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「めっちゃジルちゃん目立っちゃってるじゃなァい。陛下、いいのあれー?」
高く分厚い壁に囲まれた街には、城壁の四隅に周囲も街も一望できるひときわ高い監視塔がある。
望遠鏡から顔をあげたカミラに、ハディスはときめく自分の胸を押さえた。
「さすが、僕のお嫁さんはかっこいいな……」
「陛下、自分がお尋ね者だって自覚ある? 人目につかずにここまでくるって大変だったのよ?」
「そのうえ可愛い。夕飯は合格祝いでご馳走を用意しないと」
弁当箱を抱いてしょんぼりしている姿がそれはもう愛おしい。カミラが嘆息した。
「聞いてないわね。まァいいけど。……さっき、竜を止めたのって陛下?」
「うん。でもジルには内緒にしててくれ。今日こうしてついてきてたことも」
入団試験に竜が使われることはわかっていた。だから遠くからハディスが見ているだけでもいざとなれば力になれると見学していたのだ。
「ジルは真面目だから、不正だって怒るかもしれない。別に僕が圧をかけなくても、異母姉上が止めたんだろうけどね」
「そりゃ、竜相手に竜帝が出てきちゃ勝負にも試験にもならないわよね。でもジルちゃんって竜妃なんでしょ? その辺の加護はないの?」
「確かにジルは竜神の祝福を受けた竜妃だ。でも竜は竜神の分身、神使だからね。竜神の下という意味で同格なんだよ。しかも竜が嫌う女神の魔力を持ってるし、従わせるのは難しいんじゃないかな……ラーヴェが甘くて、竜の躾がなってないんだ」
そこで、頭の中でぎゃんぎゃん何やらラーヴェがわめきだしたので、ハディスは顔をしかめた。
竜は神聖な生き物だとか、そう簡単に人間に従わせられるかとか文句を言っているが、要は自分の分身である竜が可愛いからなるべく自由にさせてやりたいだけだ。胸の内でそう言い返すと、図星なのか黙った。
「それに竜妃は基本、対女神のための存在だから」
「そんな言い方して。ジルちゃん怒ったらどうするの?」
「ちゃんと説明したよ。なら今度は女神を木屑にするって言われて……僕は笑いが止まらなくてあやうく気管支炎になりかけた」
「……あのとき寝込んだのそれが原因だったのね……ジルちゃんらしいっちゃらしいか」
「女神って木屑になるのかな」
思い出すと笑いがこみあげてきて、ハディスは口元を手で覆う。
折れたのもだいぶ衝撃だったが、木屑になっても笑いが止まらなくなりそうだ。ジルはどうも女神を黒い槍として認識しているようだった。
本当の姿は見る者をすべて魅了するような、可憐で愛らしい乙女なのだが――。
(言わないほうがいいだろうな、うん)
女神に対峙するときのジルは、頼もしいがちょっとおっかない。やきもちなのかなと思うとそわそわするが、そう口にしたら最後、折られるのが自分だということくらい、ハディスにもわかっている。
勝利の暁に得られる賞品は、じっとしていてこそ賞品なのだ、とラーヴェとも話し合った。
「でも陛下って、天剣がなくても竜を従えちゃうのね」
「それなりには。力や知能の高い上位竜は、さすがに天剣がないと従わないだろうけど」
「なら、竜を使えば帝都奪還できちゃわなァい?」
ジルが選んだ騎士は聡い。
だが、笑みを浮かべたハディスの内側には、育て親がわりの優しい竜神がいる。
「言っただろう。竜は竜神ラーヴェの神使。民同士の争いに使われるならともかく、竜が単独で民やラーヴェ皇族を攻撃するのは、竜神が守るべき民や身内を害することになる。それは理に反することだ。やりすぎれば、ラーヴェが神格を落とす。ラーヴェが神格を落とせば、この国への加護が薄まる」
「……内ゲバにめちゃくちゃ弱いってことじゃないの、それ」
「だが、竜が身を守ることは許されるように、竜神を――竜帝を害すれば話は別だ。僕が身を守るために竜を使って人間を粛清することは、理にかなう。その相手がたとえ民であってもラーヴェ皇族であっても竜であってもだ」
察しのいい竜妃の騎士は、ハディスの言いたいことをくみ取ったようだった。毎朝形を整えている眉尻が、ちょっとさがる。
「それって……」
「だから、最終手段だ。ラーヴェ皇族も誰も、僕に石を投げるおそろしさをわかっていないんだよ。それをしてなお許される存在があるとしたら、それは……」
――私ダケ。
両眼を開いたハディスは、鋭く周囲を見回す。今、女神の声が聞こえた気がした。
「どしたの、陛下?」
「いや。気のせい……」
切り捨てようとした途中で、ハディスは考え直す。
ジルがいれば、女神はハディスにつきまとうことはできない。先のジルとの戦いで相当消耗しているはずだし、動くことは困難なはずだ。
だが、器がいれば話は別だ。
そもそも、ゲオルグの偽天剣の出所からして可能性はあった。
まったく、不愉快極まりない。だが、いつもなら疎ましいだけの事態が、不思議と今は苦痛ではなかった。ほんの少しだけ楽しくすら感じる。
守ると言われて、生きてくれと願われて、しあわせにすると約束されたからだ。
――けれど。
(君は本当に、どんな僕でも好きでいてくれるのかな)
ハディスの仄暗い執着に、きっとジルはまだ気づいていない。




