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竜の炎は塵ひとつ残さない。小さな少女の体など、一瞬で骨まで燃やし尽くしてしまう。
ハディスの特攻に凍りついていた兵達があげる歓声が、ここまで届いた。その瞬間に、まずジークがリステアードの肩を引っ張る。
「おい逃げるぞ、今のうちだ!」
「おまっ……おま、お前たち、いいのか。彼女が、あんな小さな子が」
「陛下が竜巻でここに逃がしてくれたの、無駄にする気!? 気づかれる前に早く!」
カミラの声に、高台に飛ばされて呆然と一連の流れを見ているだけだったリステアードが顔をあげる。渋面であとずさりをして走り出した。そのあとに、彼の部下が続く。
それを見ながら、ロレンスは駆けだしたカミラのあとを追って尋ねた。尋ねずにいられなかった。
さすがに自分も信じたくない、あの炎に焼かれる姿は。
「でも、逃げてどうするんですか。竜妃殿下はもう――」
「ジルちゃんは竜妃だって言ったのよ! 生きてるわよ、陛下だって!」
ロレンスは目を見開く。ジークも叫んだ。
「あんな程度で死なねえよ。竜帝と竜妃が、竜に負けるわけないだろ」
それは神頼みに似た愚かな願望だ。信じるのは思考停止。
だが、嫌いではない。
「――いいですね、そういうの。なら俺もそういうつもりで動きます」
「いたぞ、こっ――!」
剣を振りかぶるジークより先に小さなナイフを飛ばしてひるませ、こめかみを打ちつけて気絶させる。今一番まずいのは、騒がれることだ。
「ひとまずは決めておいた逃亡先へ向かいましょう。あとのことはあとのことです」
「やるじゃないの、あなた」
「どうも。カミラさんは弓、ジークさんは大剣ですか。――どっちもこんな森の中じゃ使えないな」
「おい失礼なこと言ったなお前!」
「俺の指示に従ってもらいます。そのかわり、必ず逃がしてみせる、こっちです!」
方向転換を指示した瞬間、矢が飛んできてカミラが背負う荷物を引き裂いていった。見つかったらしい。げっとジークが顔をしかめる。
「当たったか!?」
「だ、大丈夫よねソテー!? 生きて――」
「ピヨォォォォ!」
可愛らしいヒヨコもどきからおぞましい怒りの声があがった。と思ったら、射貫かれた荷袋からくまのぬいぐるみを片足でつまんで飛び出てきて、敵がいる方向へ放り投げる。
「やべえ、早く逃げろ!」
「リステアード殿下、こっち! ハディスぐまの視界から離れて!」
「な、なんなんです?」
胸を張るヒヨコもどきをつい両手で受け止めたロレンスの目の前で、一回転したくまのぬいぐるみが地面に着地し、立ちあがる。
ばさりと射貫かれたマントがはためいた。
(は? ――立った?)
その日、ロレンスは知った。
くまのぬいぐるみはこの場の誰よりも強いことを。
■
ぽつんと頬に何か落ちた。その刺激ではっと目がさめる。
「陛下! ――って……」
冷たい石の上にジルは倒れていた。
しばらくぱちぱち目をまばたいたが、我に返り、ジルはぺたぺた自分の体を触ってみる。どこにも怪我はない。衣服も焦げ跡ひとつない。
つい赤竜を煽ってしまったが、こうも無事でいられるのはおかしい。
そもそも、ここはどこだろう。
遠くで滝のような音が聞こえる。だが周囲は白い岩の断層がいくつも積み重なり、奥へつながっていた。白い岩が何本もつららのように高く伸びていて、視界が悪い。鍾乳洞という単語が頭をよぎったが、それにしても相当な広さと高さがある場所だ。何より明るさがある。地面を丸く差し込む光の筋を追って上を見あげて、驚いた。
最初は空かと思った。高い高い、青い空だ。
でも違う。水だ。
水が浮いて――いや、落ちてこないというほうが正解かもしれない。
高い水の天井に赤い夕日が差しこんで、ここまで光を届けているのだ。
「……魔力で浮いてるのか? でも少し違うような……どうなってるんだ、ここ……」
「赤竜が竜妃だというから転移してやったというのに」
はっとうしろを振り返ると同時に、地面がゆれて体が傾きかけた。片膝をついた状態で断続的にやってくるゆれと、その姿を見つめる。
黒光りする鱗と、地面に食い込む鋭い爪。頭はジル以上の大きさがあるのではないか。当然、全長はその何倍にもなる。ぎょろりと動いた瞳の色は――紫。
紫目の、黒竜。
「まだ子どもではないか。今代の竜帝は何を考えているのだ」
竜がしゃべった。驚きも恐れも背中に流れる汗も隠して、ジルは笑う。
(初めて見た。これが――……)
だが、考えることなどひとつでいい。
竜神ラーヴェに次ぐ、竜の王――味方にすれば、ハディスは助けられる。




