの後少しだけ考えこむような素振りを見せて、
「だったら私と一緒に行こうよ! ね?」
私に返事をさせる時間も与えず、腕を掴んで歩き出した。
「ちょ、えっ、いきなり何なんですか!?」
「だから一緒にお弁当。あんな薄暗くて埃っぽい部室で一人でご飯なんて食べるもんじゃないって。だから私の隠れ家にご案内」
放せ、糞、うわこの人小柄なくせに意外に力あるな。畜生引きずられていく。
「隠れ家ってなんですか? っていうか放して下さい」
「それは着いてからのお楽しみ~」
にひひと笑う清田先輩の表情は、まるで子供のそれだった。
今日の昼休みは、なんだかとっても碌でもない。
「じゃーん! 到着でーっす!」
清田先輩に無理やり引っ張られて連れて行かれた先は、特別教室棟一階の隅っこにある教室だった。
「……ええっと、ここって」
「うん、美術室だよ。奈緒ちゃんはここ入るの初めてかな?」
「ええ、音楽選択なんで」
水ノ登高校の芸術科目は、三つの科目から一つを選ぶという形式をとっている。音楽と美術と書道。私はもちろん音楽を選択している。
「そっかー、やっぱり奈緒ちゃんは音楽だよねえ。さあさあ入って! 今日のお昼ごはんはここで一緒に食べよ?」
私の返事なんて聞かずに、清田先輩は勢い良く引き戸を開いて美術室にずかずかと入っていった。
「はあ……」
仕方がない、ここまで来たらこの子供みたいに人懐っこい変な先輩に付き合おう。
覚悟を決めて美術室の中に入る。
「はい奈緒ちゃん! ようこそ私の隠れ家へ!!」
満開の笑みで、先輩は私を迎え入れた。周りを見渡す。眼に入るのはどこかで見たことがあるような石膏像だとか、イーゼルにセットされた描きかけの絵だとかデッサンだとか。正直中学校の美術室と大して変わりはない様に感じる。強いていうならば何だか変な匂いが少しする、気がするくらいだろうか。何だろうかこの匂いは。
「油絵の具の匂い、気になる?」
「ああ、これ絵の具の匂いだったんですか」
確かに私の中学校では油絵なんてやっていなかったから、美術室でこの匂いを感じるのは始めただった。
「う~ん、いつも十分換気はしてるつもりなんだけどやっぱり残っちゃうんだよねえ。場所変えようっか?」
「いえ、別にそこまでは気にならないですから」
別に清田先輩を気遣ってこう答えたわけではなく、本心から出た言葉だった。それにもう一度この人に校舎内を引きずり回されるのは、流石に勘弁して欲しかったという理由もある。
「良かった~、結構気にする人もいるからさあ。私はこの匂い結構好きなんだ。さ、それじゃあ食べよ!
適当に座ってよ……って、何でそんなに遠くに座るかなあ!?」
「え、いや、だって適当にって」
「も~、それじゃあ一緒に食べる意味無いじゃんか~」
離れた席に座った私のもとに先輩はずいと近づいてきてドスンと腰をおろした。
「いただきまーす!」
「……いただきます」
ハイテンションな清田先輩と、若干引き気味の私というアンバランスなテンションで昼食は始まった。
清田先輩のお弁当は小さかった。私の半分くらいしかないんじゃないだろうか。あんなのでお腹が空かないのか、甚だ疑問である。
「奈緒ちゃん、この間のライブはお疲れ様っ」
「お、お疲れ様でした」
「ライブの後にお話したかったんだけど、私も物販とか精算とかで忙しくってさあ。今日はもうやっとチャンスがやってきたって感じでね!」
「はあ、そうなんですか」
どう返していいか分からず、どうしても歯切れの悪い返事になってしまう。だってこういうちゃんと女の子っぽい人と話すのは苦手なのだ。そんな友達今まで居なかったし。
「いやあ~、奈緒ちゃんって本当にギター上手いよねえ~」
でもまあ、こういうタイプは苦手だけれど、そう言われると悪い気はしない。
「まあ、あの位は当然です。まだまだ本気出してないですし」
ちなみに直前まで緊張で震えていたなんて、そんなことはなかった。そんな馬鹿なことはなかったのだ。
「へえー凄いんだね奈緒ちゃんっ! ねえねえ、何食べたらあんなに指動くようになるの?」
取り敢えずその弁当箱のサイズは倍にしたほうがいいと思うけれど、
「は、ははは、どうも……」
当然そんなことは言えないので、適当に笑ってお茶を濁す。
「いやー私より年下の女の子にあそこまで上手にギター弾ける子がいるなんて知らなかったよ。本当憧れちゃうな~」
そう言う清田先輩の言葉からは、女子によくある妬み嫉み、僻みとか皮肉とか嫌味だとかは一切感じられなかった。裏表のない素直な人なんだろう。やっぱりこういう人は苦手だ。
「いや、でも先輩のバンドも凄いじゃないですか。完成度も高いし、全国規模の大会でも賞もらったりしてるし」
褒められるのは嫌いじゃないし、いやむしろ大好きだけど、こうも手放しで褒められっぱなしというのも居心地が悪いので、私は話題をLeno Weaveのことに変える。
「う~ん、まあ確かにそうなんだけどさ。ウチのバンドは……」
今まで元気いっぱいだった清田先輩だったが、自分のバンドの話になると急に微妙な表情になった。演奏も安定しているし、ファンも多いし、音楽的な評価も得られているし、傍から見ると絶好調なバンドにしか見えない。
「何か問題でもあるんですか? ……はっ!」
もしかすると清田先輩はバリバリのメタラーで、歌モノギターロック全開なバンドの方向性に違和感を感じているんじゃないだろうか。自分のやりたい音楽とは真逆のことをやって評価を受けていることに苦悩しているんじゃないだろうか。本当はもっとギターを歪ませたいんじゃないだろうか、ヘドバンしながらブリッジミュートでガツガツ刻んでいたいんじゃないだろうか、本当はテレキャスなんかじゃなくてフライングVとかビーストとかエクスプローラーとか変形ギターを使いたいんじゃないだろうか、ソロを弾き終わるたびに一々メロイックサインで観客を煽りたいんじゃないろうかファンは軟弱な女子高生じゃなくてモッシュやヘドバンをしまくる屈強な男たちがいいんじゃ――
「なんか、雰囲気良くないんだよねえ~」
――ないかとかいうことは一切ないようだった。
「仲、悪いんですか?」
「う~ん、別に悪い訳じゃないんだけどさあ。なんかねえ……」
別に仲が悪い訳じゃないのに雰囲気は良くないとは、一体どういうことだろうか。
幸いにも私達JUNK ROCKの雰囲気は、まあ悪くないと思う。トモ先輩はチャラいし、誠二はアホだし、マサル先輩は普通だし。でもバンド間の空気は良いものなんじゃないかと思う。あとはメタルが出来れば完璧だろう。
「って、こんなこと奈緒ちゃんに話しても仕方がないじゃん! ごめんねえ~」
「いえ、別にいいですけど……」
「むふふ、奈緒ちゃんのお弁当美味しそうだね~……えいやっ!!」
済まなそうな苦笑いから一変、キラリと目を輝かせた清田先輩は私の弁当に鋭い手つきで箸を伸ばす。
「なっ、何するんですか!?」
「ふっふ~ん油断してるほうがわふいんはお~」
糞、私の唐揚げが取られた。最後のほうは唐揚げを口に入れながらしゃべっていて、更にムカツク。
「じゃあ私も遠慮なくっ!」
「ふぁっ! わはひのおはずが!!」
私もお返しとばかりに、清田先輩のお弁当の中からベーコンのアスパラ巻を強奪した。
「もぐもぐ……まあまあってところですが、これじゃあ唐揚げとは釣り合いが取れませんね」
「むぅ~、私の貴重なタンパク源がぁ……」
人の貴重な唐揚げを奪っておいて、何を涙目で言っているんだこの女。
「こうなったら……とうっ!!」
「おっと、二度目はありませんよ先輩」
「ぐぬぬ……って、わあ! また取られたぁ!!」
「はむ……先輩のお弁当って全体的に味付け薄くありません?」
次は卵焼きをゲット。もうちょっと甘さが強めなのが私は好きだな。
「ムキーっ! 勝手に食べた上にこの態度! ええい、お返しだあ!」
「だからそう簡単に取られますかっての」
ふ、そんな鈍い動きじゃ私を捉えることは出来ないぜ清田先輩よぉ。
「あっ! 窓の外にクリス・インペリテリ!!」
「残念、私はインペリテリよりインギー派なんです」
子供じゃないんだから、そんな手に引っかかる訳がないだろうが。と、窓の外を指さして隙だらけの先輩のお弁当から、更にオカズをひょいっとな。
「うわぁああああ! ウインナーがああああ!!」
「高校生にもなってタコさんですか、全く」
タコさんウインナーなんて久しぶりに食べた。歯ごたえがいい感じだ、美味い。
「文句言うなら食べないでよおおおお……」
そんな風に、私達の昼休みは賑やかに過ぎていった。
ちなみに最後の方は、先輩が搾取されるばかりになって軽く涙目になっていた。
何だかいじめ甲斐があって可愛いなあ、なんて年上の人に失礼な感想を抱いてしまった。
「ところで清田先輩」
お弁当も食べ終わり昼休み終了まで残り少ないところで、私は少し気になっていたことを先輩に訪ねてみた。
「ふぁ~……なあに?」
清田先輩は机にもたれかかって大あくび、完璧にリラックスモード。放っておいたらこのまま眠ってしまう気がする程だ。
「何で美術室が先輩の隠れ家なんですか?」
「ええっとねえ……クイズ! さて、どうしてでしょ~かっ!? 制限時間は十秒です! カウントダウン、スタート!!」
「……じゃあいいです。知らなくて」
う、うざいなこの人。どうしてこうもテンションが高いんだ。普通に答えりゃいいものを、何故面倒くさいやりとりを挟みたがるんだろうか。
「えええっ!? 冷たいよぉ~奈緒ちゃ~ん。一緒にお弁当食べた仲じゃ~ん。ねえねえ構ってよお~」
「はあ……美術部入ってるから、とかですか?」
擦り寄ってくるのが鬱陶しかったので、適当な答えを返す。
「……ファイナルアンサー?」
「さて、そろそろ予鈴鳴るので教室帰りますね。お疲れ様でした」
「うわうわ! ごめんごめん待って待って、正解だよ大正解! おめでとー、パンパカパーン! 商品は私からの熱いベーゼでーす!」
「いりません」
「わぷっ」
何とわざわざクイズにする程でもない理由だったわけだ。肩透かしもいいところである。
「へえ、先輩美術部掛け持ちしてるんですか」
誠二が放送部を掛け持ちしているようなものか。
「うんそうだよ~……っていうか、むしろワタシ的には軽音を掛け持ちしてるって感じかなあ~」
「ん? それってどういう意味です?」
と、引っ掛かりを覚えた所で予鈴が鳴り響いた。
「おっとそろそろ午後の授業始まっちゃうね! 今日は楽しかったよ奈緒ちゃん、また一緒に食べようね!」
「ええ。いつかまた、今度、機会があったら、多分」
今度は何とか逃げ切ろうと心に誓う私だった。
振り返ってみると何だか今日の昼休みは濃かった。廊下を歩きながら私は昼休みの間に会った人たちのことを思い出してみる。
中庭のイチャイチャ不釣合いカップルにそれを怨念のこもった目で見つめる妄想爆裂残念修羅、そして最後にはウザめな先輩ギタリスト。
出来ればもう関わりたくない人だらけだった。思い返したら余計に疲れた気がしる。これなら素直に教室で佐藤と飯食った方が良かったんじゃないだろうか。
そう後悔しながら教室の近くまでたどり着くと、正面から見たことのある顔がやってきた。
やはりその歩調は穏やかで落ち着いていて、お嬢様然とした育ちの良さ位が感じ取られる。お嬢様ではあるのだけれど豪奢な感じや周囲を威圧する雰囲気はかけらもなく、どこか儚げで風が吹いたらどこかに飛んでいってしまいそうな危うさすら感じられた。
まあつまり、桃瀬姫子は今日も平常運転だった。
これまた小さいお弁当箱の入った巾着と文庫本をその手に携えていた。彼女みたいなお嬢様は一体どこでどんなお弁当を食べているんだろうか、その手に持った文庫本は詩集とかそんなのだろうか。なんにせよ、私には遠くはなれた世界過ぎて見当もつかない。
そんな彼女と私は今、すれ違う。
彼女は私に当然目も合わせないし、きっと私みたいな人間は何かない限り彼女の目にも入らないんだろう。例えばこの前みたいな不意の衝突事故とか。
そんな何事かは一切起きず、桃瀬と私は普通にすれ違ってそのまま離れていった。
「おう奈緒、お前どこ行ってたんだ?」
教室に戻ると呑気な顔をした誠二が私を出迎えた。
「美術室」
「は? 何でそんなところに?」
誠二は不思議そうな顔で問い返した。確かに美術室は私達にとって縁遠い場所だし、その反応も当然だろう。
「さぁて、何でだったけなあ……」
だから一々説明するのが面倒くさくって、私はこうやってとぼけることにした。
「え、何近藤さん? この歳でもうボケ始まっちゃったの? そっか、テストの結果が芳しくないのも、全部病気のせいだったんだね! 気の毒に……」
「うるせえ佐藤、黙ってろ」
糞、こいつ調子に乗ってやがるな。いつか痛い目を見ろ。
「あれだぞー奈緒、ボケ予防には魚がいいらしいぞ。後カレーとかコーヒーも効果があるとか。さっき昼のワイドショーでやってた。もんたが言ってた」
誠二は誠二で的はずれなことを言っている。
「はあ……何であんたはそんなもん見てんのよ」
「放送室ってテレビ見られるんだよ。あ、これ学校側には秘密な」
「はいはい、心配しなくてもそんな話誰にもしないっての……あれ、そういや今日誠二は当番だったのよね? 別の人がやってたような記憶があるんだけど」
ふとそんな事に気がついた。確か女性の声が流れていたような、そんな気がする。
「ああ、今日は珍しく相方が原稿読んだんだよ」
「相方って?」
「当番はもう一人に何かあってもいいように基本的に二人一組で設定されてるんだ。それで俺の相方っていうのが、まあ、中々困ったやつでさあ。朝弱いから朝の連絡放送は来られないし、昼休みも来てても俺にやらせたりっていう感じで」
「ふ~ん、あんたも大変なのね」
美人に釣られただけならさっさと辞めちゃえばいいのに、とは思うけれど口には出さなかった。
そんな話をしていたところで昼休みの終了を告げる本鈴が鳴り響いた。程なくして白衣姿の薄らハゲが現れる。
「はぁい、それじゃあ早速この前のテストから返していきますねぇ」
「う、うぐぅ……」
忘れていたが、地獄はまだ終わっていなかったのだ。しかも科目は化学、数学と並んで自信がない科目トップクラスだ。薄らハゲの化学の海野、あんたとも関わりたくない。
ああ、早く放課後にならないだろうか。思いっきりギターを鳴らしたい。こんなしみったれた憂鬱をバンドの音圧で吹き飛ばしたい。
ちらっとすぐ後ろの誠二の方を見てみる。誠二は化学の出来に自信はあるのだろうか。
「…………ふっ」
あ、ダメだこいつも諦めの目をしてやがる。現実逃避に窓の外を眺めている。
私もそれに習って窓の外に目を向けると、そこには穏やかな午後の青空が広がっていた。




