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ロレンスが流したジルとの噂は、風化するには記憶に新しい。おそるおそるジルが見あげると、いっぺんの曇りもない笑顔でハディスが見返した。
「楽しそうだね、あの三人。遠慮せず言っていいんだよ、ジル。僕よりあっちの馬がいいなら」
「へ、陛下……ロレンスのこと、まだ気にしてるんですか」
「気にしてないよ。ぜんっぜん気にしてない。君がわざわざ彼を案内役に指名したってことなんか、ぜんっっぜん、これっぽっちも、まったく気にしてない。挨拶のときに、ご無礼を陛下なんてぬけぬけ言われたことも、ぜんっっぜん気にしてないから」
笑顔なのに少しも目が笑っていない。やや焦点がずれている気すらする。というか背中から感じる圧がすごい。
ジルはこっそり溜め息を吐いた。
ハディスと一緒に兵の受け渡し地点に向かうのは、ジル、ジーク、カミラ。そこにジルはわざわざロレンスを指名して加えた。
いくら知らないふりをするとはいえ、ジェラルドの間諜であろうロレンスを野放しにはできない。体の弱いフェイリス王女はノイトラールに残るに決まっているから、そこから引き離すのも狙いだった。
(フェイリス王女が単独で何ができるかわからない以上、ロレンスを引き離したところで意味はないかもしれないが……)
だが、ロレンスがジルと恋人の噂なんてものをでっちあげたせいで、余計な心労をジルが抱え込むはめになっている。
「陛下、何度も言ってるじゃないですか。あの噂は牽制のための嘘だって」
「うん、知ってる。ロレンス君にも言われたよ。笑顔で、意味ありげに、まさか竜帝が自分ごとき小物を気にするわけありませんよねみたいな体で。いやあ、彼は度胸があるね!」
完全にロレンスが煽りにきている。歯ぎしりしたい気持ちをこらえてジルは黙った。
対するハディスは、同じ馬上でさわやかに続ける。
「君のことを疑ってるわけじゃないよ。彼を指名したのも、何か考えがあるんだろう」
「……な、なら、そんなに怒らなくても……」
「怒ってもいないよ、僕は――ただただ、気に入らないだけだ」
低くなったハディスの声と圧に、ひっと喉が鳴る。背筋を伸ばしていると、馬を横につけたリステアードがぱんと軽くハディスの頭をはたいた。
「やめないか、大人げない。しゃんとしていろ、自信をもって」
「皇帝だからっていうなら説得力がない。今の僕はただの料理人だ!」
「もうその設定は終わっただろうが。まあいい。お前みたいな奴は、いざというときだけしゃんとするんだろう」
軽く言われてハディスはまばたいていた。ジルは感心する。
(リステアード殿下、陛下の扱いがうまくなってきたなあ……こんなふうに陛下をあしらえるのはちょっと前まで、ラーヴェ様とわたしくらいだったのに……ん?)
ふと胸にちくりと刺さったものがある気がして、ジルはハディスを見た。先ほどまでジルだけを見ていたハディスは、何やらリステアードに言い返して逆に言い込められている。
いいことだ。素晴らしい兄弟の構図だ。
なのにむかむかしてくるのはどういうことだろう。
「少人数とはいえ僕の部下も見ている。皇帝なのだから、あまりみっともない姿は見せるな」
最後にもう一度ハディスの頭をはたいて、リステアードは先に進み、先頭のカミラに交替を申し出ていた。
「あんなにばしばし殴らなくてもいいのに……ジル?」
目ざといハディスは、ジルの変化に気づいたようだった。
「――リステアード殿下と仲良くなれてよかったですね、陛下」
「あ、うん……? え? 何、どこで怒ったんだ?」
隠し事はよくない。それを思い出して、ジルは頬をふくらませ、ハディスの胸にぼすんと背中を預ける。
「嫌な言い方してすみません。わたし、意外にやきもちやきみたいです、陛下」
「……」
沈黙ののち、ぼんっと頭から音を立ててふらりと馬上からよろめいたハディスを、いつの間にか横にきていたカミラがすばやく受け止めた。
「もうそろそろだと思ったわ……」
「なんですか、そろそろって」
「ジルちゃんがやらかす頃合いよ。ほら陛下、しっかり。ジルちゃんを乗せてるんだから」
「カ、カミラっ……僕のお嫁さんが可愛い! 僕はどうしたらいい!?」
「それは野営地についてからよ、その手のことはお姉さんにまかせなさーい」
「ちょっと待ってくださいカミラ、陛下にろくでもないこと教えるつもりでしょう!?」
「だってジルちゃんも悪いのよ?」
びしっといきなりカミラに人差し指を鼻先に突きつけられて、ジルはひるむ。
「あの、狸坊や。何者なの。クレイトスでのお知り合い?」
「そ、そういうわけでは……ないですが」
「あの子、隙あらばジルちゃんを見てる」
カミラは体勢を戻し、ジルたちの乗る馬の横に自分の馬をつけた。
「興味津々って感じよ。ジルちゃん目当てに王女サマから離れてこっちについてきたってあからさまじゃなぁい。陛下のご機嫌ナナメもごもっともよ」
カミラが味方してくれたのが嬉しかったのか、ちらと見あげると、ハディスはにこにこやり取りを聞いている。ちょっとだけ悔しくなった。
「なんだ、陛下。ロレンスをあやしんでるだけで、やきもちやいてくれたんじゃないんですね」
「ぐっ……そ、そうくるのは卑怯……!」
「ジルちゃん、陛下への追撃やめて。あと誤魔化されないわよ。ジークは隊長が決めたことってなんにも口出さない気みたいだけど、アタシは違うわよ。あの殿下もね」
びしっとカミラは人差し指で先頭を行くリステアードの背中を突きつけた。
「クレイトスの情報源ってことで動向を見てるみたいだけど、そのへん、ジルちゃんはどう考えてるの。兵の引き渡しが罠の可能性もあるのに、あやしい人間を同行させるなんて」
――隠し事はよくない。
そう言ったのは他ならぬロレンスだ。この状況を読んでいたのかもしれない。
観念して、ジルは口を開いた。
「……あのひと、本当はフェイリス王女じゃなくジェラルド王子の部下のはずなんです」




