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水上都市ベイルブルグの雲一つない青空を旋回する影に、ジルは両眼を大きく見開く。
長い胴体に、大きな翼。きらきら輝く堅牢そうな鱗。ジルの身長ほどある大きな脚なのに、音も立てずに、水上都市ベイルブルグの城の前庭へ優雅に舞い降りる。
「竜……陛下、竜です! なんで!?」
一列に並んだ三頭の竜に感動しつつ、竜がおりてくる理由がわからずに、ジルは隣に立っている長躯の夫――ハディスを見あげる。
ハディスは綺麗な金色の目をまたたいて、不思議そうな顔をした。
「なんでって、帝都からの迎えだよ。人間の迎えはいらないから、皇族用に飼ってる竜をよこしてくれって兄上に頼んでおいたんだ」
「迎え!? じゃ、じゃあこれに乗るんですか!? 馬とか、馬車じゃなくて!?」
「ああ……そうか、クレイトスなら移動に竜を使わないか。竜が産まれないんだから」
ひとりごちるハディスに、ジルはこくこくと頷く。
このプラティ大陸には、霊峰ラキア山脈をはさんで東西にふたつの大きな国がある。
ひとつは、ジルの故国であるクレイトス王国。愛と大地の女神クレイトスの加護を受け、女神の眷属であるクレイトス王族がおさめる国だ。
もうひとつがジルが今いるここ、ラーヴェ帝国。理と天空の竜神ラーヴェの加護を受け、竜神の眷属であるラーヴェ皇族がおさめる国だ。
地続きであるはずなのに、このふたつの国は作物の育ち方も気候すら大きく異なる。
「わ、わた、わたし、こんなに近くで初めて見ました……!」
戦場で竜の吐く炎をかいくぐり、頭部をぶん殴って撃墜したことはあるが、あれは『近くで見た』うちに入れてはいけないだろう。
感動して両手を組むジルに、ハディスが苦笑いを浮かべる。
「怖くはない?」
「全然! わたし、竜に乗るの夢だったので! 飼いたかったくらいです! でも、竜は魔力を嫌うって……」
「正確には女神クレイトスの魔力を嫌ってんだよなぁ」
するっとハディスの肩あたりから顔を出したのは、蛇のような肢体に小さな翼を持つ不思議な生き物、竜神ラーヴェ――たぶん、生き物だ。
ハディスが端整な眉をよせて、声をひそめる。
「ラーヴェ。今は僕の中にいろ、人目がある」
「竜には姿を見せておかなきゃ示しがつかねーだろ、竜神ラーヴェ様だぞ、俺は」
「竜にはラーヴェ様の姿が見えるんですか?」
帝都への移動準備のため、周囲は竜の背に鞍を乗せたり荷を積ませたりと人が慌ただしく動き回っている。こちらを注目している様子はないが、竜神であるラーヴェは魔力の強い人間にしか姿も声も見聞きできない。
声量を落として問いかけたジルに、ラーヴェもつられたように声を小さくした。
「そりゃ、竜だからな。っていうか人間だけなんだよ、俺の姿が見えないのは」
「そうなんですか? じゃあ、ソテーにもラーヴェ様が見えてる?」
ジルが背中に背負っているリュックに入っている荷物はふたつ。
ハディスから「僕だと思って」といういささか重い台詞と一緒にもらった手縫いのくまのぬいぐるみと、ハディスから許しをもらって飼い始めたひよこだ。前者はハディスぐま、後者はソテーと名づけられている。どちらも名前を聞くたびに周囲が顔を引きつらせるが、ジルは気にしていない。
ジルの声に反応して脚力が増してきたソテーがリュックの隙間から顔を出し、ぴよっと応じた。
まさか返事をしたのだろうか。笑ってラーヴェが答える。
「見えてるよなー。――って突くな、痛いだろうがこのヒヨコ! ハディスにソテーにされたいのか!?」
「ピヨー!」
「ソテー、くま陛下といい子にしててください。あのでも、女神クレイトスの魔力を嫌うってことは、わたしは……」
愛と大地の女神クレイトスの加護により、クレイトス出身の人間は大なり小なり魔力を持って生まれるのが普通だ。クレイトスに生まれ、膨大な魔力を持つジルは、竜が嫌う筆頭の存在ではないのだろうか。
不安になったジルを、突然ハディスが抱きあげた。
どこもかしこも綺麗な造りをしているハディスの顔がいきなり間近にきて、ジルは息を呑む。
こうして抱きあげられるのはしょっちゅうなのだが、長い睫だとか、吸い込まれそうなほど深い金色の瞳だとか、名前を呼ぶ薄い唇の形だとか、何度見ても慣れない。
「大丈夫、君は竜帝である僕のお嫁さん。竜神に祝福を受けた竜妃だよ。その証の金の指輪だって持ってるんだから、竜だってむやみやたらに敵視したりしない」
「えっじゃあ、乗れますか!?」
「ハディスと一緒なら、まあ問題なく乗せてくれるだろ。『嫌う』って言っても、一般的にそうだって話だし。でも無理にひとりで乗るなよ。竜が承諾してねえと乗り手を守らねーからな、高度上げれば高山病にかかるし制御もきかなくなる」
ひとりで乗るのはやっぱり難しいのか。少しだけがっかりしたが、乗れるほうの喜びが勝って、ジルはハディスの頭に抱きつく。
「乗ります! 乗せてください、陛下! 早く早く、空を飛べるんですよ!」
「わ、わかったわかった。君、魔力でそこそこ空を飛べるだろうに、なんでそこまで」
「竜で飛ぶのとはまた別です!」
わかった、ともう一度答えたハディスが一歩進むと、背後から声がかかった。
「ジルちゃーん。用意できたわよ……って竜!? まさか竜で移動なの!? アタシ乗ったことないわよ!」
真っ青になったカミラは、竜妃であるジルの騎士だ。当然、竜に乗ってジルについてくることになる。
同じく竜妃の騎士であるジークも、カミラの背後で気難しそうな顔をさらにしかめていた。
「マジかよ……そうか、お偉いさんはそうだよな、竜だよな……マジか……」
「だ、大丈夫ですよ。竜は優しい生き物ですから」
見送りに出てきたスフィアが、なだめるように言っている。スフィアはジルの家庭教師なのだが、ベイル侯爵代行でもある。今回は一緒に移動するのではなく、ジル達が落ち着いてから護衛をつけて帝都に迎える予定になっていた。
「スフィア様は乗ったこと、あるんですか?」
「……ちょ、ちょっとだけ、乗せてもらったことがあります……」
気恥ずかしそうに言うスフィアに、周囲が目を丸くした。ハディスが笑う。
「スフィア嬢は竜に好かれやすい体質だと思ってたけど、それはすごいな」
「ベイル侯爵家は何代か前に皇女様が降嫁されてきたことがありますから、私もその恩恵を受けたんだと思います。竜の皆様は、ラーヴェ皇族の味方ですから」
「でも、竜に好かれるかどうかは、結局は個人差だ。ラーヴェ皇族だって蛇蝎のごとく嫌われた人物もいたらしいよ」
ハディスと談笑しているスフィアはどこからどう見てもか弱い侯爵令嬢だ。そんな女性が乗れるのに、怖くて乗れないというのは矜持が許さないのだろう。
カミラとジークの覚悟と苦悩をまぜた複雑な顔がおかしくて、ジルは忍び笑いをする。
そしてジルの笑い声は、ハディスに腰を抱かれて鞍に乗り、竜の体が浮かび上がったとき、歓声に変わった。




