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――どうしてぼくには、父上も母上も兄弟も、いるのにいないの?
ある日尋ねたハディスに、生まれたときから唯一自分のそばにいてくれる竜神はこう答えた。
――ごめんな、お前がこんななのは、俺が悪いんだ。お前が俺の生まれ変わりだから、俺のツケを払わされてる。
ラーヴェを謝らせたくなかったから、ハディスはこう思うことにした。
これは全部女神のせいだ。愛という名前のその呪いが、ハディスからみんなを取りあげてしまう。だから呪いさえなんとかすればいい。誰も悪くなんてない。
いつか呪いがとける日がきたときのために、立派な皇帝になれるよう、たくさん勉強しておこう。みんなを女神から守れるくらい強くなろう。それが自分の生まれた意味だ。
自分は決して、誰にも見えない育て親を泣かせたりなんかしない。
けれど時折、ラーヴェの目を盗んでハディスの様子を見にくる女神は笑う。
――あなたを必要とする人なんているかしら。あなたを愛する人なんて現れるかしら。本当は知っているでしょう? だってほら、見回してご覧なさい。だあれもいない。今までだってこれからだって、あなたを心から愛してあげられるのは私だけ。
ラーヴェが追っ払って、耳を貸すなと言う。
――大丈夫だ、あいつは竜妃ができたらもうやってこない。それまで俺が一緒にいるから、呑まれるな。愛に流されて、理を忘れるな。
だからハディスは頷く。ラーヴェを心配させないように、ちゃんと笑う。
初めて会った父親が「殺さないでくれ」と玉座から転がり落ちて頼んでも、脅えた兄弟たちに目を合わせてもらえなくても、目の前で首をかき切った母親の返り血が頬にはねても、全部見なかったことにして、皇帝らしく毅然と処理をして、ラーヴェに大丈夫だと笑ってみせる。
でも、そのたびに女神も笑う。
――愛しているわ。他の誰があなたを愛さなくても、私だけは愛しているわ。あなたを誰にもわたさない。ねえだから、私だけを見て。そうしたら楽にしてあげる。だって知っているのよ、私だけは竜神も知らない本当のあなたを知っている。
本当は明るい未来なんて、信じるふりをしてるだけだってこと。
しあわせにするって言ってくれた女の子をだまして囮にする人でなしだってこと。
そんなあなたを愛してあげられるなんて、私以外誰にもいない。本当は気づいてるんでしょう?
姿を現さなくても、ハディスの胸底にこびりついた闇にまぎれて、女神はいつも笑っている。
(ああ、そうだな。結局、僕を愛しているのは、お前だけだ。本当は兄上だって僕を嫌ってる。僕は誰にも望まれてない。生きることを期待されていない。誰からも――)
――わたしがいるって、言ってくださいね。
ふと泡が弾けるように、意識が現実に引き戻った。どうして彼女を閉じこめたのか、唐突に疑問がわいた。
(……いや、まだ彼女を失うわけにはいかないから、だろう?)
今回の騒動は十中八九、女神の血族であるジェラルド王子に物理的に運ばれてきた女神の聖槍が原因だ。竜妃がいる以上、女神本人は魔法の盾を、国境をこえられない。
だから、彼女をラーヴェの結界の中に閉じこめた。
だが賢い彼女はもう気づいただろう。自分が囮に使われたこと。
もう、好かれるどころではない。嫌われただろうなと、心の片隅で思った。当然だ。
それでも縛りつけなければならない。彼女ほどの逸材は見つからない。自分のためにも国のためにも、とにかくまず女神をなんとかしなければならないのだ。自分の判断は間違っていない。
でもそれなら、どうして女神の聖槍に狙われた小さな背中を、守ってしまったのだろう。
あのとき自分はラーヴェを――竜帝の天剣を持っていた。あそこで彼女を襲わせて斬り捨てていれば、女神はそれこそ器を見つけて復活しない限り、動けない状態になったはずだ。
今だって、ラーヴェに守らせるより、もっといい使い方があるのではないか。
「……よく、わからないな」
つぶやきが、怒号にかき消える。閉ざされた城門を住民達が破壊しようとしているのだ。城の中央に鎮座する、町を一望できるバルコニーでハディスはそれを見おろしていた。
妻が娘が奪われた、取り戻せ。
竜帝は国を呪いで滅ぼす気だ、国を守れ。
殺せ殺せ、あんな皇帝は必要ない、誰も望んでいない。死んでしまえ、死んでくれ。
(……それでも僕が皇帝だ。でなければこの国は竜神の加護をなくし、女神に蹂躙される。そうなったらラーヴェが神格を落としてでも国を救おうとする)
わかっているのに――全部殺してしまおうか、と心のどこかがささやいた。
どんなあり方だろうと、ハディスは竜帝であり、皇帝だ。だったらなんだっていいではないか。
向こうがいらないというなら、こちらだっていらない。そう切り捨てていって、何が悪いのか。
ラーヴェ。僕は、いつまで未来を信じているふりを続ければいい。
きっとそう口にした、そのときが最後だ。
「……不幸だな」
ふと、苦笑いが浮かんだ。自分に、そしてこれから自分がおさめていく、国に、民に。
「おい皇帝陛下、まだこんなところにいるのかよ!」
「北方師団を引かせろ。城に残るのは僕だけでいい」
「は?」
不遜な態度が抜けきらないヒューゴが、怪訝な顔をする。おそらく自分が動かないものだから、ミハリに頼まれたのだろう。
(彼らをまきこんではいけない)
ふと、そう思った。良心のひとかけらみたいだった。
そう、自分は――最後の最後まで、たったひとりになっても、立っていなければいけない。
誰にも愛されず、誰も愛さず、女神を斃すその日まで。
「全員、軍港に転移させる。……住民もこちらに夢中で、あちらには手を出さないだろう」
だからそのためには、彼女を囮に使って――ああ、違う。囮にしてしまったら彼女は。
胸が痛い、と思った。そういえば今日は滋養の薬湯も飲んでいないし、もう眠る時間もすぎている。きっと明日の体調は最悪だ。
けれど、今から命を奪われる彼らにくらべたら、なんでもない苦痛だろう。
「おいちょっと待て、それだとあんたはどうなる」
「かまわない。放っておけ」
ばきり、と音がした。城門が破られる音だ。一度目を閉じて、開く。ここまでだ。
もう彼らを止めるすべなどない。
呪いというならば、この現実こそが呪いだろう。
「僕は化け物だ」
ひとりごちてから、思い出した。そう言ったことがごく最近なかったか。
(そうだ。船が襲われたとき。そうしたら――彼女が)
しあわせにするから。
突然、大音響で城の鐘楼が鳴り響いた。
ハディスは大きく目を見開く。
よどみきった空気を吹き飛ばす澄んだ鐘の音だった。喧噪も憎悪もすべて打ち消して町中に響く。間違うな、正気に戻れと、叫ぶような、魂の叫びのようだった。まっすぐ鼓膜を、心を震わせる。
「出てこい、女神クレイトス!!」
鐘の音もかき消すような大声が響き渡る。
おいおい、とヒューゴが一歩踏み出した。争いの手も罵声も何もかも止めて、皆が彼女を見あげていた。
焼けた風にたなびく髪と、小さな体。まっすぐゆるがない、紫の瞳。
鐘楼の屋根に立っている、囮でしかないはずの、少女を。
「わたしはジル・サーヴェル。正真正銘、竜帝の妻だ! 町を燃やすな、女達を呪うな。お前が本当に用があるのは、わたしひとりだろう!」
竜帝の天剣を振りかざし、ジルは叫ぶ。
「ハディス・テオス・ラーヴェはわたしの夫だ。奪いたければ正面からこい、お前にはわたさない!」
そう、あのとき彼女は言った。
守りますと、よりにもよって竜帝たる自分に誓ったのだ。




